《またね》

彼女の病状は、手をつけられない程悪化していた。

肺機能の低下、身体の衰弱、それらがさらに深刻なものになっていたという。


病室で眠っている祐奈は、生きているのか死んでいるのか分からなかった。

祐奈が起きた時のことを考え、俺は売店で暖かい飲み物を買ってくることにした。

売店に着いて、俺は無意識にある物を手に取っていた。

ある記憶が、蘇った。


どうして、忘れてしまっていたのだろう。

俺が初めて祐奈に会ったのは、高校ではなかったのだ。

戦時中、俺は負傷した時に、一度だけ祐奈に治療を受けた事があった。

その時の、なるべく痛くないように傷の手当てをしてくれた気遣いが、他の人とは違っていて印象に残っていた。

今とは姿は違うが、あの口調や雰囲気は確かに祐奈のはずだ。

彼女は、俺が次に戦場に駆り出されるその時まで、ずっと俺の側にいて、体調を気にかけてくれた。

あの時、その優しさから何か恩返しをしたいと思い、好きなものを聞いた。

彼女の口から紡がれた言葉は、ココアの一言だった。

しかし、戦争が終わった後、俺はお礼の一つもできないままでいたのだ。

きっと、戦時中のトラウマか何かで、記憶から消えてしまっていたのだろう。

今思い出す事ができて、本当によかった。


俺は、ココアを片手に病室へと戻った。

そこに、待っていてくれたかのように、体を起こした祐奈がいた。

祐奈も俺の手に握られたものを見て、思い出したようだ。

「あの時の…」

その目からは、今にも涙が溢れ落ちそうだった。

きっと、色々な感情が募っているのだろう。

だからこそ、俺は言えていなかった一つの言葉を口にした。

「あの時は、ありがとうな」


それから、俺たちは話し続けていた。

ただ、いつもと違う。

今日はなぜか、お互い戦争の時のことまで口にしていた。

普段は、嫌な思い出ばかりのため隠していた、思い出を。

それなのに、話しても話しても、心が苦しくなることはなかった。

きっと、俺たちの最初の思い出だから。


数時間ほど経った。

祐奈は、明らかに衰弱していた。

医師から呼吸器の使用を勧められるほどだったが、祐奈はそれを拒み、休む事なく俺と話し続けていた。

しかし、それも長くは続かず、お互い口数が徐々に少なくなってきていた。

ふと、祐奈が口を開いた。

その声の所々に、異質な呼吸音が混じっている。

「あのさ、光綺」

「…どうした?」

「私、PARAISOの稼働テストに協力しようと思う」

正直、驚きを隠せない内容の発言だった。

そのことに関して、聞きたいことは山ほどあった、が、キリがない事、重要なことは他にあることを思い、そっと胸の奥にしまった。

「そうか、俺はPARAISOについてあまり知らないから、分からないけど…」

思わず、その次の言葉を紡ごうとして、俯いてしまった。

返答が、怖かったから。

認めたくないそれを、自分から肯定してしまうことになるから。


「そしたらきっと、PARAISOでまた会えるよな」


ついに、俺たちの目から涙が溢れた。

何とか込み上げるものを押さえ込もうとしたが、無理だった。

隣で、祐奈が嗚咽を漏らしていたからだ。

それに、俺もこれ以上耐えることができなくなった。

「何でだろう、また会えるはずなのに、そのためにテストに参加するのに、怖いよ」

そう、祐奈が声にならない声で呟く。

「俺もだよ、死なないと会えないって、寂しいにも程があるだろ…」

俺は久しぶりに、祐奈が泣いているところを見た。

以前病気が判明した時でさえ、彼女は笑顔で大丈夫だと言った。

そんな彼女が今、泣いている。

「だからって、絶対に早く来たらダメだからね、約束だよ?」

その言葉は、はっきりと、それでも何処か悲しそうに聞こえた。

「あぁ、約束だ、ちゃんと長生きしてから、そっちに行くよ」


その後、俺は何とか落ち着きを取り戻し、泣いている祐奈の頭を優しく撫でていた。

ふと、祐奈が泣き止んだ。

「もう、大丈夫か?」

そう言いながら、祐奈の顔を覗き込む。


祐奈は、笑顔だった。

しかし、もう息はなかった。


お葬式は、行われなかった。

車で向かっているところ、そこは案の定、PMTの本部だった。

長い山道を抜けると、かなり大きい建物が目の前に現れた。

建物の入り口の前には、見慣れた人物が立っている。

「細石様、お久しぶりです、PMTリーダーの横山秋也です」

それに、祐奈の親族が頭を下げ、話が始まった。

祐奈の言葉を思い出した。

今回、正式な稼働前に祐奈がPARAISOに入る理由、それは、PARAISOの稼働テストに協力するためだった。

そのことを、祐奈自身はもちろん、祐奈の母親も承諾しているらしい。


一つの部屋に案内された。

そこには、一つの大きな機械が置かれているだけだった。

「ここが転移室です」

どうやら、ここで死者の記憶をデータ化し、必要なものを抽出するようだ。

何やら長い手続きを、祐奈の母親が済ませた後、流れるように転移が始まった。

あっという間だった。

祐奈の生前のデータが抽出され、PARAISOにプログラムとして組み込まれる。

転移室のモニターには、PARAISO内の町にいる、普段と変わらない様子の祐奈がいた。


本当に、祐奈が死んだのだろうか?

確かにあの時、俺は祐奈の死を看取った。

しかし、あれから数時間たった今、何も変わらない様子の祐奈が、目の前にいる。

変わったことといえば、住んでいる世界が違う、それだけだ。

目の前にいるのに、死ぬまで会うことはできない。

干渉も、できない。

それが、この世界の新しい死の定義となる。

俺は、訳がわからなくなるのだった。


祐奈の母親は、安心した様子で転移室を後にした。

俺はというと、静かに帰路を辿ろうとしていたところを横山に呼び止められていた。

「だから、嫌だと言ってるだろ」

横山は、相変わらず俺をしつこく勧誘してきていた。

多額の報酬などを提示しても、何度も要求を拒む俺に痺れを切らしたのだろう。

「このままだと、祐奈さんは本当の意味で死を迎えることになるよ」

俺が無視していられなくなるようなことを言ってきた。

「一体どういうことだ?」

それに、横山は淡々と告げた。

「今、既にPARAISOに反対派勢力が生まれている」

なるほど、横山の思惑を理解した。

「つまり、それの鎮圧が要求か?今の俺にそんなことはできないぞ?」

そうだ、戦時中は、命を守るという名目で人を傷つける事が許された。

いや、そうしなければ生きていけなかったのだ。

しかし、今は違う。

世界は平和になり、人を傷つければ罪となる。

「初めて会った時に言っただろう?」

やはり横山は、自分にとって都合のいい事を話す時は、こうやって不敵な笑みを浮かべるらしい。

「僕たちの後ろには政府の権力がある、それくらい、認められるんだよ」


俺は仕方なく、横山の要求を受け入れることにした。

今思えば、これがPARAISOの裏側を知るのに一番手っ取り早かったのかもしれない。

俺は、既にたくさんのことを横山から教えられた。

PARAISOに入る時、記憶をデータ化する段階で、生前の記憶、特に自分が死んだ理由に関係するものはある程度消されるという。

残るのは、人との関係性、感性、考え方、趣味趣向などらしい。

その時抽出した記憶細胞は、機能を失って自然と崩壊するという。

そして何より、PARAISOには今現実を生きる人々のコピーが、ゲームのNPCのように配置されているというのが、PARAISOに入った人にとって一番重要になってくるはずだ。

PARAISOに入っても、家族関係、友人関係などを保つために、PHAPと呼ばれている彼らは存在する。

例えば、俺がPARAISOに入ることになると、現実のコピーであるPHAPの俺は削除され、現実の死んだ俺と入れ替わる。

そういったPARAISOの裏側を聞いて、安心できることもあったが、何とも言えない気持ちになるのだった。

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