第七七話 魚陽郡は制した

 私は杏鳴あんめいと向かい合うように座って、着ているほうの右袖に左手を突っ込む。


「なにを……?」


 杏鳴は私が動かしている手を不思議そうに見ていた。


「これが何か分かりますかね」


 私は袖から折りたたまれた二枚の紙を取り出した。


「紙であることは分かる。今、この場で出すということは今の話しに関係することが書いてあるということか」


「察しが良くて助かります。この二枚の紙は褚燕ちょえんが死の間際に渡してくれたものです」


「な、なに⁉」


 杏鳴は前のめりになって、紙をまじまじと見ていた。


 私は紙を前に置いて説明を始める。


「一枚は黄巾賊について書かれた紙です。黄巾賊の中でも役職に就いている人達の名前や反乱を起こすときの動きについて記されています」


 紙には筆で殴り書きしてあったので、おそらく褚燕がメモとして使っていたのだろう。


 私は一呼吸を置いて、再び喋る。


「今、重要なのはもう一枚の紙です。この紙は――」


「わちが褚燕に宛てた手紙である」


 私が言おうと思ったことを杏鳴が代弁してくれた。その言葉に私は首を縦に振る。


「そうです。褚燕個人に対して、多額の金銭を与える代わりに黄巾賊にくみしたうえで、魚陽ぎょよう県に潜入するようお願いするとあん当主の字で書かれています」


 私の言葉に杏鳴はうつむく。


 これで冀州きしゅうで黄巾賊に便乗して反乱を起こすはずだった褚燕がなぜゆう州で黄巾賊に与しているかが分かった。


「褚燕とは知り合いだったのですか?」


「定期的に杏家あんけにやってくる行商人から滅法強く、若者に慕われている乱暴者の話を聞いた。その者が褚燕だったというわけだ。よくいる不埒者だとは思ったのだが一人で武装した官軍を二〇人斬り殺したと先月聞いてな。お金で釣って褚燕を雇うと決めたのである」


 杏鳴は額の汗を袖で拭う。彼の視線は手紙に釘付けだ。


 私は前に置いた二枚の紙を元の場所にしまうと、杏鳴は僅かに表情を変化させて動揺していた。


「色々と謎は解けました。ありがとうございます」


 私は立ち上がると、


「ま、待つんだ! 杏家をどうする気だ、いや、何が望みか言っておくれ!」


 杏鳴は血相を変えて呼び止めてきた。


「もしかして私が官軍や他の豪族に杏家が裏切ろうとしていたことを証言したり、この手紙を見せたりすると思っているんですか? いやぁー人聞きが悪いですよ杏当主」


 あらま、杏鳴の顔が引きっている。まさか彼がここまで狼狽ろうばいするとは、こりゃもう立場逆転したかも。


「頼む、望みを言ってくれ! 地代の分け前が欲しいのか?」


 両手をゴザにつける杏鳴は私を見上げていた。


「いやそういうわけじゃないんですが、まぁ、私も兵を集めて挙兵しようと思いまして、少し支援をしてもらおうかなと思っています」


「挙兵とな?」


 不思議そうな顔をする杏鳴。


劉殿りゅうどのは知っていますね」


「当然、知っておる。今や魚陽ぎょよう県で知らぬ人はおらぬ、このまま活躍し続ければ直に魚陽郡中にも名が広がるであろう」


「その通りです……それが私の狙いです。この乱を生き残るための盤面が出来上がりました」


「ど、どういうことだ? 劉備に兵を用意させてこの町を救うのが狙いではないのか?」


 私が挙兵を劉備に促さなくても勝手に挙兵をしていたが、そのことは伏せよう。


「黄巾賊の来襲に全国の官軍は対処できません、多くの守兵が民を見捨てることになるでしょう。そんな中で劉殿が魚陽県いや、魚陽郡を救ったことが知れ渡れば、その噂は全国に波及します。朝廷は早くても一ケ月後には軍を動かすことになるでしょう。その間に民を救った人物は無下にできません、そしてその人物を利用すると考えます、つまり」


「官職が与えられるはずである」


「その通りです。そして私も彼に便乗して兵を挙げます。かねてより劉殿には別動隊が必要だと思っていました」


 このかねてよりというのは劉備に挙兵を勧めたときからではなく、転生する前からという意味だ。黄巾の乱勃発時に劉備がのし上がるためには戦力が足りない、手元を離れても臨機応変に動ける兵士が必要だと思っていた。


「褚燕との一騎打ちは幾人かの豪族と名士に見られたおかげで私の名も広まっています。この流れで兵を集めれば、魚陽ぎょよう郡中から兵が集まります」


「いや……それだけではない! そちなら、高家こうけ含む豪族が支援をしてくれるであろう。つまり、魚陽郡周辺にいる太平道と戦う際、兵糧の心配をしなくてもいいということになる」


 口元を震わせる杏鳴は、突然、立ち上がって両手を組み、礼をする。


「ここまで先を読んでいたとは……感服するのである。そちの先見性はわちの想像を遙かに超えておった。田豫が官職を得られれば、支援していた豪族はそちの恩恵を得るはず」


 私も杏鳴に対して両手を組み、礼をする。


「杏当主、支援してもらえると思ってもよろしいでしょうか」


「田豫……いや田殿でんどの。支援なんてとんでもない、わちの命運はすでに田殿に握られておる。是非、喜んで忠誠を誓いましょう」


 くっくっ……まだだ、まだ笑うな。


 私は喜びの笑みを零さないようにしていた。


 魚陽郡中の豪族、この手に堕ちたり!

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