第2部

第31話

幼い頃は特別他の子と変わるところがあるとは少しも思わなかった。実際客観的に見ればなかったと言える。そう客観的には。

もちろん幼少期特有の自分は特別な人間でこの物語の主人公なんだみたいな考えはあったし今でも少しはもっている。

そういう意味ではなく特段貧しくも金持ちの家の子供だとは思わなかった。今だとかなり恵まれた家に生まれたとは思えるが幼い自分がそれに気が付くのは無理だと思う。

昼は普通に学校に行き、放課後は公園や誰かの家でゲームで遊ぶ。クリスマスは家族でケーキを食べ、正月は父方の実家に帰り初詣に行く。そんな平凡だけどどこにも大きな不幸も挫折なんてない幸せな幼少期だった。


小学校5年生の頃にクラス替えがあり、それに伴い担任の教師も変わった。猪子いのこ先生は定年間近なおじいちゃん先生で温厚で優しくとてもいい人で今でも尊敬している人だ。

当初は初めての男の教師で緊張もしたが今までの、そしてこれから出会う教師の中で最も立派な人間性を持つ人だった。

俺たちの悪ふざけにも笑って相手をし、叱るときも決して感情的にはならず子供にもわかるように説明し理解を求めた叱り方だった。

授業も分かりやすく俺たちが興味が出るような教え方をしてくれた。おそらく教育要綱に則った教え方ではないのだろうが今でも猪子先生の教えてくれてたことは記憶に鮮明に残っている。


今思い出しても楽しく充実した毎日だった。面白く毎日遊んでくれる友達。優しく何一つ不自由させない両親。そして猪子先生。

そんな毎日の中に一日だけ、たった一日だけ非常に浮いた一日が存在する。


あれは小学6年生の社会の授業だった。

猪子先生は先述した通りマニュアル通りに授業を進める人じゃなかった。そのためか他のクラスより授業のペースは遅く、他が日清戦争だの日露戦争だのをやってるときに俺のクラスはようやく明治維新のところだった。

猪子先生は俺たちに歴史に興味を持って欲しく人気な時代、戦国時代や幕末に教科書に載っていない豆知識などを披露してくれた。

しかしその日の授業は途中で猪子先生の様子が少しおかしかった。


「明治政府が行った政策はこのように色々あります。工藤さんはこの中でどれが気になりますか?」

「私は廃藩置県です。私も知ってる土佐藩とか薩摩藩がこの時無くなっちゃたんだって思いました」

「なるほど、この時藩の偉い人たちは『自分たちは偉いまま居られる』とほとんど勘違いしてたんですよ。中丸君は他に気になるものはありますか?」

「俺は四民平等かな。この時侍がいなくなったんでしょ? 農民と侍が同じ身分だもんな」

「でもみんな平等のほうがいいに決まってるじゃないの」

猪子先生の授業は生徒同士活発に意見を交わす場面は珍しくなかった。この時も先ほどの工藤さんが中丸に意見していた。

「それはそうかもしれないけどさ」

「皆平等、そうですよね? 先生」

「ええ……もちろんそうです」

確かに猪子先生は言い淀んでいた。

「今まで差別されていた、えた・ひにんと呼ばれる人達もこの時解放されました」

「なんですか? えたひにんって」

「今まで差別されていた人たちですよ。皆さんは間違っても差別なんてしてはいけませんよ。それにふざけても人に向かってえたとかひにんなんて言ってはいけません」


その日の昼休み、普段なら外でドッヂボールをやるのが日常だったがあいにくの雨で仕方なく俺たちは他のグループに交じってトランプで遊ぶことにした。

身体を動かして遊ぶことが好きだった俺は退屈だったが他の友達はかなり盛り上がっていた。楽しんでいない俺はルールすら完璧に把握できずに負け続けた。

それでも翌日になればまた外で遊べると思い我慢、とまではいかないがトランプで遊ぶことを続けていた。周囲の空気を破壊する行為は当時の小学生の俺には禁忌に等しかった。


「おいおいまたトラがドベだぜ」

「ドッヂボールは鬼なのに、大富豪は全然だめだな。頭使え頭」

「俺の手札が弱すぎるんだよ。負けるとさらに弱くなるんだから勝てないぜ」

俺は残っている手札を公開して負けた理由を説明した。

「瀬川君は強いカードから出し過ぎなんだよ。駆け引きしないと」

今日初めて一緒に遊ぶ子が俺にレクチャーしてくれたが俺はほとんど聞いていない。

チラッと教室の時計を確認するとこれが最終ゲームだ。教えてもらったノウハウを生かす機会もきっとないだろう。


「トラはもう大貧民より下、下の下。そうだ、トラはえただな」

お調子者の中丸がそう言うと周りの子たちの表情は固まった。

「お前明日覚えてろよ。ドッヂボールでボコボコにしてやるからな」

俺はこの空気を変えてやろうと中丸に言い返す。俺の対応に安心したのか周囲の態度も少し軟化していた。

「怖いね、えたにやられたらこっちはそれ以下になっちまうってことか」

彼の名誉のために言及するがいつもの中丸はここまで軽薄なやつじゃない。普段はどちらかというと彼は弄られ役で自虐したりして場を盛り上げるムードメーカーで楽しい奴なのだ。

実際ここまで調子に乗ってしまった中丸を見るのはこの時初めてだった。普段どんな遊びをしても俺が一歩先を行くからこのシチュエーションが珍しく、きっとそれが彼に非日常感を与えたのかもしれない。


「中丸君! こっちにきなさい」

僕らの後方から怒声が聞こえた。声の主は猪子先生だった。俺たちは全員凍り付いた。後にも先にもあれほどの声を出した猪子先生を俺たちは見たことがなかった。

「こっちにきなさい!」

猪子先生は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっている中丸の傍までくると乱暴に腕を掴み教室を出て行った。


残された俺たちはしばらくそのまま動けなかった。

「あんな先生見たことないよ、あいつなんかやっちまったのかな?」

この時点でも俺たちは猪子先生の琴線を理解していなかった。

俺たちは席に戻り授業の準備をしていたが一向に先生たちが戻ってくる気配はない。真面目な女子連中が「謝りに行くべきだ」と主張したがいったい何を? 休み時間に起きたことを掻い摘んで説明すると女子たちも困っていた。

仕舞いにはトランプで遊んでいたこと自体が悪いとか休み時間ぎりぎりまで遊んでいたことが悪いなど到底原因とは思えない理由を探し出して無理矢理納得していた。


二人が教室に戻ってきたのは授業終了の10分前だった。戻ってきた中丸の目は真っ赤になりシャツの下部がうっすら濡れていた。

猪子先生は出て行ったときは打って変わって優しく中丸の肩を抱き彼に何かを促していた。中丸は小さく頷き俺の机の前へ進み出た。

「えたなんて言ってごめんなさい」

ようやく俺は理解した。教室にいる全員がきっとこの時理解したんだと思う。

この言葉は俺が想像しているよりずっとよくない言葉だということを。

中丸がえたと言ったとき俺たちが凍り付いたのは頭ではなく心でわかっていたからだと。もちろんは猪子先生は俺の生まれのことなんて知らなかったと思う。もし知っていたらと考えると……。


「許してくれますか? 瀬川君」

俺は無言で首を何度も縦に振った。

「よかったですね、中丸君。じゃあ席に戻りなさい」

中丸はしゃくりあげながら小走りで俺の後ろの席に戻った。

「皆さん、私の説明が足りませんでしたね。申し訳ございませんでした」

そういうと先生は最敬礼の角度で俺たちに謝罪した。大の大人が子供にあんな態度で謝罪する。あの衝撃は早々忘れられるものではない。

猪子先生は残りの時間で再度人に向かって言ってはいけない言葉の説明をした。


これが俺の小学生時代の色取り取りの綺麗なアルバムの中にある唯一の色のないの一日だ。

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