第36話 寝坊
昨夜はよく寝れた。
半ば気絶に近い睡眠だったが、紺の声を聞けたことが大きかったかもしれない。
そして今日、俺は8時からの配信を心待ちにしていた。
それは絹川コンの早朝配信。
その声を聞きながら1日を始めようと目覚まし時計をセットしておいたのだ。
「……やべ、遅刻だ」
布団から体を起こすと、机の上に置いてあるデジタル時計を見る。
8時を過ぎていた。
慌てて配信画面を付けてみると、まだトークは始まっていない。
「よかった、俺も少しゆっくりするか」
ひとまずコーヒーを入れて一息ついた。
しかし、いつまで経ってもトークが始まる様子はない。
配信待機すること30分。
まだ許せる範囲だが、普段時間を守るコンちゃんにしては珍しい。
コメント欄を見てみると『どうした?』『なんかあったのか?』といった心配する言葉が多く書き込まれていた。
おかしいなと思いつつも、俺はじっと待っていた。
——そして、9時を越えた所で不穏が走った。
「……電話掛けてみるか」
しかし、紺は電話に出てくれない。留守電サービスに繋がるだけだ。
それから何度も掛け直す。
10回ほどコールしたが、やはり出ない。
流石にこれは変だと思い始めて、SNSをチェックしてみる。
だが、昨日から更新は止まっており、連絡もなかった。
何かトラブルでもあったんじゃないか? そう思い始めると不安になってくる。
いや、昨日は家にいたはずだ。
だって配信後、俺に電話を掛けてきたくらいだし。それにあのマンションはセキュリティが高いことはよく知っている。
「……まさか」
嫌な予感が膨れ上がる中、俺は一つの結論に達した。
俺のスマホには通話を自動で録音する機能が付いている。
ちなみに仕事の都合上だ。
紺の声を聞くという下心の為ではない。
少しだけ彼女の声を聞くのは抵抗があったが、一度聞いてみた。
「これは——遅刻だ」
よくよく聞いてみれば、ガクガク頭が落ちているような音。
ボソボソ声も何を言っているのかも分からないし、返事も支離滅裂で間違いない。
「あいつは……寝坊したんだ」
昨日の妙な電話は、眠すぎて頭が働かなかったせいだろう。
そんなことに気が付かなかった自分が情けない。
でも良かった。
少なくとも最悪の事態は免れたようだ。
ホッとして胸を撫で下ろす。
しかし——。
「……ん?」
待機画面のコメントの流れがヤケに早い。
——とにかく早い。
読み上げてみると、とんでもないことになっていた。
「なっ……!?」
『おいまだか』
『俺たちを騙したのか?』
『もしかして男と遊んでる?』
『絶対コメント見てるだろw』
数々の不穏と煽り、そしてありもしない妄想で溢れかえっていた。
お前らの絹川コンがそんな事をするわけないだろ!
そう言ってやりたいのは山々だが、状況証拠だけで言えば、コンちゃんが遅刻をする事が考えられないのだ。これまでがそうだったから。
けれど実際、否定できる材料もない。
そんな中、俺は必死に弁明を試みることにした。
「俺たちのコンちゃんがそんなことするわけないだろ!」
だが、この程度の言葉で鎮まるはずもなく、どんどんとコメント欄は加速していく。
『じゃあなんでこんなにも待たせたんだよ!』
『さっきからずっと待ってるんだけど?』
『こっちは朝飯食う時間すら削ったんだぞ!』
『ふざけんなよ!』
俺が必死になればなる程、視聴者は怒りを募らせていく。
もうこうなったら止めることができない。
『誠意を見せてくれ』
『謝罪動画をアップしろ』
なんてコメントが流れてくるが、そんなこと出来るわけないだろうが。
……心臓がバクバクし始める。
なんだこれ? どうして俺がこんなに緊張しているんだ? ただの寝坊じゃないか!
自分で自分に言い聞かせるが、鼓動は治まらない。
「……決めた」
そう思い、俺はすぐさまヤツに電話をした。
なかなか出ないので3回目の着信でようやく出た。
『うるっさいな……誰だよお前……』
「——おい、今から配信をしろ!」
『は……?』
俺は怒鳴りつけるように助けを求めた。
絹川コンと同業である——御殿場イズミに。
『何言ってんのアンタ、私は今日久しぶりのオフで——』
「俺たちのコンちゃんがどうなってもいいのかッ!?」
『な、なにいってんの?』
「今あいつは大変なんだよっ!」
俺はすぐさま状況を説明した。
遅刻をし、コメントが荒れかけている。
これではアンチが湧き、登録者数も落ちるのでは。
——そうした不安をぶちまけた。
『ふーん……そういう事ね。分かったわ、すぐ準備するから待ちなさい。あと——』
「なんだ?」
スゥ……と息継ぎをし、イズミは怒鳴った。
『別にお前の為じゃないんだからなっ、そういう事は早く言えっ!』
ブチっと通話を切られてしまった。
俺は舌打ちをするも、どうやらギリギリのところまでは耐えられそうだ。
そして、俺はすぐさま着替えて家を出た。
「——待ってろよ、紺ちゃん!」
彼女を助けるべく、家に向かったのだ。
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