第37話 失踪

 目覚めたとき、空気はすでに重かった。

 窓の外を見ると、早朝の薄闇が漂い、静けさが支配する旅館の景色が広がっている。


 しかし、その穏やかな景色とは裏腹に、胸の内は嵐のように乱れていた。

 なぜなら昨夜、紺とひどい喧嘩をしてしまったからだ。


「無職なのに、起きることがこんなにつらいなんて……」


 昨日の夜、喧嘩をしてしまった。

 その一つ一つが心に突き刺さるようで痛かった。


 俺は紺の求めることに応えられず、ただ黙って紺の言葉を受け止めるしかなかった。

 その無力感と、彼女を傷つけてしまった罪悪感が胸を締め付ける。


「仕方ないじゃないか、できないものはできないんだ...」


 と自分に言い聞かせながらも、その言葉がどれほど彼女を追い詰めてしまったのか、その重みに気づいた時、もう遅かった。


「おはよう……え、あれ?」


 布団から這い出し、ぼんやりと部屋の中を見渡す。

 声をかけるが、返事はなかった。


 また、布団の隣には紺が置いていたスマホが見当たらない。

 さらに視線を広げると、彼女の荷物が一式なくなっていることに気が付いた。


「え……あ、あれ……?」


 という声が自然と漏れた。

 

 きっと早く目が覚めて外に行ったのだろう。

 よくあるよな、気分が昂って旅行先で早起きしてしまう感じ……と、真っ当な理由を付けては慌てて外に飛び出す。


 最悪のケースはすでに起きている。

 混乱と共に、紺が真剣に出て行ったことを理解するのに時間はかからなかった。すぐに慌てて外に飛び出し、旅館の敷地を見渡すが、紺の姿はどこにもない。


「で、電話は?」


 彼女の携帯へ何度も電話をかけるが、一向に応答はない。


「……出てくれよ、なぁ」


 通話はその都度、無情にもボイスメールへと切り替わり、その度に彼女との距離が遠のいていくような感覚に襲われる。


「紺、紺……っ!」


 声を張り上げるが、その呼びかけは朝の霧に吸い込まれるように消えていく。

 旅館の周り、紺がキレイだと言った小道を何度も走り回るが、彼女の姿は見えない。ただ、足音だけが空虚に響き渡った。


「あぁそうだよな、これはいつものドッキリで……すぐに出てきて俺を驚かすんだ。はは……悪い冗談に決まってる」


 絶望感に襲われながらも、一縷の望みをつなぎ、近くのカフェや彼女が興味を示していた店を探し回った。

 だが、紺の姿はどこにもなく、彼女が残したのはただの思い出だけだった。


「——あははっ、やめてよ~」

「……はっ!?」


 諦めかけたその時、ふとした瞬間に紺の声が聞こえたような気がして振り返るが、そこにいたのは若い男女二人組。

 彼らが通り過ぎ、ただ風が通り過ぎる音だけが、耳をつんざく。


 …………


 ……


 夕方になり、日は西に傾き、紺を探す俺の影も長く地面に伸びていた。

 結局、彼女を見つけることはできず、一人で家に戻る道すがら、紺が散々言っていたこと、笑っていたこと、怒っていたことが頭をよぎる。


 ——家に戻り、一人きりの部屋に入ると、彼女の存在が残した空虚感が部屋中に充満していた。壁にかかる時計の針が刻一刻と進む中、紺の存在がどれほど恋しく、そしてそれを願うことがどれほど贅沢なのかを思い知らされる。


「もう、紺の料理は食べられないのか……」


 ぽつりとつぶやく。

 思い出すのはそんな事かよ、と笑ってしまう。


 それ以上何も望まない自分を戒めながら、今はただ紺の無事を祈ることしかできない。彼女との思い出が、この部屋のどこかに残っていることを願いながら。



 ◆◆◆◆



 日が経つにつれ、心の中の寂しさはますます深くなっていった。

 部屋は静かで、外の風の音だけが時折、静寂を破る。

 テーブルの上には“彼女”と共に食べた夕食の残骸がそのままになっており、せわしない日常に帰ってきてしまったことを思い出す。


 俺はふと窓を開けて外を見下ろす。

 街には月明かりが落ち、夜の闇が広がっていた。


「もうこんな時間か……」


 時計の針は午後十時を指していた。

 もう寝るにはまだ早い時間だが、布団に潜り込む。

 だが、その布団も紺の配信を感じられるものではなくなり、寂しさが募るばかりだ。


「なんでこんなことになったんだろう……」


 何度問いかけても、答えは戻ってこない。

 ただ、自分の不甲斐なさを呪うばかりだ。

 紺が残していったスマホの写真が目に入った。それは前、パレードを見ているときに撮ったもので、彼女の顔には幸せそうな笑顔が広がっていた。


 その笑顔を見つめながら、俺はもう一度彼女の番号に電話をかけようとするが、やめた。

 電話の呼び出し音が虚しく響き、再び心に重い石が落ちるような気がしたからだ。


 ベッドに横たわり、天井を見上げながら、あの出来事を思い返す。

 紺との些細なことから始まった喧嘩が、こんな大きな事態になるとは、夢にも思わなかった。何とかして彼女に謝りたい、もう一度話をしたいと切望しながらも、どうすればいいのか見当もつかない。


「はぁ……紺……」


 そうつぶやいたとき、不意に部屋の襖が開いた。


「……菊川くん、起きてる?」

「……っ!?」


 慌てて布団から飛び起き、そちらに向き直るとそこには“焼津先輩”がいた。


「え……い、いつからそこに!?」

「何言ってるの? ここ“私の家”だから当然でしょ?」


 現実がクソだとばかり思っていたからつい忘れてしまうのだ。

 ——ここが先輩の家だということに。


「あ……すいません帰ってたんですね。またぼーっとしていて……」

「そうなの、急に入ってきてごめんね」

「あ、いえ……俺が悪いです……」


 悲劇のヒロインじみた言動ばかりに腹が立つ。

 だけど感情が抑えきれず、また思考もままならない。


 ただ、そんな状態になった俺を拾ってくれたのが焼津先輩だったのだ。


「いいよ。体調、良くなるといいね」


 そう言って、焼津先輩は俺を抱きしめ頭を撫でる。

 それが水面に揺れている木の葉のような心地よさを感じてしまい、同時に、胸が締め付けられるようだった。

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