第45話 一難去ってまた

 どれくらいの時間が経っただろう。視線を落とすと、胸の中で子猫のように小さく佇む彼女。見ていると心と身体がじんわりと温かくなるのを感じる。

 また、数秒間隔で思わずぎゅっと抱きしめてしまう自分がいた。


 紺はこのままでいいのだろうか。迷惑に感じたりしていないか。


 ――なんて、もう野暮なことは考えない。

 ぎゅっと軽く抱き締めると、彼女も応えてくれる。


「えへへ、もっとシていいんですよ」

「な、なにを?」

「んーー?♡」


 これで誘惑まで始める始末。

 いつものことだが、たまったものじゃない。

 こんな状況で耐えられる男がいるわけがないだろうに。


「例えばですね~こうですっ! んーっ……♡」


 背伸びをし、俺の唇をまた奪いにきた。


「……っ!?」


 頭が溶かされ、目がぼやけるほどに麻薬的な味だった。

 これを30年間経験してこなかった事を恐ろしいと思うほどに甘美で、濃密な味である。


「ん、んっ、ん……♡」


 あの不意打ちの時とは違って、長く味わってくださいよといわんばかり。

 感情が津波のように大きく押し寄せてくる。

 紺が幾度となく攻めに徹してくるのがまた胸が熱くなる。


 もう無理だ。

 理性が崩壊し、自分を保てなくなる……そう思った矢先だった。


「——大変よ二人ともっ!? ってきゃああぁぁぁっ!?」


 バタン!!

 扉を容赦なくひっぱたくように開かれる。

 それはイズミだった。

 助かったと思う反面、野暮な登場にまた新たな厄介事が訪れるのだろうと思わんばかり。


「……イズミちゃん邪魔しないでくれる?」


 唐突に、紺の口から辛辣な言葉が飛び出る。


「え、えぇっ!?」


 俺も同じ気持ちだが、言葉にされると照れ臭いが……


「そうだぞ、タイミングってのを考えろ」

「いやアンタまでっ!? アタシを邪魔者扱いやめて欲しいんだけど!?」

「邪魔というか、邪魔ですが……」

「ひっど!? アタシにそこまで言う!?」


 俺まで紺に感化され、態度に出てしまった。

 まぁでも、来てくれたおかげで性的な意味で大事にならなくて済んだのも事実。


「せっかく来てあげたっていうのに何なのよこの扱いは……」


 救世主にしては不憫に思えてきた。


「流石にこの状況だしな……で、お前は何の用なんだ」


 流石にこのままではいけないというか、恥ずかしいので紺を引き離すと「あっ……」と声が漏れ、とても心が切ない気持ちにさせてくれる。

 俺も寂しくなるからそういう態度を出さないでくれ。

 イズミも当事者なのだから、流石に俺たちの間に何かあったくらいは察しているはずだ。


「そう、大変なの……って、何その神妙な顔は!?」


 それを踏まえてでも、何か大事な用があったからドアを勢いよく開けたのだろう。


 俺の視点はイズミではなく、壁である。

 ドアノブにブチ当たった壁が損傷していて、俺冷や汗をかいていた。


「俺の家じゃなくてよかったなぁと思って」


 紺も同じ意見らしく、イズミを非難した。


「そうですよ! イズミちゃん、人の家の壁をあんなにして!」

「ご、ごめんってば……今はそんなこと言ってる場合じゃないのよ」

「私たちの愛の巣を壊す気ですか!」

「あ、愛の巣……だと!?」


 え、紺の家に住ませてもらえる感じ?

 やったーあのボロ小屋からおさらばじゃないか。


「ごめんってば、ねぇーホント話をごちゃごちゃさせるのやめてくれない……? 大事な話があるのに全然切り出せないじゃないのよ」

「そうだった。話を戻すが本当に何の用なんだよ、勿体ぶってないで早く言えよ」

「あ、あのねぇ……元はといえばアンタたちが……」


 この謎の扱いに頭を抱えながら、イズミは言った。


「あぁ~~もういいや! とにかく大変なの! ちょっとこれ見て!」


 彼女はスマホを取り出しとある過去の配信を流し始めた。

 そこに映っているのは――

 

「「こ、これは……!?」」


 紺と口を揃えて驚愕する。

 配信内には俺たちと知っている者が映っていたのだ。

 何故こんなことが起こってしまったのか……俺たちが知る由もなかった。



 ◇◇◇◇



 これがただのイタズラならどれだけよかっただろうか。

 だが内容が内容で、俺達には避けて通れない問題にブチ当たってしまったのだ。

 下手したら、紺の契約解除も見込まれる……。


 というわけで、俺と紺はAnycodeに来ていた。

 紺の所属する事務所だ。


「はぁ……どうしてこうなったんだろうか」


 今回来たのはあまりよろしくない事情のためであって、足取りが重い。


「~♪ ~♪」


 紺が俺の腕を組んでいるせいかもしれないが、やめろとは言えない

 今日くらいは鼻歌がやめろとは言ったが、やめないので諦めた。


 受付より社長室に案内されて、二人でソファに仲良く腰かける。

 クッションがやわらかいせいか、同時にため息まで出てしまった。


「はぁ、俺の人生諦めてばっかりだな……」


 俺の様子を心配した紺が覗き込む。


「どうしたんですか、急に喋りだしたと思ったらまたネガティブですね」

「お前が楽観的過ぎるんだよ、どうするんだ最悪な自体が起きたらさ」

「うーん? 例えばどんなことでしょう?」


 永久追放とか……?

 業界のことあんまり知らないけど、ここはいわゆるクビに近いことだろう。

 あとは、それに追随するようなことを考えるとぞっとする。


「契約解除はもちろんそうだが、ネットの記事が頭に浮かぶんだよ。仮にも知名度高いだろお前、PV数稼ぎにありとあらゆる悪意ある捏造を書かれでもしたら……」


 これまで叩かれた数多くのタレントや有名人を思い出すと、気が気ではない。

 だが、青ざめた俺とは対照的に、紺はいつでも朗らかだ。


「そんなことですか? 平気ですよ~人生死ぬこと以外かすり傷っていうじゃないですか♪」

「それはそうだが……」

「例え天涯孤独になって住む家や食事に困ってても、生きていればきっと誰かが助けてくれるって信じてますのでー♪」

「…………すまん」


 重たすぎて言葉が出なかった。もうやめにしよう。


「ちょっとシューチさん黙らないでくださいよ~♡」


 紺がパシパシと叩いてくる。全然痛くない。

 紺がこれまで培ってきたモノを、俺のせいでぶち壊すんじゃないかと罪悪感を覚えているのだが、きっと紺は気にしていないのだろう。

 まぁでも、こんな事が起きるとは誰も想像しなかったとは思うんだよな――


「おや、もう来ていたんだね」


 俺たちの前に、ひげを生やした男性が現れた。

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