エピローグ

第53話 五十嵐凪音「私、本気ですから」

 日を跨いで金曜日。


 今の所はあの夜の出来事は世間では騒ぎにはなっていない。テレビや新聞でも報じられていない。

 俺はジョーとかいう男を殴ってしまったので警察に通報され、刑事がやって来るんじゃとビクビクしている。しかしその気配はなかった。


 もしかするとジョーは今回のことを伏せているのではなかろうか?

 なんせ奴のやったことは強姦未遂。俺も悪いが奴も大概だ。警察に通報すれば経緯を聞かれ、奴も罰を受けることだろう。脛に傷をつくったもの同士、今回は痛み分けというのが俺の推理だ。


 少々楽観的であるが、警察がその気になれば特定は容易だ。任意同行くらい求めに来るだろうが、それがない以上は当たってるだろう。実際、この件で俺の元に刑事が来ることはなかった。


 さて、と。

 朝のホームルームを目前にした慌ただしい職員室に五十嵐は顔を見せた。


 殊勝なことに若干の申し訳なさを浮かべているが、それは数々の非行の罰を受けたせいではない。

 飲酒、夜間外出、未成年に不適切な店舗への立ち入りなど、停学は免れない非行をいくつも重ねた五十嵐だが、それらを知る教員は俺しかいない。なので握りつぶした。


 ではなぜ五十嵐はわざわざ職員室に出向いたかというと……


「能登先生、進路調査票を提出しにきました。遅れてしまい申し訳ありません」


「はい、預かります。次からは気をつけるように」


 慇懃にぺこりと頭を下げる五十嵐に注意をしつつ、用紙を受け取った。


「ふーむ。確認だが、これで良いのか?」


「むぅ……どういう意味ですか? 私は決めたんですよ」


「まぁ、それは承知しているが……」


 その雰囲気は一介の教師と生徒でしかない。

 そのためこんな会話をしてもただの進路指導と思って誰も怪しまない。まして俺達がラブホテルで一泊して、将来の約束を交わしたなどとは思わないだろう。


「五十嵐さん、進路決まったんですか?」


 偶然通りかかった美墨先生が用紙を覗き込んでくる。艶々の黒い横髪が柳の枝のように流れ落ち、香木と思しき趣深い香りを漂わせる。


「はい、ようやく。私、そこに決めましたので!」


「北斉大学理学部数学科……。あ、能登先生の古巣ですね。第二志望も理学部で社会数理学科。理系に行きたいんですね」


 ふむふむと感心そうに美墨先生は頷く。その横顔には「意外だ」と書かれている。五十嵐は文系っぽいのでそちらを選ぶと思っていたのだろう。が、美墨先生のことだ、生徒の決定を茶化したりはしない。


 一方の俺は複雑な気分だ。

 あの夜、学部はどこでも良いと言った。だからどこに狙いを定めるかはこの子の判断を尊重するつもりだった。

 が、俺はてっきり外国語学部とか文学部のような女子人気が高かったり、国際関係学のような話題になりやすい学部かと思っていた。

 それがまさか理学部……しかも数学科とは……。


「ふふ、能登先生の薬が余程効いたみたいですね?」


「薬?」


 キョトンと小首を傾げる五十嵐。その脇で俺はギクリと肩を震わせた。

 そういえば美墨先生に相談して「結婚して幸せになるためにできること」というような話を五十嵐にしようと思っていたんだった。


 一応、結婚して幸せになるには学歴もいる、というようなことを言ってしまったが、それと『薬』の意味は繋がらないだろう。この場はどうするかな……。ええい、誤魔化しちまえ!


「それはともかく、この目標だと結構頑張らないといけないな。北斉大学は国立だから共通試験がある。苦手科目を作らないよう、今から勉強しないと」


 五十嵐の成績は真ん中からちゅう辺りだ。数学と英語は良い方が他は低迷している。特に社会科は今からテコ入れが必要だろう。二年生の一学期なので猶予は十分にあるが……


「これは根気がいるぞ……」


 俺は五十嵐の調査票を穴が空くほど見つめて独り言を呟いた。最大の問題はモチベーションを保てるかどうか。つまりは克己心である。

 ふわふわしたこの子が受験勉強中の誘惑に負けず完走できるか否か……。


「能登先生。私、本気ですから。絶対合格して、大学もちゃんと卒業します」


 五十嵐が宣言する。生徒にとって居心地の悪い職員室では珍しく強気な発言に、周りの先生方が何事かと視線を向けてくる。


「なのでご指導ご鞭撻、よろしくお願いしますね」


 最後は折目正しくお辞儀をし、五十嵐は踵を返して俺達の前を辞した。


「良かったですね。五十嵐さん、当座の目標ができて。それがきっとあの子の本当の夢に繋がる日が来ますよ」


 美墨先生は我が事のように喜んでいる。それとは裏腹に俺の気持ちはどこか冴えない。


「どうでしょうね。そのやる気が長続きすれば良いのですが……」


「おや、能登先生は諦めちゃうと思っているのですか?」


「人は誘惑に負けたり、心変わりする生き物です。女心は秋の空……ではありませんが」


 あの子を軽んじているつもりはない。だが硬い信念があると全幅の信頼を置くには至らなかった。


 人の心は移ろったり、誘惑に負けて低きに流れる。あるいは成長してより高みを目指して羽ばたくこともできる。

 高校卒業までの残り二年間と大学在学中の四年間。彼女が変化するには十分ゆとりのある期間だ。

 受験勉強の辛さに負けて俺への恋心とやらを放棄することもあり得る。首尾よく志望校に合格しても、そこで熱烈な夢を見つけてくれるかもしれない。あるいは俺よりも相応しい運命の男が現れ、そいつと結ばれる可能性も皆無ではない。


 楽観的な未来ばかりを予想するほど、俺は若くはない。


 視界の端にお辞儀をして職員室を出る五十嵐を捉えた。一瞬合ったその瞳は先ほどとは打って変わって不機嫌そうに俺を睨めた。


 え、なんでそんな顔すんの? まさか俺のぼやきが聞こえた? どんな地獄耳だよ。


「どうかしましたか?」


「いえ……何も」


「そうですか。それにしても、五十嵐さんの指導には奥様の支えがあってこそでしたね。影に日向にご主人を支える良妻……。近代文学のような素敵な響きです」


 さすがは国語教師だ。そういう感性で感心するとは。いや、感心されてどうする。

 美墨先生にはお世話になりっぱなしなのにずっと嘘をついている。既婚者を偽り続けているのもそうだが、この人の知らないところで俺と五十嵐が不適切な関係になっていることも踏まえて気が咎める。


 いずれは清算する日が来るだろう。……その時俺は五体満足でいられるだろうか。


 ホームルーム開始五分前の予鈴が鳴った。それを合図に担任の受け持ちのある先生方が立ち、ぞろぞろと職員室から出ていく。俺も行かないとな。


 配布物のプリントの束を取ろうとしたその時だ。スマホにLINEのメッセージ受信の通知が。送り主は……五十嵐だ。


 まさか俺の不信感丸出しなぼやきが聞こえていたのか?


 ありえないことだが心配の種は潰しておきたい。俺は周囲に人がいないのを確認し、トークルームを開いた。


『(五十嵐)私が大学卒業するまで他の女に恋しちゃダメですからね?』


 続いて写真が送られる。


「な……!?」


 目を疑った。

 それはホテルで眠りこける俺と五十嵐の添い寝の自撮り画像。お揃いのバスローブに包まり、ウィンクと舌を出したイタズラっぽい笑顔は明らかにであった。


 バクバクと心拍が上がっていく。まさか寝ている間にとんでもない弱みを握られてしまうとは。「大学を卒業したら結婚を考える」という約束をしたからには他の女とくっつくなと釘を刺しているのだ。


 暗い部屋で泣きべそかいてたくせに、一転して生殺与奪の権利を握るとは……。

 五十嵐凪音、おそろしい子……!


 もちろんそれで俺が五十嵐に嫌悪感など抱くはずはなかった。むしろあの子になぜか期待してしまっていた。


 この二週間であの子が色んな意味で問題のある生徒だと知ることになった。


 今までのあの子は凪の海で漂流する小舟。

 これからのあの子は風と波に乗って前に進んでいく。

 その航海の途中で嵐に見舞われることもあるだろう。舵取りを間違えて転覆することもありえる。

 俺ができることはそうならないようできる限りの知恵と知識を与えることだ。


 その航海の果てに行き着く先は何処か。


 多くの選択肢のある彼女がどこに行き着こうと、俺は決断を尊重し、祝福するつもりだ。


 その一方、自分のもとへ辿り着いてほしいと利己的な期待も抱くのは俺がダメ教師にされてしまったせいだろうか?


(了)

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