第38話 説得

 午後の静かなマンションの一室で、俺はただただ画面を眺めていた。

 今日はいつもと違う、何と言っても紺が活動休止を発表したからだ。


 ——ドンドンドンドンドンドン!!!!


 ふと、ドアが激しく叩かれる音が響き、その衝撃で現実に引き戻される。

 立ち上がり、ドアの覗き穴から外を見ると、そこには火を吹くような目つきの掛川が立っていた。


「シューチさん……開けてください……話があります……ッ」


 と彼女の声がドア越しに聞こえる。まるで怨霊のようだ。


「なんで俺の家知ってるんだよ」

「こ、コンちゃんのマネージャーだからです……あの子の身辺調査はもちろん、交友関係も確実に網羅してますから。それがたとえ個人情報でもね……」

「それは人として一線を越えてるだろ!?」


 紺やイズミにしろ、どうして俺の周りには個人情報を特定する輩が多いのだ。

 だが、コイツは別だ。

 確実に俺を仕留めようとする意志、目的を達成する為にはどんなことでもするという気概が感じられる。


「とりあえず紺は家にはいないぞ」

「しゅ、シュレディンガーの猫というのは知っていますか……私は物事を観測するまで事象を証明できない性質タチで……」

「紺は迷い猫かなにかか」


 確かに猫みたいな可愛さがあるよな。いやそうじゃない。


「扉が壊れるからやめろ」

「壊れたらあなたが弁償すればいいじゃないですか……!」

「倫理観の欠如かよ」

「私はコンちゃんがいないと生きていけません。だから返してください」

「俺は紺のなんなんだ」

「コンちゃんの代わりなんていないんです、だから……っ!」


 本当に扉を壊されそうな勢いなので、俺はしぶしぶドアを開けた。


 すると、彼女は挨拶もなしに部屋に飛び込んできた。


「こ、コンちゃんはどこ……ッ!?」


 掛川の声には焦りと怒りが込められていた。

 彼女は俺を突き飛ばして家に入り込み、紺の居場所を必死に探し始める。

 俺は、紺の決断が彼女にどんな影響を与えているのかを理解しようとした。


「そうか、紺から何も聞いてないんだな……」

「はっ……あ、あなたは紺をそそのかしたのでしょう! 何をしたの!?」


 掛川は詰め寄り、その迫力に圧倒された俺は言葉を失った。

 彼女はただ紺を支えたかっただけなのに、いつの間にかこんな事態に巻き込まれたように伺える。少しだけ気の毒で仕方がない。


「……悪い、俺が背中を押したのは事実だ」

「や、やっぱり……私が嫌いだから、邪魔だからそんなことをしたんですね……!」

「掛川さん、それはちょっと違う。紺ちゃんが自分で決めたことだ。俺はただ、彼女の話を聞いただけで……」

「……うぅ」


 掛川はキッチンへと歩き、コーヒーを一杯入れ始めた。


「ちょっと待て」


 待つわけがなかった。

 まぁ、彼女も少しは落ち着く必要があるようだ。


「仕方ない……コーヒーでも飲んでリラックスするか」

「わ、私はいつでも冷静です……ッ!!」

「どこがだよ」


 コーヒーを淹れた後、俺たちはテーブルを挟んで向かい合った。


「まず紺がなぜ休止を決めたのか、その理由を考えないか?」


 掛川はコーヒーカップを手に取り、少し眉をひそめながら言った。


「私が厳しすぎたからですか?」

「まあ、確かにそれも一理あるな。紺は自由に歌を歌ったり、話したりするのが好きだし」

「し、知ったようなクチを……くっ、他には何があるの?」


 赤の他人に大事な娘を盗られた両親のように悔しがる掛川。


「……自分自身の成長のためだって、紺は言ってた」

「せ、成長……何を言ってるの? 私がちゃんと用意してるじゃない……!?」


 驚きを隠せない彼女はそう告げる。


 だが、紺がその決断に至ったのは強引なマネージャー、掛川の束縛から逃れたいという一心からだった。掛川は紺に対して非常に強引で、彼女の創造性を束縛していた。

 紺はそれに耐えかねていたのだ。


「わからない、分からないわ……!」


 途端に緊張が漂い始める。

 掛川と俺の間には、見えない壁が存在しているようだった。


「だったら……最近の配信時間が短かったことには気付けていたか?」


 問いかけると、彼女は少し驚いた顔をした。


「配信時間……?」


 彼女の声は疑問に満ちていて、明らかにその話題が予想外だったことを示している。

 俺はゆっくりと頷きながら、さらに言葉を続けた。


「あぁ、俺はずっとコンちゃんの配信を観ているが、以前に比べてやる気がなさそうだった」

「なんで、どうして……はっ」

「お前の持ってきた企画や案件に割く時間がなくて無理矢理やってた配信だったんだ。あいつが言わなくても見てれば分かるさ」

「う、うそ……いや、そうだったの……?」


 その言葉を聞いて、少し安堵した。

 掛川が紺のことを思ってくれているんだと感じられたからだ。


 しかし、それと同時に掛川が紺にどれほどの負担をかけていたのかを痛感していた。

 配信時間が短くなったのは、確かに最近感じていたストレスと疲労が原因で、コンちゃんが配信を楽しむことができず、ただ時計を見ては早く終わらせたいと思っていたように見えたからだ。


「……で、でも、休止って、本当にコンちゃんにとっていい選択なんでしょうか……」


 受け入れがたい事実ゆえに、掛川は尋ねてくる。


「それは時間が教えてくれると思う。でも大事なのは、紺が自分で選んだ道を歩むこと。それを支えてあげることじゃないか?」


 掛川はコーヒーをもう一口飲み、まだ納得いかない様子で言った。


「でも、突然すぎます。ファンも私たちも、彼女の決定に戸惑っています。もし彼女が間違っていたら、その責任は誰が取るんですか?」

「責任って……紺が自分で決めたことにどうして他人が責任を? 紺の人生だから、紺が決めるべきだろ?」


 掛川は深くため息をつきながら、俺の言葉をじっと考えているようだった。


「……そう。あなたは本当にコンちゃんのことを思っているんですね」

「あぁ、紺ちゃんが幸せなら、俺たちファンも幸せだからな。掛川も、少し彼女の意見を尊重してみてはどうだ?」

「少し、考えさせてください」


 掛川は膝に手を置き、目線を下にする。

 見るに、彼女が紺のことを愛しているのは間違いないだろう。

 だが、その愛が行き過ぎて暴走してしまっているようにも感じるのだ。


「あの……シューチさん、相談したいことがあります」


 先ほどまでの掛川とは打って変わり、彼女は今、明らかに動揺していた。

 その様子からは、何か深刻な問題を抱えていることが伺える。

 正直、嫌な予感しかしなかったが、俺は一応耳を傾けることにした。


「も、もう私にはコンちゃんを支える権利はありません……役立たずです……」


 彼女の声は震えていて、自己否定に満ちていた。


「反省しすぎだろ。」


 俺はそう言って彼女を励ますつもりだった。

 しかし、掛川から吐き出された言葉は、期待を大きく裏切るものとなる。


「こ、コンちゃんが帰ってこなかったら、私にはもう行き場がありません……アラサーの異常独身女はこれからどう生きたらいいんですか……クビですクビ」

「考えすぎだろ……うわっ!?」


 その瞬間、ちゃぶ台をひっくり返し、掛川が唐突にも俺に掴みかかってくる。

 彼女の動作は突然で、予測不能だった。


「私だって誰かに一番の理解者になりたかった! 私はコンちゃんしかいなかったのに、なのにどうして、どうしてぇっ!!」


 彼女の声は絶望に満ち、涙が目じりを伝っていた。


「知らん知らん、落ち着け」

「落ち着きました」

「早いんだよ!?」


 俺は彼女をなだめようとしたが、掛川の様子はあまりにも異常でうまくいかない。

 そして、掛川はさらに驚くべき宣言をした。


「だから私は貴方のモノにならせて頂きます。だから襲わせて頂きます。既成事実を作れば私がクビになろうと貴方に養ってもらえばいいのです」

「意味わかんねーよ!」


 俺はその謎の怒りに呆れ返り、どう対処していいのか分からなかった。

 この突然の変貌に、俺はただ戸惑うばかり。


「貴方みたいな人ならまぁ良い物件でしょう、浮気も女の子に好かれることもなさそうですし、私をあげますよ……はぁ……」

「いらんいらん! かえれ……くっ」


 だが、掛川も女。ワイシャツから覗く胸の谷間は男を刺激して離さない。

 彼女はシューチを押し倒して、乗り掛かろうとするが……


 ——ガタン。


 扉の方から重たい音がした。

 そして、扉が開かれたかと思うと……


「紺……?」


 そこには青ざめた紺が立っており、その目は怒りに満ちていて


「は、はあぁぁぁぁぁ~~~っ!?!?」


 見れば、シューチの隣に座りぴったりと寄り添う掛川。

 というか、酷い体勢でまるで昼間から盛んになっている大の大人に見えてしまわないか?


「やっぱり持ってきててよかった……」

「わーー待て待て」


 包丁を取り出し向かってくるので、事態を収める為に必死にならざるを得なかった。

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