第23話 ????「実は別れたんです」
俺は泣き崩れた氷室を東屋のベンチに座らせ、肩を振るわせる彼女を宥めた。
ダンス部の面々は突然泣き出した先輩に戸惑い、オロオロしていたので解散させた。
「どう? 落ち着いた?」
「はい……。すみません、急に取り乱して」
俺から缶の紅茶を受け取った氷室は泣き止んだものの、すっかり肩を落として意気消沈といったところだ。
「本当に申し訳ありません……。私、先生がご結婚されてたって知らなくて」
「俺の方こそ言いそびれてた。受験シーズンには諸々決まってたんだけど、大事な時期だから水を差したくなくてな」
「謝らないでください! 先生は一つも悪くないです。むしろ何も知らず、お祝いの言葉すら贈れなかった自分が恥ずかしいです」
氷室は赤くした目元をキリリと整え、まっすぐに俺を見つめた。
「先生、遅くなりましたがご結婚おめでとうございます。どうか奥様を大切にされて、幸せな家庭を築いてください」
真面目な氷室らしい杓子定規な祝辞。しかし冬の朝日のようなキラキラした微笑からは言葉に表れない温かな真心が受け取れる。
「氷室、ありがとうな」
「ぷぷぷ……」
師弟の感動の会話に水を差すのは五十嵐の押し殺した笑い声。彼女はベンチの後ろにて黙って佇んでいた。
「なんだよ、五十嵐」
「だって先生、氷室さんからお祝いされて嬉しそうなのがおかしくって……ぷぷぷ」
とっくにバツイチのくせに真に受けてバカみたいってか?
はいはい、そうですよー。お祝いされたけど、とっくに離婚してますよーだ。
「五十嵐、向こうに行ってなさいと言ったよな?」
「はい。ですが泣いている女性と二人きりというのは体裁が悪いと思うので同席します。私がいれば不貞に及んだとあらぬ噂を流されませんもんね、センセイ?」
「……お気遣いありがとう」
「あはは、凪音ちゃん、ありがとう。おかげで先生の幸せな結婚生活にヒビを入れずに済むわ」
一方の氷室は俺の悲劇を知るよしもないためそう信じ込んでいる。
五十嵐よ、笑うな。こんな真面目で純粋な子を騙してる俺は心苦しいんだぞ。
「そっか。先生が結婚か。いいなぁ、幸せになれて……」
春の陽気に溶ける声。氷室はぼんやり遠くを見て小さくため息をついた。視線の先にあるのは遅咲きの桜。しかしその桜も薄紅色の花びらのほとんどをちらし、青々した葉桜に姿を変えようとしていた。
風が枝葉を揺らし、残った花びらを散らしていく。
「氷室、大学で何かあったのか?」
俺の問いに彼女は目をまん丸にした。
「どうして分かったんですか?」
「なんとなくかな。強いて言えば一瞬、あの時と同じ顔をしていたからだな」
「……ふふ、先生には敵いませんね」
氷室はお手上げと言うがどこか嬉しそうでさえあった。ほろほろと崩れるかき氷に似ている。
「彼氏に振られたんです」
「「え……」」
おそらく最後だった花びらが散る。上昇気流に乗った花弁は一瞬で見えなくなるくらい高いところに連れ去られてしまった。
「彼と出会ったのは去年の文化祭。文化祭の実行委員会で同じ仕事を担当して、それがきっかけで仲良くなって付き合おうって告白されたんです。
嬉しかったなぁ……。生まれて初めて告白されて、恋人ができて、クリスマスが楽しくって、恋っていいなぁって思えて……。
私、本当に彼のことが好きだったんです。だから私のこともっと知ってほしくて、分かってほしくて……でもうまく伝えられなくて。
そのせいで彼を困らせることが時々あったんです。だから今度はあまり口にしないようにしようって思ったら、『冴菜のことがよく分からない』って煙たがられるようになっちゃったんです。
それで私、パニックになって、喧嘩になって、それで……」
振られた、と。
氷室は当初、とっくに吹っ切れたと見栄張った口調で語った。だが次第に声がつっかえ、締めくくる頃には嗚咽混じりになって再び泣き出してしまった。
そんな教え子を見ていると不憫でならなかった。耐えかねて背中をさすってやると、氷室は俺に縋った。シャツに染み込んだ涙は皮膚が焼けるほど熱かった。
「私、恋愛に向いてないんだと思います。わがまま言ったり、気持ちを汲んでくれるのを期待して、汲んでくれなかったら期待を裏切られたと思い込んで……。相手のことを考えられない私なんかに人を好きになる資格なんてないんです」
漏れ出すのは後悔と自己嫌悪の念。しかし思い詰めるのは誰かを好きになりたいという優しい心の持ち主であるからだろう。
女子校という環境のため男子との接し方が不得手で、また真面目な性分なせいか親や教員の見えないところで他校の男子と交流することもなかったのだろう。それを踏まえると上手くいかないのが自然だ。一回の失敗で挫けないでほしい。
「氷室は悪くないよ。初めての彼氏だったんだろ? 求めちゃうのは氷室が本気で恋してたからだと思う。むしろよく本気で向き合ったって、すごいなって先生は思う」
俺の場合はむしろ幻滅されるのが怖くていい格好をして素の自分を見せまいと
明け透けになる氷室の態度は誠実さの表れでもあるから、自己批判をすることではない。
「でも私、もう人を好きになれる自信がありません。傷つくって最初から分かってたなら、好きになんかならないのに……」
くしゃくしゃになった顔を両手で覆う氷室。
本気で恋をし、本気で向き合い、その末に破局を迎えた彼女の気持ちは他人事には思えなかった。
大切な人との決裂の痛み、衝動的になってしまった自己への嫌悪。
俺が妻と離婚した時に感じたものを氷室はか弱い心で背負い込もうとしている。
そんな彼女が哀れだったからだろう。
「分かるよ。先生も、別れるくらいなら結ばれなければよかったって思ったし」
うっかり、離婚したことを明かしちゃった……。
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