第6話 良い顔色

 俺、菊川周知きくかわしゅうちは豚である。

 生物上の豚というワケではないが、豚と言っても過言ではない。

 とんでもなく悪い生活習慣を送っている俺は雑食である。


 分かっている。

 Vtuberを推すこと以外無頓着な俺が、食なんか気にするわけがない。

 だが、あの日を境に、俺の体調管理が少しだけ良くなったのであった。


「…………」


 朝起きてから鏡を見る。

 相変わらず顔色は悪いものの、前よりも血色が良くなっている気がした。

 これはきっと気のせいではないはずだ。


「よし……」


 小さくガッツポーズをしてみる。

 最近は寝付きもいいし、夜中に起きることも少なくなった。

 それどころか、仕事に遅刻しそうなほどぐっすり眠れてしまうこともある。

 もしかすると、あの子のおかげなのかもしれない。


「ふぅ……」


 大きく息を吐く。

 よし、今日も頑張ろう。



 ……………………………………



 俺の仕事はいわゆるブラックと呼ばれるものかもしれない。

 休日はあるのだが、仕事の激務ときたらそれはもう、労働基準法違反になるんじゃないかと思うくらいには辛い。

 でも、そんな仕事場にも楽しみはあるのだ。


「……おはようございます」

「おはよう菊川君」


 事務所に入るといつも通り、クールな挨拶で出迎えてくれる彼女。

 焼津葵やいづあおい、俺の上司である。

 ぴっちりとキメたスーツ姿で、デスクワークをこなしている彼女はとても綺麗だ。

 だが、彼女の長所はそこではない。


「あぁ……いい声だ……」

「はい? 何か言ったか?」


 思わず本音が漏れてしまった。


「いや、なんでもないです」


 慌てて誤魔化す。

 変な奴だと思われてないか心配だったが、どうやら大丈夫だったようだ。

 そうなのだ、焼津やいづさんの長所と言えば声なのだ。

 彼女の声は谷の湧き水のように澄んでいる。

 一度聞くだけで、なんだか一日が幸せになれる”ような”感覚に陥る。


「菊川君は今日も眠そうだね? ちゃんと睡眠取らないとだめだぞ」

「……大丈夫です。これくらい」

「全然大丈夫そうな顔をしてないけどね?」


 そりゃあそうだろ。

 誰だってあんたみたいなキレイな上司がいたら発狂してしまうに決まっている。

 実際、俺もその一人なのだから——


「……それより今日の仕事だ」

「は?」


 ドサッ。

 デスクの上に山積みの資料を置かれた。


「もしかしてこれ全部、ですか?」

「当たり前だろう。ほら、早く片付けるぞ」


 当然かのように言うので絶望でしかない。


 そうなのだ……焼津さんはいつもヤバイ量の仕事を持ってくる。

 それも他の社員がいる前で平然と渡してくる。

 俺も一応この会社の社員なので文句の一つも言いたいところだが、生憎立場上言えない。

 何故なら、仕事を持ってくる奴は利益を持ってくる奴。

 つまり、焼津さんは正義なのだ。


「えっと……これをどこでやります?」

「ここでやるんだよ。ほら、さっさと始める!」

「わ、分かりました」


 焼津さんはいつも厳しい。

 まぁ、彼女についていけるのが俺しかいないので仕方がない。


 だから俺は目の前の仕事を黙々とこなした。

 無心になれ。

 ただひたすらに資料を纏めるんだ。


 …………


 ……


 俺は最後の一枚を書き終えると机に突っ伏した。


「はぁ……」


 疲れた、すごく疲れた。

 今日は二時間の残業で済んで良かったが……まったく、いつも何時間労働すれば気が済むんだよ。


「おつかれさま、今日もありがとうね」

「はい……」


 焼津さんの労いの声を聞いていると疲労感が消えていく。

 ぐぐ……と背伸びをしていると、彼女は尋ねてきた。


「最近良いことあった?」

「え、なんでですか」

「だって今日の顔色良かったし、雰囲気も前より良くなってたからさ……もしかしてオンナでも出来たのかな?」

「ぶっ」


 思わず吹きだす俺。


「なんだ汚いな……図星か?」

「いやいや、俺にそんなことあるわけないじゃないですか」

「はは、そうだね。だって君はこんなにも仕事が大好きだからね」


 まったくイジメっ子の思想は困る。

 少しでも抵抗しないとつけあがってくるからな。


「そうやってアンタが俺を良いように使ってるだけでしょうに」

「じゃあ、どんないいことがあったのかな?」


 焼津さんは興味深そうに顔を覗いてくる。

 そんなに見られては照れてしまうではないか。


「べ、別になんでもないですよ」

「ふぅん、まぁそれでもいいけれど」


 そう言うと、焼津さんはカバンを肩にかける。


「じゃあ私は先に帰るよ、お疲れ様」

「お疲れ様です」


 そして取り残された俺はふと思ってしまう。

 俺はどんな顔をしていただろうか。

 とはいえ紺が、推しのVtuberが家にやってきたなんて絶対に言えない。


 理由は……多すぎる……!

 一回り年下の異性と関わっていることもそうだが、何よりもファンとして一線を越えかけているのだから。

 推し活をしたことがない奴からすれば分からないだろうが、非常に問題なのだ。


「……さて、帰るか」


 俺も帰宅する事にする。

 ふと、会社のビルを出るまでに紺のことをふと考えてしまった。


 あいつはいつ来るのだろう。

 野菜が勿体ないからとはいえ、また勝手に来られてもいない場合が多いんだよな。

 かといって、連絡先を交換しているわけでもない。


 勝手に調理して持ってきてくれと言うべきだったか。

 まぁ、あいつも忙しい身だ。

 俺の恩返しなど不毛なことなど諦めてくれればそれでいい。


「ん……?」


 ビルを出るとなんか面影のある女がいた。


「あっ、シューチさんお疲れ様ですっ♪」


 それは紛れもない紺であった。

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