第7話 『お呼びでしょうか、父上』(過去編/第一王子視点)
『お呼びでしょうか、父上』
王命に従い、王の私室に向かったものの、相手は部屋にいない。代わりに香水の匂いに出迎えられ、噎せ返りそうになった。こればかりは慣れそうもない。よく父王はこの中で息ができるものだと、皮肉を込めて感心していれば、奥の扉が不意に開いた。
『何用だ、王子』
この国の王が立っていた。かつては威厳に満ちた声は面影を残しながらも、すっかり枯れ落ちていた。声に違わず、王家の血筋を証明する瞳は濁っているのではないかと錯覚する程、覇気を感じられない。
そんな父王が半裸の状態で、我が子を見下ろしていたとしても、動じはしなかった。
いつものことだからだ。
『お言葉を返すようですが、私にこちらに来るよう命じられたのは父上では?』
父王を見上げながら、私は言った。
『······ああ、そうだったな』
視線は扉の向こう側に注がれている。
『忘れていた』
『······』
本当は覚えている筈の父王に、けれども私は何も言わなかった。王が『忘れた』と言うのならば、事実の有無は些末事だ。
代わりにその視線を追う。奥には王の寝所がある。加えて、この香水の匂いと父王の姿。
『······新しい女ですか?』
きっと女が肌を晒した状態で、王の寝台で眠りについていることだろう。
『愚かなことを申すな』
鋭い眼差しを向けられる。
『我が王妃が薦めた女以外、侍るわけがない』
言いながら、王は上質な椅子に腰かけた。
『あれはまだ手をつけていない女だった』
王は持っていた杯を逆さまにする。中身は予想通り、空っぽだ。
『故に毒を呑ませた後、侍らせた』
『よく抵抗されませんでしたね』
『ああ、先に飲んでみせたからな』
とうとう、そこまでするようになったのか。
『そうすれば、あれも拒むことはするまい』
『······そうですか』
相槌に一切の感情は乗らなかった。
『父上らしいお考えですね』
王が囲う女は皆、王妃自らが選んだ側室達だ。
私以外の子を身籠ることができず、王家の血筋を絶やさぬ為に、夫に女達を差し出したのだ。
王家の血筋を持つ者は殆どいない。遠縁の貴族や諸外国に嫁いだ先王の王女はいるものの、この国に残っている直系の血筋を持つ者は父王、私、異母弟のみ。他は全て死んでいる。
父王が根絶やしたからだ。先王には王妃側室含め、多くの王子王女がおり、父はその中の一人に過ぎず、王位継承権は形ばかりのものだった。
父は王位を得る為、多種多様な方法を用いて兄妹親類を追い落としにかかった。諸外国に嫁げた王女達はまだ幸いと呼ぶべき分類だ。まだ嫁ぐことができない幼子は病死や不審死が相次ぎ、王子達は反乱の兆しありとして、確固たる証拠を提示された上で、弁明もできないまま、首を落とされた。父の叔父や叔母達がどうなったのか語るまでもない。
王族殺しは誰であれ極刑だ。けれども、王位継承権争いで起きたものであれば、例外がないわけではない。加えて、先王は享楽的な一面があり、自分を殺さんばかりに王位を求める息子を面白がり、その有能さを高く評価した。
先王が私の父を世継ぎとして指名し、譲位するのにさして時間はかからなかった。
父は王冠を手に入れ、私の母を王妃に指名した。同時に王家が磐石だと諸外国に示すのが急務となった。だからこそ、母は王家の血筋が絶えることなどあってはならないと考えていた。
ただ、王の寵愛は王妃にのみ向けられており、女達に見向きもしなかった。
『ですが、父上。よろしいのですか?』
『何がだ』
『母上は父上に私情よりも国を優先してほしいと望んでいました』
父王だけではなく、私にもそう望んでいた。
『覚えている。我が王妃の言葉ならば一言一句違わずに』
『でしたら、父上の行いは母上の望みを踏みにじる行為に等しいかと』
この苦言も何度繰り返してきたことか。飽きもせず繰り返す己に呆れてもいた。同時に『王太子』として必要な立ち居振舞いだと課してもいた。私情を優先していれば、父王の部屋に来ようとも思わないだろう。
あまりにも生産性がないからだ。
『王子に言われずとも分かっている』
『でしたら、』
『だとしても、どうでもいいことだ』
関心がないと言いたげに、父王は虚空を見ている。
『我が王妃はこの世におらぬ。いたところで叶える気はない』
父王は杯越しに私を見た。透明なそれに映った私の姿は酷く歪んでいることだろう。
『杯を飲ませているのも、その為だ』
王の寝所に召された女達は皆、王の杯を飲まされる。中身は毒であり、子を作れない体にしてしまうものだった。
王妃に対する変わらぬ愛を示す為だと。
以前、王はそう言っていた。
王妃が選んだ女達は皆、高貴な血筋を引き継ぐ貴族令嬢達である。王の子を身籠れば家の繁栄が約束されたも同然だった。にもかかわらず、蓋を開けてみればこの有り様だった。娘を側室にと差し出した貴族達が何を思うか、想像に難くない。
国が保っていれられるのは、ひとえに国王の政治手腕によるものか。王妃亡き国に、父王は関心がないのに皮肉なものである。その政治手腕すら鈍り始めている様子だった。
貴族達に譲位を迫られるのも時間の問題だろう。
『時に』
思考を遮るように、父王の声がした。
『お前は何故あれの名を呼ばぬのだ?』
『あれ、とは?』
『お前の婚約者に決まっているではないか』
酷く鬱屈とした声には呆れが混じっている。
『あれの父親が嘆いていたぞ。「娘に何か至らぬ点がございますでしょうか? 申し上げて下されば改善するよう言い聞かせましょう」とな』
『······父上は何と?』
『知らぬ、王子に聞けとだけ答えておいた』
『······そうですか』
『それで何故だ?』
『――分からぬとでも仰りたいのですか?』
『······』
濁った王の目が『王子』を見た。
『貴方のようになりたくないからですよ、父上』
言うや否や、部屋中に音が響き渡る。
父王が杯を投げつけたのだ。
鋭い痛みは一瞬で熱を持ち始める。手袋は切り裂かれ、じわじわと血が滲み出ていく。
どうやら、当たり所が悪かったらしい。
『―――······』
父王が杯を投げつけたのは、一度や二度ではない。父王は女と事に及び、終われば気紛れに私を呼びつける。そして、鬱憤を晴らすように、こちら目掛けて杯を投げつけてくる。この暴挙は王により箝口令が敷かれ、使用人達は徹底的に口を噤み、仕事に従事しているのだ。
『―――父上』
慣れてしまったせいか。
こんな時ですら声は冷静だった。
『何だ』
『私からも伺いたいことが』
『だから何だと言っている』
『いつまでこんなことをするおつもりで?』
『決まっているではないか』
鬱屈とした声は当然のように言った。
『お前が病んで死ぬまでだ』
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