第26話 女子校生「ヤキモチじゃありません」

 午後七時を回った頃。部活の指導やらの仕事を終えた俺はクタクタの身体で帰宅した。

 吹奏楽部の指導も通常の授業とやってることは変わりない。黒板を使って初心者の女の子達に音楽理論の説明をしたり、楽器の音に負けないよう声を張り上げたりなど体力勝負である。

 教員は頭脳労働者であるがなかなかどうして体育会系なところがあるので日が沈む頃には疲労困憊だ。


 そんなクタクタの状態なので、家でスーツを着替えたら焼き鳥でも食べに行こうかと思っていた。

 だが、本日は家で食べることになってしまった。


「できましたよ、先生」


「うん……ありがとう、五十嵐」


 テーブルに配膳されるお夕食。

 白米と味噌汁、サバの味噌煮、きゅうりの浅漬けとひじきの佃煮。

 家庭科の教科書に載ってそうな一汁三菜の献立にはため息が出る。形が崩れがちな煮魚も原型を綺麗に留めており、見てよし、嗅いでよしな出来栄えにお腹の虫がグゥと鳴る。

 しかし心中穏やかではなく、素直に箸を取る気にはなれなかった。


 さて、なぜ五十嵐がここにいるのか疑問に思っているだろう。だがそれを説明することはできない。なぜなら先生にも分からないからだ。


 五十嵐はなんと最寄駅で俺を待ち伏せしていて、駅舎を出るなり声をかけてきたのだ。

 その時、なぜか彼女は不機嫌でむすっとしていた。

 それからスーパーに連れて行かれて買い物する間も、部屋に上がり込んで炊事を始めてもなぜか言葉少なで口を利こうとしない。現に食べ始めた今も黙したままだ。


 話は逸れるが、本日五十嵐は自分用のお椀や箸を持参している。どこかで買ったのか、あるいは自家用だったのか知らないが、まさか置いていくつもりか?


 閑話休題。


「なぁ、五十嵐。どうしてずっと黙ったままなんだ?」


 沈黙に耐えかね、真正面から腹の中を探る。


 ポリポリと浅漬けを咀嚼する五十嵐。ごっくんと飲み込むと鼻でため息ついて感情の読めない目で俺を見据えた。


「別に……」


 こえぇぇぇ!?


 何この子!? 結婚記念日忘れた時の奥さん並みに怖いんですけど!(実話)

 十七歳って大人の女の怒り方ができる歳なの!?


「べ、別にってことはないだろ? 何か俺に言いたいことがあるから日曜日でもないのに来たんだろうし」


 この際、『日曜日も来ちゃだめ』とは言うまい。


「それじゃあ伺います。どうして冴菜さんにはあっさり連絡先を渡しちゃうんですか?」


「氷室?」


 どうしてその名前が出てくるのか分からなかった。呆然とする俺をよそに五十嵐は捲し立てる。


「私が連絡先を交換したがった時、先生は嫌がりましたよね? 私、あれすっごく傷ついたんです。それなのに冴菜さんから聞かれたら二つ返事で教えちゃって。私と扱い違いすぎませんか?」


「そんなことで怒ってたのか?」


「そんなことですって!?」


 湯気を吹くヤカンみたいに怒った。テーブルに箸が叩きつけられ、食器がびくりと驚いている。


「五十嵐は現役の生徒だから交換しちゃいけなかったんだ。そういう決まりなんだ。でも氷室は二年も前に卒業した生徒だし、しかも教職過程の相談がしたいって言うから無碍にできないだろ? 今後は俺の後輩になるかもしれないんだし」


「だからってあんなニコニコ渡すんですか?」


「どんな顔で渡せば良かったんだよ」


「ひょっとこみたいな顔で渡してください」


「連絡先教える時にひょっとこ顔するやつがあるか!?」


 すぐにブロックされるわ。


「俺が氷室と連絡先交換したのがそんなに嫌か?」


「い、嫌じゃありません。ただ、先生が氷室さんに離婚したこと正直に話すんじゃないかって思っただけです」


 五十嵐は会話を打ち切って食事を再開した。


 分かりやすく不貞腐れてるな。口でそう言うものの、俺達がSNSで繋がったのが不快だと顔に書いてある。

 その理由だが、色恋沙汰に鈍い俺でも彼女の考えはなんとなく察せられる。


 きっと五十嵐は俺が氷室に色目を使うと思っているのだ。正直にバツイチを打ち明け、改めて付き合おうと打診するのではと。

 五十嵐としては、俺が傷心につけ込まないか見張っているつもりなのだろう。


 その気持ちは分からないでもない。五十嵐が氷室を慕うように、氷室は今でも俺の大事な教え子だ。変な男にたぶらかされないか心配ではある。

 だが俺をその変な男と同一視して疑うとは心外である。氷室を慮る優しさは褒めてやりたいが、先生は悲しいな。


「氷室に話すつもりはない。あの子も言ってたろ? 傷心を癒すために母校に来て気が緩んで、久々に俺の顔を見て懐かしくなった、と。氷室が告白したのは気の迷いってやつだ」


「そうでしょうか?」


 五十嵐は懐疑的だ。

 昼間、氷室が告白したのは気の迷いってやつだ。それなのに告白を間に受けて色目を使うほど俺もおめでたくない。


「そうだよ、きっと。それに……」


 俺は胸の内のものを語ろうとしたが、ぴたりと黙り込む。


 モヤモヤとしたものが喉の奥につっかえた。


 あの子は目が醒めれば俺のことなんてなんとも思わない。

 氷室は大学生になって綺麗になった。もとから整った容姿をしていたが、学生になって見違えるほど垢抜けた。染めた髪もよく似合っていたし、率直に言って男好きする容姿だ。キャンパスではさぞモテるだろうから男はより取り見取り。


 そんな氷室は俺に言い寄られてどう思うだろう?

 実は自分は離婚していて、フリーになったから付き合ってやってもいいぞ、なんて言われたら……。

 正気に返った氷室は露骨に色目を使われたと思って気味悪がるに決まってる。


 なんせこちとら二年と経たずに奥さんに逃げられた不出来なアラサーだ。若さと活力に溢れ、未来ある大学生の男どもに比べて見劣りする。

 勘違いして懸想けそうすれば手痛いしっぺ返しを喰らうだろう。せっかく『優しい能登先生』と慕われているのに幻滅されるのがオチだ。最悪、噂が広まって学校での評判も悪くなりかねない。

 恩師と慕われているうちが花である。


「それに、なんですか?」


「……今でもあの子は教え子だ。それ以上でも以下でもない」


「そうですか」


 方便を使って強引に会話を打ち切って食事を再開した。

 これで良かったんだ。


「寂しいだけ、ですか……」


「きっとそうだよ。その気持ちは俺にも分かる。傷が癒えないうちはつい代わりになるものを求めちゃうものなんだ。時間がきっと解決してくれる」


 そうに決まっている。

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