第三五話 充実した日々だった

 高家こうけ招聘しょうへいされてから三週間が経過した。その間に喜ばしい出来事が何度も起きた。


 ――小麦を粉にする作業をしていたある日。


「せいっ! とおっ!」


 私は庭園で木製のつちを振り下ろしていた、縦向きに置いた大木たいぼくみきに向けて。幹をくり抜いてへこませたところにある小麦を潰している最中だ。


 周りにいる男衆おとこしゅうも同じことをしており、皆、汗を掻いていた。


 本当なら石臼いしうす(上下一対の石製の道具で、下部は固定された石で上部が回転出来る石となっており、接触面の回転による摩擦で素材を砕くことが出来るもの)で小麦を小麦粉にしたい。


 粉食ふんしょく文化自体は、紀元前一三九年に外交使節として西域に派遣された張騫ちょうけんによってもたらされた。


 しかし粒食りゅうしょく文化が続いたこの国では、未だに粉食文化が全国に定着していないので粉食技術も最北端にあるこの地域では定着していない。ただ、西域の文化はみやこである洛陽らくようにもたされ、次第に全国的に広がるので、きっと洛陽には石臼いしうす胡餅こへいを焼くためのがあるのだろう。


「ふんっ! ふんっ!」


 私は一心不乱に槌を振り続けた。しばらくすると――、


「あれ?」


 周りにいた男衆がいなくなっていた。どうやら、皆一か所に集まっているみたいだ。


「なにかあったんですか」


「おお、田豫でんよ、これを見てくれよ」


 男衆の一人が私に反応して、人垣ひとがきの中にいざないい見せてくれたものは、


「石臼じゃないですか!」


「当主様が洛陽の行商人から買ってきてくれたらしいんだ」


 広げられた布の上には一〇基じゅっきほどの石臼があった。


「わしとて、黙って皆の作業を見てるわけにはいかぬからな」


 と言うのは皆に囲まれている高輔こうほだった。


 これで槌を振り下ろさなくて済むかもしれない! いい運動にはなるが同じような作業を続けていると気が狂いそうになる。


 ――屋敷にある一室でこう玲華れいか、その母親である公夫人こうふじんの二人と共に新作の商品を試食していたある日。


「うまっ!」


「わっ、びっくりしたぁ」


 私は牛の挽肉ひきにく 目玉焼き、豆の葉が二枚の胡餅によって挟まれたものを口に含むと、美味さゆえに叫んでしまい、横にいる玲華を驚かせていた。


「こんなんもうビーフバーガー」


「びーふばぁーが?」


 下手なことを口走ってしまい、少女は首を傾げている。


「えっと、遥か西の国で今食べているものと似たような食べ物があるとかないとか」


 私は視線を泳がせながら誤魔化した。


「そうなんだ。ほんと、何でも知っているんだね」


「あら、ほんとね、すごく美味しい……」


 私の言葉に玲華が納得すると、座卓ざたくを挟んで前にいる公夫人が新作の胡餅に感嘆していた。


 しかし、食べ過ぎたな……今日は晩御飯いらないかも、などと考えていると廊下からふすまがコンコンと叩かれる。もう、次の試食品がきたみたいだ。


「入りなさい」


 公夫人は凛とした声で襖の外にいる人物に呼び掛ける。


「では失礼! 実は先程のもので試食が終わりなのですが、偶然にも奇妙なものが出来てしまい……それに食べて大丈夫なのかという不安もありまして、田豫殿なら何か知っていると思い持ってきました」


 襖を開けてやって来た男性は歯切れが悪い。彼は戸惑い気味に作った胡餅こへいを座卓の上に置いた。ちなみに男性のことは外食市場で見かけたことがあったので恐らく高家に雇われた料理人なのだろう。


「大きいですね」


「膨らんでいる!」


 と言う公夫人と玲華。


 二人の言った通り試食品の胡餅が明らかに大きく膨らんでいる。


「これはまさか……何故なぜこのような状態になったんですか?」


「おお、何か知っているのですか!」


「はい、こうなるまでに至った経緯を説明して下さい」


 私は料理人に説明を求めた。どう考えても胡餅が発酵していたからだ。


「確か、厨房室の隅で数日ほど水でこねた小麦粉を放置していたんですよ。余りの忙しさに見落としてしまって、気付いたときには放置していた小麦粉が膨らんでいたので試しに焼いてみたらふっくらとした感じになってて」

 

 なるほど、偶然にも最も簡単な発酵法に至ったようだ。水を混ぜた小麦粉を放置することで中の乳酸菌が自然発酵したのだろう。


「確か、遥か西の国では小麦粉を膨らましたものも食べられていると聞いたことがあります」


 とりあえず、西の国という便利な言葉を利用して説明した。


「じゃあ、これは食べ物として売れるのでは?」


「いいえ、このままでは売れません、恐らく菌が繁殖してます。ただ、塩を入れれば菌の繁殖を抑えれますが適切な量が分からないので、そこは追々おいおい試してみるといいでしょう」


 私は料理人に知っている限りのことを話すと、「へぇー」と私以外の三人は感心していた。


 ――それから充実した日々を送った私は、今日、高家こうけを去る。高輔らには昨日、いとまを告げた。


 私がいなくとも、洛陽から次々と西域の調理具を手に入れるだろうし、発酵技術も発展していき益々、パンに近づいたものが出来るだろう。パン種を使ってなかったり、二次発酵をしていないので二一世紀のパンには程遠い食感には違いないが。


 にもかくにも高家は安泰あんたいといっていい、乱世さえ訪れなければ。


「お世話になりました!」


 後ろを振り返り戸口とぐちの前に立っている高家の人々に挨拶をする。


「約束は守ろう、そちが高家の招聘されていたことを」


「お願いします」


 昨日、暇を告げるときに褒美をもらう話になり、売り上げの一部を金銀として家に贈るのと私が高家の手伝いをしていたことを口止めしてもらうのを約束した。ただ、それだけでは恩を返すには物足りないらしくて何か必要なものがあれば後日、手紙で知らせてくれとのことだ。


「田豫君、また会おうね!」


「ええ、玲華もお元気で!」


 そう言って、お互いに手を振った後、私は高家から去った。


 また、漁陽ぎょよう県から雍奴ようど県に徒歩で戻るのは時間がかかり過ぎるため、雍奴県からつかわされた周琳しゅうりんが馬に乗せてくれることになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る