第18話 同じマンションに
「……じゃあ、そろそろ帰るな」
「はい、お気をつけて」
俺は彼女に背を向ける。
「また来てくださいね」
手を振り、言うつもりはなかった言葉を告げた。
「おう、肉じゃが食べたらこれ返しに行くから」
「ふふっ、わかりました。また美味しいモノ作りますね♪」
「ありがとう……楽しみにしてる」
俺は彼女の家から出る。
扉が閉まった後、俺は深く息を吐いた。
「はぁ……何やってんだよ、俺は」
紺を撫でてしまった。
あんなのただのセクハラだ。
下手したら訴えられるレベル。
……それにしても、まさか紺の家庭環境がそこまで重いものだとは思わなかった。
配信で見せる明るさの裏で、彼女はどれだけの苦労を重ねているのだろうか。
きっと、その重さに耐えきれず、Vtuberという道を選んだ……なんて、美化しすぎたら逆に迷惑かもしれない。でも——
「紺のこと、そういうつもりで応援してたわけじゃないんだけどな……」
恩を売るつもりで助けたわけじゃなかった。
だけど、紺は俺に救われたと言った。
それが本当だと、確信に近いモノを感じてしまい……俺は、自分の気持ちが分からなくなってきた。
でも、今はどうすることもできない。
俺には彼女の心の傷を癒すことはできないし、支えてあげることもできない。
ただのファンだから。
「とりあえず、これまで通り接しよう」
そうだ、それが一番だ。
紺もそこまで望んではいないだろう。
そう考え、俺は家に向かって歩き出した。
——————————————————————————————
マンションのエントランスを出ると、良い声が聞こえてきた。
「おや、菊川君じゃないか」
振り向くと、なんか知ってる顔。
「げっ……上司だ……」
俺の目の前に会社の先輩、焼津さんがいた。
「どうしてそんな嫌そうな顔をするの。しかもいつも焼津先輩と呼んでくれるのに、嫌味すぎやしない?」
「それは、まぁ……」
焼津先輩からしたらそう感じるのだろう。
しかし、休日に会社の上司に出会うというのは最悪である。
何故なら、相手によっては仕事や説教コースになるからだ。
せっかく仕事から解放されているのに、無駄なストレスが溜まる。
この焼津先輩はどう出るのだろうか。
「まぁいいや。菊川君はここに住んでたっけ?」
「いや、違いますけど……」
「どうしてこのマンションから出てきたの?」
あんまり言いたくないが、隠す方が怪しまれるよな。
「ちょっと知り合いの家に野暮用で、お邪魔してて」
「ふぅん……そうなんだ」
焼津さんは「あの菊川君がねぇ」と呟いた。
きっと、以前の俺だったら「どういう意味ですか!」と噛みついていたと思う。
だが、今の俺は違う。
「じゃあ俺はこれで失礼します」
不用意な接触は事故を招くだけ。
だからすぐさま退散しようと思ったのだが
「待って、菊川君」
「なんですか?」
呼び止められたので立ち止まる。イヤな予感がした。
「まぁこんな所で会うのも何かの縁だし、ウチに上がっていく?」
「へ?」
突然、先輩が変なことを言い出した。
「だってこういう機会ないでしょ? だからさ、普段しない話でもしようよ」
嬉しい。先輩の声を聞けると思ったらご褒美なのだが
「いや、今日はやめておきます」
当然断った。
焼津先輩は良い声だしユーモアがあって楽しい部分があると思う。
だが、仕事の話を振られるかもしれないし、説教されるかもしれない……!
何より、何かのきっかけで紺の家に行ったことがバレるのはマズい気がするのだ。
「えーいいじゃない、来なよ」
誘惑するように先輩は言った。
正直かわいい。
しかし、ここで折れたら負けだと思い断ることにする。
「すいません、また今度に……」
「あーわかった、私の家にくるの恥ずかしいんでしょ? しょうがないなぁ」
確かに俺は女性の部屋に入るなんて経験は……あった。
今日で卒業したんだった。
それに、男ならまだしも相手は女の先輩だ。緊張するに決まっている。
「気持ちだけ受け取っておきますから」
「今日はだめ? だったら明日にでもする?」
「予定があるんで」
「じゃあ明後日は?」
「それは仕事です!」
何故かぐいぐいと来るな。
珍しい……俺なんかしたか?
「もういいですよ、俺行きますね」
俺は歩き出す。早くここから去りたい一心だ。
しかし、その願いは叶わなかった。
「待って菊川君、ところで……その手に持ったものはなに?」
「え?」
それは貰った肉じゃがの余りだった。
ちょっと可愛らしい袋を手に持っているので、違和感を覚えたのだろう。
「あーこれは知り合いに貰って」
それに対し、ニヤリと笑い
「女の子かな?」
「いやいや違いますよ」
「ふーん、じゃあ男?」
「ま、まぁそうですけど……」
ここは男友達で通そう。妙な詮索されるのは困るからな。
「ちょっとダサいですよねこの袋、でもこれしかなかったみたいで——」
「その中に何が入ってるの?」
「ん、んんーーーーー」
深掘りしてきたので戸惑ってしまった。
今のは白々しかっただろうか。
だけど、もうヤバイと思って強引に振り切った。
「あ、すいませんそろそろ時間が迫ってるので」
「何の時間が? あっ、答えていってよ」
後ろ髪を引かれる思いだったが、俺は会社の先輩から逃れるために走り出す。
こうして俺は休日を守ることは出来た。
だが、俺のこれからの穏やかな日常は、少しだけ崩れるようになったかもしれない。
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