2・愛せぬならば殺すが?

 苦悩を凝らすようにたどたどしく語るリシュエドの声は重くエステルの胸に響いた。

 子爵家の邸宅の応接間で、二人はいた。

 いや、そこにはテイスも同席していて、驚愕に固まった橙の目で、リシュエドを見つめていた。


 ただ、エステルはそれを気にしている余裕はない。

 リシュエドに言われた言葉が衝撃的過ぎて、すべてのことが頭に入って来ないのだ。


 最近、リシュエドが思いつめていて、そして、何かを自分に言い出せずに、何度も躊躇っていた。


 それが別れの兆しだとは絶対に思えずに、

 少し嫌な予感はしたけど、それでも、エステルはリシュエドを信じていた。


 愛情深い人だと思っていたし、自分への愛を疑っていなかった。それなのに・・・。


 リシュエドは白金色の髪をうるさげになでつけるようにして、そこからエステルを見た。


 その表情は深いエステル嫌悪の情とそれまでも思いをふっきるような爽快さがあった。


「僕ははじめから、君のことなどどうでもよかったんだ。愛なんてはじめからなかったんだよ。親の言いつけで仕方なく君と付き合っていた。婦人の愛は素敵だよ。とろけそうになる。僕は夢中だよ」


 衝撃的な言葉だった。


 一方的に言われてエステルの胸はざわついて、体から血の気が引いていく想いだった。


 ウソ・・・。


 婦人とのうわさがあったのは知っている。ただ、上司とだけ聞いていたし、それを疑っていなかったエステルだ。

 リシュエドは、領都で官僚になったとき、多くの大人の人と会うようになった。


 その中の一人が伯爵婦人だったんだ。結婚している人だし、エステルが会った感じだと、男の人の逞しい腕の話なんてして、すこしいやらしい笑いを浮かべる人だと思ったけど、悪い人には思えなかった。


「ふざけるなよっ。君がそういうヤツだとは思わなかったよ。どういうつもりだっ。おいっ」


 テイスが怒りをあらわにして、リシュエドの襟首をつかんで揺さぶる。


 ぐらぐらと首を揺さぶられて、ただ、リシュエドはへらへらと笑っている。


 室内に嫌な空気が流れる。


 魔道時計のコチコチとした音が、ただ、しばらく響いて、そこからしばらく時間が経つ。


(なにを・・・言われてるの・・・私・・・)


 エステルは頭が混乱してうまく考えがまとまらなくなっていた。


 そのうちに何事か、テイスとリシュエドが言い争いをしたのはわかったが、すべてのことがあまりにも衝撃的で、エステルには頭の中で、ウソ、と繰り返すことしかできなかった。


 ウソ! ウソ! ウソ! ウソ!


 そう言っているうちに、リシュエドがテイスを無視して、やけにすっきりとした顔でエステルを見た。


「―――終わってるんだよ。君とは」


 ガンッと突き刺さるような冷たい言葉だ。すべての愛を凍らすような冷たい言葉で、なにか大切なものを軽げに遊びで捨て去るような、そんな残酷な言葉だ。


「もう・・・、僕に近づかないでくれ。僕は婦人との間で真実の愛を知ったんだ」


「嘘だよ。リシュエドぉ」


「愛だよ。愛だ。すべては真実の愛なんだ・・・愛だ。君も愛に目覚めたらいい。エステル。素晴らしいよ」


 言われてエステルはただショックを受けて、そのまま、リシュエドの邸宅を飛び出していた。


 ただならぬ様子に門番が止めようとしたが、それを振り払って、エステルは夢中で走って行く。


「エステルッ」


 テイスが叫んだが、その声はエステルには届かなかった。





 夕闇が薄く辺りをつつみはじめ、夜が近づいて来ようとしていた。

 どこをどうやって彷徨ったのかはわからない。

 ただ、エステルは自分の気持ちがどうしようもなくて、駆け出していた。


 日はいつの間にか落ちて薄暗くなっている。


 領都は広い。

 都市部にしか住まないエステルは、その夜の怖さを知らぬままにただ家には帰りたくなくて、裏路地に入り込んでいた。


 裏路地には素性の良くない冒険者がよくたむろしている。

 カモがいるとみると寄ってたかって、身ぐるみを剥いだり、恐喝等をやってしぶとく生き残っているのだ。


 だから普通の人間は立ち寄らないし、ましてや貴族の令嬢がともも連れずに出入りするような場所ではない。


 ただ、16歳のエステルはそれを聞いたことがなかったし、そんな場所にエステルが行くことなど、

 両親も注意していなかった。


 それがずいぶんまずいことになった。


 路地裏の酒場で、外の机で酒を飲んでいた3人組の冒険者が、ふらふらと路地を歩くエステルに目を止めた。


「おい。女じゃねえか?」


「女がいるぜ?」


「ひょーー。女だ」


 荒んだ風の怖い顔の男たちがぞろぞろとエステルを囲んで来た。気づくと、エステルは3人の男に囲まれて、

 身動きが取れない状態になっていた。


「冒険者界隈じゃ見ねえ女だ。貴族じゃねえか?」


「貴族か? 気に喰わねえな。やっちまうか?」


「ああ。さらってやっちまおう」


 男たちがそう声を掛けてエステルに掴みかかろうとしたとき、エステルはようやく状況を掴んで声をあげた。


「ひっ。やめっ」


 ただ、遅かった。


 そのままエステルは男たちに体をなぶられて、


 ぐしゃんッ  ぐしゃんッ  ぐしゃんッ に、


 そのときだ!


 ぬっと夕方の強い日差しにやたらに背の高い影が差して、それが男たちの後ろに立った。


 そして次の瞬間、西日が雲に隠れて、辺りが少し暗くなり、その陰の姿を隠した。


 途端、その陰は強烈な動きで動いた。


 そして、それは男たちの方に突然狂暴に

 まるで鋭い刃物の竜巻が突っ込むように突っ込んで飛び掛かった。


 それは黒々とした凶悪な目を持った鋭い狂暴な人間の姿をした巨大な捕食者の爬虫類のように見えた。


 身をひるがえし、男の一人の腹に下蹴りをその長い脚で見舞う。


「げが、」


 それから走り込んで行って、ものすごい勢いで拳をもう一人の脇腹に食い込ませた。


「うが、ごぇ」


 最後に、長い脚を伸ばし、カカト落としを最後の男に食らわす。


「ごっ、」


「な、なにしやが、テメぇえ」


 男たちが苦悶の表情を浮かべながら、その凶悪そのもののそれに飛び掛かろうとした。

 だが、それは一瞬で、それはジュルスアデスの大樹のような狂暴そうな体を見ると、

 男たちは表情を引き攣らせて、そのまま怯えてその場から去って行った。


「お、おぼえてやがれッ。て、てめえっ」


 エステルの一時期の危機は去った。だが、それは新たなピンチにしか思えなかった。

 その狂暴なそれはうす暗闇の中で、確かにすっくりと立ち、こちらの方をチラリと見たのだ。


 エステルが震えて口をガチガチしていると、その陰が動いてエステルの前に確かな

 恐怖の存在感でカツカツとやって来た。


「ひっ」


 エステルはなにが起こったか分からずに、ただ、その場で立ちすくんでいた。


 ずいとその陰の男は、うす暗闇の中で、

 目の前まで来ると、ゆっくりと肩を鳴らして、しばらく品定めするように

 エステルのことをじっと、黒い、深い深い凶悪そうな黒の瞳で見つめた。


 なぜか暗闇で目が光っていた。


 西日が雲から抜けてようやくエステルはようやくその男の姿がはっきりと見えた。


 2メートルを超える長身の男だった。ひどくすらりとした体なのに、筋肉がまるで獣のように全身をシャープに覆っている。その体つきからは肉食獣のような凶暴さを感じさせた。

 

 黒い竜骨服を着ていて、そこには豪奢な金と銀の装飾があり、身姿は美しい。


 夕方のうす暗闇の中に立つその姿はどこか悪魔の化身のように超然としていて、人間のように見えなかった。濃い気配と、禍々しい鋭い凶悪さが全身から漏れ出しているように見えるのだ。まるで、獣悪魔。いや、それよりはもっと強い刃物かなにかに見えた。


 足はすらりと長く、長髪に、深く血を煮詰めたような黒い、するどい一見すると酷薄そうにすら見える目をした男だった。


 エステルが間近に立つ男に怯えると、男はふっと、目を蛇のように細めて、それから笑った。


「女・・・お前は俺を愛せるか? 愛せるならば助けてやろう・・・ただ、愛せぬならば殺すが? どうする? 死にたいか?」


 するどい美しい爬虫類のようなような黒い目に睨まれるように言われて、エステルは身がすくんだ。

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