第3話
【昨日の鈴木隼人 2/2】
「……ねぇ、ねぇったら……大丈夫……?」
気を失っていたのか。
はたと意識を取り戻した時、俺の耳に聞こえてきたのは若い女の声だった。
声の方に目を向けると仄暗い中に誰かが立っている。
俺を見下ろすようにして見ている。
「ねぇ……。凄い音してたけど何してたの?」
目を凝らすとやはり若い女のようだった。
凄い音とはなんだろう。
若者との喧嘩のことだろうかと思考を巡らしたときに気付いた。
刺されたはずの腹が痛くない。
恐る恐る刺された場所を触ってみたが出血もしていない。
何が起っているのか理解できずに、あたりを見回そうと首を動かしたときだ。
「ぅぐっ!」
首を締め付けるような強い圧迫感があった。
慌てて首に触れると、そこそこ太めのロープが巻いてあるらしかった。
なぜこんなものが。
不審に感じながら手探りでロープをほどく。やっとあたりに視線を巡らすことができた。
そこは見知らぬ部屋だった。
しかも半開きになったクローゼットに体を半分突っ込んだ形で横たわっていた。
少女を改めて見ると、少女は俺を見返しながら言った。
「お兄ちゃん……?」
くりっとした目で心配そうに俺を見ている。
とても可愛らしい子だ。
――いや、待て。
今、俺のことを「お兄ちゃん」と呼ばなかったか?
「俺は君の兄ではないが……?」
「……へ? どういうこと?」
「俺に妹はいない。それとここはどこだ? 確かナイフで刺されたはずだが……」
「はぇ? 刺された……? なにいってんの? 寝ぼけてるの?」
「寝ぼけてない。俺は大まじめに聞いているんだが」
「もう、なにこんな夜中に。あ……え? もしかして兄じゃないって、そういうこと? と、突然だなぁ。心の準備っていうか、それならそうとちゃんとした時に言ってくれたほうが嬉しいっていうか……」
少女は恥ずかしがるようにもにょもにょ言って体をくねらせる。
……何をしているのだろう……。
いや、そんなことよりも、知らない男が目の前にいるのに何故この子は普通にしていられる。
「俺は鈴木隼人っていうんだが。ああ、もちろん怪しい者じゃない」
「…………鈴木? もう、ほんとさっきからなんなの?」
「何って……俺の名前だが……?」
「ちょっと。ねぇ……からかってる? それともクイズかなんかなの? ……わかったよ。ここは崎川家。お兄ちゃんの部屋。これでいい?」
「は? ……崎川?」
「うん、そう」
少し不機嫌な調子で少女は頷いた。
俺の知り合いに崎川という名前の奴はいない。
もしや酔っ払って知らない家に入り込んだのかもしれないと不安になった――だが、その可能性は低いだろう。
なぜならこの少女は俺のことを全く怪しんでいない。
つまり彼女は俺を知っている。
「君はさっき俺を兄と呼んだな?」
「うん。当たり前じゃない」
「つまり俺を知っているんだな?」
「もう。いい加減ふざけるのはやめて。ダメだよ。お兄ちゃんはそういう事しない人でしょ」
「俺は真剣に聞いている。すまないが俺は君を知らない。なぜ君は俺を知っている? どこかで会ったことがあったか?」
俺が冗談を言っているわけでも、ふざけているわけではないとやっと伝わり始めたのだろう。
続けざまに質問を投げる俺に、少女は真剣な目を向けてきた。
心配と不審を交えたような顔つきに変わった。
「ねぇ……もしかして本気で言ってるの?」
「だからさっきからそう言っているだろ。俺は君の兄でもなければ、ここがどこなのかもわかっていない」
「私のこと、本当にわからないの? 妹の理恵だよ」
「俺に妹はいない。なぜ俺を兄と呼ぶのかわからない」
理恵と名乗った少女は不思議そうな目で俺を見る。
しかし何かに気づいたらしく、すぐにしっかりとした表情に変わった。
「ちょっとこっち来て」
少女は俺の手を取った。
薄暗い部屋の中、彼女に連れられ数歩歩く。
「見て。わかる?」
といって、俺の体に手を当て回す。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」
眼の前には鏡があった。
そこに映る姿に驚愕した。
間違いようもなく知らないヤツが鏡に映っていた。
痩せ型でさらさらの黒髪。
目にかかりそうな位に前髪は長い。
ぱっと見、高校生くらいの男子だった。
――誰だ。
手を上げてみた。鏡の人物も手を上げた。
顔を振ってみた。鏡の中の人物も顔を振った。
ほっぺをつねってみたり、酔った勢いでおもちゃのマスクを買ったんじゃないかと顎の皮をひっぱったりもした。
一通り思いつくことはやってみたが、わかったことは鏡に映っているのは俺ではない俺ということだけだった。
念のため自分で自分の頬をスパーンと張ったが、ビリビリする痛みが夢ではないことを教えてくれた。
「……お兄ちゃん、大丈夫……?」
とても困惑した目を向けている。
俺を兄と呼ぶこの少女からしたら、きっと酷くおかしな挙動をしているからだろう。
認めないわけにはいかなかった――。
俺は他人になっている。
その事実に鏡の前でただ立ち尽くしていた。
あまりに非現実的な状況に追い込まれると、混乱を通り越して思考は停止するものらしい。
何も考えられなくなったことでむしろ冷静になっていた。
眼の前の鏡に映る事実をただ口にした。
「俺は君の兄……? ここは俺の部屋……?」
「うん。私のお兄ちゃん。崎川恭介だよ」
少女は優しく俺の背に触れ、さすってくれた。
彼女の手の温度が伝わってきて、少しだけ安心ができた。
「……崎川恭介。俺は崎川恭介」
「……うん」
優しい目を向ける少女。
その目は大丈夫だよ、と俺に語りかけていた。
俺は君の兄じゃない。32歳のおっさん。鈴木隼人だ。
――なんてことはとても言える状況ではなかった。
もっとも、説明したところで信じてくれはしないだろう。
実際、この子は俺が兄になっていることに気づいていないのだ。
ナイフで刺されて道端に転がっていたところまでは覚えているが、その後から記憶が途切れている。
どうしてこんな事になったのか、全くわからない。
疑問はいくらでも湧いてくるが答えはどこにもなかった。
わかっていることは、こうなってしまったという事実だけだった。
「ははは……あはは……! 嘘だろ。ははは……!」
ただ姿見に映る自分を諦めに近い気持ちで見ていたら、変な笑いがこみ上げてきた。
「お兄ちゃん……!?」
笑う俺を心配そうに見つめる少女。
しかし何故だろう。
初めて会ったはずなのにこの子には心配を掛けたくないって凄く思えていた。
「あ、ああ……実はさっき頭打ってから記憶が曖昧なんだ……」
思いつきでそう答えていた。
「記憶……喪失……?」
「……そう。そうみたいだな。でもやっと自分が誰なのかここがどこなのか思い出してきたよ。ありがとうな。ははは……」
すまない。嘘をついて。
すまない。ずるい大人で。
すまない。中身は兄じゃなくて。
すまない。32歳のおっさんで。
心のなかで謝罪を繰り返した。
だが女の子は俺のいままでの行動を「だからおかしかったんだ……」と理解してくれた。
おかげで先ほどまでとは打って変わり、俺の質問に真面目に答えてくれるようになった。
そして色々と情報を聞き出せた。
俺は崎川恭介、17歳。高校2年生。
女の子は妹の崎川理恵、16歳。高校1年生。
ここは神奈川県。父母俺妹の4人暮らし。
ちなみに崎川恭介と理恵は同じ高校に通っている。
元々俺は東京住まいだ。電車に乗れば簡単に自宅には行けるだろう。
明日の朝、始発ですぐに向かおうと思ったが、妹を名乗る少女――理恵が心配しすぎて、
「わかった。私が24時間しっかりサポートするから! 安心して!」
べったりと張り付かれてしまった。
なんなら、
「記憶がないなんて心配だね! なにかあったらいけないから今夜は一緒に寝ようよ!」
とんでもない提案をしてきたのだが……?
最近の若い兄妹ってのはこんなにも仲が良いものなのか?
女子高生と合法的にベッド・インできるという異様に興奮する状況に少しだけ心が揺れたが、まっとうな大人としてはしっかりと距離をとるべきだと思い直す。
丁寧にお断りしておいた。
とにかく当面の間は妹のマークが厳しそうだ。
自宅に行くチャンスは追々見つけなければならないだろう。
もっとも、自宅の鍵すら持っていないという最大の問題にその後すぐに気づいたのだが。
そしてたいして眠ることなど出来るはずもなく翌朝になった。
俺は崎川恭介として、当たり前のように高校に行くことになったわけだ――。
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