第6章 ずっと一緒にいたいんです
第34話 女子校生「似合ってますか?」
静寂に包まれた五十嵐邸のリビング。家庭用シャンデリアが放つオレンジの光に包まれた部屋のソファーに座り、俺は借りてきた猫みたいにおとなしくしていた。
「どうぞ、お紅茶です」
「ありがとう」
カップから立ち上る柑橘っぽい香り。オレンジやレモンのような強い香りではく、淡く癒されるこの香りはアールグレイか。
「少し外します。すぐに戻るので」
お茶を出すと五十嵐は慇懃に断りを入れてリビングから出て行ってしまった。
一人取り残された俺は紅茶を啜りつつ部屋を流し目で観察した。
清潔感のある白い壁紙、温もりのあるフローリング、吹き抜けになった天井。リビングだけで俺の部屋の三倍の広さはありそうで、家というより邸宅と表現するのが
外国製と思しき家具や壁に埋め込まれた六〇インチのテレビなど、調度品はどれも上等で、この家がいかに恵まれているかを言外に語っている。
だが、
「相変わらず寂しい家だ……」
失礼な感想がポツリと漏れ出す。
この家には生活感がない。五十嵐家は両親と娘一人の三人家族だが、おおよそ三人の人間が活き活きと日々を送っているとは言い難い裏寂しさがあった。
掃除が行き届いているという次元の話ではない。まるで、重要なものが欠けて最初から存在しないような欠落感をにわかに感じさせた。
開放的な空間なのに、息が詰まる。
生活感らしいものは目の前のローテーブルに置きっぱなしになっている冊子とプリントくらい。
それは進路調査票と教育系出版社が講演の際に配布した進学に関するリーフレット。どちらも学校で生徒達に渡したものだ。
「そういえば……あの子、まだ……」
進路調査票を出してなかったな。
締切は一昨日の金曜日と言っていたはずなのに。
ガチャリ――
「お待たせしました。お紅茶、お口に合いましたか?」
「うん、すごく美味し……い……よ」
やがて五十嵐が戻ってくる。
顔を上げて彼女に視線を向けた瞬間、俺の頭は真っ白になった。
その姿は先ほどのTシャツとストレッチパンツ姿ではない。
ボトムスは黒いミニのフレア――昼間、俺の目に止まってそのまま彼女が買ったあのスカートだ。
トップスは白いブラウス。袖と胸元がシアー素材になって肌を透けさせ、あざとさを演出する一方、アース柄が落ち着いきのある上品な雰囲気を醸す。
「…………」
「先生、どうですか?」
「えっ!?」
五十嵐に感想を求められるがすぐに反応できなかった。
――可愛さと綺麗さ。
――セクシーさとエレガントさ。
――子供っぽさと大人っぽさ。
相反する要素を上手に詰め込んだ服飾はもはや芸術の域に達しているとさえ言えた。
やっぱりこの子は綺麗だ。
どんな格好をしても魅力的に映る魔法の持ち主なのだ。
「すごく……似合ってる」
ようやく絞り出した、実に素朴な感想。「似合ってる」だなんて凡庸な表現でこの魅力を伝えられるはずがない。もっと気の利いた賛辞を贈れない自分がいやにもどかしかった。
しかし五十嵐にはそれで十分だった。彼女は蕾が開くように花咲み、ひらひらと軽くステップを踏んでドレスアップした姿を惜しげもなく披露した。
「このブラウス、スカートにすごく合ってたから買っちゃいました。せっかく先生が選んでくれたスカートだから、綺麗に見せたくって」
「わざわざ急いで着替えなくても良かったんだけんどな……」
今になって見惚れてしまったのが気恥ずかしくなり、心にもない強がりを言ってしまった。
五十嵐はそれで気を悪くした様子はない。それどころかどこか勝ち誇ったような不敵な微笑みを浮かべて俺の目の前に立った。
艶然と見下ろすその視線に目を奪われ、神秘的な瞳に釘付けになってしまう。
また一本取られたな、こりゃ。
「急いで着替えたのは先生に早く見せたかったからです。先生はこのスカート好きみたいだから、一番可愛くて綺麗な私を、二人きりの空間であなただけに……。センセイ、もう一度聞かせて下さい。どうですか、似合っていますか?」
ゴクリ、と生唾を飲み下す。
望むものを与えたら、この子はどうなってしまうのか……。
紅潮した頬、湿っぽい吐息、朝露で濡れた梅の実のような瞳。
恍惚の表情は薬物をどんどん欲しがる中毒者を想像させ、自分の気持ち一つで壊してしまえそうな恐怖心と、それとは裏腹な背徳的興味を掻き立てた。
「すごく似合っている……とても可愛いよ」
あるいは、麻薬に溺れているのは俺の方かもしれない。
女子校という特殊な環境で働いているせいか、女子生徒から時々髪型やメイクの感想を求められることがある。教師の立場上、あまり色目を使うようなことは言えないが、かといって素っ気なくもできない。そういう時はお世辞で褒めてあげるようにしていた。
だが、今のはそんな上っ面の言葉でなかった。
本心からこの子のことを可愛いと思ってしまった。
俺のための服装を俺にだけ見せたいといういじらしさを嬉しいと思ってしまった。
この瞬間、俺は五十嵐凪音のことを教え育む対象の生徒ではなく、ただ一人の女性として見ていたのだろうか。
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