第52話 女子校教師「結婚への宿題は――」

 数十分後――。


「ラブホテルのご飯って美味しいですね」


 二人してバスローブに身を包んだ状態でソファーに座り、遅い夕食を取る。


 スパゲッティナポリタンをフォークで上品に巻き取りながら五十嵐はほっこりした微笑み顔で感想を述べた。自宅の食卓で上手にできた料理に舌鼓を打つような、何気ない感想。


「ん。美味いな」


 俺もカレーライスを口に運んで同意する。

 このホテルはルームサービスに力を入れているらしくなかなかに美味だ。レトルト食品が来るとたかを括っていたのにレストランクオリティの料理が届いたため良い意味で裏切られた。


 あの後、五十嵐は俺の胸で思い切り泣いた。俺にたくさん迷惑をかけ、そのせいで嫌われたり見放されるとの恐怖心を赤裸々に明かした。


 全く、みくびられたものだ。

 生徒の世話が焼けるのは当たり前。生徒のためを思って指導してもスカン食らったり、生意気に反論されるのはいつものこと。それでヘソを曲げるようじゃ教師の仕事は続かない。俺が五十嵐を見捨てるなどありえないことだ。

 手のかかる子ほど可愛いと昔から言うしな。


 その後、五十嵐は泣き止んでどうにか落ち着いたので遅めの夕食を頂くことにした。二人とも夕食がまだだったのでこうしてルームサービスを注文したのだった。


「えへへ……幸せ」


「好きなのか、ナポリタン?」


「もう、そういう意味じゃないですよ!」


 ボケっと食べながら何気なく尋ね、怒られる。しまった……ご飯が美味しくてムードを壊すようなことを言ってしまった。


 恋愛のズブの初心者みたいな女心の読めなさには苦笑を禁じえない。


 五十嵐が幸せと言ってくれたのは美味いものを食ってるからではない。

 もっと別な理由だ。


 それくらい察しろと自らに呆れてしまった。


 クスッと五十嵐が小さく吹き出す。コロコロ鈴を転がすようなささやかな笑い声はすっかりいつもの可愛い教え子であった。


 *


 外の天気は依然として大荒れだ。天気予報では朝方まで強い風が吹き、雨は降ったり止んだりを繰り返すらしい。夜分な上に傘もなく、服は半乾きなので俺達は逗留を余儀なくされた。


「先生、カラオケ! カラオケがありますよ! 歌いましょう!」


 食後、眠気なんぞなんのそのな五十嵐は備え付けのカラオケ機器を見つけて目を輝かせた。マイクを手に取り、分厚い曲のカタログ(今時電モクじゃないとは……)をペラペラめくり、お気に入りの曲を探す。


 選んだのは日向坂46の『アザトカワイイ』。

 張りのある高い歌声はうっとり聴き入るほど上手い。だがそれよりもバスローブ姿でお尻をフリフリする姿が扇情的過ぎて目が釘付けに……っていかんいかん!

 大事な生徒なのに、油断するとこれかよ!

 理性、理性……。


 ちなみに五十嵐の下着も雨に濡れてしまったのでハンガーにかけて干されている。つまりは……。


「先生も歌ってくださいよ!」


「お、おう! それじゃあ一曲」


 曲目をペラペラめくり、バンプのSailing Dayを探し、入力した。

 最後のカラオケは昨年の秋、最愛だった妻とのデートだった。思い出すと辛いけど、それを上回るくらい今が楽しい。


 歌い終えると休憩がてらにホテルチャンネルでバイきんぐのコントを見て二人で大笑いした。


 *


「そろそろ寝ようか。明日の朝は早いぞ」


 ふわっと欠伸が出る。午前零時をとっくに過ぎ、眠くなる頃合いだ。

 夜中まで遊び呆けてるが今日は水曜日で、明日も当然学校がある。夜が明ければホテルを出て家に帰り、身支度済ませて登校しないと。


「俺はソファで寝るから五十嵐はベッド使いな」


 枕を脇に抱え、紳士的に五十嵐にベッドを勧める。

 しかしクイッとバスローブの襟を摘んで引っ張られて引き留められた。


「一緒に……寝てくれませんか?」


 捨てられる前の子犬のような視線。だが、その要望には応えられない。さっきも断ったが、愛する教え子と性交渉など許されない。


「……教え子とは。そんなことしなくても黙って帰ったりしない。だから心配せず――」


「そういう意味じゃないです!」


 五十嵐は赤面して否定した。


 そういう意味じゃない? じゃあどういう意味?


「セックスしたいんじゃなくて、朝までそばにいてほしいんです。一人で寝るのが……怖いので……」


 ローブを摘む指が微かに震えている。


 なるほど、五十嵐にとって今日ほど恐ろしい日はなかったはず。さっきは陽気に歌っていたが、頭の片隅には今日受けたショックが焼きついているのだ。

 恐怖に押し潰されそうで眠れないから添い寝してほしいということか。


 それくらいならと譲歩したいものの、しかし性交渉しなくても同衾するのはさすがに……。


「分かった。一緒に寝よう」

 

「本当!? 嬉しい……」


 はにかんで喜ぶ五十嵐。

 うぅむ……情に絆されつい頷いてしまった。

 だってしょうがないじゃないかぁ〜。可愛い女の子が……じゃなかった、愛する教え子が怖くて眠れないと言ってるんだもん。一人で寝ろ、と突き放すなんて先生失格だ。うむ、悪いことしてない!


「おやすみなさい、先生」


「あぁ、おやすみ、五十嵐」


 ベッドに入り、ボードのパネルを操作して照明を消す。室内は再び暗闇に閉ざされた。


 視界が失われ、代わりに聴覚が研ぎ澄まされる。

 両者の隙間はわずか。眠る前の呼吸や身じろぎして布団と擦れる音がやけに耳に触る。

 だが何よりもうるさいのは俺の心臓の音だ。五十嵐と同じ布団に入っていると思うと激しく鼓動し、眠れる気がしない。


「先生、もう寝ちゃいましたか?」


 五十嵐の囁き声。唇が耳たぶに触れるくらい近くにいる錯覚に襲われて、心臓が一際派手に飛び跳ねる。


「起きてるよ。どうかした?」


 眠そうな声を装い、余裕ぶって答える。

 顔が見えなくてよかった。絶対変な顔になってるから。


「今日は助けてくれてありがとうございました。先生が駆けつけてくれなかったらどうなっていたことか……」


「お安いご用だ。気にすることない」


「気にしない、なんて無理です。今日のこと、絶対に忘れられません」


 掛け布団が引っ張られる感覚。隣では五十嵐が身体を起こして座る気配がした。


 暗くて表情が読み取れない。だが、その声からは想像できた。


「先生は私の恩人です。運命の人です。ずっと一緒にいてほしい人です。だからもう一度……ううん、何度でもお願いします。私と結婚してください。ずっとそばにいてください」


 柔らかさと剛さに富む真心のこもった声。


 そんな声で再び好意を打ち明けられ、胸がキュウっと締め付けられる。

 散々お説教をされていい加減わかってくれたと思っていた。だがクールダウンしてもまだそんなことを言うのか。


 断る俺も辛いんだぞ……。


「五十嵐。俺のことを白馬の王子様と思うんじゃない。助けてあげたのは君の先生だからだし、人として当然のことでもある。それを運命だと思い込んで、一生を左右する決断をしちゃいけない。そういうのはもっと大きくなって、時間をかけてゆっくり考えなさい。途中で悩んだら、いつでも相談に乗るからさ」


 そう、この子の好意は恋なんかじゃない。ただの勘違いだ。


 優しくしてくれる男。

 わがままを聞いてくれる男。

 ピンチを助けてくれる男。


 夢見がちで寂しがりな少女は、偶然現れたナイトに見惚れ、恋していると勘違いしているだけだ。


 今はそれでもいいだろう。恋に恋する少女。なんとも可愛らしい響きだ。

 だが少女はいずれ大人の女性になる。大人の階段を上っていき、素敵な男性と巡り合い、生涯を捧げる決断を下す日が来る。その過程で大いに悩み、傷つくことだろう。自分の出番はそこで話を聞いてあげて、助言してあげることだ。


「勘違いなんかじゃありませんよ、この気持ちは」


 その声は先ほどと変わらない、穏やかで、一方でどこか芯の強さを感じさせるずっしりした声だった。おおよそ少女とは思えない、厚みのある経験を積んで成長した女性の声と聞き間違えるくらいに。


「一緒にご飯を食べて『美味しいね』って言って、歌ったり笑ったりして、私すごく幸せだった。この幸せがずっと続いてほしいと思えるくらい。他の誰かじゃダメ。能登先生がいいの。能登先生にそばにいてほしいってはっきり言える。これって『好き』って気持ちでしょ?」


 驚いたな……。

 その言葉、俺が元妻にプロポーズした時の言葉のまんまじゃないか……。


 弱ったなぁ……。これは……突っぱねられない。


「大学」


「へ?」


「大学に行け。学を身につけて、一人前の大人になれ。今の時代、結婚して幸せになるにはそれくらいいるんだ。教師の妻が無学っていうのも決まりが悪いしな。大学を卒業したら……考えてやる」


 憮然とした一方的な返事。おおよそ、女性から好意を告白された返事にしては無愛想な態度と言葉。好きの気持ちが冷めてもおかしくない失礼な態度なのに五十嵐は嬉々として食いついた。


「本当? 本当に……?」


「あぁ。でも、どこでも良いってわけじゃないぞ? そうだな……北斉大学。先生の母校の国立の大学だ。学部は好きに決めていいからそこを卒業しなさい。話はそれからだ」


「本当!? 嘘じゃないですよね!?」


「あぁ、ちゃんと卒業したらな」


「約束ですからね!? 私、絶対合格して、卒業する! それで先生のお嫁さんにしてもらいますからね!」


 ガバッと布団を払いのけ、仰向けの俺に飛びついてきた。人の温もりに、少女の柔らかさに、五十嵐の重みに包まれ、俺は思う。


 親からも愛されていないと嘆くこの少女を手放せば、舵取りのいない小舟のごとく世の中を漂流してしまうだろう。

 ならばせめて、この子が自らの意思で舵を取れるまではそばにいてやろう。教師としては出過ぎているが、きっと必要なことだから。


†――――――――――――――――――――†

 次回、エピローグです。


 紅ワイン

†――――――――――――――――――――†

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