第7話 いざ入居へ

 実はまだ、俺たちは引っ越し先を内見していない。

 図面を見て、焼津社長から説明を受けた限りでは、二人で住むのに十分な広さで、紺の配信に必須な防音室も整っているとのことだ。

 条件としては申し分ない。だが、俺には不安があった。


 焼津社長の顔だ。


 あのいつも落ち着き払った彼女が、物件の話をするたびに少しだけ表情を引きつらせていたのだ。

 これは何かあるに違いない。


「で、着いたわけだけど……なんだこれ、普通に良くないか?」


 目の前にそびえるマンションは、何の変哲もない外観だった。

 古すぎるわけでもなく、新築というわけでもない。

 高さもそこそこ、住むにはちょうどいいお安めの雰囲気が漂っている。


 紺が俺の横で、少し意外そうな顔をして言った。


「そうですね、意外と普通というか……全然悪くないですね!」


 紺がホッとした表情を浮かべるのを見て、俺も少しだけ肩の力を抜いた。

 あの焼津社長がどこか引っかかるようなことを言うから気になっていたが、外見を見る限り何の問題もなさそうだ。


「よし、とりあえず中を確認しよう。荷物を運び込む準備もあるしな」

「はいっ!」


 いざ、部屋の中へ。

 マンション内に入り、エレベーターで目的の階まで上がる。

 廊下も清潔で、壁紙が剥がれているようなこともない。

 部屋の鍵を開け、中に入ると——


「おお、いい感じじゃないか!?」


 室内は明るく、家具の配置がしやすそうな広さだった。

 防音室も確かに存在し、紺が喜んで「これで夜中でも騒げますね♪」とテンションを上げている。


「いや、そんなに夜中に騒がないでくれよ。俺も寝たいんだから」

「でも、夜中の方が集中できるんですよ~!」

「そういう問題じゃないだろ」


 そんな軽口を叩きながら、俺たちは荷物を運び込んでいく。


 ここまで妙な所は一つもなかった。

 ひとまず荷物を入れ終えると、エントランスに焼津社長が現れる。

 相変わらずクールな佇まいで、「二人とも頑張ってね」と励ましの言葉をくれた。

 だが、やはり聞きたいことはある。


「社長、本当に何も問題ないんですよね?」


 俺が改めて念を押すと、彼女は一瞬だけ目を逸らしてから、柔らかな笑みを浮かべた。


「……何もないわよ。きっと楽しく暮らせると思うよ。」


 焼津社長は、例の曖昧な微笑みを浮かべたままそう言った。


「今、絶対に何かをぼかしましたよね?」


 俺がツッコむと、社長は「気のせいじゃないかな」と言い残し、さっと立ち去ってしまった。

 その背中を見送りながら、俺と紺は不安な空気を共有する。

 いや、絶対何かあるだろ。


 と、そんな時だった。


「こんにちは~! 新しい入居者さんですよねっ♪」


 軽快な声が後ろから聞こえた。

 振り返ると、派手なオレンジのカーディガンを羽織り、短めのスカートに長いストレートヘアを揺らした女性が立っていた。

 年齢は20代半ばくらいだろうか。明るい笑顔を浮かべながらも、どこかズレた雰囲気が漂っている。


「えっと、はい。よろしくお願いします」

「よろしくお願いしますー♪」


 俺と紺が挨拶をすると、女性はにっこり笑いながら手を差し出してきた。


「よろしくね~。私、相模麗香。このマンションの管理人してるよ。仲良くしてね~」


 元気よく握手を交わした彼女は、そのまま俺たちをじっと見つめた。

 気さくな挨拶の次に訳知り顔でこのような事を尋ねてきた。


「葵から聞いたよ~ワケありなんだってね?」


 葵というのは、焼津社長の下の名前だ。

 親しい仲であることが伺える。


「わ、訳あり……ってところなんですかね?」

「そりゃもう! ここって良い物件でしょう? 知ってる人にしか紹介しない部屋ばっかりだからさ、君たちもそうなんだろうなって」

「あはは、相模さんもうそこまで知ってるんですか~」


 紺が気さくに笑う。人見知りの俺には少し助かったなと思わされる。


「そりゃあね、葵から色々聞いてるから。付き合いたてのカップルも大変だね~」

「あはは」


 すると、ふっと小さく呟くように言った。


「まぁ、この部屋も長く続けばいいんだけどねぇ~。」

「……え?」


 耳を疑った俺が反射的に聞き返すと、相模さんは「あ、何でもない!」と軽く笑い飛ばした。

 その笑顔の裏に何か含みがあるような気がするのは俺の気のせいだろうか。


 紺が俺の袖をぎゅっと掴んできた。


「シューチさん、ちょっと怖いです……。」

「いや、大丈夫だって。何かあったら俺が何とかするから。」


 自分に言い聞かせるように答える俺。

 相模さんはそんな俺たちの様子を面白そうに眺めながら、くるりと踵を返した。


「あ、そうそう。もし何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってね! いつでもマスターキーで助けに行くから~!」


 マスターキーって、そんな気軽に使うもんじゃないだろ……。

 俺がツッコむ間もなく、彼女は手を振りながら階段を下りていった。


 俺たちは部屋の中に戻り、荷解きを始めた。

 それでも頭の片隅には、さっきの管理人の言葉が引っかかっていた。


「ねぇ、シューチさん……この部屋、本当に何もない部屋ですよね?」


 紺が不安げに尋ねる。


「ああ……何もないはずだろ、多分」


 たぶん、と付け加えた自分に呆れる。

 焼津社長の曖昧な態度と管理人の怪しい一言のせいで、疑心暗鬼に陥りそうだ。


「……とりあえず住んでみてから考えよう。」

「そうですよね! そうですよね!」


 紺は無理やり元気を出したような声を上げる。

 だけど、彼女の視線は時折玄関の方へと向けられていた。

 まるで幽霊が現れるのを警戒しているかのように。


 俺も気を取り直して、段ボール箱を手に取った。

 新しい生活のスタートだというのに、このモヤモヤ感はなんなんだろうな……。

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