第一七〇話 兵法は扱うには先入観を捨てるのが大事かもしれない

 私は曹操そうそうに駆け寄る夏侯淵かこうえんを見ながら頭の中にある夏侯淵の情報を引き出す。


 姓は夏侯かこう、名はえんあざな妙才みょうさい。彼も夏侯惇かこうとん同様、曹操の忠臣の1人である。夏侯淵は曹操の下で多大な軍功を挙げている。大きな軍功を一つ挙げるとすれば西北にある涼州りょうしゅうという名の地方を平定したことだ。


 これよりニ七年後のニ一一年、曹操に対して涼州で反乱を起こした馬超ばちょう韓遂かんすいを征伐し、彼らと同調した異民族である羌族きょうぞくを降伏させた。


 その後、函谷関かんこくかん(関所の名前)の西一帯の地域――関中かんちゅうで一大勢力を築いていた宋建そうけんを討伐した。


 以上の功績により夏侯淵は征西将軍せいせいしょうぐんに任じられた。征西将軍になった夏侯淵の役割を分かりやすく言えば魏軍ぎぐんの西域地域防衛の最高責任者だ。


「あれ……ちょっと待って……」


 私は横で劉備りゅうびら義兄弟3人と黄龍こうりゅうらが辺りを確認している様子を見ながら考え込む。


 夏侯惇も夏侯淵も曹操の挙兵時に付き従った人間だ。だが、曹操はまだ挙兵してない、今の肩書きだけ見れば宮仕えの高官だ。


 元々、曹操の父・曹 嵩そうすうは夏侯氏の出であり、曹操が二人と面識あってもなんら不思議ではないが夏侯惇と夏侯淵はこの時点で曹操の下にはいない。


 私がこの時代に転生したことで些細な変化が起きてるのはすでに承知しているが、もう些細な変化では済まなくなってきた。


田豫でんよ、帰るぞ」


「ええ」


 色々と思慮していると劉備がこの場を去るように促してくれた。


「待て、敵がいないと決めつけるのは時期尚早であろう」


 曹操が予想外のことを言ってきたので私達は足を止めた。


孟徳もうとくは何か分かった感じ?」


「そんなところだ」


 夏侯淵に応じた曹操は歩き出す。


「お前達も来い」


 次に夏侯惇が曹操の背中に顎を差し、私達に移動するように促す。私以外は半信半疑ながらも曹操に付いて行った。一方、私は本来の歴史での曹操の実績を知っているため、疑いはしなかった。


「敵影を見かけないどころか、隠れる場所も無いように見受けられるが?」


 関羽かんうは疑問を夏侯惇にぶつけた。


「俺もそう思うが孟徳が判断を間違えるところはあまり見たことないな」


「ほう……まあ、拙者の主である兄者もいくさに置いて判断を間違えぬぞ」


 関羽がなんか張り合っている。


「だが、孟徳の方が上手であることには変わりないがな、なんせ俺達が気付かない異変に気付いたのだから」


「いやいや、兄者の方が」


「いやいや、孟徳の方が」


 なにやってんだ。主を使ってマウントの取り合いを始めてるぞ。


「やめぬか雲長うんちょう


「むむむ……」


 関羽は劉備に注意されて口を噤んだ。何がむむむだ。


 それから、しばらく歩いたとき、私は思わず口を開く。


「この場所……確実におかしい」


「確かに妙だ」


 劉備は私の言葉に同調していた。その後、黄龍も「なるほど」と言って唸っていた。


「気付いたか? この場所は人が立ち入らん。故に鳥類や昆虫が辺りにいるが不自然にもこの場所を避けるように鳥が飛び、地面には虫の姿が見かけん」


 曹操の言う通り周囲の地面を避けるように鳥が両側に降り立っていた。また、先程までよく見かけたミミズやタンゴムシもいない。その不自然な点を除けば、草木の生えた地面でしかない。


 引き続き曹操は状況を説明する。


「兵法書に書いてある『鳥立つは伏すなり』という言葉は知っているだろう」


 私と劉備は頷く。


 彼が言ったのは『孫子』の行軍篇に記載してある言葉だ。簡単に言えば鳥が飛び立てば伏兵がいる証拠という意味だ。


「つまり、鳥類が寄ってない場所に人間がいるということだ」


 曹操はそう言い切ると地面を見つめる。


 その後、張飛と夏侯淵はハッとした顔をして口を開く。


「じゃあ、この下に黄巾賊がいるってことじゃねぇか!」


「なんてこったあ!」


 兵法書通りに『鳥立つは伏すなり』という言葉を受け取ると鳥が飛び立つ様子を見れば、数里先にいる敵を発見できるという意味だ。それに関する逸話として日本では平安時代にみなもとの義家よしいえ(武将)が敵陣から数里手前のところでかりが列を乱して飛び立つのを見て、伏兵に気付いたという話がある。


 私も『孫子』の記述を頭に叩き込んでいるが、周囲に隠れる場所がないという先入観に捉われていた。まさか、地面の下に隠れているとは思わなかった。


 まだ、敵の姿を確認できてないので敵が隠れていると決めつけるのは早いかも知れないが、十中八九、間違いないだろう。


 というか……張飛と夏侯淵が大声出したせいで地面の下がなんか騒がしいんですけど!?

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