第40話 女子校生「家族にしてください……」
――妻にしてください。
そう求婚の言葉を述べるや、五十嵐は俺をソファーに押し倒し、四つん這いで覆い被さってきた。ミドルヘアの黒髪が柳の枝のように
「お願いします、先生。私を妻にしてください。私を……先生の家族にして……」
葉先から夜露が滑り落ちるようにしっとりとした言葉が俺に降ってくる。
俺はしばし沈黙し、その言葉を噛み締めた。
未熟な少女の心の声とは思えないくらいずっしりと重みがあり、俺の心に確かに響いた。だが、
「ダメだ、五十嵐。君とは結婚できない」
自分でも意外なほどにドライな口ぶり。まるで「部分点を寄越せ」とごねる生徒を一蹴するような、けんもほろろな口調で俺は五十嵐を拒んだ。
拒まれた五十嵐の目が皿のようにいっぱいに広げられる。それからギュウっと絞るように細められ、みるみるうちに顔に悲壮を浮かべた。俺の頬に火傷するくらい熱い涙が降り注ぐ。
「どうしてですか? 私じゃダメなんですか? 私が子供だから女として見られないんですか? 私に魅力がないから……奥さんに勝るものがないからですか!?」
「そんなことないよ。五十嵐、君はすごく魅力的だ。可愛くて、綺麗で、愛嬌があって、でも真面目なところもある。よくできた人だと俺は思う。俺の自慢の生徒だ」
嬉しくないはずがない。魅力がないはずがない。
贔屓目抜きにも五十嵐は魅力いっぱいの女の子だ。
美人でスタイルが良く、明るい性格の女の子。家事も完璧で、何より俺を好いてくれている。しかも一回りも若い。栗林ではないが、若い女性から好意を打ち明けられて喜ばない男はこの世はいない。この子は妻として生涯を捧げるに値するだろう。
「だったらどうして!?」
刃のような鋭い叫び。涙でくしゃくしゃになった五十嵐の悲痛な声は容赦なく俺の心を切り裂いた。
教え子を泣かせてしまった、という初めての事態には罪悪感を禁じ得ない。五十嵐の愛情に飢えた心の最もデリケートな部分を知った上でとなると一層自分が薄情なことをしていると思われた。
だが、情に
「君は、俺の大事な生徒だからだ」
五十嵐の呼吸が止まった。まるで真空の宇宙に放り出されたようにわずかな吐息の音も無くし、虚無の宇宙のような瞳で見下ろす。
だが他に答えはない。
「俺が君にしてやれるのは夢の叶え方を教えることだ。どこで何を学ぶべきか、誰と会うべきか、君に必要な知恵を与えることなんだ。夢を叶えてあげることはできないよ」
それが、五十嵐と家族になれない建前。
それが、俺なりの『教職の矜持』。
教育者は読んで字の如く『教え育む者』だ。
夢や目標のある生徒がそれを叶えるのに必要な知識や進路の助言を授け、必要な経験を積ませてやるのが俺達のあるべき姿なはず。
この子が家族の愛に飢えているのなら、パートナーとの絆を育むための助言をするのが俺の役目だ。
情に絆されて恋心を受け止めようなんて出過ぎた真似をしてはならない。
俺が五十嵐の良い先生で居続けるには、そうする他ないのだ。
俺は彼女の肩を押して起き上がらせた。俺も起き上がり、彼女と向き直る。だが失意に濡れた瞳を見るのは躊躇われ、視線を逸らしてしまった。
「進路調査票は新しいのを取りにきなさい。次の金曜日までは待つから……。お嫁さんの夢は素敵だけど、それは本当に愛する人にだけそっと耳打ちするべきだよ」
五十嵐はしくしくと泣きじゃくり、何も答えなかった。
*
家の前に停めていたレンタカーに乗り込んだ俺はハンドルに額を押し付け、唇を噛んだ。肉の裂ける痛みと血の味がするが、力を緩められない。
心の中では「妻にしてくれ」という五十嵐のお願いがいつまでも反響していた。
正直嬉しかった。いや、嬉しいなんてものじゃない。あの瞬間、甘美な響きに俺の心は一瞬で
自分を慕ってくれている女性が好意を打ち明け、生涯を共にしたいと申し出てきたのだ。自分の全てを肯定された気がして俺は悦に浸ってしまった。
だが同時に心の中には舞い上がる俺を引き留める存在があった。
それは今日まで積み重ねて磨いてきた教職の矜持。
あるいは俺が人生から切り離した愛情の名残。妻への未練、離婚のトラウマ、己への失望……。
「寂しさを埋めるだけの結婚なんて、うまくいくわけないだろ……」
それは五十嵐への説教か、身の程知らずな己への叱責か。
本気にしてはいけないと心の奥底から警鐘が鳴らされる。
あの子の好意は氷室と同じで寂しさを埋めるための幻想だ。やがて目が覚めれば幻に踊らされた自分を嫌悪するだろう。そして自分を弄んだ俺を憎むはず。最後には何もかも壊れてしまうのだ。
あの子はそんな結末に至るとはつゆほども考えてない。
「そういうところが子供なんだよ、五十嵐」
もちろん悪いのは五十嵐だけではない。一番悪いのは他ならぬ俺自身。
あの子の好意と寂しさに気づいてやれず、ずぶずぶと甘えるのを許してしまった。
五十嵐に慕われるのが心地良く、あの子と私的な関係を深める罪悪感に目を瞑ってしまった。
全ては俺の甘さゆえ。最初に連絡先を交換したことがひどく悔やまれた。
俺は彼女から遠ざかりたい一心で車を走らせた。
あの子とこれ以上仲良くなってはいけない。まして結婚して幸せにしようなどと考えてはいけない。
あの子はあの子自身で自らの幸せについて考え、それに向かっていくべきなのだ。
では彼女の幸せとはなんなのか。
幻想を振り解いていくべき場所とはどこなのか。
レンタカー屋への運転中、その問いがずっと頭につきまとう。
だが答えなど出るはずがない。しくじって転んだまま立ち上がれないバツイチの教師に、そんな難問の答えなど出せるはずがないではないか。
†――――――――――――――――――――†
ついに胸の内を明かした凪音ちゃん。しかし能登先生はその気持ちを受け止められませんでした。
愛に飢え、家族が欲しい凪音は、能登先生から愛されたいと望む。
一方、能登先生は教員としてのプライド、あるいは別の何かに止められそれを拒みました。
噛み合わない両者の思いはこのまま決裂するのか、あるいは再生への道を行くのか……。
そして能登先生の本当の気持ちは……。
次回から
最初は少し暗い展開になりますが、最後までお楽しみいただけるようになってます!
エピローグまでお付き合いください!
紅ワイン
†――――――――――――――――――――†
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