第2話 出会い──②

 どうしてそういう思考回路になるのかな。理解することができなくてただただ唸る。


「……るえむぅ」

「だって春にいは、おれのものだもん」


 オレは物じゃないぞなんて台詞は喉の奥で止まってしまった。

 不貞腐れるでもなく、迷いなくかつしっかりと言い切った子どもに春人は天井を仰いだ。


 どうしてコイツはこうなんだろう。

 琉笑夢を預かってからもう直ぐで二か月になる。

 透明度が高く大きくてつぶらな青い瞳に、光に反射して輝く金色の髪。

 そして陶器のようになめらかで白い肌に、淡い桜色をしたぷっくりとした唇。その横にちょん、とついている小さなホクロが更に愛らしさを際立たせている。


 誰が見ても十中八九可愛らしい天使だ、将来有望だモデル一択だと口をそろえて言うであろうコイツは、近所の家に住んでいた飛鳥間あすま・ディディエ・琉笑夢だ。


 初めて名前を聞いた時は口には出さないものの脳内で色々と突っ込んでしまった。

 正直呪文かと思ったし、字を見てもやっぱり呪文だとしか思えなかった。

 どうやら琉笑夢の母親は日本人で父親が外国の人らしく、飛鳥間という名字も珍しければ日本人にはないミドルネームというやつも珍しいしその上名前も珍しいし当て字も珍しいしで、とにかく「珍しい」が大渋滞している子どもだった。字面を見ているだけで腹がいっぱいになりそうだ。

 そんな琉笑夢は、ネームも含めて様々な意味でキラッキラしているし、当の本人もその類まれなる容姿でキラッキラしていた。


 詳しい事情は知らないが、琉笑夢の母親が家を留守にするというので春人の母親が預かってきた。

 近所の家とはいえ琉笑夢は裏手のアパートで暮らしていたため全く交流がなかったので琉笑夢を見るのは初めてだったのが、第一印象はやけに細っこくて汚れているなというものだった。

 真っ先に風呂に入れてかいがいしく世話を焼けばすぐに懐いてくれた。

 だから可愛がっていたのに、今じゃすっかり春人は琉笑夢が苦手になっていた。


 もちろん春人も、最初の頃は純粋に懐いてきてくれる子どもに嫌な気分はせず優しくしていたのだが、どうやら琉笑夢はかなり嫉妬心の強い子らしく、常に春人を独占したがった。


 それが子どもらしいちょっとばかりの独占欲であればまだいいのだが、春人から見れば琉笑夢のそれはかなり常軌を逸脱していた。


 昨日の莉愛との一件もそうだったが、春人がトイレへ行こうとすれば中までついてこようとするし、風呂は春人以外とは絶対に入らないし、ずっと引っ付いてくるし、春人がちょっとでも琉笑夢から目を離せばすぐに機嫌を損ね、蹴ってきたり殴ってきたり物を投げてきたりもする。

 おかげで、ここしばらく学校帰りに友達と遊ぶこともほとんどできていない。


 一か月前は、春人がここ最近気に入っているバンドのポスターを破かれた。


 きっかけは些細なことだった。

 「これなに」と問われたから、「んー? 最近好きなバンド」と答えただけだ。

 それだけだったというのに、次の瞬間部屋の壁からそれを勢いよくべりべり剥がされて唖然とした。あっと言う間に斜めに引き裂かれ、ポスターは無残な状態になってしまった。

 だが、相手は子どもなのだからと己を律して怒鳴り散らさないように理由を問えば、平然とした顔の琉笑夢に、「春にいはおれ以外すきになっちゃダメだから」と返された。結局叱りつけた。

 ちなみに凝り性の春人が一生懸命集めた手持ちのCDも何枚か割られた。これは、「おれ以外の声きいちゃダメだから」だそうだ。

 現物以外にもダウンロードしたデータもあるし聞く分にはなんら問題はなかったのだが、そういうことではない。

 形として手元に残るという事実に満足していたのに、これは少々堪えた。


 また琉笑夢の前では軽々しく「好き」という言葉を使えなくなったし、何かのはずみで携帯本体をぶっ壊される危険性を考え琉笑夢の前では絶対に取り出さなくなった。


 正直ドン引きだ、独占欲が強いのにも程がある。

 そうして苛々ゲージが上昇してついに爆発した春人が叱れば、また口許を嫌な感じに歪めてこちらを見上げてくるのだ。

 子どもの可愛い嫉妬なのだからしょうがない、と簡単に済ませることもできなくなってしまうくらい、その行動は過激かつ異常なものだった。


「──春にい、どこ見てんの」


 ぐっと袖を引かれ、いつものように自分から目を逸らすなと言外に責められる。


「なにかんがえてんの、ダメ。おれのことみて?」


 また頭を抱えそうになる。

 コイツにはもう何を言ってもダメなのかもしれない。このままでは春人の視線の先にあるものを全てぶっ壊しながら歩きかねない。

 今は子どもだからまだいい。被害も最小限(と言えるのだろうか)で済ませることができているからだ。けれどもこれが大人になったら一体どうなるのだろうか。

 考えただけでもひやりとする、末恐ろしい子どもだ。


「春にい、だっこ」


 すっと、精一杯伸ばされたか細い腕。

 この手を叩き落とせば、琉笑夢はどんな顔をするだろうか。


「だっこして、春にい……」


 それでも前よりは肉付きのよくなった白い腕。

 ここに来たばかりの頃は棒のようだった。


 確か、肌寒さも落ち着いた3月22日の、春だった。

 台所に飾られてあったどっかの保険会社から送られてくる大き目のカレンダーに、「春はお家(在)」とでかでかと書かれた母親の字を覚えている。

 家にいたら何かあるのかと思ったものだが、何かも何か、その日は春人にとって大きな転機だった。


 母親には何も言われていない。

 ただその日、突然家に見知らぬ子どもが連れてこられて、「琉笑夢くんよ、しばらく預かることになったの。お世話してあげてね」と母親に紹介されただけだ。

 けれどもブカブカの服を着て、光のない青い瞳をぼんやりと彷徨わせながら母親に手を引かれている子どもは、全くといっていいほど生気も覇気もなかった。


 まるで死人のようだと、痛ましげなその姿に息をのんだ春人に母親はただ静かに頷いた。






『おまえ汚れてんな、ほら行くぞー』


 小さな子どもをひっ掴み風呂場へ直行すれば、琉笑夢は目に見えて怯えた。

 丁寧に湯に浸からせ、抱き上げてお湯やシャンプーやリンスが目に入らないようにしっかりと髪を洗ってやった。母親のトリートメントも使った。

 春人がノズルに手を伸ばした瞬間、蒼白な顔をした琉笑夢が粗相をしたのもわかった。

 しょわっ、と肌に染み込んでくるそれに服を脱いでいてよかったなと思いながら、わんさか出てくる肌の垢をごしごしと擦り、ぱさついた髪も丁寧に洗った。

 春人の一挙一動に反応しびくびく震える琉笑夢の姿に苦い思いをしながら、琉笑夢を足の間にちょこんと置かせて後ろから髪を乾かしてやる頃には琉笑夢も春人に慣れたようで、少しだけ体の強張りも溶けていた。


『おまえ、キレイな髪してんだなぁ。キラキラしてる』


 ここは大層田舎の地域だが、金髪の人間なんて街に繰り出せばたくさんいる。

 けれども琉笑夢のような純度の高い、柔らかくて美しい黄金の色をした髪は珍しかった。

 未だに雫が滴る金の髪が、眩い。このままだともしかしたら。


『このままタオルもおまえの色付いて金色になったりして。そうだったら面白いな』


 なんてぶっ飛んだ思考になってしまうぐらい純粋に綺麗だと思って言ったのだが、琉笑夢は何にびっくりしたのか目を見開いてこちらを見上げた。

 わしゃわしゃと水気を取ってやっていた白いタオルの隙間から、青色をのぞきこむ。


『え……っと、どした? そんなに驚いて』

『……髪、汚いって、言われる』

『はあ? 誰だそんなふざけたこと言う奴は、目え腐ってんな』


 誰だそんな見当違いのことを言うバカはと怒りがこみ上げる。

 琉笑夢が前を向き、膝を抱えた。


『マム』


 マム、マムってなんだハムみたいだな……とそこまで考えて琉笑夢の母親のことであると気が付いた。

 やばい、他人の母親の目を腐ってるだなんて言ってしまった。


『マム、酒のんで帰ると、いう』


 その一言に、琉笑夢がそのマムとどのような生活をしてきたのかが垣間見えた気がした。

 琉笑夢の体には目に見えるような傷はなかった。が、小さい体を庇うようにぎゅっと膝を抱え込む仕草からは、耐えがたい何かしらの精神的な傷があるのだということを春人に如実に知らしめてきた。


『そっかぁ……』


 警戒心を解くように、まだ濡れたままの金色の髪を穏やかに撫で続ける。


『オレはキレイだと思うけどな、お前の名前も』

『なまえ、も?』

『うん。だって琉笑夢の琉ってさ、青い宝石って意味だろ。おまえの目って青くてキラキラしてて宝石みたいだから、すっげーぴったりだよ。いい名前だって』


 最初はその字面に驚きはしたものの、よくよく調べてみれば様々な意味が込められている漢字だ。

 世の中にはたくさんの人間がいる。関わっていくにつれ珍しい名前をからかい嘲笑ってくる奴も現れるだろうが、少なくとも春人にとっては、琉笑夢という名前は素敵なもののように思えた。


『オレなんて春に生まれたから春の人だかんなー、そのまんまっつーか』


 もちろん気に入ってはいるが、ありふれた名前だとは思う。


『なあ琉笑夢、おまえって兄ちゃんとかいる?』

『……いない』

『じゃ、今日からオレが琉笑夢の兄貴だな』

『あにき?』

『そー、兄貴、おまえは鈴木家の三男ってことだ』


 春人という名前に引き続き、鈴木も琉笑夢の名字と比べればなんてことのない名字なのかもしれないが、春人にとっては大事な名字だ。

 この子どもがどのぐらいこの家に滞在することになるのかはわからないが、家族のいる空間というものを味わって来なかったかもしれないこの子どもにとって、鈴木家が少しでも安らぎの場になればいいななんて思ったのだ。

 その時は。そう、その時は。


『つっても、親父は単身赴任でなかなか帰って来れねえし、夏兄なつにいも……あ、夏人ってオレの兄ちゃんな。大学の寮で暮らしてっからあんまり帰って来れないんだけどさ』


 ちなみに兄の夏人は夏生まれである。

 琉笑夢はおずおずと、再び春人を見上げてきた。

 湯気で潤んだ空のような色合いの瞳も、やっぱり綺麗だと思った。


『オレのこと、春って呼んでいーからな』


 その深い青に向かって、歯を見せて笑ってやる。


『よろしくな琉笑夢。おまえは今日から、オレの弟な』


 長い沈黙の後、小さく頷いた琉笑夢は春人にぽすんっと背を預けてきた。

 細い肩に全く感じない重み、そして肉の薄い腹に少しだけ目の奥が痛んだのは春人だけの秘密だ。


 わかっているのだ、春人にだって。


 こちらを見ないから言葉で責める、物を投げる、蹴る。

 それらはきっと、琉笑夢自身がやられていたことなのかもしれないということぐらい。

 春人がシャワーのノズルを手にした途端に漏らしてしまったのだって、きっと春人にも想像がつかないような出来事が琉笑夢の中にあったのだろう。

 はあ、と小さくため息をつく。確かに難儀な子だとは思う。

 数々の琉笑夢の悪行のせいで今ではこの子どもに対して苦手意識も持ってしまっている。けれども嫌いにはなれないのだ──それに。


 春人の後ろにぺたぺたとくっついてくる琉笑夢を。

 春人の脚の間に座っていないと、春人の膝の上に乗っていないと安心できない琉笑夢を。

 春人と一緒じゃないと上手く体の力を抜くことができない琉笑夢を。

 抱き締めながら背を撫でてやると、安心したように頬をほころばせる琉笑夢を。

 寝る時であっても離れないようにぎゅっとしがみ付いてくる小さな琉笑夢を。

 こっちを見てと縋りつき、それが叶わないと知ると直ぐに癇癪を起してしまう琉笑夢を。


 春人はもちろん可愛いと思っている。それと同時に、可哀想だとも。

 琉笑夢を無碍に扱いたくはないし大事にしたいとも思っているので。その気持ちは二か月前から微塵も変わっていない。


 物を投げたり壊したり破いたり他人を蹴ったりしてくるのはいただけないが、春人を傷付けているようで、その実極度の不安に押し潰されそうになっているのは琉笑夢の方なのだ。


 時折、青い瞳に底が見えないほどの昏さがのぞく。

 どこかを見つめている瞳が、空虚に滲む。


 子どもらしからぬそんな顔、本当はさせたくもないししてほしくもない。

 「琉笑夢」の琉は、美しくて青い宝石という意味がある。母親との関係がどんなものであるかは憶測でしかわからないが、最初はきっと華やかな容姿を持ちキラキラした琉笑夢にぴったりの名だと思って付けたのかもしれない。

 そうであってほしい。

 名は体を表すというが、琉笑夢には名前の通り、暖かな風が流れる夢のように美しい場所で、濁りなく澄んだ美しい空や海のようにまっすぐな心で健やかに育ち、笑っていてほしかった。


 結局のところ、だ。


 普段はあまり顔色を変えないくせに、春人に構ってもらえなくて直ぐにしゅんとしてしまう琉笑夢に。頭を撫でてやると嬉しそうにはにかむ琉笑夢に。

 春人が敵うはずもないのだ。

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