第七二話 越えたい壁がある 田豫対褚燕①

 褚燕ちょえんと対峙してから、時間がかなり経った感覚に襲われるが実際には数秒しか経っていない。緊張で体内時計がおかしくなってきた。


 明らかに力も速さも褚燕の方が格上なため、迂闊うかつに踏み込めないのだ。


「ビビってんのかあ? オラ! かかってこいよお!」


 挑発に乗れば相手の思う壺だ。


「君の方こそ、子供相手に何を躊躇ちゅうちょしてるんですか? もしかして怖くて攻撃できないんですか?」


 挑発仕返してみた。すると、褚燕は口端を吊り上げる。


「ああ、その通り怖いんだよ。隙がねえからなあ……見るからに戦い慣れしてやらあ」


 挑発には乗らず、心情をハッキリと伝えてきた。


 意外と冷静だ…………厄介すぎる。褚燕だって自分の方が強いと分かっているはずなのに。


 視界の端に見える屋敷の縁側を確認する。


 高家の兵の後ろから今にも身を乗り出しそうな杏英あんえい玲華れいかがこちらを見ていた。できれば、そのままじっとしてて欲しい。


 高輔こうほは戦場に出ているから、彼の兄弟辺りが皆を一か所に集めたのだろう。杏鳴あんめいは戦場に出ていないと思うから、屋敷の中にいるのか? それとも――


「隙ありっ!」


 ――思考の最中、褚燕が逆袈裟斬りを仕掛けてきた。


「ぐっ!」


 剣速が速すぎる!


 私は相手の攻撃を直刀で横に流しながら、後退することで衝撃を分散させた。


「今のを防ぐとはな、見込み通り、やりやがらあ!」


 褚燕は鬼気迫る表情で四方八方から、斬撃を繰り出してくる。


「っ! 速いっ! ぐうっ! っ!」


 先程と同じように剣を当てて攻撃を受け流しながら、後方に下がる。褚燕の怒涛の攻勢に押される一方だ。


 褚燕は頭部を剣で叩きつけようとしてきたので横に転がって攻撃を避ける。敵の剣は地面に当たって、土埃つちぼこりが舞い上がった。


 隙を見つけたと思った私は突きを胸部に向けて繰り出すが、


「おっと! 危ねい!」


 褚燕は半身だけ動かして突きを避けたので、急いで間合いをとる。その間、敵は頭から突っ込んできながら突きを繰り出す。


 ――――その勢いはまるで猪だった。


 寸前のところで私は顔を反らして突きを避けようとするが、剣が頬を掠めて、横一文字に頬が切れる。


「まずいっ」


 さらに褚燕が得物を持っていない方の腕で肘打ちしようとしてきたので、私は後方に二回跳んで距離を空ける。


「ふぅ……はぁ……」


 強張った体を解くように息を吐く。


「……今のを避けるとはな」


 感嘆しているのだろうか、褚燕の瞳からは畏怖の念が感じられた。


 現状、回避能力だけなら勝っているが、それだけだ。


田豫でんよ、今ので分かっただろう。俺との差がな」


 彼の言う通り、明確に力の差が感じられた。


「このまま戦い続ければ、お前は死ぬ。だが、ここで死なすには惜しい人材だ。後、一〇年もすれば、天下に名を轟かす剣豪になるかもしれないからなあ、どうだ? 俺達と組まないか?」


「もし私が断ると言ったら?」


「殺す。お前は危険すぎる、ここで芽を摘んでやら」


 そう言って褚燕は腰を落とし、いつでも動けるように準備をしていた。


 黄巾賊に加担しても後々、面倒事しか待っていない。まず、私が張白騎ちょうはくきの首を落としたことは数多の黄巾賊に目撃されているので受け入れてもらえないだろう。それ以前に、高家や公孫こうそん家等の豪族らと今まで築いてきた関係を無下にするわけにはいかない。何より、友好関係を築き上げてきた人々のことは裏切れない。


 そもそも、この場に杏英と玲華がいる、彼女らを裏切れない。絶対に。これは勝手に思っていることだが二人の少女達も私が裏切るとは思っていないのだろう。


 劉備りゅうびだって近くに来ているのに黄巾賊に尻尾は振れない。


 劉備は長い間、流浪の身で過ごし、親族を騙し討ちしてしょく国を建国した人物だ。だが、それでも数多の武将と民が彼に付いて行った。私もその一員になりたい。


 劉備には信念があったのだろう数多の犠牲とあらゆる業を背負ってでも仁の世を作るという。身勝手で魅力的な信念だ。まるで毒のある甘い蜜に惹かれるようだ。


 私は肩の力を抜いて褚燕と向かい合う。


「ほう……」


 褚燕は唸る。私の行動をどう捉えたのだろうか、力を抜いた様子を見せたので降参すると思ったのかもしれない。それとも私が対抗し続けると思ったのだろうか。


「誘っていただいてもらったことは感謝しますし、剣術を褒めてもらったこともありがたいですが、その提案は吞めません。私には私の信念があります。信じてくれる人や信じたい人を裏切るわけにはいきませんから。それに――」


 一旦、口を噤み、直刀を構えてから、再び口を開く。


「――君を倒すこともできないのなら、この混沌とした世界では生き残れないと思っています。君を倒すことで、私は一つの壁を越え、これからの乱世を生き抜く糧と自信を得るのです」


「ふっ」


 鼻で笑った褚燕は嬉しそうに顔をほころばせていた。


「俺を、この褚燕様を! 乱世を生き抜くための指標にするつもりか!」


 さらに褚燕は目をカッと見開き、


「面白い、賊としてではなく、武人として本気で殺してやろうかあ!」


 剣を持っている右手を引き、切っ先をこちらに向け、いつでも突きを繰り出せるようにしていた。


 今このときだけは、謀略や軍略のことを忘れて、私も武人として戦おう。


 おかしなことに私は褚燕の意気込みに呑まれていた。

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