第35話 決意
少し重たい空気が流れる。
俺は掛川に視線を向けると、彼女は自信満々な態度で言う。
「……紺ちゃんは賢い子だからちゃんと分かってくれるよね?」
だが、どこか不安を隠し切れない。それが自分の将来の為にも、同業仲間の為にもなると言いたいのだろう。
だから認知度を上げてもらって、このVtuber界隈を盛り上げていって欲しい。その先駆者になってほしい。そのためには……という掛川の意向であった。
「ちょっと強引過ぎたんじゃないか?」
「いいえ、紺ちゃんは一人で活動出来ない子です。私は分かってるんです」
「そういうところが——」
「私たちはずっと一緒にいた仲なんです、貴方は口を出さないでください」
「ぐぅ……」
長年の仕事仲間に言われれば何も言い返せない。
ただ、このやり方であっているのだろうか。俺はそれが気掛かりだった。
「戻りました掛川さん、シューチさん」
その話を聞いてた紺が戻ってくるなり言う。
「はぁ……そういう貴女だから断れないんですよ。仕事を持ってくるけどミスはするし唐突で……こっちは大変なんですよまったくもう」
紺が掛川に向かって愚痴った。
掛川は苦笑しながら、「あはは、ごめんね?」と軽く謝った。
そのやり取りを見ていても、紺の肩の荷が少しでも軽くなったようには見えず、ただ疲れ切った表情が心に刺さった。
俺自身、配信の世界に身を置いているわけではないから、紺が日々抱える重圧や苦労の全てを理解することはできない。だが、彼女の声のトーン、表情の一つ一つが、そのストレスの大きさを物語っていた。
だからこそ、俺もどこかで掛川の意見に流されがちだ。
彼女がもっと有名になれば、それに伴う成果や成長が見えることは、ファンとしては確かに嬉しい。
実際、紺のトークや企画は見るごとに洗練され、その進化には目を見張るものがある。
だけど、俺たちが見ているのは表面だけで、その裏で紺がどれだけの努力と苦悩を重ねているのかは、計り知れない。
(このままでいいのか、本当に紺のためになっているのか?)
そんな疑問が、俺の中でぐるぐると渦を巻いていた。
この場で掛川にも紺にも真剣に向き合うべきなのか、それともただ静かに支えるべきなのか。紺の幸せを第一に考えるなら、俺ができることは何だろう。
それが、俺の心の中で絶えず問いかけてくる重要な疑問だった。
「ささ、私の作ったご飯が冷めちゃいますから早く食べましょう♪」
「そうだな。にしても、これ絶対に食べきれないんだが」
「もちろん! 今日の為にたくさんのタッパー用意してますから安心してください♪」
「そういう問題……かもしれないな」
これで自炊をする手間が省けるわけだし。
まぁ、そんなクソ面倒なことをするつもりはハナからないが。
「わ、私の分はあるかな……?」
「もう何言ってるんですか……掛川さんも持って帰ってくださいね?」
「こ、コンちゃん……っ!」
彼女の慈悲に涙ぐむ掛川。
この先ほどのわだかまりがなかったようなやり取りを見れて、少しだけ俺は安心した。
—————————————————————
3人の食事を済ませ、時計を見るなり掛川は小走りで「ごめんなさいまだ仕事があるので!」と言って出て行った。
忙しいながらもやってきたんだろうなと、俺は遠目で眺めていた。
その後、片付けを終えてエプロンを脱いだ紺がやってきた。
「今日は嫌な顔を見せてごめんなさい」
「気にするなよ、誰だって仕事の愚痴を抱えることはあるさ」
紺は、言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「でも、シューチさんは私の視聴者であって、ファンでもあって……」
紺の声は僅かに震え、未完のセンテンスが空中に浮かんだままで終わった。
同時に、彼女が俺のことをどれだけ思ってくれていたのかが伝わってくる。
俺は慎重に次の一言を選びながら、彼女の肩にそっと手を置いた。
「たまにはワガママ言ってもいいんじゃないか?」
その触れ方は、彼女への支えとなるよう、そして何よりも安心を与えるためのものだった。その小さなジェスチャーで、俺は彼女に伝えたかった。「大丈夫だよ」と、言葉にしなくても伝わるように。
「ワガママ……私はいつでもワガママですよ? よく家に押しかけてきたり、勝手に料理を始めちゃうし。何なら掃除すらしたいくらいです」
「それってご褒美の間違いじゃないか?」
紺は目を丸くする。
「いつもイヤそうにするじゃないですか……」
それを言われると困ってしまう。
全くイヤではない。だが、言葉にするのは非常に照れ臭い。
「逆張りって知ってるか?」
「どういう意味ですか?」
俺は空を指差し、天邪鬼な言葉を放った。
「流れに逆らうと逆に上手くいったりする……俺は逆張りが得意だから真似するといいぞ」
「ふふっ、なんですかそれ」
俺の言葉に吹き出すように笑う紺。その屈託のない笑みが眩しくて、俺は思わず目を細めた。
「ちなみにこんなの全く迷惑じゃないし、むしろもっと迷惑なことは世の中にたくさんある。加減が分かってないからこの程度のことをワガママだって思うんだ」
いつも仕事を大量に持ってくる先輩上司を頭に浮かべながら言う。
「……そうでしょうか?」
「そうだよ、だからもっと甘えてみてもいいんじゃないか?」
俺の言葉に少しだけ悩み、深刻そうな顔を見せる。また言葉を間違えたのかと思いきや、徐々に落ち着いた表情を取り戻し、何かを呟いている。まるで自分に何かを言い聞かせるように。
そして、彼女は囁くように答えた。
「……じゃあたまにはワガママ言ってもいいですよね? じゃあ──」
ポツリと彼女の声がこぼれたのを合図にしたかのように、俺の右頬に温かい感触が添えられた。
「えっ」
それはすぐに離れていったが、残った感覚はとても温かかった。
「ふふっ、やっぱりやーめた♪」
「えっ、いや、ちょっと……」
彼女はいたずらっぽく笑い、俺の反応を見て楽しんでいる。
「シューチさんってば顔真っ赤ですねー? 何か期待しちゃいました?♪」
「そういうお前こそ慣れないことをするもんじゃないぞ」
「んーーちょっと甘えてみようかなって思ったんですけど、失敗ですかね……えへへ?」
紺の頬にも熱を帯びている。
その熱が何を意味するのかは分からなかったが、少なくとも悪い気持ちではなかった事だけは確かだった。
「シューチさん」
「な、なんだ?」
彼女は俺を見つめたまま目を離さない。
その大きな瞳に吸い込まれそうになっている自分がいて、思わず息を飲んだ。
「私って、まだまだ分かっていないことが多いのかもしれません」
「き、気にするなよ。俺だって人生長いけど分からないことだらけだ」
何を言い出すかと思えば、さっきの話のことだった。
本当に真面目なヤツだなと感心しながらも、俺は紺にその事を否定した。
「いいえ、そうじゃないんです」
紺の声は少し緊張しているように聞こえた。
「……?」
俺は彼女の表情を読み取ろうと、目を凝らした。
紺は一瞬躊躇いを見せた後、ゆっくりと言葉を続けた。
「シューチさんも言ったじゃないですか。ワガママになっていいって……だから……ちょっとだけ我儘言ってもいいですか?」
その言葉に、俺は内心で少し驚いた。
紺が自分の気持ちを素直に出すのは珍しい。
だが、それが彼女にとって大切な一歩なのだろうと思い、応援する気持ちで答えた。
「……ああ、別に構わないぞ。」
彼女の顔に安堵の表情が浮かび、その瞬間、部屋の空気が少し和らいだように感じられた。紺が自分の思いを口にするための勇気を振り絞っているのが伝わり、俺は彼女の次の言葉を静かに待った。
少し間を置いて彼女は口を開く。そして一言だけ呟いた。
「……断ろうと、思います」
それは俺にだけ聞こえるほどの小さな声だったが、しっかりと聞き取れた。
「——いいぞ、そうしたらいい」
紺の顔にほっとした笑顔が広がり、その笑顔が見れただけで、何か大きなことを成し遂げたような満足感が私を満たした。
彼女はそっと頷き、俺たちの間に温かい沈黙が流れる。
その後、彼女は少し顔を赤らめながら、もう一度俺の方を向いた。
「シューチさんがそう言ってくれると、とても心強いです」
俺は微笑み返し、心からの感謝を込めて言った。
「いや、こちらこそ言ってくれて嬉しかった。やっぱりその言葉がお前の本心なんだな」
「はい……」
「わかった、お前の好きにしてくれ」
この言葉には、これからもずっと彼女のそばで支え続けたいという俺の願いが込められている。
後日、何が起きようともこの選択を後悔することはないだろうと思った。
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