第32話
正論は時に耳障りだ。そうは思わないか?
相手がどんなに正しくても感情がそれを受け付けない。正しいからこそ腹が立ち、苛立ち相手のことを否定したくなる。
きっと誰もが経験したことだと思う。
俺の場合は小学校を卒業してすぐだった。いわゆる反抗期ってやつだ。
中学に上がり新しい友人ができると今までの自分が嫌に子供じみて見えてきた。そんな心境の変化にもかかわらず相変わらず両親は今までのように俺を子供のように扱うのが神経が触ったのだろう。
俺は野球部に入っていたがよく練習が引けてもすぐには帰らずに同じ部活の友人や先輩と夜遅くまで残って騒いだりした。
ある日部活の先輩が授業中に教師に手を出すという不祥事が起きた。部活外の出来事だったにも関らず野球部は活動停止処分となった。日頃の野球部の素行がよくなかったこともきっと大いに影響してのことだろう。そのせいで3年生の先輩は最後の大会前にほとんど練習が出来なかった。
俺は反抗期ではあったがグレたわけではなかった。教師だろうが親だろうが手を上げる度胸なんて少しも無い。
先輩の暴行事件以降、学校には少しピリついた空気が漂うになった。俺は知らず知らずのうちにその空気を家に持ち帰ったのだろう。
親父はいつか俺も暴力沙汰を起こすかも、と僅かとはいえその可能性を俺に見たのかもしれない。ただこの時にあのことを俺に告げるのは一種の賭けだったとは思う。
「虎児、すこしいいか? 話があるんだ」
俺が夕食を終えて部屋に戻ろうとすると親父は俺を引き留めた。
「何だよ、話って」
親父はいつも夕食時にビールを飲んでいたがこの時は飲まず夕食にもほとんど手を付けていなかった。
「大事なことだ」
「あなた!」
母は洗い物をしながらこちらを向かずに親父を諫めようとした。両親がこんな雰囲気になるのは初めてで心がざわついたのを覚えている。
俺は母の反応を見て親父の話がただ事ではない、しかも悪い話だと直感した。
俺は椅子には戻らず立ったまま親父の斜向かいに立った。
「なんだよ、大事な話ってのは」
口では強がっているが内心びくびくだった。重めの説教の時だってこんな様子を見せることがない親父がこちらを見れないでいる。
「お前と俺の、お先祖様の話だよ」
一瞬意味が分からなかった。少し間をおいて「もしかして親父は変な宗教にはまって俺を勧誘しようとしている」と考えた。
「興味ないよ、そんな話」
信心とは縁遠い親父がまさかと思いながらも俺は拒絶した。きっともう混乱していたんだろう。12歳のガキんちょじゃ仕方ないとは思わないかい?
「いや、聞いてほしい」
俺は親父の頼みを振り払い部屋に戻っていれば謎のまま永遠に俺に付き纏っていたのかもしれない。それはそれで幸せかもしれないが間違いなく後悔してたと思う。
「俺のじいちゃん、お前の曾じいちゃんはな恵まれない人達のために闘った人なんだ。じいちゃん自身も不幸な人たちと同じ境遇だったが幸い銭だけはあったからな」
母がやってきて親父が手を付けていない食事を下げて代わりにグラスとビールを置いていく。だが親父は飲もうとはしない。
「学校でどこまで勉強したかわからないけどお前も聞いたことがあると思う。全国水平社って知ってるだろ?」
確かに名前は知っているが目的も活動時期も覚えていない。
「でもじいちゃんは『闘うのは俺だけでいい。お前たちは普通に暮らしてほしい』って言って俺や父さんには何も強要しなかった。死ぬ前にも『幸せな時代に生まれてよかった』って言ってたくらいだ。きっとひいひいじいちゃんとかはもっともっと大変な思いをしたんだろうな」
そこまで言うとようやくビール缶を開けてグラスに注ぐ。
「で、何のために誰のために闘ってきたか、それをお前に話そうと思う」
親父はグラスのビールを一気に飲み干した。
「その顔だとまだわかってないだろうからな」
親父はようやく覚悟ができたというように硬い表情を崩し微笑んだ。
「学校じゃ詳しくやらないだろうしな。俺らのじいちゃんやひいじいちゃんはな? えたと呼ばれた人たちだ。わかるか?」
俺に限った話じゃないと思うが耳で聞くえたは馴染みなくすんなり頭には入ってこない。俺は理解するまで何時間もかかった気がするが実際そんなにかかったはずはない。精々数秒だろう、それほど時間がとまったように感じたんだ。
「そ、そうなんだ」
平然を装う。というよりもそんなに動揺はなかったと思う。やはり現代日本においてその事実がそんなに不利に働くイメージがなかったからだと思う。
「もうそんな身分は、まぁじいちゃんの時代から建前上はなかったんだけど、存在しないしお前がダメとか間違ってもそんな意味はないからな。お前が大人になって自分のことは自分で決められるようになったらそれを誰かに話そうが秘密のまま生きようが選ぶといいよ。ただ今はやめておきなさい。大人はともかく子供は露骨なことをするからな」
この時の俺は無感動だった。
「なんだ、勿体ぶって話したけどそんな必要なかったな。話は終わりだよ悪いな」
親父は既に温くなってしまったビールの残りを缶のまま飲み干した。
俺は部屋に戻ると着替えもせずにベッドに横になった。何も考えず宙を眺めていると階下のリビングから母親の声が聞こえる。親父に向かって何か言っているらしい。
感情的で大きな声だが口にしている内容は聞こえてこない。だが何を言っているかは簡単に想像できる。
親父が言ったように今俺が誰かにこの話をすることはないだろう。
今俺の周囲にいる友人は格好をつけることに命を懸けているような連中だ。話していい方向へ転じるとは思えなかった。
結局俺の人生はこの決断の連続だった。他人を信用出来ないなんてペシミストみたいなことは言わない。だが過度に期待するのは違う気がしたんだ。
知らなくてもいい事を知らせて変に気を遣わせたり妙にチグハグするのは嫌だった。
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