第一三七話 黄巾賊による『逃走型火牛の計』

 盧植ろしょく軍は張角ちょうかく軍が数多の牛を城から放ったことに面食らい、何もできずに陣を突破され続けていた。敵は牛の尾に火を付けて走らせることで敵の包囲網を解く『火牛の計』を参考にしているのだろうが、普通の『火牛の計』とは違って牛の背に黄巾賊が乗っているのでこれは敵を打破するための戦術ではなく……逃走するための戦略だ。


 『逃走型火牛の計』とでも言うのだろうか。


「ぐああっ!」「ぐわっ!?」


 背を向けて逃走していた兵達が牛の角に付いている刃で突き殺される。


「このままではまずい」


 後ろ向きで跳ねるように走る。


 私もああなるわけにはいかない。


「!」


 私は走りながら東へと目を向ける。そこには突出したように後退する盧植軍がいた。


 確かあの位置は広宗こうそう城の南門の正面にいた軍――盧植がいる場所だ。


先生がいるから迅速に後退できているんだろうな……」


 私は思ったことを漏らすと、案の定、軍中に身振り手振りで兵を指揮している盧植が見えた。


 とはいえあの行動は被害を今以上に出さないための行動だろう。即墨そくぼくの戦いのように牛を放った敵が追撃しにくるのであれば後退して準備を整える意味はあるが、敵はもう完全に逃げ腰だ。解決策がない。


「「「モオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォ‼」」」


 周囲に響き渡る牛のいななき。


 きっと再び数多の牛が放たれたのだろう。尾を黄巾賊に燃やされていることもあって苦しそうだ。聞いている側も地獄にいるかのような感覚に襲われる。


「グアァァァァァァァァ!」「グウアアアアァァ‼」


 牛に刺されたか、踏み倒されたか分からないが盧植軍の悲痛な声も聞こえる。


 私は逃げている周囲の兵と同様に青ざめた顔をしていた。


 気を取り直して首を横に振る。


「く、来るぞ‼」


 前方にいる兵が何かを伝えようとする。この場合、来るのは牛のことだろう。


「「「うおおおおおお!」」」」


 とりあえず牛が真っすぐ走ることを願って私達は吠えながら横方向に走るが、


「っ!」


 走った方向からも賊を乗せた牛が兵を吹っ飛ばしながら現れた。


 私は足を止めて、張角に逃げられることを危惧する。


 盧植軍は確かに張角軍を追い詰めた。数万の敵を討ち取っただろう。だが、張角というのは話に聞く限りカリスマ性のある人物だ。そうでないと数十万の軍を束ねることはできない。そんな奴を逃がせば、あっという間に数万の軍を集めるだろう。


「またか!」


 再び兵士を吹っ飛ばした牛が目の前を通る。


 妙に目立つ格好をしている男が牛に乗っている。


「「……」」


 目が合う。


 男は黄色の長袍ちょうほうを着ており、黒々とした長髪は胸の辺りまで届き、野性味を感じさせている。顔の輪郭は細長く瘦せ型に見えるが袍の間から胸筋が見えた。あれがもしあいつだとしたら想像よりずっと漢気がある雰囲気だ。


 とにかく只者じゃないことは本能的に分かる。


 牛が通り過ぎたあと、


「張角!!」


 反射的に名前を叫んだ。


「くっ!」


 男は一瞬、振り向いて私を睨みつけた。


 やはりあいつがそうか!


 太平道たいへいどうの教祖にして黄巾の乱の指導者!


 私は張角の背中を見送りつつ、辺りを見渡したのであった。


 さっきまで目の前にいた敵の頭をみすみす見逃すわけには行かない。張角に近づく方法を見つけ出さねば。

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