第41話 逃走
先輩の部屋の隣には紺の部屋がある。
彼女に会いたい一心で、唯一の侵入経路であるベランダを目指すことにした。危険を覚悟の上での行動だが、何が起ころうと彼女に会いたかった。
静かにベランダの扉に手をかけ、心を落ち着かせながらゆっくりと扉を開けると——
「は?」
という声が漏れた。
目の前には、予想もしていなかったイズミがいたのだ。
「お、どうも」
緊張を隠しきれずに俺は淡々と挨拶をした。
罪の意識がないわけではないが、その場の雰囲気に呑まれてしまったのかもしれない。
まるで酷い恐怖体験から逃れようとする防衛反応のように、俺は無意識に笑ってしまう。
イズミはその不可解な反応に呆気に取られているようだった。
「お邪魔するよ」
「あ、うん……?」
俺はそう言いながら部屋に足を踏み入れた。
しかし、イズミは突然、理解が追いつかないようで「は……? え、ひ、ひっ……!?」と言葉を詰まらせた。
「ん、どうした?」
ぱちくりと俺を見ては、驚愕した。
「ぎぃやゃああああぁぁぁ~~~~っ!?!?!?」
大きな声で叫ぶので俺までびっくりしそうだ。
「え、どうしたんだ」
「は、はぁっ!? アンタ犯罪者なの!? 泥棒みたいに女の子の家に勝手に入るなんて」
「いやこれしか経路がなくて」
「玄関から入ればいいでしょうが!?」
……あっ。
「確かにそうだった!?」
「今更かよ!?」
イズミは半ギレである。
そりゃそうだ、きっと紺が引きこもっているのを心配してここにやってきたのだろうから。
「いやでも……玄関から入る発想がなかった」
俺は申し訳なさそうに言うと、イズミは呆れた様子で「はぁ……」とため息をついた。
まだ会話の余地があると思い、俺は尋ねる。
「……それで、紺の様子はどう?」
「聞かなくても、アタシがあんな大声出したんだからじきに出てくるでしょ……ほら」
イズミは言いながら、一瞬の静寂を切り裂くように部屋の扉が開いた。
「どうしたのイズミちゃん……えっ」
紺が驚きの表情で部屋から顔を出す。
その姿に、俺は思わず言葉を詰まらせた。
「こ、紺……会いに来た」
声が震えるのを抑えながら何とか言葉を紡ぐ。
自分の拳を強く握りしめることで、感情を制御しようとしていた。
「会いに来たって、どういうことですか?」
「お前に謝りたくて」
紺の声には困惑が滲み出ている。
だから俺は直接的に、飾り気のない言葉で心の内を明かした。誤解されることを何よりも恐れていたからだ。
だが、紺は少し違った方向で考えてしまうらしい。
「……謝るなんて、いいですよ」
と、彼女は静かに言った。
その言葉に深い申し訳なさを感じ、俺は反射的に床に頭を下げる。
「悪かった、あの時のことは本当にごめん!」
「謝って欲しくて私はシューチさんの元から去ったんじゃないです」
「それでも……っ、俺は、お前のこと……」
「いやっ、聞きたくないです!」
彼女の声は一層の力を帯びていた。
紺は何かを手に取り、それを俺に向かって投げつけた。
「うわっ、おい危ないって!」
「せ、正当防衛ですっ!?」
紺は叫んだが、その声には疑問が混じっていた。
状況的には彼女の反応も無理はないかもしれない。
しかし、俺には退く選択肢はなかった。
「紺、聞いてくれ、俺は……っ!」
再び訴えかけるが、紺はその場を離れようとした。
「ぜーったいに聞きませんっ!!」
「ちょっ、どこ行くの……!?」
イズミの声に振り返ることなく、紺は叫びながら、俺の手の届かないところへと走り去っていく。
「あぁもう、アンタ追いかけなさいよっ」
「分かってるそのつもりだ!」
彼女の後ろ姿を追いかける中で、俺はあらためて自分の感情を言葉にしようと決意する。周りに吹く風が、紺との距離を象徴しているかのように感じられた。
◆◆◆◆
紺が急いで街中を駆け抜ける姿を目撃してから、俺は必死で彼女を追いかける。
——だが、思いの外早かった。
「ぜぇ、ぜぇ……なんで、あんなに早いんだよ……」
紺の速さは、まるで何かから逃れようとするかのように速く、人混みを糸を縫うように抜けて、喧騒な街から次第に静かな郊外へと足を運んだ。彼女のペースについていくのは容易ではなかったが、俺の心は一つの目的に突き動かされていた。
「で、でもっ……死ぬ……っ……」
漸くのことで追いついたのは、街の端にある小高い丘だった。
そこには古びた展望台があり、その木造の階段を彼女は息も絶え絶えに上がっている。
俺の根気勝ちというわけだ。
「はぁ……はぁ……もう、なんでくるんですか……」
どうしてだろうか。
今更考えてみれば、そこまで深く考えて走っていなかったように思えさえする。
ただ紺が逃げたから、追いかけただけ。
……いや、寂しそうに見えたから。
そしてその背中は、決意と不安で震えているように見えた。
俺も後を追い、彼女の隣に立つと、戸惑いと疲労で息を切らしている。
「はぁ、はぁ……はぁぁぁぁ……疲れたな……」
もう逃げないのだろうなと分かると、思わず力が抜けてしまう。
展望台からの眺めは圧巻で、夕日が街をオレンジ色に染め上げ、地平線に沈む準備をしていた。彼女は展望台の手すりにしがみつき、深い息を繰り返していた。そして、彼女の横顔は涙で濡れていた。
「紺」
俺は静かに紺の名前を呼ぶと、ゆっくりと俺の方を向いた。
彼女の瞳には不安と恐れが浮かんでいたが、どこかで俺を待っていたようにも見える。
「……ここまで来て、何を伝えたいんですか?」
紺は声を震わせながら尋ねた。
しばらく黙っていると、やがて静かに言葉を紡いだ。
「聞きたくないって言ったのに、どうしてまだ追いかけてくるの?」
「だって、お前のことが好きだからだよ」
俺の声は固く、情熱を込めていた。
「紺、お前を諦めたくないんだ。今まで何度も間違えて、お前を傷つけたかもしれない。でも、今だけはハッキリと言わせてくれ。俺はお前が好きだ」
彼女の目から新たな涙が流れ落ちる。
そして、ゆっくりと言葉を返した。
「うそ、ですよね……怖いです、シューチさんの言葉が……」
紺の表情に暗い影を落とした。
どうやら、俺の言葉を信用してくれていないようだ。
「本当に私を想っているのか、それともまた傷つけられるだけなのか……それが怖いです」
「それはどうして?」
「だって、一度私を拒絶したじゃないですか……えぇ、拒絶しました、しましたよ! 自分がどうとか、あぁだとかめんどくさい事言って! そんな事言った人の言葉、信じることなんか出来る訳ないじゃないですかっ!」
紺は怒った。
そりゃそうだろう、綿密に練った計画の末にした告白を、俺は台無しにしたのだから。
それほどにまで強く張った意地を、どうしてここで折ろうとするのか。その心境の変化は紺にとって困惑モノだろう。
「可哀想だと思ったんでしょ、独りよがりに思いを寄せて苦しんでいる私が。そして妥協してやってもいいかなって思えたんですよね、そうですよね私はこんなに可愛いんですから!」
「そうだけど、そうじゃない……うん、そうだけど……」
なんだろう、この言葉に詰まる感じ。
だけど、ヒステリックに続けてくるので言わざるを得ない。
「もういいです、だってシューチさんは私のことなーんにも知らないんですから。私のガワや配信にしか興味ないんですよね、知ってます」
……この言葉を言わせてしまった俺に、責任はある。
ずっと悩んでいたのだ。言い出せずにいたのだ。
だって、言ってしまえば、紺の思い出は安っぽいモノになってしまうから。
誰だって、過去は内に秘めていたい。
良いことも、悪いことも。
それぞれに理由はあって——
「これでシューチさんへの返事は全てですっ! 迷惑かけてごめんなさい、これからもずっと仲良しで——」
「——思い出したんだ」
紺には特別な記憶だったのだ。
「え……な、何がですか……?」
「本当に初めて……お前と会った時のことを」
ずっと紺が知って欲しかったこと。
どうして俺にずっと付きまとっていたのか。
今ここで、俺の恩返しを始めたいと思う。
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