第39話 話し合い
ガタンという音に振り向けば、紺に掛川から押し倒される場面を目撃されていた。
誤解だが、誤解とは思われてなさそうな真っ黒な瞳。「最低」「けだもの」「下品です」といった声が聞こえてきそうだ。
「ちょっと待ってくれ」
「待てません」
「少しも?」
「待ちません」
僅かな可能性も断つその意思に俺は戸惑う。
「まぁいつものことじゃないか、これは掛川がキレて血迷って俺を押し倒してその……」
いやよく考えてみれば「責任を取れ」的なことを言っていたので懲らしめられるっていうのは嘘になるな。だからといって、正直に言うのも余計にややこしい話になる。
……どうすればいいんだ?
「ふーんいつものことですか? 毎回毎回シューチさんのアレでコレな現場を見せつけられて、今回はドッキリ企画の反応を求められてるんですか?」
すごくキレている。紺はキレている。
いつも柔和な笑みを見せるな紺だが、今回は違う。
目は虚ろで瞳の奥が蒼く燃えるようだ。
「紺さん? お怒り?」
「すごく怒ってます」
「どれくらい?」
「これくらいです。ええと、実物を見てもらいましょうか……」
紺はカバンの中を漁り出す。なんだか食材がいっぱい詰まっているような中から、布で包まれた棒状のモノが取り出された。
その中身が露わになる。
——紺がカバンの中から取り出したのは包丁だった。
「俺、ちょっと用事思い出したからもう帰るわ!!」
「きゃっ!?」
俺は掛川を放り投げ、部屋から飛び出すべく窓に向かった。
頬を膨らまし、だんだんと足音が大きくなりながらこちらへやってくる。
ヤバいヤバいと本能的に感じた。
「掛川さん捕まえてください!!!!」
紺の一言で掛川は俺に飛びつき床に突っ伏してしまう。
俺の人生はここで終わったように思えた。
◆◆◆◆
昼下がりのアパートメントは、通常の静けさを取り戻していたが、リビングルームは紺による一連の騒動で荒れ放題である。
彼女は突然発狂し、カバンから包丁を取り出して取り乱していたのだから。
家の物を壊したり賃貸の壁に穴を開けたりと、本当に危険な状態だったが何とか命だけは助かった。
「はぁはぁ……やっと落ち着いてくれたか……」
俺はホッと一息つきながら紺を見た。
彼女の目には未だ興奮の色が残っていたが、少しずつ落ち着きを取り戻しているように見える。
「もう一度聞きますけど、本当に二人はなんの関係もないんですか?」
紺の声はまだ疑念に満ちていた。
「本当に何もないから、その刃物を離してくれ、な?」
俺はできるだけ落ち着いた声で答え、彼女の緊張をほぐそうとした。
紺は少し躊躇した後、「わかりました」と言って、手にしていた包丁をキッチンカウンターに静かに置いた。
「はぁ……また勘違いするなんて……」
俺は疲れ切った声で呟いた。
彼女は恐らく、俺が他の誰かに取られると思ったのだろう。まったく、なぜ俺なんかにそこまで執着するのか理解に苦しむ。
紺は重たい空気を察してか、少し落ち込んだ様子でうつむきながらも謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい、本当に勘違いでした。私、何をしているんでしょう……」
活動休止した上に今日の出来事だ。
少しだけ思う所があるのだろう。
「まぁもう大丈夫だ。こういうことは二度とないようにしような」
俺は彼女に対して苦笑いしながら、今後のことを考えるべきだと思いながらも、とりあえず今は彼女が平穏に戻ったことに安堵していた。
リビングに散乱した破片や穴の開いた壁を見渡し、これからの修復作業が一苦労になることを思うと重いため息が自然と漏れた。
だけど、今ここに紺と掛川が揃っている。良いチャンスではないか?
「丁度いい、せっかくだから掛川にちゃんと言ったらどうだ?」
「えっ……掛川さんに?」
「そうだ、言いたい事が山ほどあるんだろ。良い機会だから気持ちをぶつけてみろよ」
そう言うと、掛川が紺に詰め寄った。
「そうですコンちゃん! どうして活動を休止するなんて言い出したんですか、それも私に黙って突然……!」
詰め寄ってくる掛川に対し、紺は気まずそうに視線をそらす。
「だ、だって……」
「だってじゃありません! これまでずっと活動してきたのにファンの期待を裏切るなんて、ファンの為にもマネージャーである私を信じなさい!」
あまりの迫力に思わず紺はコクコクと何度も頷く。そして涙目になりながら何も言い返せないでいる。
なので、俺は少しだけ助け舟を出した。
「待て待て、それじゃあ今までと変わらんだろう。お前は何でもかんでも押し付け過ぎなんだよ」
「お、押し付け……? どこが押し付けなんですか!」
「紺に企画を持ってくる時、強引に話を進めようとし過ぎなんだってさっき言っただろ。ちゃんと紺の意見も聞いてやれよ」
「そ、それは……」
どうやら、紺には分かって欲しいのだろう。だから気持ちが先走ったと見える。
だが、それが逆効果で紺も厄介だったんだろうな。
俺が第三者役になって建設的な話し合いをさせることにした。
「紺、俺がいるから素直に話してくれ」
彼女はコクリと頷いて、掛川に向き合った。
そして深呼吸をし、想いを述べ始める。
「まず勝手に活動休止すると決めたことはごめんなさい、そうでもしないと掛川さんのペースに飲まれちゃうって分かってたから言い出せなくって」
謝罪から入る紺に「偉い」と言いたくなる。
自分の権利ばかり主張していたら相手も素直に聞き入れづらいからな。
「こ、この人から話は聞いてたけど……私って強引過ぎたの?」
「はい……モチベーションが下がることはもちろんだったのですが、喉の不調も出始めちゃって、配信することがツラくなってきちゃって」
なんとか根性で我慢していたのだが、ぷっつりと糸が切れたらしい。
もちろん俺が背中を押したこともあるが、色々と我慢して押し殺してきたことに限界を迎えたんだろう。
悪気があったわけでなく、むしろ自分のことを思ってのことというのが分かっているから責めるに責められない。
「紺の話を聞いて、お前はどう思うんだ?」
大元の原因である掛川もそれでハッとしたようだ。
「そ、それは……確かにコンちゃんを応援するあまり先走っていたところもあったかもしれません。でも……コンちゃんだってどうして断る前に私に一言相談してくれなかったんですか……!」
すると紺は観念したのか、ゆっくりと話し始めた。
「……ごめんなさい。それでも私は掛川さんのことが好きで、まだ一緒に活動をしていきたいと思っているから……それを考えると余計に言い出すことが出来なくなりました」
「えっ……?」
掛川は驚きの表情を浮かべた。
紺から否定的な言葉を受けることは予想がついたが、まさか好意を寄せられているとは思っていなかったんだろう。
そして紺の話は続く。
「昔……私が事務所に入った時、掛川さんは私にすごく気を遣ってくれましたよね」
紺は語り出した。
社会人経験のない一人の子どもだった自分が事務所という組織に入るのだ。当然、不安はあった。
その不安を取り除こうと、マネージャーとして抜擢された掛川は真っ先に声を掛けてくれたという。
それが紺との初対面だったそうだ。
だけど、仲良くなるにつれて良くも悪くも、掛川のお願いを断れなくなっていき、自然と紺は避けるようになっていた。だからこそ紺にも後ろめたい気持ちはあったのだ。
「やっぱり昔のことは忘れられませんよ、今がどうあっても……」
紺は笑顔を作りながら語った。
あまりそんなつもりはなかったんだけど、表情筋が動いたんだろう。掛川の目には涙が浮かんでいた。
けれどそれは、悲しさや嬉しさというものではなく……その涙は幸せからくるものだったんだと思う。
そして紺は言った。
「これからもずっと好きでいるし、一緒にいると楽しいので嫌いになったりしません。企画や案件があれば喜んで受けたい……だから今だけは思いのままに休ませてもらえませんか?」
……と、それを聞いた掛川は動揺していた。
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