第37話

少しずつ破滅の足音が聞こえてくる。今だからわかることが当時はそんなことちっとも思っていない。

あの男を見てちょうど一週間。その日もかなりを遅刻しながら学校に向かっていた。

葵が「送っていこうか?」と言ってくれたがなんとなく遠慮してしまった。

もしこの時送ってもらっていたら変わっていただろうか?いっそのこと単位も大学も諦めてしまえば今もまだ……。そう考えたときにまた友人のことが頭に思い浮かんだ。

「単位もそうだけどあいつに会いに行かないとな」


試験前だろうと真面目に講義を聞く気のない俺は遅刻にも関わらずその日発売のマンガ雑誌を売店に買いに行った。講義中に暇をつぶすためだ。

売店へ向かうために中央広場の階段を上っていると後ろから声をかけられた。

「ようやく会えた。瀬川君ですよね? 僕はこういうものです」

男は急なことで困惑している俺の手を取り無理に名刺を手渡した。

「怪しい者じゃないですよ、あなたの大叔母の下に厄介になっているんです」

興奮しているのか全く要領を得ない説明をしている。よく見ると先週見たあの男だった。気が付くのに時間がかかったのは男の表情。あの時と違い溢れんばかりの笑顔だった。生き別れの兄弟に会ったってこんな表情出来るかわからない。


「瀬川君には、僕や大叔母さんの手伝いをしてほしいなと思って探していたんです」

「手伝いって……。いきなりそんなこと言われても」

「あ、すいません。そうですよね、どうしようかな。ここじゃさすがに相応しくないしな、でも瀬川君も講義があるだろうし」

男は汗をハンカチで拭きながら周囲を見渡している。そこに解決策があると思っているのだろうか。

男がキョロキョロしている間に右手にある名刺を確認すると「的場寛治」とある。


視線を的場に戻すと何やら手に持っていた紙袋から一枚のパンフレットのようなものを取り出し俺に見せた。

「被差別部落の歴史」一斉に背中の鳥肌が立った。浅い呼吸を何度も繰り返す。空気がまるで劇物であるかのように肺が外気を拒んでいる。

「どうして今なんだ」俺の頭はそれでいっぱいだった。


「この男は俺の秘密を知っている。俺の大叔母と言っていたが俺は会ったことがない。嘘かもしれない。しらばっくれようか? いやもしかしたら俺自身がそれの血統だと思ってきたのじゃないのかもしれない」

だが淡い希望はたった一言で散ってしまった。

「僕も……僕も、あなたと同じですよ」


「そんなの関係ないよ」「辛いことをよく告白したね」「私は応援する」「これを機に僕も被差別部落について勉強したいです」

「道理でこんな卑しいことするわけだ」「頭ではダメってわかっていてもどうしても受け付けない」「汚い」「あー、あそこ出身ね。なるほど」

長い、長い白昼夢。何も変わらない、いや多くの人が応援してくれる未来と多くない悪意を一身に受けすべてを失う未来を数秒の間に見ていた。2つの夢。


俺は青い顔をしながら講義室へと向かった。的場は何か言っているが聞こえなかった。現実逃避のために現実に即した行為を取るなんて皮肉だと思わないか?

歩いているときも、講義中も男は俺に話しかけた。人前を考慮して露骨なワードは避けていたが十分悪目立ちをしていた。

講義が終わると俺は振り払うように講義室をあとにした。構内の地理に明るくないであろう的場を撒くにはほんの数秒で十分だった。


学部事務室のトレイの個室に籠ってどれほど経っただろうか。

「これこらどうしようか」この言葉だけがずっと頭の中をぐるぐると巡って具体的なことは何一つ思いつかない。

「的場という男はしっかり話して協力とやらを断れば無理強いはしない気もする。ちゃんと断ろうか」しかしそれだけで安心はできない。


これが1年前なら断って終わりでもよかったんだ。だが今の俺は成功者だ。

「俺の弱みを知る人間がいる」

的場も今はいい顔をしているが明日はわからない。急に秘密の代わりに金銭を要求したりいきなり秘密の暴露をしないとも限らない。

同じ秘密を持つ者だとしても立場が違うのだ。あの男のことなんて全然知らないが俺以上に失うものがるとも思えない、そう俺もう成功者だ。

もはやあの男の人格なんて問題ではない。俺の秘密を知る人間がいる。それだけが問題だった。


どうやってマンションまで帰ってきたか覚えていない。

部屋の明かりのモニターの電源も付けていない部屋は真っ暗でカーテンの隙間から控えめに月明りが差し込んでいる。

今思うと俺は完全に狂気を孕んだ妄想にとらわれていた。

その日見た白昼夢。俺は後者の未来を見出してしまったんだ。

破滅への一歩。取り返しのつかないあまりに大きな一歩だった。

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