赤い薔薇、その意味
玉響なつめ
第1話
――そいつはね
寝物語に子供に聞かせるように、そっとした声音で。
だけど悪戯っ子のように、酒場で働く子が言った。
――新月の夜に、現れるの
新聞を連日のように賑わす、無差別殺人。
謎多き殺人者。
――そいつが使う武器は大ぶりのナイフなのか、包丁なのか
人は気づけば新月の夜に出歩かなくなった。
それでも〝自分だけはそんな目に遭わないだろう〟や〝この間は違う町での犯行だったからこの町ではないはずだ〟と考える人間はどこにでもいるもので。
『キャアアアアアア!』
今日もどこかで悲鳴が響く。
新月の、真っ暗な夜に。
――ぶすりと、首をかっ切るんですって。そしてね?
真っ赤に染まった被害者の、力なく横たわったその胸の上に。
一輪の白い百合が、ぽとりと落とされる。
そして犯人は恭しく被害者に向かってお辞儀をしたのだ。
まるで、感謝を捧げるように。
「……」
そして私は、今、理不尽な思いを胸に抱いている。
小さな町にある小さな靴屋。祖父の代から続く店を引き継いだのは、私が二十歳になる前か。
煤けた工場の煙で満たされる小さな町だ。
寂れていく一方で、酔っ払いと安酒、そして娼婦の
つい先日、
おかげで私の生活も少しだけ、落ち着いた。
(……唯一の目撃者、唯一の生存者)
だけどそれはもう一ヶ月以上前の話。
私に殺人鬼のニュースを面白おかしく話してくれた、酒場で娼婦をしつつもウェイトレスをしていたベニーが被害者になり、私は彼女が絶命していく姿をこの目で見たのだ。
(ベニーは、何も悪いことなどしていなかった)
確かに娼婦を見下げる人間がいるのは事実だが、彼女は他に道がなかった。
ウェイトレスだけでは食っていけないし、彼女の恋人は彼女を捨てて別の町へと他の女の手を取って去って行ったのだ。彼女の有り金全部を持って。
それでも笑顔を絶やさなかったベニーの疲れた笑みが、脳裏から離れない。
(……ベニーは楽になったのかしら)
殺人鬼の顔は見たのか、体格は、年齢は、どんなやつだったのか、男か、女か。
矢継ぎ早に警察に問いかけられても、新月の闇の中でわかったのは白い百合が
そして、絶命したベニーが酷く、ひどく幸せそうな顔をしていたことくらい。
警察にはあからさまに落胆されたし、なんだったら舌打ちもされたっけ。
記者たちにはベニーについてあれこれと聞かれ、後日新聞には彼女の死が面白おかしく記されていて腹が立って、即行暖炉にくべてやった。
野次馬は……野次馬だった。
被害者の最期を弔うでもなく、そこに寝そべって被害者ごっこなんか始めていた。
それを私は、冷めた目で見ていた。
町の人も。
だけど煤けたこの町では、それもあっという間に煙に飲まれてしまったようだ。
他の地で殺人鬼が現れたと報道が流れたら、彼らはそちらに行ってしまった。
いいや、行ってくれていい。
(……静かになった)
この静寂の中で、ベニーを偲びたい。
工場の油臭い煙を嗅ぎながら、彼女の死を悼みたい。
私の願いは、それだけだ。
カラン。
来客を告げるベルが聞こえた。
ハッとする。
掛け時計はとっくの昔に閉店の時間を過ぎていて、私はカウンターを出て頭を下げる。
長身の男性だ。
見たことがない、のにどこかで会ったような既視感があった。
「お客様、申し訳ございません。本日は終了しておりまして……」
私の言葉を遮るように手が出てきた。
大きな手だ。
私は思わず顔を上げてギョッとする。
そこには一見、普通の人がいた。
体格が良いなとは思うけれど、雑踏に紛れたらそこまで印象に残らないような人。
だけれど、その頬には
そして、彼の胸元には百合の花が挿してある。
「あ……」
ニィっと男が笑った。
唇だけを動かして、笑みを作っただけで……目はまるで笑っていない。
ああ、あの日ベニーを一息に殺した男だ。
そう直感したが恐怖で足が竦み、まるで動けない。
だというのに、私はどこか期待していた。
男が胸元に手を突っ込んだのを見て、期待したのだ。
(私もベニーのようになるのかしら)
寂れた土地から出ていく勇気もなく、親兄弟もすでになく、友もなくした私にはもう何も残ってはいないのだ。
この抜け殻のお店以外、何も。
目が、離せなかった。
あの日酒場に食事しに行った私に『怖いわよね』なんて語りながら、どこか憧れの目を見せていたことを私は知っている。
ベニーは、殺人鬼に刈り取られる命を、羨んでいたのだと私は気づいていた。
だから彼女の命が失われていくその瞬間を見て悲鳴を上げたけれど、彼女の事切れたその表情が痛みの中に小さな笑みがある違和感も、全部全部わかっていたのだ。
(……死が、救いになるのかしら)
神は己で命を絶つことをお許しにならないから。
だとしたら、目の前の彼は救済者なのだろうか。天使には見えないけれど。
痛いのだろうか。
苦しいのだろうか。
最後は。
ベニーのように笑えるだろうか。
この油まみれの埃が積もる寂れた店が、思い出と共にある店が私の棺桶になるのだとしたら。
(ああ、それって、素敵だわ)
まるでキスを待つように、目を閉じた。
この人なら、痛みは一瞬で済ませてくれる――よくわからないけれど、そう思ってしまったのだ。
「?」
だけれど、痛みは来なかった。
それどころか差し出されたのは――深紅の薔薇。
その赤さはあの日のベニーから流れ出たものとは違う鮮やかな、赤。
摘み立てのように美しいそんな薔薇なんて、私はここ数年見ていない。
「え……?」
一本の赤い薔薇。
狂気に満ちたその目は不思議と穏やかで、私に差し出す薔薇を受け取るまでは引っ込めないという強固な意志を感じた。
「……くださる、の、です、か?」
どうしよう、思っていたのと違うのだけれど。
私が戸惑いながらも受け取ると、彼はただ、無言で笑った。
そして何も言わず、何も求めず去ったのだ。
「ど、どうしたらいいの……?」
期待したのは、魂の安寧。
だけれど真逆のものを与えられて、今は心臓がウルサイ。
それが果たして恐怖なのか、別のものであったのか。
私は答えが出せずに、ただぺたりとその場にへたり込むのだった。
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気が向いたら続きを書くかもしれない
赤い薔薇、その意味 玉響なつめ @tamayuranatsume
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