第8話 5年前──②
躾と称されて噛まれるのなんて日常茶飯事だった。
琉笑夢が物に当たることもしょっちゅうだった。
そのせいでポスターや雑誌やCD類も買わなくなったし、ノートパソコンや漫画本や、破かれたり壊されたりする危険がありそうなものは段ボール箱に詰め込んで押し入れの中に隠しもした。
一度、琉笑夢が遊びに来ているのにちょっとまってなあと少しで終わるからと宥めすかしながら30分以上ゲームに熱中していたら水没させられたこともあった。
風呂に入ろうと開けてみたら底にいた。
バイト代を貯めてせっかく購入した新品だったのであれには泣いたし、かなり頭に来て琉笑夢の頭を拳で叩いたし二時間ぐらい叱って二か月くらい無視した。
琉笑夢が無視すんなと癇癪を起こしても徹底的に無視した。
けれどもそんな状態でも相変わらず琉笑夢の態度は一貫して、「俺を無視する春にいが悪い」の一点張りだった。
成長したら少しは落ち着くかと思っていたけれどもそんなことはなかった。
頻繁に連絡は来るし、三か月に1度は春人の家に必ず遊びに来ていた。また離れている間も毎日何をしたかどこに行ったかを事細かに教えろと煩いので、友人たちには「長く続いている束縛系の彼女がいる」と勘違いされていた始末だ。
琉笑夢にバレると恐ろしいので、悲しいかな27歳となった今でも恋人なんてできたためしがない。
けれども、春人への執着度合いが凄まじい琉笑夢だが、彼から痣になるような暴行らしい暴行を振るわれることはなかった(噛み痕を除いて)。
春人が年上であることも大きかっただろう。
蹴られれば殴り返したし叱りつけたし、物を投げ付けられれば母親直伝の締め技を軽くお見舞いもした。ただ投げられる物は枕や帽子や漫画本やスリッパなど比較的軽め……と言えるかどうかは人それぞれだろうがガラスや陶器など危険なものは投げて来なかった。
春人に構ってもらえなくてキレた琉笑夢に噛みつかれる、蹴られる、物を投げられる、舐められる、コアラのように引っ付かれる、傍にいる時は常にべったり。
そんな琉笑夢の異様な行動に春人は早々に慣れてしまっていたので、傍から見たら歪な関係にしか見えなかっただろうがそれなりにうまく関係を築けていた。
それが崩れたのが、5年前のあの日だ。
無理矢理ベッドに縫い付けられ一線を越えられそうになって、春人は激しく琉笑夢を拒んだ。
琉笑夢は今までで一番恐ろしい顔をしていた。癇癪ともまた違う、能面のような表情で春人を見降ろし強引に事を進めようとした。
あの日、春人は身を以て、琉笑夢が自分の身長をわずかに追い超し、そして華奢なまでも力が春人よりも強くなっていることを知らされた。
事の発端は、単純に嫉妬だ。
2時間ほどゼミの課題をパソコン越しにグループの皆と話し合っていた。
どうしてもその時間帯しか無理だと皆が言うので、きちんと琉笑夢に説明してから作業に取り掛かったのだが、話し合いが平行線を辿り始めた頃になって突然風向きが変わった。
社会人枠で入学してきた院生の女性が助っ人に来てくれたのだ。
ゼミの教授が彼女の修士論文の主査だったことで繋がりができた。彼女はとても気さくな人で、頭もよく綺麗で男女問わずゼミ生からも慕われている綺麗な年上の女性だった。
しかし少々一直線というか、年下の男に頼りにされるとそれを恋愛的な意味での好意を向けられたと直ぐに脳内変換してしまうような人だった、らしい。
そして春人はそんな乙女心というやつに鈍感で、わからないことがあれば直ぐに質問してしまうタイプの人間だった。さらに当時は卒論でも苦しんでおり、当然頭のいい彼女に質問をするため連絡を取ることも、他のゼミ生より多かった。
それなのに、彼女が同じゼミ生の皆に、春人がしょっちゅう自分に連絡を送って来る、彼が自分に好意を持っている、そして彼女自身もまんざらではないのだという話を裏で流していたことに全く気が付かなかった。
『春人くんが私のこと好きなのは知ってるけど』
どうやら示し合わせていたようで、告白タイムは唐突に始まった。メッセージアプリには、ぽんぽんと仲間からの応援メッセージが届いてくる。頑張れのスタンプ、いけの一言。
とにかく好き勝手なことばかりで、善意の暴力の数があまりにも多かった。
多くのゼミ生が映っているこの場で年上の彼女にきっぱりと「貴女の勘違いです」と言ってしまえば相手の面目が立たなくなるし、場の空気も悪くなる。
それに、機嫌を損ねてゼミ生の手助けを止められてしまえば、勘違いさせるようなことをしたおまえが悪いと皆に責められるかもしれない。
しかも横からはひしひしと鋭い視線を感じ、胃痛に苛まれていた。何も琉笑夢が傍にいる時にこんな展開にならんでも……と思いつつなんとか適当に場をやり過ごそうとしていたのだが、琉笑夢の方が行動が早かった。
あ、と思った時には既に遅く。
横から伸びてきた手に服が引き千切れそうなくらいの力で胸ぐらを掴まれ、そのままキスをされた。
画面越しのゼミ生たちは突然現れた美しい乱入者に。
春人は琉笑夢に唇を奪われたことに驚き、固まった。
頭を固定されて強引に舌を突っ込まれて焦り、琉笑夢を押しのけようとしたがびくともしない。
視界の隅でゼミ生の皆が唖然としているのが見えて焦った。
『ちょっまて、こら! ルゥ、画面……!』
激しくなるキスから逃れるように叫べば、琉笑夢は顔色一つ変えずにパソコンに手をかけ、口を押さえている院生の女性にこう言い放った。
『人のものに手えだすなババア』
春人よりも数センチ背が高くなっていたとはいえ春人は床に座っていたし、琉笑夢はその頃まだ14歳だ。
声変わりもしておらずなおかつ私服、さらには髪も肩ぐらいまで長かったため、ボーイッシュな外国の美少女にしか見えなかっただろう。
『勘違い痛すぎ。老害デブスはさっさと消えとけ』
そんな美しい琉笑夢に辛辣な言葉を投げつけられたのだ。恥ずかしい以上に青ざめただろう。
琉笑夢の手によって音声と映像がオフにされる寸前、『すみません!』と叫んだが果たして声は届いたのかどうか。
勢いをつけてパソコンが閉じられ、そのままベッドまで引きずり上げられて押し倒された。
片腕ぽっちで両手首を一まとめにされたことで、琉笑夢の手のひらがいつのまにか春人のよりも大きくなっていたことにその時やっと気が付いた。
表情を消した琉笑夢は本気だった。違う、誤解だからと説明しても手が止まる気配はなく、首に思いきり噛みつかれた。いや歯を立てられた。
それは甘噛みなんてものではなく、首根っこを引き千切られ肉を咀嚼されてしまいそうなほどの力だった。
そう、まるで肉食獣に息の根を止められる寸前のような。
『いッ……てェ、琉笑夢、イ゛っ、落ち着け! ぁッ……』
ろくに抵抗できていない間に、服をたくし上げられ胸先にも強く噛みつかれ、ズボンはパンツごとずり下げられた。開いた口は好き放題舌で蹂躙される。
『ちょっ、うそだろおまえッ……ま、ぐ、んッ……ん、むぅ』
脳内は完全にパニックだ。だが脚も琉笑夢の膝に圧し掛かられているため少しも動かすことができない。
霞み始めた視界の中、至近距離で見上げた琉笑夢の青い瞳は酷く据わっていた。凍てついていたと言ってもいい。
『ぁ、う、る、るぅ、まっ……、まてッ、やめろバカ! やっ……』
死に物狂いで脚をばたつかせ激しく抵抗したことで、琉笑夢の力が緩んだ。やっとの思いでベッドから這い出て逃げようとしたのだが、襟首を後ろから再び掴まれまた強い力で戻されそうになる。
執拗な行動に背筋が冷えて、恥も外聞もなく暴れたのはこれが初めてだった。
『──やめろッ』
春人は迫り来る手を振り払いざま、琉笑夢の頬に拳をぶつけてしまった。
ごつ、と鈍い殴打の感触が手の甲から伝わってきてぞわっと肌が粟立った。本気で襲われたことよりも自分が琉笑夢の頬を力いっぱい殴ってしまったことのほうに狼狽え、怯えた。
『ご……ごめ、琉笑夢……オレ、思いっきり』
頭をぱしりと叩くことも頬を抓ることもよくやってはいたけれども、こんな風に手をあげたことは初めてだった。
琉笑夢の白い頬がじわじわと赤くなり、口の端が切れて真っ赤な血が垂れる。金色の長い前髪に少しだけ赤がへばり付いた。
『琉笑夢、血が……っ』
慌てて近づこうとしたのだが、ぎっと鋭い視線に牽制され一歩も動けなくなった。小さかったはずの琉笑夢がやけに大きく見えて、怖気づいたのだ。
琉笑夢は赤い血を親指で拭い、指についた赤を見つめながらやがて自嘲気味に吐き捨てた。
『襲われたくせに謝んなよ』
掠れた声はまだ高めではあるがアルトに近い。声変わりがもうすぐで始まりそうな兆候だ。
『わかる? 俺いま、春にいとセックスしようとしたんだけど』
直接的過ぎる言葉に思考がひやりと冷える。
『そ、んなこと言うもんじゃねえだろ、琉笑夢……』
春人の一言に目を細めた琉笑夢は、ぺっと赤の混じった唾を吐き捨てた。見たことのない琉笑夢の仕草の一つ一つに、見知らぬ男の人と対峙しているような気分になった。
『怖かった? 春にい。俺に突っ込まれそうになって』
怖かった。今更ながらに手が震えていることに気が付く。
琉笑夢のそれは凄い力だった。思い出すだけで鼻の奥がツンとしてしまうほどに。
『でも俺は春にいの体いつもそういう目で見てるから。裸に剥いて喘がせてえなって』
ねっとりとした視線に頭から足の先までを往復される。
服を着ているはずなのにまるで裸体をのぞかれているような錯覚に陥った。
思わず、ぎゅっと胸の布地を掴んで琉笑夢の視線から体を隠そうとしてしまった。
『全部全部、俺のものにしたいって』
自然と下がった目線に、琉笑夢の下半身がしっかりと反応し盛り上がっている光景が飛び込んできた。
生地越しからもその硬さがわかる。見てはいけないものを見た気がして思わず視線を逸らす。
だが、琉笑夢は春人の逃げを決して許さなかった。
『なに目え逸らしてんだよ、好きな奴の側にいたらこうなんのは当たり前だろ。今更だから』
琉笑夢は、興奮していることは何ら恥でもないとでもいうように堂々としていた。ただまっすぐに春人を見ている。
昔からそうだ。琉笑夢が春人から視線を逸らすことはない。叱られている最中であっても自分だけを視界にいれる春人が嬉しくて仕方がないとでもいうように、見つめてくる。
いつもいつも春人だけを。
『それなのに何、年上がいいって? 俺みたいな年下より、あんなババアが』
『だ……だから、今のは違うって言ってんじゃんか。それと、人のことそんな風に言うな』
『違わねえじゃん、俺にはあのババアのこと何も言ってくれなかったくせに』
それは、質問をするためだとは言え頻繁に彼女と連絡を取っていることが琉笑夢にバレれば機嫌を損ねると思ったからだ。
それなのにどうして、申し訳ないような、後ろめたいような気持ちになってしまうのだろう。
『春にいにとっての俺ってなに』
答えられなかった。
琉笑夢のことは可愛いとは思っている。慈しみたいとも思っている。噛まれてもベタベタされても嫌ではない。
だがそれは果たして慣れなのか、弟に対する愛情なのか、それとも別の感情からきているものなのかが自分でもわからなかった。
わからぬまま何年も琉笑夢に甘えられ、甘やかし、春人なりに大切に接してきた。何より、『おまえは今日から、オレの弟な』と幼かった琉笑夢に先に告げたのは春人の方なのだ。
『……言わねえの、弟みたいに思ってるって。優しいもんな、春にいは』
『違う、そんなんじゃねえよ』
『何が違えんだよ。じゃあ一回ぐらい俺に犯されてくれる? 背も春にいよりでかくなったことだしさ』
そんなの尚更、答えられるわけがない。
『そしたらそれネタにおまえのこと脅して俺のものにするから。お兄ちゃんみたいに懐いてた野郎に脅されて関係を持たされましたって。俺可愛いし、大人だから春にいの方が逮捕されちゃうね』
『……琉笑夢!』
『そんな子に育てた覚えはありませんって? は、くだんねー』
独り言のように悪態をついた琉笑夢は直ぐにベッドから降り、びくりと肩を震わせた春人の隣を顔色一つ変えずに通り過ぎた。
引き止めることはできなかった。
『どうせ春にいは捕まっても俺のこと庇うんだろうな、可愛い可愛い弟守るために悪いのは自分だって言ってさ。馬鹿じゃねえの、アンタのそういうとこほんと無理』
かちゃりと部屋の扉が開けられる音がしてやっと硬直が解けた。振り向けば、同じく振り向いて春人を見つめていた琉笑夢と目が合った。
『いつまでも兄貴面してんじゃねえよ』
決定的なことを言われて、呼吸すらも止まってしまう。
『……どうやったら春にいは、俺のこと見んだよ』
それが、海外へと飛び立つ前に琉笑夢から投げかけられた最後の言葉──いや、「問いかけ」だった。
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