不自由な二人
「お兄さん、カノジョとか作らないの?」
「毎日毎日、お前も飽きねぇなぁ。お前のこと、一生メンドー見るっつってんのに別の女と付き合ってる暇なんてねーだろ」
「……ごめんなさい」
少女は、目を伏せて男が差し出したスプーンを銜えた。ちょうどよく冷まされたトマト味のスープ、貝とイカの出汁が効いたブイヤベースだ。
「まぁ、お前のことを引き取ってくれる酔狂な男が現れたらカノジョ作るよ」
「うん」
「なんだよ、疑ってんのか? 兄ちゃん、これでもケッコーモテるんだぞ。引く手あまたってヤツだ」
「……やだ」
言うと、少女は肘までしかない右手を彼の元へ手繰り寄せて食事も放ったらかし抱きしめて欲しがった。
何事も自分の思い通りにできない。彼への好意すら体で伝えられず、しかし言葉にするのはおこがましい。そんな矛盾した自分が、彼女は嫌いで仕方なかった。
「おいおい」
けれど、どうしても彼への気持ちは抑えられない。車椅子を固定しているにも関わらず、右足だけを使って何とか近づこうとする。
ようやくたどり着いて、抱擁。
彼は、彼女をため息混じりに抱き締めて優しく頭を撫でた。
「血が繋がってるワケでもないのに、おかしいよ」
「仕方ねーだろ、俺の唯一のダチの妹なんだから」
本当に、ずっと昔から好きだった。
部屋に引きこもりきりだった自分を、外へと解き放ってくれた。家族を失って、一番に駆けつけてくれたのが彼だった。なんの迷いもなく、自分を妹として迎えてくれた。
そんなことをすれは、淡い尊敬の気持ちがすべて恋に変わってしまうって。女なら絶対に分かるハズなのに。一度でも妹として見られれば、もう絶対に叶わないって理解してしまうのに。
この人は……。
「寂しいから、今日は一緒に寝てよ」
「バカいえ、そもそも30近い男が高校生と同じベッドで寝られるワケないだろ。ちょっとはその弱いおつむで考えたまえよ」
「寂しいんだもん、お兄さんがどこかに行ってしまうような気がして」
彼は、きっともう、何度説明したって彼女が人を信じることなんでないんだと分かっていた。
もしも、自分が逆の立場だったとすれば、相手はこんなお荷物は置いてどこぞに消えてしまう不安に苛まれる想像が容易についてしまうからだ。
だから、言葉でなく行動。
彼は、親友の忘れ形見である妹のために生きる。彼女が、幸せになるためだけに命以外のすべてを犠牲にしてでも生きる。
それが、己の使命であると強く信じているからだ。
「この前、義手でバイオリンを引く女の子の動画を見たぜ。あれがあれば、お前も好きな趣味が見つけられるかもな」
「でも、高いんじゃないの?」
「まぁ、3年くらいガチって金貯めれば行ける額だよ。任せろ任せろ」
どうしようもなく、好きだった。
この、彼の底無しの明るさは生きる勇気を与えてくれる。けれど、手足があった頃には手に入らなかったのに、あの頃に助けてもらえればもっと違う性格になれたかもしれないのに。
愛とは、どうしてここまで不幸にならなければ得られないモノなのだろうか。
……なんて。
体の不自由さが、心の自由を与えている私は、もしかすると卑怯なのかもしれない。彼という幸せに、三肢は足りうる代価だったのかも分からない。
考えるたび、暗くなる。
その疑いが、彼女の闇の根源なのだ。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
男は、彼女をベッドに寝かせると電気を消した。暗い中、彼女のとび色の瞳が光る。「行かないで」という叫びが聞こえてくるようだが、一度だけ笑うと静かにリビングへと戻った。
もし、俺が彼女の首を締めたらどうなるだろう。
もし、遠くの場所へ放置したらどうなるだろう。
もし、本当に恋人を作って紹介したらどうなるだろう。
ただ、そんなサディスティックな欲望が湧き上がるたびに思うこともある。
きっと、自分の言うことを死んでも守ろうとする犬のような女になるだろう。やがて、人格を縛って命そのものが俺のモノになるのだろう。
足りていない姿で、人並みの努力すら困難で。
それでも、必死に足掻く姿を見て。何者でもない俺の心が、満月の日の海のようにハッキリと満たされたとき。
果たして、俺は人のままでいられるのだろうか。
「……ふふ」
思い出したのは、かつての自分ではなく両親だ。
心の闇は、きっと伝染して行くのだと思う。彼は、自分が受けた仕打ちを更に弱い者へ向けてしまう日がくることを、心の底から恐れている。
いいや、感情の実体はもっと醜い。
自分がされたのだから、それを他の人間にやったっていい。こんなに酷い目にあったのだから、他の人間だって同じ目にあうべきだ。自分の不幸にまで、周囲だって肩を並べるべきなのだ。
服を脱いで、義手を外し、鏡の前に裸を晒す。
夥しい数の痣と切り跡。しかし、最もドス黒く傷付けられたのは、体なんかではなく心であると彼は理解している。
誰が、負の連鎖を止められるのだろうか。俺は、このまま彼女を自分から守り切る事ができるのだろうか。
俺は……。
「……なぁ」
妹の部屋を開ける。彼女は、まだ起きていた。
「なに?」
「ベッドは無理だけど、床でなら寝てやるよ。寂しくないだろ?」
「……うん、ありがとう。お兄さん」
未来のことはわからないけど、今の彼女を守りたいという気持ちに嘘はない。友が自分を救ってくれたように、自分も彼の大切なモノを守りたい。
それだけは、自分の中で蟲のように蠢く気色悪い感情と欲望よりも、確かに大切だと確信できた。
今日もまた、親友への想いが欲望に勝った。
だから、彼は彼女の頭を撫でた。優しく、優しく。両親から貰えなかった愛情をひたすらに想像して、間違いのないように今日を終わらせたのだった。
「大好きだよ、お兄さん」
「そうかい」
……願わくば。
その『今日』が、最期の日まで続くように、と。
彼は、強く思った。
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