第42話
中途半端な情。中途半端な悪意。結局俺は悪から帰って来ることもできず悪へ完全に身を落とすこともできなかった。半端に善悪の境界線をうろうろする情けない男だ。
久しぶりに葵の姿を見た俺は泣きそうになった。
電話ではもうかなり壊れていた葵だがいざ会うと昔と少しも変わらない。あって早々俺の心配をしてくれるしどこまでも一緒に付いてきてくれると。
ここで葵と一緒に逃げる選択をすればそれは十分幸せだった気がする。だが最後まで彼女が風間さんの妹であるということが玉から離れなかった。
葵がスパイとまでは言わない。だがうっかり親族がゆえに口を滑らせてしまう可能性はあり得ることだ。
葵の車の中では他愛のない会話が続いた。急ぎの内容は精々どこへ逃げるかだ。たぶん彼女も本気の逃避行は考えていなかったと思う。その証拠に焦る様子も無ければ彼女の挙げる候補地も国内でできて時間稼ぎが相場なものばかりだった。
「北海道にする? 夏だし過ごしやすいんじゃない?」
「一言に北海道って言ってもな。関東より広いんだよ?」
「そんなに大きいんだ? 札幌と函館くらいしか知らないよ、私」
「それより南にしようよ。京都とかもっと行って九州とか」
北海道だとどうしても飛行機が最適な交通手段になる。いくら葵でもそのくらいなら気が付いてしまうだろう。その点、曖昧に南と言えば新幹線を利用しても疑われない。
だが信じて欲しい。まだこの時の俺は葵と一緒に逃げようとも考えていたんだ。
この後俺に訪れる試練、それをすべて乗り越えられないなら彼女とともに生きようと。その結果破滅しようとも。
葵を迎えに行った時点では荷物も持たず、手ぶらで来てしまったためいったん俺に家へと向かうことにした。偶然ではあるがこの日は母が週に一回の仕事の日で留守だった。葵を母に見られる心配は不要だった。
彼女は車から降りるなり「臭い」と騒ぎ始めた。昨晩のクーラーボックスが水道に置きっぱなしになっている。それの臭いだろう。
彼女の最大の利点は細かいことは気にしない大胆とも大雑把ともいえる性格だ。その時も臭いの正体の疑問を口には出したが深く詮索しなかった。
実際俺の鼻は昨日から回復しておらず常に生臭さが残っていたので気が付かなかった。
再び俺を載せた車は新狭山駅まで行き近くのコインパーキングに車を乗り捨てた。
「大宮から新大阪まで新幹線だよ」
「新幹線なんて修学旅行以来かも」
つい先日殺人を犯したとは思えないほど葵は溌溂としている。
「修学旅行どこだったの?」
「京都。雨でほとんど見学できなかったんだよね。ねぇ、今日は遅いから明日一緒に今日と回ろうよ?」
大宮で二人分の乗車券を購入すると時間にはまだ早かったが二人でホームに降りた。
二人とも食事を摂っていなかったが空腹を感じなかった。二人ともやはり緊張状態だったんだと思う。
「俺飲み物買って来るよ、待ってて」
車内ではもう購入できないことも告げて彼女を残し売店へ向かった。振り返ってみると不安そうに寂しそうに彼女がこちらを見ている。きっと置いてかれることを心配したんだと思う。
小瓶の中の毒物は茶葉で匂いを誤魔化している。必然的に購入する飲み物は紅茶に限られた。売店で二本紅茶を買うとそのうちに一本を開けて小瓶の中の毒物を仕込む準備をする。
何度も生唾を飲みいつしか俺は呼吸すら忘れていた。
「入れたくない、殺したくない、いやだ」
的場の時は訳が違う。俺は大事な人を手にかけようとしている。目を瞑り小瓶を握りつぶさんばかりの勢いで力んでいた。
「でももう戻れないよ?」
誰もいない。でもそんな声が聞こえた気がする。戻れない。
それでも俺の取った行動は中途半端そのものだった。ペットボトルに入れた小瓶の中身はわずかな量、数十分の一程度。俺は毒物の素人、これでも致死量かもしれないしこれだと全く無毒かもしれない。情けないことに彼女の命を俺は運に任せた。
「ごめんごめん、何にするか悩んでた」
動揺がバレない様に平静を装い、彼女のもとへと思った。不満な顔をしながらも彼女は差し出されたペットボトルの紅茶を受け取った。
「これ好きじゃないよ」今までそんなこと言ったことはない。でも今だけはそんなわがままを言わないか。そんな空想をしたが無駄だった。
待ち時間の間、葵はスマホで京都の観光地を検索し調べている。
「あそこに行ってみた」「これ食べてみたい」「空いてれば今日ここに泊まろうよ」
葵は楽しそうにこれからの予定を話していた。なんて返事をしたのかは覚えていない。どうせ上の空で生気のない返事をしていたとは思う。
新幹線に乗る時が来た。俺もそうだが葵にも相当疲れが見える。
「目的地まで結構時間あるし寝るといいよ。そのほうが無効で動きやすいだろ?」
「そうだね、さすがにちょっと疲れてる」
車両には俺たち以外数人しかいない。しかもほとんどは仕事のためにノートパソコンは触っているか眠っているかだ。
指定席に座ると葵は遂にペットボトルのキャップを外した。
「やめろ、飲むな」
声にも出ない、挙動にも起きない。ただ心の中で叫んだだけ。今すぐ彼女の手からペットボトルを打ち落とし適当な言い訳でもすれば間に合う。
葵の喉が一回、二回と動く。彼女は不思議そうな顔で俺を見て「やっぱりさっきの生臭いので鼻がおかしく味が変に感じるよ」と困ったように笑った。
何もかも俺の計画に都合のいいほうに転がっていく。不幸なことに。
新幹線が出るのと同時に彼女は眠りに落ちた。
大宮を出た新幹線は一度東京で止まる。この時俺は新幹線から一人出て、駅の外をとぼとぼと歩いていた。
新幹線はもう新大阪までは止まらない。もう今の俺に出来るのは毒の量が足りなかったか、せめて苦しまないで欲しいという勝手なことを願うことだけだ。
どうやって家まで戻ってきたか覚えていない。母が夕食を用意してくれていたが一口も食べることが出来なかった。
そこから朝までの記憶はない。朝になりスマホを確信するが葵からは何もなかった。さすがの俺も葵が愛想を尽かせて連絡していないなんて楽観的な考えは持たなかった。
この時俺は全てを失ったことをようやく理解した。
死守したい秘密に始まり来訪者の殺害。断じて俺が悪いわけでは無い秘密。そこから連鎖して愛する人を自分の手で……。
そして俺は死んだ心を引きずりながらこの手記を書き上げた。誰が読むかわからない。いつかきっと誰かが読むだろう。
母さんだろうか、やっぱり警察だろうか。それともそれ以外の誰かかな?
ここまで実に多く人に迷惑をかけて取り返しのつかないことをしてきました。
他にきっと書かなければならないことは多くあるとは思います。しかし少しばかり疲れてしまいました。
思い返してみるに何度も引き返せる場面。まだ失うものを最小限で済ませることが出来た場面はあったように思います。ただ当時の私は必死だったのです。全力で向かう方角が最初の最初から間違っていたのです。でも全力で走っている間は気が付きません。そして何度も立ち止まることは出来ました。しかしその都度また振り返ることが出来ない、きっと怖かったのだと思います。
ただ間違ってもその弱さに僕の中に流れる血は関係ないと断言します。僕のせいで謂われなくかつての弱者が再び矢面に立つことは看過できないのです。
この後私はどうするか決めていません。逃げるのか自首するのか、それとも葵と的場、そして父に謝りに行くのか。
限られた時間で熟考した後決めたいと思っています。警察の方には無理なお願いだと思うので無視して構わないのですがこれを読んでいる方が居ましたらもう探さないでください。勝手なお願いであることは重々承知しております。
最期に父さん、母さん。ごめんなさい。お二人は嫌がるかもしれませんが僕は何度でもあなた方の子供として生まれたいです。先祖がどうであろうとお二人の子供である幸福の前では実に些末なことです。
そして葵。あなたと一緒に居られてとても幸せでした。あなたからは沢山の贈り物をいただきました。それに反して私のしてあげられたことは何もなかったように思えます。もし、もしも生きていられるのでしたらどうか幸せになってください。
こんな私に親しくしてくださった友人、たくさん応援してくださった視聴者の皆様には今後多くの御迷惑をおかけすると思われます。心の底から恨んでそして忘れてください。
瀬川虎児の愚かな行いについて長々と記させていただきました。これにて筆を置きたいと思います。
『懺悔録』
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