少女漫画
近くの本屋さんで、私が大好きな少女漫画の作者である木ノ実先生がサイン会を開いてくれることとなった。
これまで、一度もメディアに露出しない人だったから嬉しい。
木ノ実先生は、昨今流行りのエッチで欲求不満を解消するような話ではなく、王道のロマンスを書いてくれる先生だからきっと若い頃に大恋愛を経験した美魔女さんに違いない。
……もしくは、若いイケメン君だったりして。
なんて考えてしまう私は、果たして健全なのだろうか。いやいや、今日は木ノ実先生の世界観を遵守して、清く美しい私でいてみせるのだ。
「こんにちは、木ノ実です」
「……はい?」
それは、まるで海外映画の世界から出てきたかのようにイカついおじさんであった。週に何回くらい鍛えてるんだろう。意味が分からないくらい筋肉モリモリで、ヒゲにパンパンのスーツを着ている。
会場には、私の他に誰もいなかった。
「本当に?」
「本当です」
木ノ実先生は、実はゴリラだった。
今の私を支配しているのは、何故このゴリラの脳みそからあれほどまでに素晴らしい恋愛模様が生まれるのかという疑問だけだ。
「ビックリしたでしょう」
「い、いえ。いや、はい」
「連載を貰いたての頃は、よくファンの方の前に顔を出していたんですけどね。そのうち『イカつい、私の木ノ実先生を返して』という苦情が殺到したので控えてたんです」
不思議なことに、妙に落ち着いた渋い声が私の知らない世界を開いていくような気がした。嫌悪感がまるでない。
「なら、なぜ木ノ実先生は今になってサイン会をしようと思ったんですか?」
「美しい世界を描いてる人も、血反吐を吐いて泥を啜って生きているただの人であるという事実を新しい時代のクリエイターに知ってもらいたかったからです」
「新しいクリエイターですか?」
言うと、木ノ実先生は私が持っていた新刊とサイン色紙を渡すように手を差し伸べた。
「はい。となりのトトロを作ったスタジオジブリだって、おっさんだらけで労基なんて言葉も忘れられたような酷い場所だったでしょう? そういう現実を知らないまま『プロになりたい』とお手紙を下さる方が多いので、一つのアンチテーゼとして出てきたんです」
「まるで、もう辞めようとしているみたいに聞こえますが」
「はい。今連載している『いちごのおと』が完結したら、僕は漫画家を引退します」
「えぇ!?」
な、なんてことだ。そんなの信じられない。
「別にゴリラだっていいじゃないですか! 私はゴリラが先生でも気にしませんよ!」
「い、いえ。僕がゴリラなのはただの趣味なのですが。元々、少年誌で連載を勝ち取れなくて、仕方なく書き始めた少女漫画でしたから」
「そんな……っ」
「思えば15年、遠くまで来たモノです」
……その黄昏れた視線は、先生が描いてきたどんな男よりもアンニュイでエロく見えた。
「せ、先生のように大恋愛を描く秘訣ってあるんですか?」
「僕の場合は、僕が経験してこなかったことを書くようにしていました。ある意味、恋愛に対するリアリティの無さがドラマになっていたんだと思いますよ。だって、僕の描くキャラクターはみんな優雅で爽やかで、漫画なんて描かないでしょう?」
信じられないくらい、このゴリラはリアリストだった。
そうか。
そんなゴリラの理想だから、私も強く憧れたのか。
「もう、漫画は描かないんですか?」
「そうですね。実家の花屋を継ぎます、父と母も限界ですから」
「お花屋さん? ご実家はお花屋さんなんですか?」
「えぇ。内緒ですが、キャラクターの造形なんかは実家に来てくれたお客様を参考にしていたんですよ。みなさん、華やかでお綺麗でしたから」
な、なるほどぉ〜。
……。
「先生のお花屋さん、人手は足りてるんですか?」
「いえ、そんなことはありませんが。なぜです?」
「実は、私は小説を書いているんです。なので、先生と同じ方法で学べるように先生のお花屋さんで働かせてもらえませんか?」
いつの間にか、私はサイン色紙と新刊を差し出したゴリラ先生の手を握っていた。そのゴリラは、よく見ると結構シブくてカッコよかった。
「随分急ですね、今の会社もあるでしょう」
「引きこもりです!」
言うと、イケゴリラはガクッと首を落として優しく笑った。
今、完全に新しい扉が開いたのを感じた。
「とにかく、その話はいずれ。次の方がいらっしゃいますから」
気が付くと、昔からのファンなのだろう。後ろには、私よりも随分と年上の女性たちが列を成していた。この人たちは、先生がゴリラだと知っても尚、ずっと追いかけていたファンなのだろう。
「す、すいません」
「お話、上手に書けるといいですね」
そして、私はフワフワとした気持ちで家に帰った。
冷静に考えれば、とんでもないことを言っていた気がするが。しかし、先生の過去のブログに『アプローチをかけられて怖くなったからゴリラになった』という記事を見つけて落ち着くことができたのだった。
「……それにしたって、王子様をゴリラ呼びはないだろ。そもそも、この子は君じゃなくてヒロインだ」
「いいの、ゴリラ好きの女の子向けのラブコメなんだから」
だって、漫画を描かなくなった先生をゴリラと呼べるのも今の私だけだ。
そんな優越感に浸りながら、私は書き終えた私小説に匿名性という仮面を被せて原稿を出版社へ送った。
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