第3話 福利厚生
俺と紺が同棲話に花を咲かせていたところ、ふいに優雅な声が空間を切り裂いた。
「その話、聞かせてもらったよ」
その声の主は焼津社長。
かつての俺の先輩で、現在はVision Codeのトップとして事務所を牽引している。
彼女は長い髪を上品に一つにまとめ、俺たちに向けてなんとも言えない品のある微笑を浮かべていた。
「二人はどんな家で住みたいのかしら?」
いや、今もう難しいだろうなって話になったところである。
だけど、紺はここぞとばかりに主張した。
「えっと、静かで、広めの場所がいいですね! 私の配信用のスペースも欲しいし、シューチさんのための書斎もですっ♪」
なんて理想の高い部屋なんだと思った。
「流石にないだろそんな部屋」
紺の配信用のスペースって、防音室みたいなものだろう。
それで二人のプライベートの空間というのは高望みしすぎだろう。
俺が不安そうに呟くと、焼津社長はくすっと笑い、さらりと言葉を返した。
「心配しないで、ちょうどいい物件があるよ」
「へ?」
俺は聞き返してしまった。
社長は何やら計画があるようである。
「知り合いのツテでね、配信者用に紹介している物件がいくつかあるんだよ。もちろん非公開だけどね」
相変わらず焼津先輩の人脈やコネはすごいなと思った。
だけど、他にも心配ごとはある。
「でも、そんな物件高いんじゃないか……?」
ケチ臭いかもしれないが、同棲というのは現実を見なければならない。
お互いの無理のない範囲で暮らすことが前提である。
だけど、先輩は言うのだ。
「大丈夫、会社から住宅手当も支給するわ」
「住宅手当……なんですか、それ?」
紺が軽く悲しそうな顔で見る。
「シューチさん、ただの福利厚生ですよ……?」
「福利厚生……?」
「そうです、ここはもう前みたいなブラック企業じゃないんです」
到底信じ切れず、俺は疑いの目ばかり向けてしまう。
「それって本当に大丈夫なのか……?」
俺の声に、焼津社長は少し呆れたように目を細めた。
「大丈夫だって言ってるじゃない。信じてよ、シューチくん」
彼女は腕を組みながら促す。
紺も期待に胸を膨らませながら、俺の反応をうかがっている。
明るい未来を想像しているようだが、俺はまだ少し現実的な心配が抜けない。
「だって、いくらなんでも……そんな甘い話、あり得なくないか?」
社長がため息をついてこう答えた。
「私たちの事務所は違うよ。従業員が幸せでなければ、その分作品にも反映されるから」
焼津社長はそう断言すると、少し間を置いてから続けた。
「シューチくんにはこれまで本当にお世話になったし、事務所を盛り上げてもらいたい。それに、あなたたち二人の幸せが、視聴者にも良い影響を与えるはずよ」
彼女の言葉には、いつもの冷静さと確信がにじみ出ている。
俺も紺も、そんな焼津社長の熱意に押される形で、少しずつ心が動かされていく。
「まぁ、ちゃんと結果や数字を出してくれなければ福利厚生はなかったことにするけど」
「やっぱり甘い話じゃないぞ紺、騙されるな」
「慈善団体じゃなくて営利団体なの、私たちは」
そのやり取りに、クスッと笑う紺。
それに対し、社長は言う。
「紺ちゃんは、シューチくんと一緒に住むことにどれだけ期待してる?」
彼女は笑いながら紺を見る。
「とってもです! 毎日シューチさんと一緒にいられるなんて、夢みたいです♪」
紺のその言葉に、俺は思わず顔が緩む。
確かに、彼女との日々は楽しそうだ。
同棲となれば、一緒に過ごす時間もぐんと増える。
「だから早く出世して私が引退しても養えるくらいにはなっていてほしいですけど♪」
「……」
俺が落ち込むと「冗談ですよ~♡」と慰められた。
「まぁ、それは上司の私が責任を持って何とかするとして……ちょっと具体的に見てみない?」
焼津社長はノートパソコンを開き、画面を指でスライドしながら説明を始めた。
「ここだよ。見ての通り、最新の防音設備が整ってるし、広々としてるから、紺ちゃんの配信スペースにも困らないわね。そして、シューチくんのための書斎も完備しているから、仕事に集中できる環境が整っているの。まぁ、ちょっと田舎になっちゃうけど」
画面に映し出される物件は、現代的なデザインで、俺たちの理想を具体化したかのような内装が広がっていた。
「こんな素敵な場所で暮らせたら、毎日がもっと楽しくなりそう……」
紺が嬉しそうにつぶやく。
「それに、ここならシューチくんのストーカー被害も収まるでしょうし」
「え、知ってたんですか?」
「そりゃもちろん。だって、伊豆さんから君に良い物件があったら紹介してって言われていたから」
社長の言葉に、俺はちょっと戸惑った。
伊豆も関与しているなんて、全く気づかなかったからだ。
「まぁ、こうでもしないと今のところから引っ越しして同棲なんかしないだろうからって、言ってたんだけどね……」
「え、今なんて」
焼津社長は苦笑しながら「なんでもないよ」と言った。
そんな話を聞いて、俺は少し感謝と同時に複雑な気持ちになった。
伊豆は前にはちょっとイタズラばかりしてくるが、本気で俺のことを心配してくれているのかもしれない。
紺が隣でニコニコと俺の反応を見ていた。
彼女はきっと、俺がどんな表情をするのか楽しみにしているのだろう。
「それで、伊豆さんからのプッシュもあって、君たちにピッタリの物件を探し出したわけ。全ては君たちが安心して暮らせるようにね」
紺は目を輝かせながら、その画面を見つめている。
彼女は特に配信スペースに興味があるようで、その設備について焼津社長に色々と質問をしていた。
「配信スペースはどのくらいの大きさですか? 私、たまに大道具を使うこともあるので……」
「大丈夫よ、ここの一室は広めに作られていて、そういう用途にも対応できるから」
焼津社長の説明を聞きながら、俺も少しずつこの新しい住まいのことを理解してきた。
そして、この環境であれば、紺と一緒に新しい生活を始めることにも抵抗がなくなってきた。
「じゃあ、実際に見に行ってみようか?」
と焼津社長が提案すると、紺は喜びを隠しきれずに頷いた。
「是非! 実際にその空間を感じてみたいです!」
俺も紺の意見に同意し、焼津社長の計らいでその物件を見に行くことにした。
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