閑話-ニアの幸せが崩れた日
王都南東部にある一見華やかな王都からは想像もできない程に薄暗く汚れの目立つ区画がある。王都としての正式な名称は王都南東部住民区画だが、王都の民はこの区画を侮蔑し『ファヴェーラ』と呼ぶ。
そんなファベーラの片隅に、泥水を啜り生きながらえている少女がいた。
服装は薄い布一枚でそれも所々汚れていおり、伸びっぱなしの赤茶色の髪は皮脂で汚れみすぼらしい少女――ニアは泥水を啜った口を手で拭い、気だるげな足乗りで歩き出した。
「お腹、すいた……」
ニアの腹部からは先程からクゥクゥと音を鳴らしている。
もう四日、何も食べていなかった。口にするのは泥水くらいだった。
なぜニアがこのような生活を送っているのか。それは遡ること数日前の話となる。
それまでニアは、王都南西部にある貴族まではいかないものの、それなりに裕福な市民が住む区画にある一軒家で父と母をまじえた三人で暮らしていた。
ニアの両親は共にある貴族の家に仕える使用人として毎日働いていた。父は料理人として腕を振るい、母はメイドとして仕える。それらしい休日は与えられていなかったものの、王都に家を持ちニアを育てるだけの給金は貰えていた。
贅沢こそできないが、娘のためを思って毎日働く両親を、ニアは心の底から尊敬していた。ニアも将来は両親と同じか、似たような仕事に就きたいと思っていた。
しかしながら両親がニアに施したのは使用人になるための訓練ではなく、家庭教師をつけ算術や読み書きの基礎的な勉強をさせ、引退した冒険者に体術や武器の扱いを教えられた。
この教育にニアは最初こそ否定的ではいたが、月日が経つにつれて肉体的にも精神的にも強くなっていくことを実感し、満足していた。将来は冒険者になり大金を稼ぎ、両親には良い老後を過ごしてもらおうと画策していた。これが、これまで良い教育を施してくれた両親への親孝行になるだろう、と。
しかしそんな幸せな日々は突然に終わりを迎える。
その日は少し肌寒いものの清々しい快晴が広がる良い日だった。
両親はいつものように朝早くから仕事に出かけ、ニアは眠い目を擦りながら両親を見送ってから用意されていた朝食を食べる。その後は午前中は家庭教師からの勉強。それが終わると昼食を食べ午後からは引退した冒険者からの体術指南を受ける。そんないつもと変わり映えの無い日課を過ごし、両親の帰宅を待っていた。
しかし、待てども両親は帰ってこない。いつも帰ってくる時間から三時間経ち、四時間経ち。休みこそ少ないものの残業なんて無い仕事なのにこれはおかしい。そう思ったニアは両親を探しに深夜の王都へ繰り出した。
深夜に少女が一人で出歩くのは、いくら王都であっても危険だ。なのでニアはいつも訓練で使用している厚手の皮鎧を身に纏い、腰には木剣を。これであれば酔っ払いくらいは撃退できるだろう。
「夜に外出るの初めてだけど、なんかちょっと怖いな……」
初めての夜の王都は街灯こそあるものの表通りでも薄暗くその暗さが恐怖を煽る。自然と左腰に携えた木剣の柄を左手で握っていて、ニアは自分が想像以上に怖がっていたのだと思った。
「貴族街って、こっちだったかな……?」
両親の務める貴族邸を目指し、ニアは王都北西部にある貴族街を目指す。
普段から両親に「職場には来ないように」と念を押されていたニアは、貴族邸の正確な場所を把握していない。
それでも貴族街に着けば、なんとなくで分かるだろう。そんな気持ちでニアは足速に歩く。
貴族街に近づくと、深夜にも関わらず喧騒が聞こえてきた。
貴族に使える近衛兵達がニアの横をまったく気にすることなく駆け抜けていった。その近衛兵達は過ぎ行く中でこんな事を言っていた。「油を用意しろ」「あの使用人の家を燃やせ」と。
ニアはそんな慌ただしさを感じさせる貴族街を進み、どうにか目的の邸宅の門前に辿り着いた。
ニアは大きな門から顔を覗かせ、庭先の様子を確認する。
「なに、これ……」
ニアの目の前には異様な光景が広がっていた。
無駄だと思うほどに広い邸宅の庭に整列する近衛兵達。その手には松明を持ち、赤々とした光が庭内を不気味に照らしていた。そしてその兵達を見下ろすかのように最前列に立っている小太りで生理的嫌悪感を感じさせるような顔の脂でテラテラと光を反射させている男こそがこの邸宅の主であるカール=ツー=メディチ伯爵だ。
カールは相当怒っているのか、顔を赤くさせ兵達に怒鳴るように言葉を発している。
「儂は怒ってるにゃもよ! 使用人風情が……あの、ルーカスとフィオネとか言う使用人は儂が丹精込めて練った計画を白紙にしようとしたにゃも! これは、許されざる事にゃもよ! おみゃーら、さっさとあいつらを捕まえて儂のもとまで連れてくるにゃも! 生死は問わんっ!」
にゃもにゃもと理解の及ばない口調で兵達に命令するカールの言葉を聞き、ニアは顔を青く染める。
カールの言ったルーカスとフォオネとは、ニアの両親の事だ。そしてここで合点が付いた。先程ニアが貴族街に向かっている途中ですれ違った近衛兵達は、ニアの家を燃やそうとしていたのだ。
突然の事で頭が回らず、胸の内に疑問のみが浮かんでくる。何が起こっているのか、何故両親は追われているのか、私も逃げなければマズいのではないか、と。
気が付くとニアは貴族街を走り抜けていた。当ても無く、逃げるように足を動かす。
南西の空に黒い煙が立ち昇っているのが見えた。
「あ……きっと、ニアの家だ……」
ただただ絶望感が押し寄せてくる。何が悪いのか、どうしてこうなったのか。
それからニアの路上生活が始まった。
最初の内は身に着けていた皮鎧と木剣を売る事で日銭を工面し、なんとか飢えを凌ぐことができた。だがそれも数日の話。
貴族に、ましてや伯爵に目をつけられている以上は家庭教師も引退した冒険者も頼ることはできない。そんな事は、齢十三のニアにだって少し考えれば分かっていた。
革鎧と木剣から得た日銭はすぐに底を尽き、ニアは着ている服をも売りに出した。
靴下を売り、靴を売り。それでようやくパン一個の値段だ。もうどうにもならない。そうニアは思った。
「もう、ここにはいられないんだ……」
身体的にも、精神的にも厳しい現状を変えるためには、もう居場所のない王都にいてはダメだ、と思い至ったが故についこぼれ出てしまったのだ。
しかしながら今の王都周辺は魔物の大量発生によりとても危険な状況に陥っている。武器を何も持たず、ましてや着ているのは付与魔法すら掛かっていないただの布切れ一枚のみ。そんな装備で王都の外に出てしまえば何もできずに死ぬだけだろう。
ニアだって分かっている。ただ死にに行くなんで御免だと。
ニアは答えを求め、彷徨い続ける。当ての無い答えだ。空腹に身を焦がせ、雨に身を打たれながら。曇りの空はまるでニアの抑圧された感情が、雲として凝縮されたように黒く、暗くなる。
そんな当ての無い足取りは、スラム街であるファヴェーラへと必然的に向かわせた。
ファヴェーラの住人は皆、ニアと同じような今にも消えて無くなりそうな表情をしている。だが、どこか心の奥底には何かを憎むような、憎悪するような感情が見え隠れしているのをニアは察した。
ここの人達は自分と同じように世間を嫌っているのだと。何か、憎むべき対象を心に抱えながら日々生きているのだと。
「ふざけるな……ニアが、何をしたってんだ……ニアは、ただ幸せに暮らしたかっただけなのに……ッ! ニアは悪くないんだ……あの貴族が悪いんだ……ッ!」
ついに、ニアの抑圧された感情の矛先は貴族へと向かう事になる。
ニアは低血糖でなかなか回らない頭を精一杯回し、過去に引退した冒険者から受けた体術の教育を思い出す。対人戦闘のやり方、油断している人間の仕留め方。貴族に仕返しするための方法を思い出すために、思考を巡らせる。
「刺し違えてでも、殺してやるッ!」
覚束ない足取りで、ニアはファヴェーラから彷徨い出るのであった。
ここからニアがアレス達と出会うのは、数日先の話。
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