第42話 小さな悪魔との契約

 食事を終えると、掛川は仕事が積もっているため、急いで帰る準備を始めた。

 日差しがゆるやかに部屋を照らす中、彼女の動作は何とも速足で、落ち着かない様子が見て取れる。


「そ、それじゃあ私行きますね……」


 掛川の声には食後の余裕を感じさせる間もなく、仕事の重圧が滲み出ていた。

 紺以外にも複数のタレントを管理しており、その責任は決して軽いものではない。


「気をつけてな」


 俺はなるべく温かみのある声をかけた。


「そっちこそ……あ、コンちゃんに手を出したら殺しますからね……」

「出さねえよ」


 だが、彼女は冗談めかして言うのですぐさま否定した。


「むしろ私が手を出しちゃったらごめんなさい♪」


 紺は場を和ませようとしたが、掛川の眉がヒクつく。

 けれど、自分に都合の良い解釈をしてこう返してきた。


「あっ、そういうことですか……ほ、包丁ならちゃんと洗うんだよ……? あっ、それじゃあ……!」


 と物騒なことを言い残し、掛川は足早に出て行った。

 彼女の去った後、アパートには一種の静寂が戻り、残された俺たちだけが空間を埋めることになった。


「は、はぁぁぁぁ……」


 紺は疲れた様子で俺の腕に頭を預けてきた。

 彼女の柔らかな髪が俺の腕に触れる感触が心地よい。


「ど、どうしたんだ? 眠くなったのか?」


 俺は彼女の様子を見ながら尋ねた。


「まぁ〜……それもあるといいますか。掛川さんとお話しする心の準備もなく来ちゃったので、少しだけ疲れちゃったといいますか」


 紺は目を擦りつつも、その場から動こうとはしなかった。


 俺の心には、さっき言ったばかりの「襲わない」という言葉と、内心の小さな悪魔が「襲わないのか?」と囁く声が交錯していた。


 しかし、彼女の髪をそっと撫でながら、俺はその誘惑を抑えた。


「大丈夫、活動休止の許しを得たんだからここでゆっくり休みな。何も心配しなくていいだろ」


 紺はその言葉に安堵し、小さく頷きながら、しばし目を閉じて休んだ。

 その間、彼女の頬には穏やかな表情が浮かんでいる。


 さが、紺が目を開けるのはそう時間は掛からなかった。

 彼女の瞳には新たな輝きが宿っていて



「あの……私、もう少し勇気を出して、自分の活動を広げようと思います。だから今はそのための休息と言いますか……!」

「うん」

「だ、だからたまにはこんなふうに休むことも大切かなって!」


 と、彼女は新しい決意を告げた。

 俺は心からその決断を支持してあげる。


「そうだ、自分のペースでやればいい。俺は一人のファンとしてお前の復帰を待ってるから」


 そう答えると、彼女の顔にはほっとしたような微笑みが広がり


「そう言ってくれると思ってました♪」


「もう一つ、シューチさんにワガママを言ってもいいですか?」


 紺が少し緊張した様子で尋ねた。


「なんでもいいぞ」


 そう俺は返事をしたが、後でその言葉に後悔していた。

 言い過ぎたかもしれない……と。


「これから活動の幅を広げるために、配信だけではなく動画制作も始めたいんです」

「これまで配信ばっかりだったからな」


 紺の目はわずかに輝いていたが、その表情はすぐに曇った。


「そうなんです、でも動画を作るとなると編集も必要で……掛川さんが手伝うと言い出しそうで、それが怖いんです」


 忙しい彼女にさらなる負担をかけることは避けたい。

 そんな思いから、紺は自分で全てを処理するのが最善だと考えているようだった。


「なるほど、良い考えじゃないか」


 俺は彼女の懸念を理解し、支持を示した。


「でも、やっぱり慣れないことをするのは不安で……シューチさんにもお願いしたいことがあるんです」


 彼女の声には僅かな震えがあった。


「動画編集を手伝うってことか? 俺は素人だぞ?」


 俺は自分の技術に自信がないことを正直に告げた。


「いえ、動画を見てもらうだけでいいんです。評価してほしいんです……!」

「だったらお安い御用だ」


 俺は安堵し、彼女に応じた。


 その後、紺の要求はさらに進んだ。

「それと……っ!」


 彼女は急に言葉を切り出し、目を大きく見開いた。


「私を……撮ってくれませんか?」


 彼女の頼みは意外なものだった。


「え?」


 俺は彼女の真剣な表情に驚いた。


「仕事で忙しいかもしれないけど、それでも……シューチさんに私を撮ってほしいんです。たくさん私を見ていて欲しいんです……っ!」


 これだけでも困惑する一言なのに。


「どうして?」


 俺は理由を知りたかった。


「どうしてもです」


 彼女の答えはあまりにも直接的で、具体的な説明はなかった。


 推しを推す為だけに生きている俺が、リアルで推しに関わってしまう。

 ご法度だ。

 この一線を越えてしまうと元の生活に戻れないような気がして。


「俺には自信がない。だって、お前の一ファンだから。」


 ……怖い。俺の素直な気持ちだが、直接言うわけにはいかない。

 それを聞いて、紺は何かを決心したように、一歩前へと踏み出してきた。


「だってお前は人気者で、俺みたいなのと関わっちゃいけないんだ」


 何度も、懇願するように、言い訳をした。

 だけども彼女は俺の顔を覗き込んでくる。


「悪い、自信がないものはどうしようも——」


 徐々に紺との距離が埋まり、その僅か数センチのところで気付いた。

 ——紺が目の前にいる。


「——ん」


 俺は彼女の柔らかい存在を受け入れた。

 ——受け入れてしまった。


(え……?)


 ほんの一瞬、女性特有の甘い香りと、その柔らかな肌に触れてしまう。

 心臓が跳ね上がり、思考が停止する。まるで脳に電流が走ったかのような衝撃だった。


「あ、えっと……?」


 唇を解放された俺は戸惑い、何が求められているのかを理解しようとした。


「——これで、やってくれますか?」


 紺は俺を見つめながら、その質問を投げかける。

 ……俺はまだ混乱していた。

 これまでの会話の流れも完全に飛んでしまっていた。


「まだ……だめなんですか?」


 しかし、紺の俺を見つめる瞳は真剣そのもので。

 吸い込まれそうになるほどの熱量を以て俺に訴えかけてくる。

 なぜこんなにも真っ直ぐな視線に太刀打ちできないのか、俺は自分の心に問いかけて……そして、まだ答えが得られないまま頷いて。


「あ……わ、わかった、俺でいいなら……」


 すると、紺はまるで勝利を手にしたかのように、満面の笑顔で飛び跳ねた。


「やったぁっ! じゃあよろしくお願いしますね、シューチさん♪」


 紺の言葉は、俺の耳には遠く感じられた。

 頭の中は彼女のキスのことで一杯で、他のことが何も手につかない。俺はただ、彼女のその一挙一動に心を奪われていた。


 この日、紺の一挙手一投足が俺の心を乱し、その甘いキスはまるで一つの契約のように、俺に新たな責任を与えた。

 そして、その責任を全うするために、俺はこれからどうすればいいのか……。

 未知の旅が始まるようだった。

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