第30話
久しぶりの外出に限って外は猛暑日。40度を超える外気がひりひりと肌を焦がす。ようやく電車に乗るとそこで急に汗をかいたような気がした。ほどよく効いた冷房で息を吹き返す。
ミチルは北国育ちで故郷は夏でも精々30度を超える程度。扇風機だけで充分夏を乗り切れていた。しかし上京して本物の夏を味わうとそれは遠い異国のことのように思えた。
気温もさることながら湿度に参ってしまう。
スマホで目的地までの乗り換え経路を確認しながらふと思い狭山事件の飽きた場所を調べようと思った。
だが結局やめた。今もその地で生活している人がいる。
興味半分で足を運ぶのは躊躇われた。
乗り換えの駅で降りると次の電車まで少し時間がある。自販機でスポーツドリンクを買い一気に飲み干す。久しぶりに発散した水分を補充すると生き返った気がする。
「なんであんな無気力だったんだろ。今思うと不思議だよな」
風間さんとの会話で何かを失ったのだろうか? しかし何を?
そして姫子さんからの連絡で再び動き出した。
ようやく着いた狭山は綺麗だが特別目に付くものはなかった。
地元にいたときは関東は全て都会でこっちの人の言う「全然田舎、山しかないよ」なんて嘘だと思っていた。誇張はあるにしても緑が見えるところも多く文字通り武蔵野の名残を残している。
地図アプリに従って歩くとより自然が増えていく。ようやく瀬川に会って話ができると思うと心臓の鼓動が早くなるのを感じる。まずは何を話そうか。「大学本当にやめるのか?」「悩んでたんだな」「どうして姫子さんを?」
どうせいざ会えば何も言葉は出てこないだろうことは簡単に想像できる。それに瀬川は俺が合いに来てもきっと喜ばないだろう。
地図アプリによると目的地に到達したようだがこれおそらく家の裏側だ。
「空き巣じゃないんだから正面に案内してくれよな」
結局迷い迷い正面にたどり着くのに10分近く時間を使ってしまった。
そこそこ立派な一軒家、小さいとはいえ庭もありこざっぱりしている。持ち主は車の運転に不慣れなのだろう、駐車スペースに止めてある車は道路にけつを向けている。門扉を超えインターホンを押す。「はーい」という女性の声が聞こえ扉が開く。
「あら? どちら様ですか?」
出てきたのは初老の女性。髪には白い物は混じりドアノブに掛かる手には皺が多く見える。だがそれ以外のパーツは若々しく見えるためにおそらく瀬川の母親だろうことは想像できた。
「えっと、大学の、瀬川君の」
どうせと思って何も考えてこなかったが無策が過ぎた。瀬川以外が出てくる可能性も十分に、いやむしろそのほうが高かったのだ。せめてすっと自己紹介くらいはする気構えくらいはしておくべきだった。
「あれ、トラの友達? こっちに連れてくるなんて初めてよ。今ちょうど出かけちゃっていないけどすぐ戻ると思うから上がって上がって。もう、あの子も友達を連れてくるなら一言くらい言いなさいよね」
この様子からして瀬川がしたことは知らないのだろう。
玄関に上がると三和土には立派な釣り竿が一本おいてあった。瀬川か父親の趣味だろうか。
リビングに通されると瀬川の母親は麦茶を入れてくれた。さすがに警戒する必要もない。火照った体に冷やされた麦茶を流し込んだ。
「そっかミチル君は同じ学部なのね。そうそう、あの子のしている仕事? YouTuberって知ってる? 私そういうの全然わかんなくてね、怪しい仕事じゃないならいいんだけど……」
「僕も詳しくはありませんけど怪しくはないですよ、立派な職業です」
「そう? それならいいの」
そうは言うものの彼女の表情は相変わらず不安の色が残っている。
「最初あの子ったら『俺が稼いでるからもう母さんは仕事辞めていい』なんていうからびっくりしちゃって。だって大学に行かせたはずが稼いでるなんて、大学辞めたのかと思ったわ」
今回の件が無くてもやめた可能性はそこそこあったが口にはしない。
「親孝行してくれるの嬉しんだけどね、今はもっと自分のことだけ考えてもいいのにね」
「そうですかね? 俺なんて全然してないですから尊敬してますよ」
「それが普通だと思うしそうあるべきだと思うわ。旦那、あの子の父親ね、中学生に上がってすぐに事故で死んでじゃったの。それもあると思うのよね」
それで息子を大学まで行かせる彼女も大した人だ。
「ふふっ、私ひとりじゃ無理よ。旦那の叔母、トラにとっての大叔母のゆきさんが援助してくれて大学に行けたわ」
「年寄りの相手してくれてありがとうね、これ以上退屈させても悪いからあの子の部屋で待っててくださいな。それにしてもあの子どこ行ったのかしら? コンビニにでも行くと思ってたのだけど」
彼女に促され瀬川の部屋に入ると目に入ったのは大きな勉強机、マンガがぎっしり入った本棚、そして古いゲーム機にブラウン管テレビ。
「少しは暇も潰せると思うわ。貴重なものは全部東京に持って行ってるし好きに触っても大丈夫だと思うわ。じゃあ申し訳ないけど帰るまで待っててね」
カーテンが空いているにもかかわらず部屋には明かりが乏しい。窓ガラスには大きな看板の背だけが映し出されている。
机によると日本史B、数学ⅡB、現代文など高校の教科書が丁寧に置いてある。その横に大量の大学ノート、表紙には使用教科が小さい文字で記されている。
その中に一つ痛んでいない綺麗な大学ノートが数冊出てきた。表紙には何も書かれていない。
その中の一冊を開いてみると1ページ目にはこう書かれていた。
『懺悔録』
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