第一七話 男、田豫動きます

 私と杏英の前には狼。恐らく、私達が動き出したら、目の前にいる狼は追いかけて来るに違いない。


「杏英は、その長剣を捨ててください」


 私は横にいる女の子に指示した。


「何故なのだ」


「そんな重い物を持っては逃げきれませんよ」


「むぅ……」


 どうやら嫌な様だ。


「狼から逃げきったら兵に回収させますから」


 そんな権力、私には無いけどな。


「……致し方ない」


 杏英は渋々、地面に長剣を突き刺した。


「ではゆっくり後退しますよ。いきなり走っては動物が興奮して追いかけてきますから」


「うむ……時に田豫でんよ、何処に行くのだ?」


 彼女は私と一緒にゆっくり後退しながら聞いてきた。ちなみに狼は恐ろしいことに私達の速度に合わせてゆっくり着いて来ているようだ。


 やはり、そう簡単に逃してくれないか。面倒な。


「近くにある丘に近づきます。君もあの丘から落ちてここにいるんじゃないですか?」


「そうだが……あそこに行くにはわざわざ回り込まないといけないのだが」


「それでいいんです」


「?」


 杏英には疑問が残ったようだ。とりあえず今は私の指示に従ってくれ。


 私達はゆっくり近づいて来ている狼を見ながら後退し続けた。一向に獣との距離が縮まらない。それどころか追ってきている獰猛な動物の背後から新たな狼が一匹現れた。新たな獣が現れたときには杏英は肩をビクッと震わせていた。さすがに怖いのだろう。


 冷や汗が流れる。動悸が速くなる。さらに三匹目の狼が現れる。


 やはり群れで行動していたんだ。一匹狼なら良かったのにな。


 丘に近づくにつれ木々の密度が高くなる。来たときと変わらず険阻な地形だ。


「おい! 本当にこのままで大丈夫なのか」


「……次はあそこに行きます」


「⁉」


 私が指差した方向はかなり険阻な山林。木々の密度がより一層濃くなり歩くのに一苦労。丘に向かう道の中で最も悪路だ。


「あんな所入ったら逃げれないのだが」


「兵法書である『六韜りくとう』の戦騎編には平坦な地には騎兵を使うと記されています」


「お前……まさか『六韜』を暗唱しているのか⁉」


 杏英は驚いていた。毎日、読んでいるからな。もっと褒めてくれ、ほらほら。


 しかし、彼女はそれ以降、何も言わなかったので私は話を続ける事にした、狼を横目にしながら。ほんと肝が冷えっぱなしだ。杏英もそうに違いない。


「私が言ったのは騎兵の優位性を生かす為に平坦な場所を選ぶべきという事です。山林、河川などは本来避けるべきなのです」


「あたし達は馬なんて持っていないのだが」


「私達ではありませんよ」


「あっ……狼の方か」


 杏英は私の言葉に納得したようだ。


 そう、『六韜』の記述を逆手に取ると、騎兵を相手にするには険阻な地形を選べばいいという事になる。私は機動力のある狼を馬に見立てて、あえて悪路に進む事にしたのだ。


 そして、私達は険阻な山林の中に突入したのだが。狼は『オオォォォン!』と雄叫びをあげ、私達に向かって駆け出す!


 どうやら私達が悪路に進むのが分かったようだ。賢い獣だ。周琳しゅうりん程全ていぜんより賢そう。


「田豫!」


「分かっています!」


 当然、私達も駆け出す! 人一人分しか通れない木々の隙間を通っていた。その上、林の中は入り組んでいた。

 

 必死に走る! 葉に腕を引っかかれ、木の枝が頬を掠める! 悪路故に狼も進行に手間取っているようだ!


 私の前方には杏英、後方には三匹の狼が連なっている。息を切れしながらも私は叫ぶ。


「はぁ、はぁ! 丘の方にっ、向かうのです!」


「はぁはぁ、わ、分かったのだ!」


 丘に向かうには斜面を登る事になる。当然、私達の走る速度は遅くなり狼に追いつかれる事になるが、計算の内だ!


 狼に追いつかれる前に、私は即座に背中にある弓を手に持ち、矢をつがえる! そして、後ろを振り向いた瞬間! 


「穿て!」


 私は矢を放った!


 ビュン!


 と空気を裂いて矢は飛ぶ。そして『クォォン』と鳴いて狼は倒れた。矢は獰猛な動物の眉間に刺さったのだ!


 しかし、残りの二匹の狼は倒れた仲間を乗り越えて来た。


「で、田豫! す、凄いじゃないか!」


 杏英は私を褒めた。もっと賞賛をくれ。


 走りながら私は再び矢をつがえ、振り向いた瞬間に弓をひいて発射!


 矢は当たった――木の枝に。


 運悪く、強風が吹いたのだ。弓矢は遠くから敵を攻撃できる強力な武器だ。しかし強風という弱点がある。追い風でさえ狙い通りにならない。こればかりは経験を積んで風の流れに合わせて矢を放つしかない。


「何をやっているのだ!」


「えぇ……」


 杏英に怒られた。上げて落とすな。


 私達は走ってるうちについに林を抜け丘に続く斜面を登っていた。


「障害物はないが、大丈夫なのか⁉」


「この斜面の上なら、林の中から狼が出てくるのが良く見えます!」


「それを狙っていたのだな」


「これも兵法書ですが『孫子そんし』の行軍篇には高所にいる敵を攻撃してはなりませんと記されています。それを逆手に取るのです!」


 山地での戦いでは高所に布陣するのが定石。高い所に居る方が敵情を把握しやすく、攻撃する時は勢いをつけることが出来るからだ。


 ただし、高所に布陣する事が良いとは限らない場合もある。二二八年春の第一次北伐――いわゆる蜀国が魏国に対して行った軍事行動において、唯一勝機が大きかった戦で撤退を余儀なくされている。原因は諸葛亮しょかつりょうの愛弟子である馬謖ばしょくが高所で布陣したせいだ。


 彼は水路を捨てて兵士達を渇水で苦しめてしまったのだ。しかも山全体を包囲されてしまい絶体絶命に陥ったのだ。


 彼も今の私と同じく『孫子』に倣ったと思う。しかし、兵法書というのは読むだけでは役に立たない。前提条件や記されていない事柄も含めて熟考を重ねる必要がある。そうして兵法書は真価を発揮する。


 丘に続く斜面で立ち止まり、私は弓矢を構える。そして一秒もしないうちに林の中から狼が一匹飛び出してくる!


「穿て!」


 矢を放ち、難無く狼の頭部を射ると、あっさりと倒れる!


「油断するでない」


「分かっています!」


 最後の一匹が林の中から飛び出す!


「終わりです!」


 矢筒から素早く矢を取り、弦に添え、放つ!


 ビュン! 


 矢は狼の胴体に当たるが未だに動いている。しかし、明らかに獣の移動速度が落ちている。


 ビュン!


 間髪入れずに矢で狼を射ると、獰猛な動物は動かなくなった。


「はぁ……はぁ……」


 終わった。なんとか生き残った。


「……お前は凄いのな」


 杏英は私を褒め称えて、頭をポンポンと叩いていた。どうせならハグにしてくれ。いや待てよ、私の精神年齢的に犯罪臭が……。精神年齢が肉体年齢につられている低くなっている感覚はあるが、根底にある倫理観はまだ変わってないらしい。


「どうしたのだ?」


「いえいえ! なんでもないです」


 私は首を横に振る。


 とにかく助かった。その後、丘の方に行くと誰も居なかった。きっと周琳しゅうりんは私を探しに行ったに違いない。しばらく、その場で待機していると杏英を捜索している県の兵と会って無事、帰路に着いたのであった。

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