第20話 女子校生「センセイ、いい匂いしますね?」

 翌日月曜日。


 五十嵐がアイロンがけしてくれたスーツに袖を通して出勤した。

 姿見に映る自分は、まるで社交場に赴く上流階級と見紛うくらい立派だ。着ている人間が見窄らしくても、召物を丁寧に手入れすれば瀟洒に見えることを改めて学んだのだった。

 その学びをくれた五十嵐にはいろんな意味で頭が上がらない。感謝の気持ちで胸がいっぱいだ。


 そんな胸踊る心持ちで出勤し、挨拶当番のため校門に立つ。

 快晴の空の元、愛宕生達を迎えて挨拶をしていると隣に立っていた美墨先生が


「今日はなんだかご機嫌ですね、能登先生?」


 とニコニコしながら尋ねてきた。


「そうでしょうか?」


「はい。お顔が晴れやかですし、身嗜みもしゃんとしてて素敵です。奥様と仲直りできたんですか?」


 いつもの歌を詠むようなたおやかな口調で傷を抉られる。

 いや、ウソついてる俺が全面的に悪いから仕方ないけどさ。


「そ、そうなんですよー! 美墨先生の言う通り、自分からキチンと謝ったらこれがあっさり」


「それは良かったですね。事情は深く伺いませんが、きっと先生の方から歩み寄ってくれたのが嬉しかったんですよ」


 コロコロと、ウサギが跳ねて走り回るような軽妙な笑い声に反し、俺の心は罪悪感と虚無感に占領されていく。


 こうやって嘘で塗り固めて、行くとこまで行って戻ってこれなくなるんだろうな……。


「能登っち、美墨ちゃん、おはよう!」


 そこに元気よく挨拶をしてきたのは春日ひまわり。ショートボブと燦々さんさんとした笑顔が目印の陽気な教え子だ。隣には五十嵐もいた。


「おはようございます、春日さん。元気は良いですけど、先生をあだ名で呼んじゃダメですよ?」


 美墨先生は眉をハの字にしてやんわり嗜める。美墨先生は生徒からは優しいお姉さんのように慕われる人気の高い教員だ。もっとも、慕われるのは嬉しそうだがあだ名呼びなど馴れ馴れしいのは快く思ってないらしい。


「えへへ、ごめんなさい、美墨先生、能登っちー」


 あれれー、おかしいぞぉ?

 どうして能登先生はまだあだ名呼びなのかなー?


「能登先生と美墨先生、ずいぶん楽しそうにお話しされてましたね? 何話されてたんです?」


 五十嵐も慇懃に挨拶をし、そう尋ねてきた。


「何を、ということも……。他愛のない世間話ですよ?」


「ふーん、能登っちとずいぶん仲良さそうでしたけど……。さては浮気だったりして?」


 おやおや、春日ってば何を言ってるのかな?


「かかか春日さん!? 一体何を言ってるんですか!? 浮気だなんて破廉恥なことを朝から……」


 美墨先生は恋バナを振られた中二男子のごとき狼狽ぶりだ。そんな初心な反応すると面白がられるだけですよ?

 ほら、春日がニマニマ悪い笑顔を浮かべてる。


「いやぁ、前から思ってたんですけど能登っちと美墨先生ってお似合いだよね? 一緒にいる時間も長いし、実際仲良さそう」


「そ、それは同じ学校で働くから当然のことですよ!?」


「にしても美墨先生、楽しそうだったよ? 本当は他の人と結婚しちゃって寂しいんじゃ?」


「な――な――!?」


「美墨先生もそろそろ欲しいんでしょ、旦那様?」


「っ――」


 美墨先生は耳まで真っ赤にして絶句した。俺以上に真面目な性分だから不倫話に巻き込まれてプライドを傷つけられたのだろう。しかも年齢と結婚というセンシティブなポイントにまで触れられて……。

 うちの生徒が本当にすみません。能登、動きます。


「春日、その辺にしなさい。美墨先生には俺なんかよりよっぽどできた彼氏がいるんだ。そんな揶揄い方したら、先生にも彼氏さんにも失礼だろ?」


 彼氏がいるかは知らないけど。


「とかなんとか言って〜。実は能登っちも――」


「能登先生、な?」


「はい……」


 声を一オクターブ下げて指摘。この子とも付き合いは長い。これ以上は怒られると察してすぐに頭を垂れた。


 その横で五十嵐はクスクスと笑っている。そして俺に一瞬目配せをしてニヤリと笑い、すぐに澄まし顔で春日を慰め始めた。


 なんだ、今の顔は。俺が既婚者面して立ってるのがおかしいか? ……いや、我ながら滑稽だけど。


「今のはひまわりが悪いよ? 能登先生にも奥さんいるんだし。ね、センセイ?」


五十嵐、フォローしてるのか、俺を揶揄ってるのか、どっちなんだ?


「ほら、今日も奥さんの香りが先生からするよ?」


「どんな匂いだ」


 軽くイラッときてツッコむ。妻とは冬に別れたのだから残り香などあるはずない。

 だが五十嵐は予想外の行動に出た。


「しますよ? 先生の服からいい匂いが」


 俺の胸元に顔を近づけ、クンクンと小型犬みたいに鼻を引くつかせた。

 彼女は俺の匂いを嗅いでいるが、それよりも五十嵐の髪の毛から香る柑橘系の香りに脳がやられそうだ。


「この香り……ネクタイからしますね」


「どれどれ? あ、本当だ。いい匂い! 美墨先生も嗅いでみなよ!」


「は、はい。本当……夏蜜柑みたいですね」


 いや、あなたも嗅ぐんですか、美墨先生!?


 五十嵐に加え、春日と美墨先生まで胸元に顔を寄せてきた。美少女二人と美女の頭髪が顎の下に行儀良く並ぶ。


 ふぁー、といい匂いが立ち上る。

 石鹸のような清潔感のある優しい香りは春日の香りか。元気な性格に反して正統派というか、素直で彼女らしい好みというか。

 そして樹木のような香りは美墨先生か。ウッディ系の香水、あるいはお香でも焚いているのか? どちらにせよ穏やかな彼女らしい好みだ。ずっと嗅いでいたい。


 三者三様、それぞれ違う香りなのに全く喧嘩せず、むしろ不思議な調和を生み出している。まるでスパリゾートにでも遊びに来たのではと錯覚した。


 朝から、天国だ。


 が、その幻想は春日の一声でぶち壊された。


「あ、分かった! これ、凪音とおんなじ匂いだ!」

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