第3話 将来の約束──①

「だっこして」


 もう一つ、ため息をつく。

 春人は諦めて腕を広げた。


「……ほら」


 必死に抱きついてきた琉笑夢を受け止め、春人からしても軽い体をひょいっと抱え上げる。


「春、春にい」

「はいはい」


 もぞもぞと定位置に落ち着き、細い腕を痛いほど首に回してきた琉笑夢。

 コアラのように抱きつかれて、ふわふわの金髪が鼻を掠めてきてくすぐったかった。

 一日ぶりの抱っこに琉笑夢は至極ご満悦の様子だった。むふ、と唇の端が目に見えて緩んでいる。

 こうやって暴力的にならず素直に懐いてくれるのであれば、春人だって嫌な気はしないのに。


 すりすりと鼻を首筋に擦り付けられてつい笑ってしまった。まるで犬のマーキングだ。


 琉笑夢のことを少々ヤンデレ気質の子どもだと思っていたのだが、もしかしたらコイツは愛情表現がただ下手くそなだけの子どもなのかもしれない。

 そう考えればなんだか昨晩のコップ投げ付け事件も許してあげられるような気がした。

 CDを割られたこともポスターを剥がされたこともまあ子どものいたずらの範囲だ。過激ではあるがとりあえず莉愛には当たらなかったし自分以外に実害はなかったわけだし……いや、そう思ってしまうこと自体が甘やかしなのだろうか。

 この愛に飢えた小さな子にほだされている自覚は、ある。


「おまえってほんと、甘えん坊だよなぁ」


 ずり落ちそうになる子どもをしっかりと抱え上げてから髪を撫でてやる。

 よしよしと動かしている手のひらは琉笑夢の頭、そしてもう片方の腕は小さな体を抱えるために。つまる所、今の春人は両手がふさがっておりかなり無防備な状態で、油断していた。


「──ッい」


 だから、いつものようにあぐ、と首を噛まれても直ぐに引きはがすことができなかった。


「いって、いてぇっつーの」


 痛いとは言っても子どもの力だからさして痛くはないが、こうも何度もがじがじと噛まれれば自然と痕が付いてしまう。

 琉笑夢はよく春人の体に何かしらの痕を残したがった。

 最初は抓るというまだ可愛げのある(?)行動だったのだが今では完全にエスカレートして噛み付くという最終形態にまで至っている。

 それは鼻の頭だったり頬だったり腕だったり腹だったりと様々だが、最近では首筋が多い。

 今朝鏡を見たら該当箇所が赤く変色していたのであと数日もすれば青くなってしまうのかもしれない。犬のマーキングよりも酷い気がする。


「だから、いい加減噛みつくのやめろって……痣になんだよ、ルゥ、こら!」


 さすがにぐい~っと引き剥がそうとしても頑なに離れない。餅みたいに自分の肌が伸びる、琉笑夢はさしずめ粘着テープだろうか。

 この謎の噛み付き癖がこの先どこに行く着くのかは、あまり考えたくはなかった。


「いやだ」

「噛むなら降ろすからな」

「春にいはおれと結婚するから、あとつけても問題ない」


 事あるごとに言われるその台詞に何度目かわからないため息。


「だぁから、前から言ってるだろ、日本では同性婚はできないんだってば」

「知らない」

「……オレは女の人と結婚したいの」


 多様性がうたわれている現代だが、春人の恋愛対象はたぶん女性だと思う。

 まだ恋愛の経験がないのではっきりと断言はできないが、アイドルにだってときめくし。


「だめだ、春にいはおれとけっこんするんだ」


 それでも、女の人がいいという春人の抗議が受け入れてもらえないのなら。


「……結婚するならオレはオレより背がデカくて手足が長くてかっこいい人がいいな」


 ぴくりと琉笑夢が動いた。

 春人より背が低くて華奢で手足が短くて可愛い可愛い琉笑夢にこの台詞はかなり効果がありそうだ。


「そうだなーあとは、芸能人とか? モデルとか俳優とか歌手とか、SNSでの人気も凄くて500万人くらいフォロワーがいるとかそういうすっげー有名で一般人のオレなんかじゃ到底手が届かないような人じゃないと結婚したくねえかなー」


 ちらっと聞こえていたクラスの女子の会話を思い出しながら適当なことをべらべらと並べる。

 ものの見事に機嫌を損ねたらしい琉笑夢が腕の中でじたばたと暴れ出した。

 顔の筋肉を動かすことが苦手なのか確かに表情の乏しい子どもではあるが、春人からしてみれば機嫌が悪くなると眉間の皺が増えてむっとするし酷い時には何も喋らなくなるし、こうして暴れて駄々もこねる。

 春人のこととなると非常にわかりやすいのだ、いわゆるお兄ちゃん子というやつなのかもしれない。

 そういえば春人も幼い頃はお母さんと結婚するとよく言っていたらしい、微塵も覚えていないが。


「春にい、煩いっ」

「いて」


 今だってそうだ、またかぷりと噛まれる。

 天使のような美少年が可愛く怒っている。こういうところは子どもなんだよなあなんてしみじみとする。


「春にいがやだっていっても、ぜったいぜったいけっこんする」

「ええ……オレの意思は無視かよ」


 が、それはちょっとどうかと思う。


「だって春にいは、おれのダーリンだから」

「ダーリンって」


 顔をしかめる。

 ダーリンというのは死語というやつなのではないだろうかと思いはしたが、琉笑夢の母親が、琉笑夢の父親をダーリンと言っていたらしいことを思い出す。

 酔うと元旦那のことをそう呼び、顔が瓜二つらしい琉笑夢に当たり散らしていたらしい。

 結婚、ダーリン。そんなの子どものふざけた戯言だと流しておけばいいのだろうが如何せん相手はこの琉笑夢だ。

 幼いながらに恐ろしいほどの執着心を見せる子ども。

 ほんの少しだけ、背中に薄ら寒いものが走る。


「あのな、春にい」

「……ん?」 

「逃げたら、だめだからな」


 そっと耳元でささやかれた子ども特有の甘く柔らかな声色には、まっすぐな無邪気ささえも滲んでいた。

 恐ろしいことなど何もないはずなのに春人は固まってしまった。


「もし春にいが、おれから逃げたら」


 琉笑夢が、ゆっくりと春人の首筋から顔を上げた。

 幸か不幸か首から顔が離れる瞬間、噛み付かれた部分にぺろりと舌を這わされたのが見えてしまって、思わず琉笑夢を落としそうになってしまったが、耐える。

 どこかに座りたくとも体が硬直し、足裏が床に縫い付けられてしまっていて動けない。冷や汗がぶわりと額に滲み、つうと頬を伝い顎から落ちた。


「……に」


 なぜ自分はここまで怯えてしまっているのか、相手はまだ6歳の子どもだぞ。

 しかも獰猛で残酷極まりない熊でも百獣の王であるライオンでもなければ、そもそも春人よりも屈強な成人男性でもなんでもない。

 愛らしく天使のような顔をしている、華奢で細くて小さくて力が弱い普通の子どもだ。

 コイツは人間、春人と同じただの人間、あれ、そういえば人間の定義ってなんだっけ、確か何かの授業で習った気がする。

 そうだ、人間はヒト科ヒト属に属しているんだった。

 つまりコイツはヒト科ヒト属に属するヒト、ただの人だ。


 しかしそんな風に脳内でしっかりしろ自分と言い聞かせれば言い聞かせるほど。


「逃げ、たら?」


 どうなるんだ、罰金とか? はは……なんて渇いた笑みを浮かべて3度ほど下がってしまったであろう部屋の温度を上げようとしたのだが、途中で声が途切れてしまった。

 ひやりと、首に冷たいものが当たったからだ。

 見なくともわかるほど慣れてしまった琉笑夢の手のひらだった。琉笑夢は子どものくせにわりと体温が低めだ。体はいわゆる子ども体温ではあるのだが、手や足といった末端がひんやりとしている。

 だから夜は乾燥機やら湯たんぽやらで布団をふかふかと温かくしてから、しがみ付いてくる琉笑夢を冷やさないようにぎゅっと抱き締めて寝てあげていたのだが。


「る……」


 琉笑夢を抱えているため、その紅葉のような丸い手から逃れることができない。目を逸らすことはおろか、瞬きすることも忘れた数秒だった。

 至近距離にある琉笑夢のくりくりとした瞳がゆっくりと細められる。

 そして首に添えられた小さな手のひらに、ほんのわずかな力が加えられて。




 きゅっと、絞められた。




 ──ぞっと、一気に粟立つ肌。ひえっと飛び上がりかけた。

 たかが子どもの力だ、強くもなければ苦しくも痛くもなんともない。どちらかというとただ添えられているだけに近い。

 だというのに呼吸が浅くなった。喉が、押しつぶされたかのように詰まる。

 目を見開いたまま微塵も体を動かせないでいる春人に、きめ細かな肌をした西洋人形のように美しい顔の子どもは、それはそれは嬉しそうな笑みを浮かべた。

 弓なりに反った瞳から白目の部分が消える。侵食した青が白を食らい、水面に映る青く輝く綺麗な三日月のような形になった。

 にい、と上げられた口角から真っ白な歯がのぞく。

 もちろんその笑みは、やはり歳相応のものからはかけ離れているもので。


 どこもかしこも、それこそ爪の先まで宝石でできているみたいな琉笑夢は、愛らしい唇を歪ませたまま一言、ささやいてきた。



「春にい、だい好き──春にいは?」



 全力疾走を終えたばかりのように、心臓の鼓動がバクバクと速くなる。

 これはまだ6歳の子どもだ。子どもだけれども。もしかしたら今の言葉は戯言などではないのかもしれない。そう思わせるほどの迫力が琉笑夢にはあった。

 するりと、琉笑夢の手が離れる。やっとまともに息が吸えた。

 堰き止められていた血液がどくどくと脳内を循環し、春人の思考を素早く巡らせた。


「オ……」


 春人は本日何度目かになるかわからない悪寒に苛まれながらも、琉笑夢が求めているだろう答えを紡ぐために強張る唇を震わせた。


「オレも、好きだ、よ」


 嘘ではない。決して嘘ではないのだ。

 懐いてくれる子どもにお兄ちゃん大好きと言われ、オレもだよと返す。こんなのどこにでもあるありきたりな会話だ、三文小説にもなりはしない。

 それなのに、自分の紡いだ言葉がとてつもなく重く感じられた。

 好きだと返した台詞にじわじわと体全体を縛られ、そのまま氷水に沈められていくようなそんな重圧感だった。

 息をする方法をちょっとでも間違えたら一気に酸素が水に奪われて、代わりに口の中に大量の冷たい水をねじ込まれ一気に生命活動を奪われてしまいそうだ。


「それ、ほんと?」


 ごくりと唾を飲む。

 琉笑夢の目は逸らされない。春人にはわかった。今この子どもは春人の言葉に嘘が混じっていないかどうかを見定めているのだと。


「ほ……本当、です」


 ぎこちなく頷く。思わず敬語になってしまった。


「うそ、いってない?」

「お……う」

「うそじゃないって、約束できる?」

「……できる」


 さらに目を細めて再び抱き着いて来た琉笑夢を、強張る片腕で抱きしめ返す。


「ふうん」


 じっとりと首に巻き付けられた腕がさっきよりも冷たく感じられた。


「よかった」


 首の噛み痕に、口づけるようにささやかれた。

 ──何が、よかったなのか。春人に好きと言ってもらえてよかったという純粋な安堵の意味だったのか。それとも春人がそう返したことで、何かをする必要が無くなってよかった、という意味だったのか。

 もしも琉笑夢の望む言葉や態度を返せていなかったらこの子どもは何をする気だったのだろう。例え何かをされていても、力で春人が負けるはずはないのだけれど──今のところは。


 ちなみに琉笑夢の父親はすらっとした長身だったらしい。母親も、女性にしては高い方のようだ。

 琉笑夢が両親に似たら、どうなるか。


 いや、だからホラーかって。これはほんとに、怖い。

 かなり病んでる、俗に言うヤンデレというやつだ。将来が怖い。

 もしかしたら琉笑夢はただの愛情表現が下手くそなお兄ちゃん子なのではなく、ヒト科ヒト属に属するヤンデレ予備軍なのかもしれない。


「春にい、眠い……」

「あー……うん、寝ろ」


 昨夜春人の傍で寝られなかったことに加えて、春人に構ってもらえなかった寂しさと不安とで睡眠も浅かったのかもしれない。

 春人よりも早く起きて、降りてくるのを階段の下で待っていたみたいだし。

 だんだんと、春人の腕の中でうとうととし始めた琉笑夢の体重が重くなって来た。

 春人に体を預けて穏やかにまぶたを閉じる顔は、どこからどうみても子どもそのものなのに。


 ともすればぶるりと震えてしまいそうになる吐息を整えて、春人は琉笑夢を抱きかかえたままそろそろと移動し、同じくそろそろとソファに腰を落とした。



 いや、腰が抜けた。



 

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