第2話 クビ?
過去を思い出すたび、俺の心は深い動揺を覚えた。
今月最後の休日。
部屋の片隅で物思いにふけりながら、あの日の出来事を反芻していた。
「一旦、話を整理してみるか」
紺が俺に自分を撮ってほしいと頼んできた。
彼女は配信だけでなく、動画制作にも手を広げたいと望んでいた。
ちょうど活動休止を宣言し、空いた時間を利用して動画のストックを増やしたいという。だからこそ、俺の協力が必要だと言ってきた。
——そして、彼女は突如として俺の唇を奪った。
「……」
その一瞬の感触が、今も俺の記憶に生々しく残っている。
初めてのパワハラで震え上がった恐怖とは違い、心の奥深くに残る温かな記憶。
深く、温かな残滓が心に留まっている。
「本当に、なんなんだ……」
彼女の意図がまるで見えない。
こんな年上で、普通の人間にこれほど肩入れして、自分がどれほど特別な存在なのか分かっているのだろうか。
いや、理解していない——それが彼女の危うさだ。
子どもの頃は、大人が全て知っていて何でもできる存在に見えた。
俺もそうだった。父親が非常に頼もしく見えた。背が高くて力も強く、すべてを超越した英雄のように思えたのだ。
だが、時が経つにつれて、その偉大なる像はただの老人に変わった。
「子ども扱いしないでくださいって、彼女ならそう言いそうだな。」
ふと、三十路になって会った両親の姿は忘れられない。
いつの間にか身長を越していて、よぼよぼで足腰も悪く、ふさふさだった頭髪も見る影もなく。年金で大人しく暮らしている様を見た時のことを思い出した。
もちろん、紺とはそこまでの年齢差はないし、極端な例えではある。
でも、紺もいつかは俺を追い越して立派な大人になるだろう。
俺にかまける時間があったら、もっと充実した活動をしてほしい。
未来のある彼女にはそれがふさわしい。
願わくば——少しばかりの癒しを与えてほしい。
復帰して雑談配信で可愛い声を聞かせ、みんなに愛想を振りまいてくれ。
独占したいとは思わない。
ただ、推しを推す、それが俺の全てなのだから。
「そう、これが俺の生き方なんだ」
だけど同時に、心の奥底で分かっていることはある。
大事に、大事にしておかないといけないことだ。
だから気付かないようにしている。
決して誰にも悟らせないように、内に秘めておかなくてはと。
◆◆◆◆
こんなおセンチな感情に浸っているというのに、ふざけた電話がきた。
『もしもし菊川くん元気?』
「元気ですけどどうしたんですか?」
電話の相手は女上司からだった。「休みの日なのにごめんね」と前置きをするがいつものことだ。
『ちょっと君の声が聞きたくてね』
「なるほど、さっさと切った方がいいですね」
『なんでそんなこと言うの?』
「だって最初に冗談を持ってくる時はいつも良いことじゃないことが多いじゃないですか」
この人の癖だ。
何か問題があるといつも最初にふざけた事をぬかすのだ。冗談にほだされ、俺の気が抜けたと同時にびっくりすることを告げだす。
『そんなこと言わないで聞いてよ』
「だって休みですし」
『最近の子みたいな事を言うね、今いくつだっけ』
「30ですけど……デリケートな部分に触れてこないでください」
『君は女の子みたいなことをいうね』
その落ち着いたトーンが、俺の耳をくすぐる。俺は先輩の声に弱い。だから声の良いVtuberにハマるわけだが、とにかくいつも冗談に聞こえづらい。
「もういいですよ、そんな勿体ぶられるのも嫌なので話してください」
『えー、君をからかうのは楽しいのだけど』
「俺は焼津先輩のおもちゃじゃないです」
『じゃあ……なんなの? 恋人候補?』
「え?」
少しドキリとした。
いや分かってる。自分が勝手に勘違いしてるだけで、先輩の声が悪いんだ。
声だけで近い距離感と上目遣いで問いかけられてる感じが……って言葉にするのもなかなか気持ち悪いな。
「ただの先輩と、後輩です」
『そうなのね、分かった。ごめんねからかって』
途端に寂しそうな声になり
「こっちこそすいません」
と謝ってしまった。
何がと聞かれたらどう答えようか……そんな心配も虚しく、ようやく本題に入ってくれそうだ。
『それで要件だけどね』
焼津先輩は何もなかったかのようで、何かあるような声色だった。
まさか本当に何かあるのだろうか。
もしヤバい案件なら俺はどうしたらいいだろうか……
『ごめん、会社が営業停止食らったの』
「は?」
なかなか意味が分からない
「そういう冗談はいいんで本来の要件を」
『冗談じゃないよ、ほんとだよ』
「はい?」
そう聞き返すしかなかった。
「一体何があったんですか」
『内部の不正だって。上の人が経理の不正や贈賄をやらかして、調査のために一時的に営業を停止するらしいよ』
営業を停止って、会社が倒産したのと同じ事じゃないか?
「え、じゃあ……会社潰れるってことですか?」
『うん、まあそうなっちゃうね』
「え」
いや、そんな軽く言われても。
「もっと別の事かと……いや、より酷くなったと言っても過言ではないというか……俺は明日からどうしたらいいんですか」
つまり、俺の仕事がなくなるという事だ。
給与の支払いや新しい仕事先が決まっていないのに、淡々と話す先輩は肝が据わっている。
『それでさ……その、私たちって今無職じゃない? もし良かったらなんだけど、私の家で働かない?』
「え、焼津先輩の家?」
『うん』
俺は一瞬、頭が真っ白になったがすぐに我に帰る。
これは……あれか、いわゆる同棲ってやつか? いやいや待て待て、まだ付き合ってもいないんだぞ?
……って、なにラブコメ主人公みたいな思考に至っている。
そういう話じゃない。
「いつの間にそんな保険があったんですか」
『数年前からだよ。その頃から経営不振の予兆があったから次の仕事を探さないとって思っていたんだけど、丁度その頃からやってる副業が上手くいってたから徐々に事業を拡大してたの』
「事業、拡大……?」
『分散投資も兼ねて仕事は多岐に渡るけど、一つが潰れても他の商品で稼いで次の綱に変えるって言うのがメリットかな。結果上手くいったんじゃない?』
なるほど、話が追いつかない。
事業の話が広がって、ファンダメンタルズがどうこうと、投資の話にまで広がってどう返事して良いのか分からない。
「だから菊川くんもどうかなと思って」
なんでもありなのかその会社はと内心呆れるばかりだ。
だが、すごく美味しい話でもある。
「その話が本当なら……はっ」
俺は非常に大事なことを思い出した。
紺との約束、動画を撮って活動の幅を広げる手伝いをすると言ったばかり。
「すいません、俺やりたいことがあったの思い出しました」
『どうしたの?』
電話越しで先輩が不思議そうに問う。
聞く限り条件の良い誘いなので、この機会を逃すのは勿体ないと思う。
けれど、今の俺にはやるべき事があるので快諾できないでいた。
「それは……まぁ、長期休暇が貰えるって分かったのでゆっくり羽根を広げたいってところですかね」
『そっか。お互いにずっと仕事漬けの生活だったもんね』
同じ条件なのに、自分の事業を広げている先輩には関心や尊敬しかない。
それなのに俺はVtuberばかり追いかけてる豚である。
いや、豚だからこそやりたいことがあるのだ。
「すいません、せっかく誘ってくれたのに」
『ううん、また誘うから大丈夫だよ』
また誘われる可能性があるのか。
まぁ、ありがたいというかなんというか。
「貯金が底を尽きたら考えておきましょうか」
『何なら私のヒモにしてあげてもいいのに』
「それは嬉しいですね」
『本気にしてないんだ、だったら私にも考えがあるからね。じゃあね』
——ブツッ。
ツー、ツー……。
最後、怒っていたような気がするが気のせいだろうか。
……気のせいにしておこう。
それよりも——と思っていたら、紺から早速連絡がきていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます