第39話 女子校生「好きなんです」

「新しいお茶です」


 コポコポと聞き心地の良い音を立てて空のカップに琥珀色の紅茶が注がれる。二杯目のアールグレイの香りがふわりと立ち上り、にわかに乱れた俺の心を幾分か沈めてくれた。


 だが五十嵐に言葉をかけてやるほどの落ち着きは取り戻せない。


 学校で友達に囲まれる五十嵐が、溌剌と仲間と踊る五十嵐が、俺に対し茶目っ気たっぷりに絡んでくる五十嵐が、それほどまでに愛情の不足した環境で育ったことが信じられなかった。


 担任の立場上、彼女の生い立ちについてはある程度は知っている。本人から世間話で聞かされたり、母親から直接聞いたためだ。


 俺が知っているのは、


 ――幼い頃はおばあさんと暮らしていたこと。

 ――ご両親は実業家で現在海外にいること。

 ――中学期までは母親と暮らしていたこと。

 ――高校生になって母親も海外に行ってしまったこと。


 その五十嵐夫人にお目にかかったのは高校一年生の今頃、家庭訪問した際だった。


 その時に当時渡米する準備を進めていると自慢げに打ち明けられて驚いたものだ。そのため一人娘を日本に置いて海外に行って大丈夫かと不安を煽り、遠回しに翻意させようとしたが暖簾のれんに腕押しだった。


 ――娘は高校生になるので心配ない。

 ――家に家政婦を呼ぶつもりなので生活していける。

 ――何かあったら学校に対応をお願いしたい。


 俺の実家は旅館で、両親のあくせくした働きぶりから経営の大変さは分かっている。だから五十嵐のお母さんの事業に注力したい気持ちは分からないでもなかった。

 しかしそれにしたっておおよそ母親とは思えない当事者意識の欠如に俺は開いた口が塞がらなかったのも事実だ。


「分かってくれましたか? 私がお嫁さんになりたい理由。私の家族は地球上のどこかにいるけど、私の隣にはいない。ずっとそうやって生きてきた。いえ、生かされてきました。この空虚な家にほったらかしにされて……」


 その言葉が全てを物語る。


 五十嵐家は正常な家庭じゃない。親同士が不仲なだけでなく、両親ともども娘に関心を寄せていない。


 そんな極限レベルの愛情の欠如ネグレクトゆえの寂しさがこの子の深層心理に根づいていいる。


 誰かを愛し、誰かに愛される渇望。


 その渇望を結婚することで潤そうというのだ。


 寂しさを解消するための結婚、か……。


「君の気持ちは、まぁ……分かるよ」


 俺自身、寂しい未来を送る恐怖ゆえに結婚相談所を頼った身だ。だから寂しさゆえの結婚願望を否定することはできない。例え結婚を決意するには若すぎる歳だとしてもだ。


「でも、だからってどうして俺なんだ?」


 そう、問題はここだ。百歩譲って結婚願望を尊重したとして、どうして相手が俺なんだ?


 普通結婚はするものだ。

 同じ屋根の下で暮らすというのは好きな人同士でも軋轢や衝突を生み、心理的負担がかかる。加えて子供を望むのなら当然性交渉しなければならない。

 そんなの、好きな相手でないと耐えられない。好きでもない男と結婚だなんて、それこそご両親と同じ轍を踏むことになるぞ?


 さて、その疑問の答えは――


「好きだからです。他に理由はありませんし、いりませんよね?」


 シンプル……。

 五十嵐は真っ直ぐな瞳で俺を見据えて好意を告白した。

 先日に続き、人生二度目の女性からの愛の告白。


 いや、一度目の氷室は当惑ゆえの暴走なのでノーカンか? だとすると人生初の告白はこの子ということになる。

 現役の教え子から求婚プロポーズされる日が来ようとは……。


 だがそれもどこまで本心なのか疑わしいものだ。


「好きって、それは先生に懐いてるってだけで、男としてって意味じゃないだろ?」


 つまりはLikeやRespectの類でありLoveではないのでは?


「そんなことありません。私、先生を男性として好きです。だから先生のお部屋のお掃除をしたり、お洗濯したり、ご飯を作ってあげたじゃないですか」


「え、あれって俺のこと好きだからやってたの!?」


「当たり前でしょう!? 好きでもない男性の部屋で家事なんかしませんよ!?」


 くわっ、とまなじりを釣り上げ、真実を明かした五十嵐。俺の鈍さに辟易とし、ようやく言いたいことを言えてスッキリしたようだが、今度は別の気持ちで焦ったそうにぷくーっと膨れっ面している。


 突然のネタバラシで呆然としてしまった。


 全然気づかなかった。家事してくれたのも、美味しいご飯作ってくれたのも、全部能登先生への恩返しなのだとばかり思っていた。だって当人が恩返しと言ってたから!

 ううむ、好きがどうのより今は嘘つかれてちょっとショック……。


「先生になら抱かれてもいいです。いいえ、抱いてください!」


「待て待て待て! 話が急すぎる!」


 まだ俺は混乱している。

 一旦お茶を飲んで落ち着こう……って熱い!!


「五十嵐、冷静になりなさい。俺は一回りも歳上なんだぞ? そんなやつ、普通は好きにならないだろ?」


「歳なんて関係ありません! 私は先生の良いところを好きになったんです」


 五十嵐はキッパリ断言した。彼女がこんな真剣な顔をして話しているのは見たことがない。

 俺はつい圧倒されタジタジになってしまう……。だがやはり真に受けてはいけないと理性がブレーキをかける。


「良いところって……俺の何を知ってるんだ。『愛宕女学院の能登先生』のことしか知らないだろ……」


 そう、所詮俺と五十嵐は先生と生徒の間柄に過ぎない。多少長い付き合いではあるが公的な身分の上っ面だけしか知らないはずだ。それなのに求婚するほどの好意が芽生えるなどはなはだ信じられない。


 だが五十嵐は首を横に振った。


「そんなことはありません、先生は学校の中でも外でも優しい人だって私は知ってます! 私がナンパに絡まれているところを身体を張って助けてくれましたし、汚れた服の代わりを買ってくれました」


「そんなの、優しさでもなんでも……」


 当然のことをしただけだ。ナンパを追っ払ったのは自分の生徒だからだし、服を買い与えたのはあの場を納める方便を実行に移しただけだ。

 俺に下心があったかもしれない、とは考えないのか?


「いいえ、優しい証拠です。先生はお部屋で私の着替えを見た時も、手を出しませんでしたよね? 正直、あの時は肝を冷やしました。いくら先生でも男性だから襲われるんじゃって……。でも私を傷つけるような真似はしませんでした……」


 俺の自己否定を五十嵐は頑なに受け入れず、優しさだと断言して譲らない。

 俺はそんな頑固な彼女に戸惑いつつも、内心では喜んでいた。


 自分の何気ない行動や内面をこの子は本心から肯定してくれる。

 異性に認められ、全幅の信頼を寄せられる経験に乏しいものだから嬉しいに決まっている。


「もう一つだけ聞いてください。今日、アイスを落として男の子が落ち込んでましたよね。それで先生はその子を元気づけようと代わりのアイスをすぐに買ってあげましたね。私、あの姿を見て本当に嬉しかったです……。この人は自分より弱い人にどこまでも優しくなれる、って思えて。きっといいお父さんになってくれる」


 五十嵐の視線が熱い。しっとり潤んだ瞳には慈愛がたっぷり湛えられている。さすがの俺もこの目に宿る気持ちは疑いようがない。


 この少女は……五十嵐凪音は、俺のことが好きなんだ。


「先生、お願いします。私をあなたの妻にしてください」


 溶けてしまいそうな熱量の言葉。その奔流に流されるが如く、俺は五十嵐の細い身体に負け、ソファーに押し倒されたのだった。

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