1・婚約破棄
「―――終わってるんだよ。君とは」
リシュエドはそう言って、黄金で撫でた白い淡雪のようなさらさらした髪を憂鬱そうに撫でて、エステルに白藍の冷たいエダルピデス山岳の稜線の視線を向けて切りつけるように言った。
もう夏なのに、ひどく冷えた声だった。
エステルはじわりと目から涙がにじみ出てくるのを感じた。
ウソよ。ウソ。ウソ。ウソに決まってる。ぜったいにウソ!!!
「もう僕に近づかないでくれッ。僕は婦人との間で真実の愛を知ったんだ」
痛い、痛すぎる言葉だ。
ウソ。ウソ。ウソ。ウソ!!!!
明らかに変わってしまった大好きだった幼馴染の態度。
それはエステルの心の中に消えない痛みとして残って、エステルは自分が絶望のリドルに立っていることを知った。
「嘘っ。そんなの絶対にうそよっ。伯爵婦人に会ってるなんて・・・嘘だよぉ」
「嘘じゃないさ。僕は・・・目覚めたんだ・・・愛だよ。愛・・・」
あい、が、こ、われ、る、、、よ、、、リシュエド・・・
(・・・ぜんぶ、嘘。・・・嘘だと言ってよ。リシュエドぉ・・・・)
嘘じゃなかった。
ぐしゃんッ
ときはさかのぼる。
夏がイバラの縁からこぼれた真雫のように通り過ぎようとしていた。涼し気になって来た季節だ。
今日、半日で学校の授業を終えたエステルは制服を脱いで、ワンピースに着替えていた。
よく袖を通す薄い木桃のワンピースに袖を通して、いつもより念入りに櫛を通した栗色の髪に、
母からもらったエルデントの藍色のリボンをつけて、エステルは姉のリンに声を掛ける。
「これでおかしいところはない姉さん。私可愛くなってる?」
「十分かわいいわ。エステル。リシュエドも絶対に気にいると思うわ」
「ほんとに?」
「ほんとよ。午後からデートね。楽しんでらっしゃい」
メイドも雇えない貧乏な男爵家で、姉と協力しあいながら着付けをつけるのは楽しい。
貧乏であっても、助け合いがあれば幸福に暮らせる。
たわいないやり取りの後に、エステル・エクスフィールは男爵家であるちいさなちいさな邸宅を意気揚々と出た。
その手には庭で育てた白の夏薔薇が抱えられていて、ふわりとした涼やかな芳香が匂ってくる。
それは自分たちにしか出来ない真心のプレゼント。
いつも同じものしか贈れない貧乏なエステルに、それでも、リシュエドは笑ってくれている。
父親が低級官吏でしかないエステルの家の暮らしは、リシュエドの家に比べて貧しい。
だが、それを気にしないリシュエドも、リシュエドの両親も、エステルは大好きだった。
愛に意味があるなら、それは触れ合う心と君の髪だけだよと、リシュエドは言う。
少し気取りながら照れ臭そうに自分の髪を撫でてかわいいと言ってくれるリシュエド。
そんなリシュエドをエステルは大好きだった。
まごころに意味があるのなら、私はあなたを永遠に愛する。
少し照れた16歳の気持ちのままに、エステルはまっすぐリシュエドを愛していた。
そのまま500メートル先になる幼馴染のリシュエド・リクセンの邸宅へ迷う事なく足は向かう。
今日は執務を終えたリシュエドと午後からデートだった。16歳ながらに仕事をしていて、
執務で忙しいリシュエドに頼み込んでやっと取り付けた特別な日。
馬車は用立てていない。すぐ近くにリシュエドの家はあるのだ。
「こんにちわ。門番さん。リシュエドは会いに来たわ。リシュエド。いるかしら? 約束はしているわ」
まるで我が家のような気軽さで門番に声をかけて早々に邸宅に入れば、リシュエドの邸宅に遊びに来ていた眼鏡のテイスが声をかけて来た。
テイスは伯爵婦人の胸をさっきまで弄ってた。
テイスがエステルに強い想いを寄せていることをエステルは知らない。
ただ、夏薔薇のようにまっすぐなエステルを、テイスは幼い容姿のまま、心の秘めた想いを捨てきれないでいた。
「なに? エステル。今日はリシュエドとデートだったの?」
「そうだよ。テイス、遊びに来てたの?」
「そんな話聞いてなかったけど。テイスのヤツ、デートの日に僕を呼ぶなんて・・・ふざけないでよ」
むすっとしたショタ顔で眼鏡のテイスに来やすくエステルは言った。橙色の瞳がすこし幼くかわいい。
テイスが弟だったらすごくかわいがるのにと、エステルはいつも思う。
それを口にすると、テイスはムスリとした顔で、エステルを睨むのだ。その想いの深さをエステルは知らない。
「気にしないでよ。テイス。リシュエドってそういうことあるから」
「まあ・・・そうだけどさ・・・僕の気持ちも考えないで。リシュエドのヤツ・・・」
ごにょごにょと小さくつぶやくテイスの言葉を気にしないで、エステルはテイスをおしゃべりをしてリシュエドを待つ。
「最近楽しいことあった? テイス」
「君と会えたことぐらいかな? 魔道学園でテストはあったけど、いつも通りだし。君に会えてくれしいよ。エステル」
「まあ、お世辞が上手だわ。テイス」
「お世辞じゃないよ。君に分かって欲しいとは思わないけど」
「口ばかりうまくなっても、ちっちゃい頃、私たち一緒に遊んでたから、あんまり意識しなくてきやすいわね!」
「・・・僕は本気で言ってるんだけどね。はい。これ、あげるよ」
テイスはすこしおずおずとガラスの瓶をそっとエステルに差し出して来た。
それはエステルの大好物。たまに食べたくても、
貧乏な男爵家の娘であるエステルには食べられないお菓子だった。
テイスはわりとさりげないように、こうやってエステルにお菓子をくれる。
エステルの家では買えないお菓子も、自分にはなんでもないものだと気安い感じに渡してくれるのだ。
伯爵家の次男であるテイスは裕福だ。ただ、自分のお小遣いでしかテイスはエステルにプレゼントを贈らない。
ひそかな想いがそこに詰まっているのだが、エステルはそれに気づかない。
気づかないままに、幼馴染のやさしさに目を素直に輝かすのだ。
きれいにガラス瓶に入った色鮮やかなマルトゥを見て、エステルが目の色を変える。
マルトゥとはエステルの大好きな魔法でできた砂糖のお菓子だ。
それを食べると、エステルはトロトロになる。そのはしばみ色の瞳がとろけるのを見るのがテイスは好きだった。
その瞳が輝くと、胸がちくりと疼くのだ。
「わあっ! ありがとう、テイス。大好き!」
それから、リシュエドがやって来るまで、おしゃべりを続けた。リシュエドはなかなかやって来なくて、
ただ、3人で一緒に遊んだこともある、テイスとのおしゃべりはどこまでも楽しく、マルトゥは甘やかだった。
(リシュエドにも食べさせてあげたい! きっと気にいると思うわ)
エステルは少し素直じゃないリシュエドが気取った風になりながら、少しうれしそうにマルトゥを食べる姿を想像して、
ふにゃりと表情を緩めた。
エステルとリシュエドはともに16歳。この辺境の地、エルビレダを治める辺境伯の下で領都に土地を持つ貴族同士。
男爵令嬢として産まれたエステルと、子爵の令息であるリシュエド。
二人は互いの家同士が付き合いがある関係で、小さい頃から兄弟のように育った。
そこに伯爵家の次男であるテイスが加わって、3人はどこまでも楽しく暮らしていた。歳が広がって、
年頃になると、お互いの行き来が、いつの間にか恋愛感情に近づいて行き、
そして、親同士との取り決めで、すぐに婚約は決まった。
リシュエドは少しカッコつけたところがあって鼻に来るところはあるけれど、エステルには優しい。
エステルが両親に叱られたときも、少し気取りながら助けてくれたし、泣いたときは抱きしめてくれた。
嫌なことがあると、いつも声をかけてくれる。
そんなリシュエドのことをエステルは異性としてどんどん好きになって行った。
そしてリシュエドも明らかにエステルと他の女の子では接し方が違っていた。
もともと女の子にモテるリシュエドに、エステルはやきもきすることが多かったけど、
リシュエドはモテていても他の女の子は軽くあしらって、エステルを特別扱いしてくれた。
いつか結婚する相手だから当然だとしても、モテるリシュエドから特別扱いされるエステルはすごくうれしかった
いつか夢が叶って、二人で白い協会区の塔で式を挙げるのが夢だった。
そんな二人の生活が少し違ってきたのは丁度、半年前。
15歳になったリシュエドは学園には通わずに、領都勤めの手習いとして、辺境伯に気に入られて、
政務をはじめた。リシュエドの両親は息子が領都勤めを始めたことにすごく喜んで、彼を応援した。
末は領都で活躍する官僚になるという夢を語るリシュエドを、エステルは少し寂しい気持ちになりながら、
本気で心から応援していた。
寂しい気持ちはあったけど、それで、彼の夢が叶うなら応援したい気持ちになっていたのだ。
けれど、エルビレタの領都勤めを初めてから、リシュエドの態度が劇的に変わった。
普段から忙しい、忙しいと言い、エステルに会ってくれる機会が激減したのだ。
そして、そんな中、
彼の悪い噂も立ち始めた。
伯爵婦人と愛し合い始めたというのだ。
そんなことは絶対にないとエステルは打ち消したし、リシュエドも首を振ったけれど、
それでも、その噂は消えることがなかった。
そして、今日、リシュエドが言ったのだ。テイスがいる目の前で。
夕日がうっすらとエリビダス山に掛かり、オレンジの斜光が室内に差し掛かり始めたときのことだった。
「君と・・・婚約破棄したい・・・エステル。僕は・・・伯爵婦人を愛してる」
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