第49話 女子校生「ごめんなさい、ごめんなさい」
五十嵐に引っ張られた先は、俺達の直ぐ真横にあった噴水の裏手だ。噴水のそばの壁は一箇所だけ切り取られて出入り可能になっていて、そこから建物の中に続いている。
中は青い間接照明に足元を照らされた、長く暗い廊下になっていてさながら洞窟のよう。
俺は呆気に取られ、あるいは逃げたいという臆病心に負けてか五十嵐に引っ張られて小走りになった。
やがて自動ドアに行きつき、開けた空間に行き着く。エントランスか?
静謐とした空間にやはり薄暗い間接照明。何もない寂しい空間なのだが、一点、壁にかけられた客室のカタログパネルがやけに目を引く。
「ここまで来れば平気ですよね……」
肩で息をする五十嵐が安堵の声を漏らす。
「多分……。でも逃げ込んだ先がラブホテルって……」
「ダメですか? 生徒と先生だからですか?」
「当たり前だろ……」
「緊急事態につき認めてください」
「ったく……」
それを言われては立場がない。助けたつもりが助けられたのは俺の方だ。俺は五十嵐のおかげで命拾いしたらしい。
ふー、っと肺の中の熱を帯びた空気を吐き出して安堵した。
だが安堵したのも束の間。
「この中かな?」「分かんねぇ」「ぶっ殺す!」
廊下の向こうから追っ手の声が反響して聞こえてきた。
「嘘、追ってきてる!?」
五十嵐が顔を青くする。
青ざめたのは俺も同じだ。せっかく撒いたと思ったのにまだ追ってくるなんて。しかも建物に逃げ込んだせいで袋の鼠だ。出口を探して逃げないと。
だが出口らしきものは見当たらない。そういえば、ラブホテルは入退場の客が鉢合わせないよう出入口が分けられているんだった。だからいくら探しても見つからない。
「先生、どうしよう……」
「い、致し方ない!」
善悪とか、倫理とか、矜持とか、おおよそ理性的な考えをかなぐり捨て、助かりたい一心の俺は部屋のカタログパネルの適当な『STAY』ボタンを押し込んだ。
こうなったら部屋に逃げ込むしかない。さすがにそこまでは追ってこれないからな。
ポーン、とエレベーターの到着を知らせる電子音が。すぐさま五十嵐の手を引いて中に乗り込み、閉じるボタンを押し込んだ。分厚い金属扉が閉じ、外界とのつながりを遮断される。
ガコン、と一瞬揺れてエレベーターがゆっくり動き出す。まるで神に救われたかの如き安堵に包またのだが、危機を脱したと実感するにはもう少し時間を要した。
*
ホテルの客室に入ると、俺は真っ先にトイレに駆け込んだ。そして便器の縁を掴んでうずくまり、胃から込み上げたものを思い切り吐き出した。
喉につっかえていた緊張感が取れたことで胸の中に充満していた不安が堰を切ったように込み上げたのだ。もっとも夕食前なので出てきたのは溶けかかったランチのカスばかりだった。
たっぷり十分はトイレでうずくまり、ようやく呼吸を落ち着けた俺はよろよろと居室に出た。そこでは五十嵐が入室した時のまま、居室の入り口の真ん前に突っ立って俯いていた。
「へっくしゅん――!」
大きなくしゃみが口から飛び出す。にわか雨の中を走って身体はずぶ濡れ、エアコンの風がそこに吹きつけ、身体から熱を奪われる。釣られて五十嵐も小さなくしゃみをしているので俺と同じように冷えていることだろう。
俺はバスルームに入って湯船に湯を張った。
「お湯が溜まったら風呂に入りな。そのままだと風邪を引く」
「先生こそ、お先にどうぞ。私は後で結構です」
おずおずと遠慮がちな五十嵐。
「変な遠慮しなくていい。先に入れ」
突っ立ったままの五十嵐の頭にタオルを被せた。水気を少し取れば冷えも多少はマシになるだろう。
「というか五十嵐よお」
ピクッと小さな肩が跳ねる。思わず出してしまった低い声に驚いたのか。そんなことお構いなしに、俺は五十嵐の顔に鼻を近づけ、クンクンと臭いを嗅いだ。
「酒臭いぞ? 酒飲んだのか?」
「え?」
指摘されるや、五十嵐ははだけたままな服の襟の辺りを引っ張ってクンクンと嗅いだ。
いや、酒気は口から出るものだからそんなところ嗅いだって意味ないけど。
「飲んでない……です」
「嘘つけ。息からアルコールの匂いがするぞ」
「本当に飲んでないです! 飲んだのはレモネード……なはず」
「瓶に入ってたやつか?」
こっくん、と頷く。それ、絶対カクテルだぞ。気付かずに飲んでいたのか、この子は。
そんな無分別で危機感に欠けた教え子を見ていると胸の真ん中でぐつぐつと混ぜこぜになった感情が煮えたぎってきた。
その末に、我を忘れた俺は五十嵐の頬を引っ叩いていた。
パチン――
乾いた音が居室に響くことなく消えていく。肌に留まった蚊を叩き潰す程度の力なので五十嵐は少しよろめいた程度で済んだ。だが突然
そんな顔しても、ダメだ。
「一体どれだけ心配したことか……。自分がどれだけ危ないことをしたのか分かってるのか!」
熱湯を浴びせるように感情任せに怒鳴り散らす。生徒に手を挙げたのも、大声で叱りつけるのもこれが初めてだ。今時こんな力任せの指導なんて許されないし、俺自身唾棄すべき暴挙だと常々思っていた。
だがこの瞬間、俺は矜持とか理想とか、そういうキラキラした考えの全てを忘れ、ただ感情任せに怒っていた。
いや、駄々をこねる幼児のように感情を吐き出したと言った方が良い。
俺の情緒は完全に崩壊していた。
「学校をサボってクラブで遊んでましただ? あんな危ない場所に一人で行ってただで済むと思ったのか!? 子供のくせに酒なんか飲んで……。その結果、見ず知らずの男に襲われて……一生消えない傷を背負うところだったんだぞ!?」
レイプの被害者はその記憶にずっと苦しみ続ける。異性が怖くなったり、恋人や配偶者にいつ知られるか怯えたりとその後の人生への影響は必至だ。
そんな人生をこの子に歩んでほしくない。恐怖につきまとわれ、笑うこともままならない人生を、この子には……。
「もっと自分を大切にしなさい……!」
気づけば俺は滂沱のごとく涙を流していた。自分でも怒っているのか喜んでいるのか、訳がわからない。
確かなのは、五十嵐が暗い人生を送るところを想像して悲しくなったのと、間一髪で助けられたことが嬉しいということだ。
五十嵐も俯いてシクシクと泣き出した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
そしてか細い声でうわ言のようにごめんなさいと何度も繰り返したのだ。
「分かればいいよ。五十嵐が無事だったから、もうそれだけで十分だよ。怖い思いしたよな? 遅くなってごめんな」
今度こそ五十嵐は堰を切ったように泣き出した。ボロボロと涙を流し、口をいっぱいに開けて悲鳴のような泣き声を上げて。
喉が裂けるくらいに泣き叫ぶ五十嵐の姿が見るに耐えず、俺はそっと彼女を抱き寄せた。胸の中に誘い、頭を撫でて落ち着けようとする。だが落ち着くどころか激しさを一層増すばかりであった。
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