幻影少年

森本 晃次

第1話 幻影少年

 島田美麗は、街でも進学校と言われる女子高に通う、一見どこにでもいる女子高生である。大人しい雰囲気から、勉強ができるように思われがちだが、それも、進学校と呼ばれる学校に通っているからである。

 実際に成績は中の下と言ったところだろうか。中学まではそれなりに成績もよかったのだが、高校に入ると、順位はガタ落ちだった。

 ただ、それも考えてみれば当たり前のことで、中学までのレベルと、高校からのレベルでは、まず底辺からして違う。中学の頃に優秀だった連中が、さらにその中からふるいに掛けられるのだ。

 しかも、精一杯に勉強して、難関を乗り越えてやっと合格した学校。そう、まさしくやっとなのだ。

 入学したところで力尽きてしまう人も、少なくないだろう。特にギリギリで入学できた人は、余裕を持って入学した人に比べて、自信の持ち方が違う。余裕を持って入学してきた人からみれば、入学できたことへの感慨は薄いに違いない。

「こんな学校、勉強しなくても合格できるわ」

 と言いたげで、他のほとんどの人から見れば、嫌みにしか聞こえない。

 美麗は、まさしく、その中のギリギリだったのだ。一学期が終わる頃には成績の差は歴然だった。

 その頃には、大体の人の性格が見えてきた。余裕を持って入学してきた人たちの嫌みな雰囲気に慣れてきたが、よく見ると彼女たちこそ、一番怯えていたのが見えてきた。成績がいいならいいで、少しでも成績が下がることを、ものすごく恐れている。なぜなら彼女たちにとって成績がすべてで、自分自身のように思っているからなのかも知れない。親やまわりの期待に対してそぐわない結果を出すことはできないと思っている人もいることだろう。

――優等生には優等生なりの悩みもあるんだわ――

 劣等生の中には、グレてしまう人もいるが、優等生には許されない。どちらが辛いかというのは、美麗には判断できないが、美麗はそれほど極端ではないだけ、まだマシなようだ。

 二年生になると、まわりの環境は落ち着いてきた。それぞれに悩みを感じていた人たちも自分の立場に慣れてきたのか、表にオーラを発しなくなった。美麗も以前のようにまわりを気にしなくなってきたし、自分も余計な感情を持たないようにしてきた。元々、自分の性格を表に出すことのない美麗は、同じことの繰り返しである毎日に埋もれていくことを知りながら、ただ流される道を何も考えずに過ごしているだけだった。

 一日があっという間に過ぎた割には。一年は結構長く感じた。一番二年生の時が長かったのかも知れない。三年生になると、一日が長く感じられたわりに、気が付けば卒業が近づいていたのだ。

 四年制大学を目指している人たちが多い中で、美麗は短大しか見ていなかった。四年も大学に行って何をするかが分からないという気持ちもあったし、勉強することに正直飽きてきたと言ってもいいだろう。

 恋愛をしたことがなかったのも一つの理由だったかも知れない。

「私、大学に行ったら、いっぱい恋愛したいんだ」

 数少ない仲良しの友達がそう言っていた。四年生大学を目指していると言っていたので、その理由を聞くと、返ってきた答えが、それだったのだ。

「美麗は、短大でいいの?」

「うん、何の勉強したいかって分かっているわけでもないし、それに私にはそれほど恋愛願望があるわけではないし」

 友達も、実は恋愛をしたことがあるわけではない。恋愛がどんなものだか分かってもいないのに、ただの憧れだけで四年制大学に進もうとしている。それが彼女の考えなのだから、とやかくは言えないが、美麗には理解できない。それだけ美麗が冷静なのか、淡白なのか。やはり中途半端な成績でいると、悩みに対しても感覚がマヒしてきたようになっているのかも知れない。友達には、口が裂けても、自分が考えていることを言えないと思っていた。

 美麗の高校時代は、友達も少なく、成績もパッとしなかった。それでも嫌だったわけではない。性格的に一人で籠ってしまうことが多かったが、その分、妄想することも多かったのだ。エッチな妄想をしてしまうこともあり、それが一人の先生に対しての思いだったのは、美麗にとって、学生生活を寂しいものにしなかった一番の原因だった。

 美麗にとっては一目惚れで、初恋でもあった。淡い思いを告白して、壊れてしまうのを恐れたのは、妄想だけでいいという思いと、実際に恋愛をすることが怖いと思ったからだ。

 その相手が、先生でなければ、ここまで思わなかっただろうし、すぐに気持ちも覚めてしまったかも知れない。

 先生はクールなところがあった。誰に対しても分け隔てない対応は、教師としては理想なのかも知れない。ただ、美麗には物足りなかった。先生というものはもう少し情熱的な人がいい先生だと思っていたからだ。

 美麗は教師が嫌いだった。なぜなら、自分が嫌いなタイプの人が多いからで、さすが教師も公務員、無難にカリキュラムをこなして、なるべくトラブルがないようにことが運べば、それでいいのだろう。美麗のまわりには、そんな先生ばかりだった。数の上では嫌な人が圧倒的に多いので、当然教師が嫌いになるのも当たり前だ。

 だが、そんな中に、一人でも自分がいい人だと思える人がいれば、少しは見方が違ってきて、ハッキリと嫌いだということはできない気がした。

「樋口先生」

 それが、美麗の気になる先生だった。

 樋口は、熱血教師ではない。下手に熱血だと、生徒に自分の考えを押し付けてしまい、自分のやり方で押し切ろうとするだろう。さすがに押し付けがましい態度は、鬱陶しいだけになってしまい、美麗が気になる人になど、なりえるはずがないのだ。

 冷静なところがあり、自分のやり方を押し付けることがないのは、悪いことではない。それでも物足りないと感じるのは、相手を好きになりかかっていることで、生まれてくる感情。つまり、自分だけを見てほしいという気持ちなのだろう。

 美麗が男の人を好きになるということは珍しいことだった。今までにあったかどうか、定かではない。それは好きな人と、憧れている人との違いを自分なりに分かっているからであって、憧れというのが好きになる感情とは違うということを理解している証拠であろう。

「樋口先生のことを考えると、他のことが頭に入らなくなるのよ」

 あまり親しい友達のいない美麗にとって、それでも一番よく話をする女の子に話したことがあった。

 話した後に、

「しまった」

 と、思ったが口から出てしまった言葉を撤回することは不可能である。

「人を好きになった証拠ね。私も経験あるんだけど……」

 と、くどくどと話し始めた。この人は、自分に相談してくる人は、自分の意見をキチンと聞きたいから聞いてくると思っていて、しっかりとした理詰めで回答してあげないといけないと思っているタイプの人だった。

 それだけに話も長くなる。簡単に終わる話であっても、自分がどうしてそう思うようになったかなど、きっかけや過程を理論づけて話さないと気が済まないようだ。もちろん、悪いことではないのだが、まるで藪の中のヘビを突いたようで、自ら余計なことをしてしまったことで、自己嫌悪に陥ってしまいそうになった。

 美麗は、こういう時自己嫌悪に陥る。中にはイライラしてモノに当たったりする人もいるようだが、美麗はうちに籠ってしまうのだろう。

 なるべく自分が感じるところだけを聞いているつもりだったが、話している内容は、

「それくらい、私だって理解しているわよ」

 ということが多かった。

 だが、最終的には、

「それが恋愛というものよ」

 という言葉で締めくくられた時、身体から力が抜けるのを感じた。結局いろいろ話をしていたのに、結論でも何でもなく、最初に戻ってきたことで、力が抜けた気がしたのだ。

「恋愛感情だというのは分かっている。だから、頭に何も入らなくなった状況を簡単に打破もできないだろう。だから、少しでも和らげる方法はないのか」

 というのは、美麗の考え方なのに、そのことにはまったく触れずに、恋愛についてくどくど言われただけで、最後は、

「それが恋愛」

 これでは、相談しただけ無駄だったことは一目瞭然だ。

 いや、これは彼女にだけに言えることではない、誰に聞いても、似たような答えしか返ってこないだろう。ということは、それだけ恋愛についての話というのは難しいもので、目からウロコが落ちるような話をしてくれる人がいるはずもないだろう。

「そんなことは、最初から分かっていたくせに」

 と思う。今までは、人にそんな話をしたことなどないのに、きっと聞いた人は、

「愚痴を言っているんだわ」

 としてしか聞こえていないのかも知れない。

 もし、そうだとすれば、本当に相談するだけ無駄なのだ。言葉を吐いた人間と、聞いた人間の気持ちに差があれば、当然聞いた人間はシラケてしまうに違いないからだ。

 だが、愚痴を言ってしまうほど、美麗はボーっとしていたのかも知れない。

 先生への憧れが強いせいか、それとも相手が先生ということで、成就することのない恋煩いなのかという思いであろうが、そのどちらが余計に強いのかということも考えていたのだ。

 先生は、美麗の気持ちに気付いているのだろうか。冷静に見えるので、よく分からない。だが、美麗は、

「多分、先生は気付いていないわ」

 と思っている。

 なぜなら、冷静な人間ほど、相手の気持ちが分かっていないと思うからだ。相手の気持ちが分からないということをまわりに悟られないように、自分をなるべく押し殺し、まわりに気付かせないようにしているのではないだろうか。

 そういう意味で、美麗は冷静な人を信じていない傾向にある。だからと言って、感情的になる人が信じられるというわけではない。感情に出る人間は、見えていることをそのまま感じれば、その人のことがおのずと分かってくる。それだけに、あまり気にすることもないのだが、冷静な人間ほど厄介なことはない。

 まわりにいる感情的な人は、本当に信じられない人が多い。激情家であるということは、それだけ自分が可愛いからだと言っても過言ではないほど、自分中心の話をする人が多い。聞いていて、呆れてしまうほどだが、冷静な人を見ているよりも気が楽な時がある。

 もちろん、それも美麗のその時の感情によるものが多いのだが、美麗は、感情の起伏が激しいほどだ。一日単位で感情が変わることはほとんどで、ひどい時には、一時間ごとに感情の起伏を繰り返しているくらいだ。

 美麗が先生を好きになった理由はどこにあるのか、最初は分からなかった。今から思えば、

「感情が人を求めている時に、優しい言葉を掛けられたのかも知れないわ」

 と思った。理由も分からなくて人を好きになることなどないと思っていた美麗だっただけに、目が覚めれば好きになっていたかのような感情は、信じられないものだった。しかも、それがいつも冷静な人からの言葉であればなおさらのことである。ひょっとして、人を好きになるというきっかけは、美麗に限らず、誰でも似たようなものなのではないかと思うのだった。

 ただ、一つ気になるのが、その時の先生の心境がどうだったかということである。

 このことには、かなり後になって気付いたのだが、先生も人恋しかったので、ちょうどその場にいた美麗に声を掛けたのかも知れない。

 それが悪いというわけではない。逆の気持ちを美麗は感じている。

「それだけ、先生も寂しかったということかも知れないし、先生と私の波長が合っているということなのかも知れないわ」

 お互いを求め合っているとも言える考えに、美麗は本当に先生に対しての恋心が浮かんだのは、その時が最初だったのかも知れないと感じたのだ。

「告白してみようかしら」

 と思ったが、きっかけと勇気がなかなか持てなかった。それは相手が先生であるということが一番の原因である。

 先生が相手となると、今までにテレビドラマなどで見てきた結末を思い浮かべると、決してハッピーエンドではない。ハッピーエンドに終わる話は、

「わざとらしい」

 としてしか、イメージできない。やはり先生と生徒の恋愛は、波乱があって、ドロドロな状態になるのを心のどこかで期待しているところがあった。それだけひねくれているのかも知れないが、何よりも、自分からすれば、「他人事」というイメージしか浮かんでこないからだった。

 樋口先生を、他の女生徒がどう思っているのかが気になり始めると、美麗の心が積極的な方に傾いてくることに気付き始めた。

「皆、樋口先生をどう思う?」

 などと聞けるはずもない。もしそんなことを聞けば、きっと皆真面目に答えないだろう。

「美麗は、樋口先生に気があるのね」

 と、自分から公表しているのと同じことになってしまう。そう思われると最後、まともに答えてくれる気持ちになどなるわけがないだろう。美麗の立場が逆であれば、まず間地面答えるようなことはしないはずだ。

 美麗が先生を気にし始めたのが高校二年生の時、そして、先生を好きになったかも知れないと思うようになったのが、三年生の途中くらいからだった。卒業後の進路について話をした時、先生の真剣な表情に惹かれたのも事実だった。

「私だから、一生懸命になってくれるんだ」

 と思ったからだ。

 それまでずっと冷静さしか見えてこなかった先生が、初めて真剣に美麗と向き合ってくれたことが、それだけ嬉しかったのだ。

 樋口も実は、美麗に対して、先生と生徒以上の感情を持っていたわけではなかった。

 樋口は、教育大学に在学中、付き合っている女性がいて、将来を約束していた。

 だが、その彼女が、たった一度、他の男性と結ばれたことがあった。樋口からすれば、男性として許せないと感じたのだ。

 そのことを相手の女性に告げた。

 それまでは、彼女の行為を責める言葉が続いていて、女性はただ謝るだけだったのだが、樋口の言葉の中に、

「男性として」

 という考えが見えた時、女性は急に気持ちが冷めてしまったようだ。

「自分の感情からなら、私は彼にどうあっても許してもらいたくて謝り続けるでしょうけど、男としてというような、まるで他人事で言われると、さすがに私も冷めてしまうわ。私が浮気をした感情を、自分でもよく分からなかったけど、彼のそんな気持ちが無意識にでも垣間見れたことで、浮気に走ってしまったと思えば、私の感情に間違いはなかったと思ったのよ」

 と、答えるだろう。

 女は、自分のことを愛してくれていると思えば、何としてでも許してもらおうと思うのだろうが、相手が違う方向を見ていたりすると、急に冷めてしまう。それは、一気に寂しさを感じるからで、それだけ急に襲ってくる寂しさに耐えられるだけの感情を持ちあわせていないからに違いない。

 樋口は、彼女のそんな気持ちを分からなかった。元々、女心に対しては疎いところがあった。しかも、

「男性としては、女心に疎い方がニヒルで格好がいい」

 という、少し子供っぽいところを持った男だった。

 彼女が樋口に惚れたのは、そんな子供っぽいところだったのかも知れないが、それも自分に対してのことであれば、ここまで一気に気持ちが冷めてしまうのだということに、改めて思い知らされた気がしたのだ。

 樋口は、彼女が去った理由がずっと分からないでいた。美麗が好きになった時も、そんな自分の気持ちに気付かない。それに気付くのは、美麗が実際に樋口に対して自分の気持ちを表した時であったが、それは、また後の話であった。

 樋口に対して結婚まで考えた彼女が、最初に樋口を好きになったきっかけは、ふとしたことだった。

 数人のグループの中の一人として付き合っていた彼女が、グループで行動している時、花を見て、綺麗に咲いていることに感動したのが、彼女だけだった。

「そんなに綺麗かい?」

 と、声を掛けたのが、樋口だけだったのだ。

 そんな樋口の些細な行動に、彼女は感動した。

「この人は、些細なことを大切に考える人なんだわ」

 と、感じたことが、彼女が樋口に惹かれた理由である。

 美麗が惹かれた理由も似たようなものだったのだろうが、美麗の場合は、すでに冷静なイメージが板についてきた樋口に対してだったので、最初、恋心が分からなかったのも頷ける。

 そんな樋口を好きになった二人の女性。もちろん、お互いに面識がないにも関わらず、樋口の中では、二人が似ているということは、イメージで感じていたようだ。

 もし二人が、一緒の輪の中にいたら、果たして気が合っているかと言われれば、少し違うような気がする。

 お互いの性格は違っている。樋口の最初の彼女は、社交的なところがあって、人との会話は比較的好きな人だった。それだけ、会話に対して違和感はなく、免疫もできている。それに比べて美麗の場合は、どうしても相手を探るようなイメージになってしまっているので、取っつきにくさがあり、仲良くなるまでには、段階がいるようだった。

 ただ、それは高校生と、大学生の違いもあるかも知れない。いや、ほとんどがその違いなのかも知れない。

「この女も高校の時は、暗かったのかも知れないな」

 と、樋口が感じたのは、高校に赴任してからだった。自分が高校生の時に感じていたクラスメイトの女の子と、教え子として見る女の子では、かなり違って見えていた。その大きな理由は、

「見る立場が違う」

 ということで、要するに、立ち位置が違っているから、見える角度が違ってきても当然であった。

 美麗が、樋口と再会したのは、美麗が卒業してから、短大の入学式前だった。美麗としては、なるべく樋口を好きな自分を悟られないようにしていたつもりだったが、樋口の方としては、ウスウス気付いていた。

 気付いていたが、先生と生徒という関係からか、意識しないようにしていた。樋口は、意識しなければ、それで十分に感情を抑えることができる性格だった。そんなところが、樋口を好きになった理由ではないかと、美麗は感じていたが、自分のことに関しては、意識していないだろうと思っていたのだ。

 誰に対しても分け隔てのない態度は、人によって受け取られ方が違ってくる。ほとんどの女の子は、相手が好きな男性であれば、自分だけが特別であることを望むだろう。美麗も本当は、そうであってほしいと思っている反面、分け隔てのない彼の性格を好きになったのだという気持ちの矛盾に、くすぐったいものを感じていた。

 美麗は、卒業してから短大を選んだのは、大学で勉強することの意義が見いだせないこともあったが、大学というと、彼氏を作ったり、サークル活動に勤しんだりというイメージが強く、樋口一筋の自分には、関係がないと思っていた。

 なぜ、高校時代に告白しなかったかというと、先生を苦しめたくなかったといういじらしさがあったからだ。

「先生と生徒」

 という隠微な響きに、まさか先生はそんなことはないと思うが、溺れてしまっては、お互いに進む道は決まってしまう。それだけは避けたかった。

 先生も理性を持って生徒に接しているが、それは、全員をその他大勢で見ているからではないだろうか。もし、一人に執着してしまったら、抑えが利くかどうか分からないようでは困る。そこまで美麗は、樋口の性格を把握できているわけではないのだ。

 樋口にとって、生徒をどう思っているか、美麗は知りたかった。もし知っていれば、自分が今までその他大勢の一人だったのかどうか、気になったからだ。

 先生が何時に終わるか分からなかったので、美麗は、夕方の五時頃から、学校の近くの道で待っていた。あまり学校の近くだと他の先生に見つかるのも困るし、かといって遠すぎると、先生が必ずここを通るとは限らないので、待ちぼうけを食らうだけになってしまう。

 先生の家は、高校の時にリサーチしていた。学校から歩いて二十分近くのコーポに住んでいる。ストーカーとまでは行かないつもりでいたが、今から思えば、あれはストーカーと変わらなかったに違いない。

 美麗は、高校を卒業し、短大の入学までの間に計画の実行を、結構早いうちから計画していた。半年くらい前から画策していたと言ってもいいだろう。先生が自分を本当に好きになってくれるかが不安だったが、美麗には自信があった。

「卒業してから見る私を綺麗だと言ってくれるだろうか?」

 精一杯に背伸びはしたつもりだが、なるべく派手で大人っぽい格好は避けていた。美麗の頭の中には、あまり大人っぽい女性を好きではないという樋口のイメージがあったからで、もし、自分のイメージ違いであれば、美麗はその場で、樋口を見限るかも知れないと思ったほどだ。

 自分が感じている相手のイメージは大切である。少しでも狂えば、気持ちが一気に冷めてしまうことだってあるだろう。

「先生は、清楚な女の子が好きだって思っているけど、そうあってほしいな」

 美麗が清楚なのかどうなのかは、自分では分からないでいた。だが、清楚な女の子は自分の理想であり、好きな人の好みが同じであれば、一生懸命に好みに合わせようと努力するだろう。そんな自分がいじらしく思え、美麗は少し自分をいとおしかった。

 その日は、三月と言えど、寒い日だった。コートを羽織り、手袋にマフラーは外せないアイテムで、手袋をした上から、手をこすりあわせて、息を吹きかけていた。それは無意識の行動で、地団駄を踏むようなステップの足に合わせて、身体が劣っているのを感じていた。

「先生。樋口先生」

 目の前に現れた先生は、美麗のことはおろか、まわりのことをあまり気にせずに歩いていた。

「ボッとして歩いていると、こけちゃいますよ」

 と言って微笑むと、最初はハトが豆鉄砲を食らったかのように見開いた目が次第に落ち着いてくると、いつもの笑顔になっていた。

「島田じゃないか。どうしたんだ?」

 それでも、声は少し踊っている。そのアンバランスに少し可愛らしさを感じた美麗は、最初の主導権を握ることに成功したことが嬉しかった。

「先生に会いに来たんですよ。嬉しいでしょう?」

「わざわざ、この俺に会いに来てくれたのかい?」

「ええ、先生、どうしてるかなって思ってですね」

 何とか、会話を持たせようと平常心を保とうとしていたが、それでも、さすがに美麗も先生に対しての気持ちを抑えることができないのは分かっていた。

「だけど、よくここが分かったな」

 何と答えたらいいのだろう? 一瞬言葉に詰まったが、

「先生に会いたいと思ったからですよ。ご迷惑ですか?」

「あ、いや、迷惑だなんてことはないけど、嬉しいよ」

 先生のオドオドした態度が可愛い。そして、主導権は自分にあるのだと、再認識もできた。

 だが、それが先生の作戦ではないかなどという発想は、その時にはまったくなかった。男がオドオドした態度を取れば、女の子は、相手に対し、いとおしく思うのは美麗に限ったことではないだろう。それを知っていて先生が話したのだとすれば、結局お互いに、キツネと狸である。

「俺の部屋がこの近くだって知っていたのか?」

「はい……」

 それではストーカーではないかと言われるのも覚悟の上だったが、それでも言われれば、

「それだけ私は先生のことがずっと気になっていたんです」

 と言って、抱きつくくらいの気持ちはあった。

「そうか、でも、あまり変な行動は慎んだ方がいいぞ。相手は俺だからいいんであって、他の人だったら、問題になるかも知れないぞ」

「はい、分かってます。私も樋口先生だから、したんですよ。他の人になんか、絶対にしませんよ」

 美麗は、それがまるで樋口に対しての告白のつもりで話をした。それを樋口も分かっているようで、ニッコリと笑い、それが美麗の知っている樋口の満面の笑みだった。

「ありがとう、そう言ってくれると、嬉しいぞ。せっかく来たんだから、コーヒー飲んでいくか?」

「はい、そうさせてください」

 美麗の顔がパッと明るくなり、樋口も満足そうな顔をした。お互いにまずは気持ちが一致したことを素直に喜んでいるようだった。

「それにしても、島田がこれほど勇気があるとは思わなかったぞ」

「自分でも不思議なんですけど、勇気だとは思っていないんですよ。楽しみでドキドキして、自分のことなのに、まるで他の人のことのように思えるくらいなんですよ」

「それが、島田にとっての勇気なのかも知れないな」

「そうなんですね」

 先生の話はいちいち的を得ている、おかげで、美麗は先生の話を聞いていると、気持ちが自然に落ち着いてくる。さりげない先生の一言一言が、美麗の中で、完成された言葉として出来上がって、説得力のあるものに変わっていくのであった。

 寒さからか、自然と背筋が曲がり、前のめりで歩いている美麗に気付いた樋口は、美麗を肩から抱き寄せた。ドキッとしたが、まったく予期していなかったことではなかったので、驚きは、恥かしさに形を変えて、樋口を下から見上げる格好になったのだ。

 相変わらず、それでも樋口は前を向いて歩いている。年齢的にはまだ三十歳を少し超えたくらいであろう樋口と、高校を卒業してすぐの美麗とでは、兄妹と言ってもいいくらいであったが、恋人としてどれだけ似合っているかが分からないでいると、少し恥かしさがまたこみ上げてくるのだった。

 彼氏と呼べる人を作ったことがない美麗には、こういう関係を、果たして恋人同士と呼べるのかどうか分からないでいたが、初めて好きになった人と一緒にいることがそのまま恋人同士の関係と呼べるものだと思っていたのだ。

 ただ、恋愛経験があまりなくても、男女の仲が、それほど単純なものではないことは分かっているつもりだ。耳年増という言葉があるが、耳だけではなく、肌で感じるものが女にはあるのではないかと思うのは、美麗だけであろうか。

 樋口の部屋の前まで来ると、少したじろいでしまった。身体が硬くなり、足が前に進まなかった。

 樋口にもそれが分かったのだろう。美麗の顔を覗き込んでいた。笑顔というわけではなく、心配そうに見つめる顔である。

――この人も、さすがにうろたえているのだろうか?

 では、何をうろたえているというのだろう? 美麗の態度に、これから先どう接していいのか、まるで腫れ物にでも触るかのような感覚を感じているのだろうか。それとも、自分の中での奮い立てた感情が、急に信じられない感覚に陥ったからであろうか。樋口本人に分からないのだから、美麗に分かるはずもない。そう思うと、少しぎこちなさを感じた二人だが、その分、一歩、いや、半歩は先に進んだのではないかと思うと、嬉しくなった。

 一つの行為や感情が、終点に近づくまでに、スピードメーターに差があることだろう。最初一気に感情が高ぶって、半分以上燃え上がったのち、後はゆっくりと、パーセントを上げていく場合、逆に徐々に感情を高めていって、最後にスロットルを上げていくパターン、または、最初から最後までまったく変わらぬスピードで推移するパターンといくつかあるが、美麗と、樋口の場合は、最初ゆっくりで、最後スロットルを上げているかのようだった。ただ、それもすべて美麗の計算であって、今日初めて美麗の気持ちを分かった樋口にとっては、青天の霹靂に近かったのだ。

 樋口は美麗を部屋に入れると、お茶を出してくれた。

「コーヒーの方がいいかとも思ったけど、お茶菓子においしい羊羹があるので、こっちの方がいいと思ってね」

「ありがとうございます。おかまいなく」

 と、お茶の好きな美麗は、羊羹と聞き、おいしいイメージを思い浮かべたが、お茶菓子に羊羹があるというのもすごいものだと思っていた。

 羊羹をかじりながら、お茶をすすり、テレビを見ていると、お互いに意識していた感覚が少しずつ和らいでくるのを感じた。テレビに集中しているのは、緊張を和らげるにはいいのかも知れないが、せっかく高ぶらせた気持ちを冷めさせてしまうのは、あまりありがたいことではない。

 美麗は、先生の近くに自分から寄って行った。今までの美麗はどちらかと言えば引っ込み思案なところが多かっただけに、樋口はビックリしていた。それでも、女の子が自分から近づいてくれているのに、男の自分が臆してしまって、たじろげば、女の子に恥をかかせることになる。

 言い方は紳士的だが、実際に気持ちとしては、

「据え膳食わぬは男の恥」

 という言葉を言い訳に、要は自分を男にしてしまえばいいわけだ。樋口は、その美麗よりも長い手で、美麗を抱きしめた。男性の手の長さが、普通の人がどれほどなのか分からない中で、美麗は男の腕の逞しさにうっとりとし、身を委ねているのだった。

 美麗は、恥かしくて顔を上げることができない。

 樋口もそんな美麗の顔を覗き込みたくて、顔を下げてみたが、それに気付いた美麗がさらに顔を下げる。そんな美麗がいとおしくなって、樋口が美麗を抱きしめた。

 樋口だからなのかも知れないが、ここまで来れば、男の人の理性は飛んでしまうものなのだろうか。下手に男性をからかったりすると、ひどい目に遭うかも知れないという思いも抱いてしまった美麗だった。

 樋口は、美麗を抱きしめた瞬間から、

「これが俺の気持ちの始まりなんだ」

 と、漠然と感じた。これから、気持ちもそうなのだが、環境がどう変わっていくか分からないが、今、この瞬間が始まりであることに違いはない。

 抱きしめられた美麗は、男性経験が一度もなかった。そのことを美麗は、先生にいずれは知られることになるのだろうが、なるべくそれを先延ばしにしたいと思っているのだった。なぜなら、恥かしい気持ち半分と、時間を掛けて、先生から自分の身体を開いてもらうことを望んでいたからだった。

 だが、一旦火のついた男の感情に、失ってしまった理性を取り戻させることは簡単なことではない。

 抱きしめるその手に力が入る。

「痛い」

 美麗は、思わず声に出したが、

「すまない」

 樋口は荒い呼吸の中から、低い声でそう言った。普段の樋口からは感じたことのない声に、美麗は、

「これが男性の感情なんだわ」

 と、感じたものだ。荒々しい男性を基本的に受け付けないのが自分だと思っていた美麗だったが、樋口だけが特別なのか、それとも、火のついた男性は、皆こんな感じなのか分からないでいた。

 ただ、火のついた男性が豹変してしまうことは分かっているので、それが男性が怖い一番の理由であることも、美麗には分かっている。

「美麗って呼んでもいいかい?」

 再会してから、少ししか時間が経っていないはずなのに、何時間も経った気がしていた。計画を立てた張本人である美麗がそれだけ時間に関して感覚を失っているのだから、突然の出来事に遭遇した樋口ももっと大きな驚きを抱いているかも知れない。

「いいですよ。美麗って呼んでください」

 そう言った時、樋口に力強く抱きしめられた。

 その時、美麗は、自分に酔っているのを感じた。完全に恋愛のヒロインを自分が演じている。相手の男性を虜にし、そして、自分を好きになってくれる相手が、自分の好きな人であることに満足していたのだ。

「痛い」

 また、さっきと同じ言葉を呟いた。

 さすがに樋口も悪いと思ったのか、急に力が緩むのを感じた。すると、今度は美麗がビックリし、

「お願い。もっと抱きしめて」

 と言った美麗にビックリし、緩めている力をどうしていいか分からなくなっていた。

「女性の気持ちは分からないな」

 と、樋口は思ったかも知れない。

 だが、美麗にとって、初めて知ることになるであろう男性に、細かい注文を付けるのは仕方がないことなのかも知れないと思った。

 ただ、美麗がまだ男性を知らないことを樋口は分かっているだろうか?

 男性は好きになった女性が処女であることに喜びを感じるものなのか、それとも、面倒くさいと感じるものなのか、分からない。もちろん、男性でも個人差があるだろうから一概には言えないが、ただ、処女であることを知られるのが恥かしいという思いがあることには変わりがなかった。

「美麗は、処女なのかい?」

 いきなり聞かれて、美麗の身体が勝手に反応した。急にビクッとなったのである。その行動が無意識であることは樋口にも分かったであろう。それは言葉には出していないが、肯定の証拠である。

「余計なことを聞いてすまなかったね」

 それを察したのか、樋口は慰めにも似た言葉を発した。

「いいえ、いいんです。確かに私は処女です。先生はそれでもかまいませんか?」

 勇気を出して切り出してみたが、内心はドキドキだった。

 一瞬の間があった。

「うん、大丈夫だよ。それで美麗に対する気持ちに変わりがあるわけでもない」

 これは、やはり少し嫌がっているという表現にも聞こえた。本当に処女がありがたければ、もっと喜んでくれるものだと思っていたからである。

「ありがとうございます」

 とは言ったものの、

「本当にありがたいかどうかは、あなた次第よ」

 と言いたい気持ちが山々だった。

 それを口にすることなどできるはずもない。それは、先に惚れたものの弱みでもあるからだ。

「先生は、今お付き合いしている人いないんですか?」

 樋口が独身なのは知っていた。しかし、本当のプライバシーまでは分からない。ただ、美麗が今までリサーチした中では、そんな素振りは見えなかった。もっとも、一介の女子高生のリサーチなど、子供の探偵ごっこにすぎない。たまに先生の部屋を覗いてみて、誰か女性の出入りがあるかということや、先生の出かけるところを探るくらいしかできない。それも限界があるというものだ。

「いないよ。気にしてくれていたんだね?」

「それはそうですよ。先生のことを私はずっと気にしていたんですよ」

「それはいつ頃からなんだい?」

 ハッキリと、いつだと言えなかった。徐々に好きになっていったのも事実で、気になり出してから好きになるまでにも少し時間が掛かったように思う。

「覚えていません」

 ある程度は答えられると思ったが、質問の内容が意地悪に思えたので、返答も意地悪に答えてしまった。樋口がどう思うかは、本人にしか分からないことである。

「でも、卒業してから来たということは、先生と生徒という関係を避けたかったということだね?」

「だって、先生と生徒の関係って、あまりハッピーエンドにならないでしょう? そこまでのリスクを私だって負えないと思っているんだから、先生ならなおさらのことですよね?」

 社会的立場も、まわりの人間関係を考えても、一人の教え子のために身を潰すというのは、愚の骨頂かも知れない。美麗も以前は、そんな教師がいれば、教師失格というだけではなく、男性としても人間としても、軽蔑に値すると思っていたのである。

「そうだね。燃え上がるのは簡単かも知れないけど、一旦燃え広がると、消すことは不可能になってしまうこともあるからね。確かに怖いことだと思うよ」

「私も先生という職業の人を聖職者なんて言葉で、言い表す人もいるけど、それって私から見れば職業に対しての差別じゃないかって思うんですよ。

「俺が言える立場じゃないが、その言葉に縛られて苦しんでいる人も結構いると思うよ。男なんだから、相手は生徒とは言え、女なんだからね。俺は今までにもそんな気持ちになったことがなかったわけではなかったが、何とか抑えることができたからね」

 先生のセリフは真実であろう。元とは言え、生徒だった女性を相手に、しかも、愛情表現を示した相手に対して自分が、生徒に対し、邪な気持ちを抱いたことを冗談などで言うわけはない。本当であれば、隠しておきたいような話をするということは、それだけ自分のことを知ってほしいということに違いない。それは将来を見据えた長い目で見ているという解釈ができなくもない。相手に自分を知ってもらいたいと思うのは、好きな相手であることに相違ないからである。

 樋口が、その時、戸惑いながら、どこかぎこちなかったことに、美麗は気付いていた。だが、樋口の部屋に入り、樋口に抱きついた瞬間に、忘れてしまった。

 樋口は、そのことを分かっていた。何となく気付かれたと感じた時、

「この娘は、勘が鋭いな」

 と思い、さらにぎこちなさに拍車が掛かった。もし、樋口が美麗の心に気付かなければ、美麗も、まったくの錯覚だとして意識すらしていないに違いない。それを下手にビックリしたために相手に悟らせてしまう。まるで、お互いに腹の探り合いをしているかのようだった。

「先生と生徒じゃなくなったら、先生は、私のことなんか忘れていると思っていましたよ」

「そんなことはないさ」

 と言いながら、少し会話の合間に考え事をしているのが気になった。美麗にとって、その時に想像もつかないことを、樋口は考えていた。それこそ美麗にとっては、

「知らぬが仏」

 なのかも知れない。

 樋口には、実は今学校で気になる女の子がいたのだ。美麗が卒業するまでは、美麗のクラスの三年生を担任していたが、今年は、一年生の担任に変わった。三年生と一年生とでは、天と地ほどの差があることを、樋口は知っていた。一年生から見れば、三年生はまるで雲の上の人であり、話しかけるなど、とんでもない話に思えただろう。逆に三年生からみれば一年生は、まだまだ子供。だが、それも自分たちが歩んできた道であるだけに贔屓目に見てしまうのであろう、一年生から見上げたよりも、だいぶ親近感が感じられる距離である。

 先生から見ると、どちらも、子供には変わりない。ただ、擦れているか擦れていないかの違いだなどと思っている人もいないとも限らない。そう思っていたのに、三年生の担任から、急に一年生に変わると、どうしてもギャップができてくる。

 樋口の学校は、まず一年生を受け持ち、そのまま三年生までエスカレーター状態なのだ。三年生を無事に卒業させると、今度はまた一年生からである。樋口は、このサイクルが今度で三回目だということなので、だいぶ慣れているはずなのだが、

「これだけは、自分にしか分からないものだよ」

 と、後から聞かされたが、それもその人にとっての真実なのかも知れない。

 そんな中で、今年また一年生の受け持ちになった樋口は、心機一転で、新学期を迎えた。

 美麗の短大の入学式は、高校の入学式よりも、だいぶ遅くにあった。美麗の通う短大だけが他の学校よりも遅く始まる。理由はハッキリとは知らないが、そんな学校があってもいいのではないかと、楽天的に考えていた。

 樋口は、入学式で受け持ちの生徒を写真であらかじめ見ていた。その時から、少し気になっていた娘だったのだが、入学式で現れたリアルな彼女を見ると、

「これが胸のときめきというのか?」

 と、まさか教え子で、しかも新入生、さらに、一目惚れというのも、今までの樋口の性格から考えると、ありえないことだった。

「生徒を好きになってはいけない」

 と、いつも自分に言い聞かせていた。

 だが、先生という職業を悔いたことはなかった。実際に人にものを教えることが好きだし、生徒の成長を見守るのも楽しい。だが、それも相手を生徒だとして、完全に割り切ることができた上でのことであった。

 まさか教え子の中に、自分を好きになってくれた人がいて、卒業後を狙ってやってくるという見事な演出をプロデュースして、やってくるなんて、反則だと思うくらいだった。

 教え子がせっかく来てくれたのだから、別に新入生という危ない橋を渡る必要はない。ただでさえ卒業までの三年もあるのに、すでに一目惚れしてしまったメロメロな状態を、誰にも知られずにやり過ごせるかが、今の樋口の最大の悩みだったのかも知れない。

 樋口は、美麗のことを、美麗が在学中に何とも思ってはいなかった。目立つわけでもない死、特別に困らせられたという記憶もない。しいていえば、

――目立たない娘――

 という記憶があっただけだ。

 そんな美麗が訊ねてきてくれて、しかも、大胆にも自分に身体を任せようとしている。これほど嬉しいことはない。悩みのあった自分に対しての天の助けでもあるからだ。

 樋口の心の中の葛藤が、一気に晴れてきた。

 美麗が身体を委ねようと言うのなら、樋口もそれに答えるしかない。身体が勝手に動くのは、それだけ、美麗の動きが自然だったからなのだろう。美麗に対しての気持ちは、次第に大きくなってきた。

 それにしても、昨日まで、正直に言えば、忘れていたような教え子が現れて、自分のことを好きだと言ってくれた。それに間違いはない。まるで夢ではないかと思うような展開に、思わず頬をつねってみたくなる樋口だった。

 美麗が在学中に、樋口は他の女の子を意識していたということはなかった。それなのに、なぜ、今になって、しかも一目惚れなどしてしまったのか。

 それだけ、三年生ばかりを見ていた目で、一年生を見ると新鮮に見えるのか、それとも、彼女が醸し出すオーラがそれほど大きなものなのかのどちらかであろう。

 もし、後者だとすれば、オーラを感じるのは、他の人も皆彼女のオーラに参ってしまっているのか、それとも、樋口だけが感じることなのか、分からない。もし樋口だけが感じているのだとすれば、それだけ、彼女と波長が合っているということだろう。そうなると、美麗が来てくれなければ、樋口にはさらなる苦悩が待ち受けていることになるに違いない。

 樋口は、今は来てくれた美麗に対して、十分に答えることが、自分のためでもあると思った。しかも、もう美麗は教え子ではない。

「手を出しても、何ら問題があるわけではない」

 父兄が出てきたとしても、これは普通の自由恋愛なのだ。誰に何を言われても、問題ないだろう。

 それに、樋口のまわりにも、同じように、卒業生と付き合って、最後には結婚したという話もよく聞く。ただ、それは、二人が危ない橋を渡って、紆余曲折の中で、やっとゴールインしたパターンであろう。

 さぞや、二人の愛情は固い絆で結ばれているのだろうと思っていたが、話を聞いてみると、そうでもない場合も多いようだ。

 なぜなら、結婚までにエネルギーを使い果たしてしまって、いざ結婚生活に入ると、味気無さが残ってしまうというのだ。

「どうして、あれほど気持ちが盛り上がったのだろう?」

 二人が同じことを思っていれば、それだけ、冷めるのも早いもので、しかも、一度過激な恋愛を味わってしまえば、また危ない橋を渡るような恋愛でなければ我慢できないような恋愛感情を持ってしまうのだ。

 樋口にはそこまで考えられないが、相手が過熱しているのであれば、自分が冷却剤になればいいというくらいに思っていた。

 美麗の行動は確かに思いきったことをしているようだが、それも、計算づくではないかと思っている。

 在学中に来るわけではなく、卒業してから来てくれたのは、先生と生徒という枠を超えた時点で来てくれたのだ。

 中には、先生と生徒という枠の中だからこそ、恋愛ができると思っている女の子もいるかも知れない。美麗はそんなことを考えていない分、過熱が激しいわけではない。

 要するに熱しやすく、冷めやすい性格ではないということであろう。

 熱しやすく冷めやすい性格であれば、樋口は願い下げだった。最初は自分も相手のペースに乗ってしまったとしても、結局置き去りにされてしまうのは、自分である。そんなことになってしまっては、まるでピエロにされてしまっただけで、後悔が残るというだけのものではないかも知れない。

 女性不信に陥るかも知れないし、恋愛ができない心境になるかも知れない。

 樋口は絶えず最悪なことを考えることが多い。特に危険を孕んでいるようなものに対しては、そう考えることが多い。

「このままでいいのだろうか?」

 と思い始めた時、最初から自分が冷静で、最悪な事態を考えているのであれば、何とか立ち直ることもできるであろう。一歩間違えば奈落の底で悩んでしまい、なかなか抜けられない人生を歩むかも知れないという未来が見えているのも、困ったものである。

 美麗にも、同じものが見えているのかも知れないと思う樋口だった。確かに美麗にも見えているとしても、正反対の立場から見るものなので、見え方もまったく違う。それだけ対処方法も付き合い方もおのずと変わってくるだろう。それを思うと樋口は、一歩下がった方がいいのか考えあぐねていた。

 美麗がもし、男女共学の学校に通っていたら、どうなっていただろう?

 クラスメイトの男の子に恋をするような普通の女の子だっただろうか。自分では、そうは思わない。なぜかということを考えると、それが年上の男性に憧れている自分がいるからだということを、最近感じるようになってきた。

 子供の頃から、父親にあまりいいイメージを持っていない。

 父親は厳格な性格ではあるが、そのくせ、女性に対してルーズなところがあった。確かに他の中年男性のように頭が薄かったり、チビというイメージではなく、大人の女性にも、年上に憧れている女性にもモテそうな雰囲気がある。

 だからと言って、不倫が許されるわけではない。何度か不倫を繰り返し、その都度、母親を泣かせてきた。しかも、いつも平謝りをしていて、みっともないったらありゃしない。

 そんな姿を何度も見せられては、父親はおろか、中年男性に対して、相当な幻滅を感じていた。それなのに、どうして年上に憧れるようになったかというと、美麗の中にある父親像と実際の父親のイメージがあまりにも違いすぎているからだろう。

 美麗は、父親に幻滅し、見えなくなった顔のシルエットを埋めてくれる男性を捜し求めていた。それが、年上に憧れる一番の原因なのだ。

 美麗が女子高に通ったのも、短大を目指したのも、同年代の男性が嫌だというイメージもあるが、同年代の男性を見ないことで、年上の男性をしっかりと見ることができるという思いを強く抱いたからなのだ。

 樋口が美麗にとって、本当に理想の年上の男性なのか分からない。それは付き合ってみないと分からないという感覚もあるからで、それだけではないのだろうが、美麗には樋口が一番理想に近い男性に見えたのだ。

 もし、他に理想の男性が現れたら、簡単に乗り換えることをするだろうか?

 その思いはあった。だが、今は乗り換えられるかも知れないと思う。ただ、美麗はどちらかというと、情にもろい方である。本当に好きになってしまう可能性も強く、そうなれば、きっと他の男性が目に入らなくなるだろう。

「一人の人を想うと一途なのが、美麗のいいところね」

 と、クラスメイトから言われたことがあったが、まさにその通りだろう。

「私も自分でそう思うわ」

 と言ってお互いに笑ったが、本当に好きな男性が樋口なのか、まだこの段階では分からなかった。

 樋口は、美麗の気持ちを受け入れることを、心のどこかで、警戒していたのだが、状況から考えると、一番いい選択ではないかと思った。

 このまま受け入れないでいると、学校に行くのが辛くなる。美麗を受け入れることで、教え子に手を出さないですむという感覚に安心感を覚えるからだ。

 しかも、相手が自分を好きになってくれたのだ。

 今までの樋口であれば、有頂天になっても当然だと思えるだろう。生徒からもし好かれたとしても、受け入れるわけには行かなかった。以前にも好きになられたことがあったが、その気持ちを断ち切るのに、今から思い出しても、結構大変だったと思える。

 樋口のような先生は、生徒受けがいいのかも知れない。

 父兄にも人気があり、あまり悪い印象を与えることはない。見た目が、「人畜無害」に見えるからなのか、それだけ好青年というイメージを与えているのだろう。

 樋口は、確かに好青年だった。先生になった頃には、希望に溢れていた。ただ、冷静なところは持ちあわせていて、それが父兄に人気のあるところだった。

 先生の評判というのは、歴代で受け継がれているもので、最初についた印象が、伝統的に学校の中で自然と位置づけられていくもので、それだけ第一印象は大切なのかも知れない。

「娘は、樋口先生のクラスに」

 という父兄もいるようで、考えてみれば、医者といい、先生と名の付く者は、最初の印象と、受け継がれてきた印象によって、決まってくるものではないだろうか。

 美麗が、なぜ樋口に憧れたのかといえば、それは他の女の子と同じだろう。最初に先生に憧れるというのは、珍しいことでも何でもない。むしろ、一番身近で、他人の男性。それが先生である。

 樋口のクラスには、樋口に憧れている女の子も他にはいただろう。だが、それを表に出さなかったのは、年上への憧れが、そのまま恋愛感情に結びつかず、同年代に走ったことが一番の原因だったに違いない。憧れが、そのまま自分の好きな男性に結びつく可能性というのは、どれほどのものだというのだろう。

 同年代の男の子には、ほとんど興味がなかった。美麗にとって、同世代の男の子は、まだ子供にしか見えないのだ。自分の感情の落としどころが分からずに、結局男性のいいところを見つけることがなかなかできない自分に、少し苛立ちを覚えていた美麗だったのだ。

「私、先生のような年上の人、大好きなんです」

 この言葉が、先生のような男性の胸に響くということは、美麗には分かっていた。

「そうなのか? それは本当に嬉しいな」

 一瞬だが、先生が興奮しているのが分かった。すぐに冷静さを取り戻し、取り繕っていたが、

「しまった」

 という思いが見え隠れしたのを感じ、美麗は樋口に対して、

「可愛い」

 という感情を持ったのだった。

 しかし、それが樋口の計算ずくでの行動だということに、もちろん、美麗は気が付いていなかった。それは美麗に限ったことではなく、誰にも分からないだろう。実際に樋口にも分かっていないのかも知れない、本人の無意識の行動ではないだろうか。

 樋口は、美麗を思い切り抱きしめながら、教え子のことが頭に浮かんでくるのを感じていた。

――なぜなんだ? 忘れたいと思っているのに、逆に思い浮かぶなんて――

 それが男の性であることに、その時はまだ気付かない樋口だった。

 身体が感じている気持ちよさを、頭の中では、本当に感じたい教え子が浮かんでくるのである。

 教え子の名前は、水沼利恵と言った。

 利恵は、樋口の前でも、それ以外の人の前でも、決して態度を変えることはない。態度を変えないところは、無表情の人に多いと思われがちだが、利恵の場合は、いつも笑顔であった。

 そんな利恵を思い出しながら、思わず、利恵の名前を叫んでしまわないかという気持ちがあり、気持ちいいなからも、理性を失わないように心掛けていた。

 美麗に対しても、在学中、何も感じていなかったとはいえ、大人になっている美麗を見た時、男の部分が顔を出したことに、樋口は悦びを感じていた。

 利恵と美麗の違いはハッキリしている。一番大きなのは、年齢差だった。少女としか思えない利恵に比べ、大人の女の魅力を醸し出している美麗との違いである。どちらがいいかは、二人を並べてみないと分からないだろう。それぞれを見ている時は、いいところしか見えてこないからだ。お互いに並べて見比べてみるなどできるはずもなく、結局、その時の快楽に溺れてしまうことになるのではないかと、不安に思う樋口だった。

 その日、樋口は、美麗と最後の一線を超えることができなかった。

 美麗は最初、物足りなさそうにしていたが、逆に樋口が取った「大人の態度」に感心していたのだ。

 別に今日、一線を超えなくても美麗にとっては問題ではなかった。どうしても一つになりたいなどと思っていたわけではなく、まずは告白の気持ちが伝われば、それでよかったのだ。

 美麗には、樋口が先生としてではなく、一人の男性として感じることができれば、今日はそれだけで十分だった。当初の目的は、すぐに達せられたのだった。

「先生、今、何を考えています?」

 美麗は、軽い気持ちで言ったのだが、樋口にとっては、ドキッとさせられる言葉だった。何を考えているかと言われても、それが、利恵のことだなどと、口が裂けても言えないだろう。

 利恵のことを考えていると言っても、考えているのは頭だけ、感じているのは美麗に対してだった。その思いが、後ろめたさを半分に減らしていた。

 そうは言っても、違う女性を思い浮かべてしまったことへの後ろめたさは、すごいものだ。自己嫌悪に近いものがあることを、今の美麗の言葉が思い知らせたのだった。

「何って、美麗のことだけだよ」

 下の名前で、しかも呼び捨て。学校の中であれば、親近感からの呼び捨てだと思うが、二人きりで呼ばれると、さすがに美麗もドキッとした。

 呼び捨てが、言い訳の代わりだなどと、美麗には思いもつかなかっただろうが、逆に感激されてしまったことで、樋口の自己嫌悪は最高潮に達する。

「そんな、恥かしいじゃないですか」

 恥かしそうな仕草に、樋口もドキッとする。

――本当に大人になったな――

 と感じたが、大人という言葉の本当の意味を、美麗が分かっているのだろうかと、樋口は考えていた。

「本当に可愛いな」

 そう言って強く抱きしめたが、震えていることに気付いた樋口は、しばらくの間、今度は自分の震えが止まらないことを感じていたのだった。

 美麗を可愛いと思いながら抱きしめていると、今度は、利恵のことを思い出さなくなった。

――このまま、一線を越えてしまおうか――

 と、思っていたはずなのに、美麗を可愛いと思った瞬間から、考えが変わってしまった。一線を越えてしまうと、何かを失ってしまうようで、樋口は怖いと感じたのだ。美麗に対しての何かを失ってしまうというわけではないが、自分の中にある何かを失ってしまうような気がしていたのだ。

 利恵に対しての思いが、一線を超えさせなかったのかも知れないが、それだけではないだろう。いとおしいと思うものを壊したくないという気持ちがあるのも事実で、樋口の中で、その思いが強くなったのかも知れない。

 次の日、樋口は学校に行くのが辛かった。どうせなら休んでしまおうかと思ったくらいだが、どうしてもカリキュラムの影響で、学校に行かなければいけない。自分が行かないと、他の先生に迷惑を掛けることになるからだ。

 樋口が他の人に気を遣うのは、優しさや義務感などからではない。気を遣わないと、何を言われるかが嫌なので、気を遣っているだけだった。煩わしいと思いながらも気を遣わなければいけない自分を情けないと思いながら、とりあえず、目の前にあることだけを片づける毎日だった。

 昔で言う、熱血教師とは程遠い。逆に熱血が暑苦しく、わざとらしさしか感じなかった。

「こんな俺を、誰も教師にふさわしいなんて思わないだろう」

 といつも思っている。

 教師にふさわしい人は、自分以外にもたくさんいるのだろうが、世の中は不公平にできているもので、理想に燃えている先生ほど、教員試験に合格しないものだ。

「それだけ理想に燃えているのなら、勉強も一生懸命にして、教職の試験くらい、簡単にパスできるだろうに」

 と思っているが、実際にそれができないということは、よほど勉強の要領が悪いのか、それとも、勉強が嫌いなのかであろう。

 そんな人に勉強を教わるというのもおかしな話で、合格できないのは、それなりに理由があるのだろう。それでも、自分が教職に属しているのが、いまだに不思議に感じている樋口は、

「学校なんて、いい加減なものだ」

 と、他の先生、ましてや父兄には絶対に言えないような言葉を、一人呟いていた。声に出して人に言えないこともストレスになっていて、ただ、そこまでは本人の意識としてはなかったのだ。

 高校の時、何になりたいかなど、思いもしなかった頃のことだが、少なくとも、教師にだけはなりたくないと思っていた。一番の理由は、自分が教師を嫌いだということが先に立って、教師に向いていないと本当なら最初に思うであろうとは、思わなかった。

「普通にサラリーマンかな?」

 と、サラリーマンの何たるかを知らないだけならいいが、知ろうともしなかった人間のなった職業が、教師なのだ。説得力など、あったものではないだろう。

 大学での成績がよかったわけでもなく、何事にも控えめというのが、樋口の性格だった。目立つことを好まず、集合写真も、いつだって端の方だった。

 成績はよくなかったが、学問というものは好きだった。勉強が嫌いだったくせに学問が好きだというのもおかしなものだが、受験のための勉強だったり、押し付けられた勉強は嫌いだったのだ。

 ただ、おかしなもので、勉強という言葉は好きだった。一生懸命にやれば、報われるという感覚は好きだったが、一生懸命にやっても成績がパッとしなかったということは、やり方が悪いだけだと理解はできるのだが、意固地な性格である樋口は、自分のやり方を変える気にはなれなかった。勉強という言葉が好きだったくせに、勉強自体が嫌いなのは、そんな矛盾した感覚が、心の中にあったからだろう。

 それでも、教員試験に合格した樋口は、無事に教師になった。勉強を教えることに対して、心の中に矛盾があったが、仕事だと思っていれば、さほど苦にはならなかった。その時に、教師にふさわしい人間こそ、教員になれないことへの矛盾を感じ、人生は皮肉に囲まれて形成されているのではないかと思うのだった。

 皮肉が好きな友達が、大学時代にはいたが、

「皮肉って、意外と素直な気持ちにならないと、口にできないものだと思うんだ」

 と、言っていたが、この間までは、それを言い訳だと思っていた。

 しかし、皮肉というのは、確かに考えた中で生まれてくるもので、その考えも、気持ちが素直でないと浮かんでこない。考え方が繋がることが、皮肉に繋がる。まるで考え方の、「わらしべ長者」のようではないか。

 考えが繋がることの楽しさが、頭の中で素直な表現を思い浮かべる。考えすぎてしまって、他の人には皮肉にしか聞こえないことでも、その人にとっては、素直なことが表現されただけのことなのだ。

 樋口が、学校に行くのを嫌だと思うことは、それほどなかった。だが、最近は時々行くのが嫌だと思うことが多くなった。

――夢を見たからかな?

 どんな夢だったのか、漠然としてしか思い出せないが、夢を見たという意識がある時、目が覚めて最初に感じるのが、

「学校に行くのが嫌だ」

 と、感じることだった。

 学校というところは、自分の学生時代には、

「何も感じないところ」

 というイメージが強かった。

 学校は勉強するところだというイメージだけではなく、芸術関係、スポーツ関係に長けている人間を贔屓するところだったのだ。

 樋口には、それが嫌だった。

 スポーツや芸術に精通している人を育てることをモットーにすることで、学校のイメージを良くして行こうという、まるで宣伝目的の方針には、ウンザリしていた。脚光を浴びて入学してきても、全国から有名選手を選出してきているので、それまでいくら他を寄せ付けないほどの実力者でも、全国レベルとなると、果たしてどれくらいのレベルなのかを考えれば、それまでちやほやされていたにも関わらず、いきなり実力の差を見せつけられ、さらについていけないことを思い知らされると、後は奈落の底に落ちるだけだった。

 この感覚、お互いに知っていたわけではないのに、美麗と共有していたのだ。ただ、夢の中で、共有していると感じる生徒がいることを知っているように思えたが、それがまさか美麗なのだということを、樋口は知る由もなかった。

 樋口も学生時代に恋をした。好きになった女性は清楚な雰囲気だったが、成績はいい方ではなかった。成績がパッとしない清楚な雰囲気の女性というのは、男性から見てどうなのだろう?

「清楚なくせに成績が悪いなんて、まるでサギみたいじゃないか」

 と思う人もいれば、樋口のように、

「清楚な女性には近づきにくいと思っていたけど、俺たちと同じで、親近感が湧く」

 という目で見る人とで、賛否両論ではないだろうか。

 前者は、成績のいい人から見た目、後者は、成績の悪い男が見た目となる。

 実際の彼女は清楚な雰囲気の裏に、女の悪い部分を持ちあわせていた。成績の悪さよりも清楚な雰囲気を鼻に掛けるところがあったのだ。樋口は表に見えている部分しか分からなかったので、親近感を感じていたが、そのうちに彼女の雰囲気が変わってきた。

 鼻に掛けている感覚がだんだんと表に現れてきたのだ。

 自分も成績が悪いくせに、樋口を始めとする劣等生をバカにし始めた。自分の表に見える雰囲気がうちに籠めている内面的なものを逸脱した感覚なのかも知れない。

 そのうちに彼女はまわりから相手にされなくなってきた。同じく成績も悪く素行の良くない女性グループに入って、その中で目立たなくなってしまった。

――もったいない――

 樋口は、まず最初にそう感じた。もったいないとは、せっかくの清楚な雰囲気が失われてしまったことをもったいないと感じているのだ。

 その時初めて、自分が本当に彼女を好きなのかどうか、疑問に感じた。好きだというハッキリとした言葉で表せる感覚ではなかったからだろうが、改めて考えてみると、今までは憧れのようなものを持っていただけなのかも知れないと思った。

 そんな彼女にもったいないと感じた自分が不思議だった。そして再度、彼女を見ると、今度はハッキリと、

「俺は彼女が好きなんだ」

 と感じた。

 それは、最初に感じた彼女に対しては高嶺の花だったのに対し、今度は、厭らしい部分ではあるが、別の彼女を見ることができた。

――彼女も普通の人間なんだ――

 と思うと、今度は、嫌いになる要素が見つからなかった。

 もったいないと感じたのは、他人事のようであるが、それは清楚という表にだけ出ていた、見せかけの性格を素直に感じただけだった。もったいないという感覚を、自分の中で外してしまうと、普通の女の子が残り、目立たないが、ただ見つめているだけで、自分のものになったような錯覚が生まれたのだ。

 もっとも、他の彼女に憧れていたり、好きだと公言していた男のほとんどは、彼女をすでに見ていない。鼻に掛けるようになってから、すでに気持ちは離れているのだろう。

 それが普通の男性の感覚なのかも知れない。憧れの部分が幻滅に変われば、離れて行くのは当然だ。樋口もそうなっていたかも知れない。だが、そうならなかったのは、

「もったいない」

 という気持ちになったからだ。

 樋口が真剣に先生になろうと思ったのは、その彼女のことがあったからだ。

 もったいないという気持ちを忘れずに、彼女のような女の子をなるべく堕ちて行かないようにしてあげるのが、自分の責務のように思っていた。

 樋口が教職に就いてからしばらく、その気持ちは忘れていた。今でも完全に思い出せるわけではないが、その時の女の子のことを思い出させてくれたのが、美麗との再会だったのだ。

 美麗と彼女が似ているわけではない。美麗が在学中に意識しなかったくらいなので、樋口の好みというわけでもない。もっとも、就職してなるべく生徒に手を出さないようにしなければという自覚があったので、意識がなかったのも当然かも知れない。

「そんな俺が一目惚れするなんて」

 もちろん、利恵のことだった。

 利恵が樋口の一目惚れに気付いているとは思えない。もし一目惚れに気付くような女性であれば、好きになるようなことはないと思ったからだ。

「何も知らない、純真無垢な女性」

 これが、樋口の好みだった。

 学生時代に好きだった女の子の

「清楚な雰囲気」

 通じるものがあるはずである。

 利恵に対しての一目惚れは、美麗が現れたことで、もし付き合うようになったとしても、消えるものではないだろう。それだけに二人の間でジレンマに悩むことになるかも知れない。

 だが、それは、今までの樋口にはなかった、

「贅沢な悩み」

 なのかも知れない。

 今まで女性経験が少なかったのは、女性の一面しか見ることができなかったからだと思っている。

 もったいないと感じた彼女に対して、告白することもできずに、結局そのまま卒業してしまったことも、心の奥の方で燻っていた感情なのかも知れない。

 美麗は、樋口に対して積極的だった。それは、今まで樋口が知っている女性の誰よりもである。

 一人寂しい時は風俗にも通った。

 風俗を悪いことだとは、最初から思っていない。犯罪に走るくらいなら、風俗に行くことのどこが悪いというのだ。自分で稼いだお金を使うのだ。誰に文句を言わせるものかと思っていたが、他の先生のほとんどは、

「生徒に示しがつかない」

「聖職者なのに、どうしてそんなところにいく」

 と、言うことだろう。

 だが、心の中では、本当は自分も行けるものなら行きたいと思っている人もいるはずだ。全員がそうだとは言わないが、聖職者という言葉の呪縛に縛られて、自分を見ないようにしている。

「そんな人生の何が楽しいというのだろう」

 ましてや、自分たちの相手は、商売の商品ではないのだ。生きている人間相手なのだから、自分がうちに籠ってしまっては、人を相手にすることなどできないに違いない。

 夏休みや冬休みなどの長期休暇の間に、先生は街に巡回に出る。生徒が非行に走らないかを監視するためだ。

 そんな街の様子を、

「聖職者」

 と自認している人たちはどう感じるだろう。

「けがらわしい」

 と感じるだろうか。それとも、自分には関係のない世界だと思うだろうか。樋口は、けがらわしいと思う方が、まだ人間らしくて好きだ。無下に嫌うのはどうかと思うが、それでも、何も感じないよりもマシだと思うのだった。

 樋口は、美麗が来てくれたことで、自分が聖職者ではない、先生になれそうな気がした。利恵のことが気になるのはしょうがないとして、目の前にいる美麗に答えることに自分の気持ちを集中させようと思ったのだ。

「樋口先生」

「何だい?」

「またお邪魔していいですか?」

「もちろんだよ。そのつもりで、今日は来てくれたんだろう?」

「ええ」

 一線を超えることなく、樋口のベッドの中で、抱き合って一夜を過ごした。こんな場面を他の人が見たら、一線を超えていないなど、誰も信じることができないだろう。美麗はそれでも安心した顔になり、上気したその顔に、樋口は唇を重ねる。

 一線を超えることがなかったが、何度重ねたことか分からない唇の味は、ずっと忘れることはないだろうと、二人で思っていた。

「じゃあ、先生。また来ます」

 身繕いを整えて、玄関先で、ニッコリ笑う美麗に、樋口は最後の口づけをする。それでことばはすべて終わり、美麗は踵を返し、振り返ることなく、駅へと向かったのだ。その後ろ姿を見えなくなるまで見つめる樋口。樋口にとっては至福の時間の最後に訪れたクライマックスに思えた。

 角を曲がって駅に向かう美麗。角を曲がったところで、思わず涙が目頭を熱くするのを感じた。

「嫌だ。どうして泣いてるのかしら?」

 一線を越えたわけではない。樋口が無茶をする男性でないことは分かっていた。だが、実際に無理なことをしなかった樋口の優しさに癒されたのも事実だが、逆に何もされなかったことで、少し物足りなさも感じた。

「私って、そんなに魅力ないのかしら?」

 と、女としてのいじらしさを感じた、

 樋口の前では、もっと女らしいところを見せられると思ったのに、自分としては、想像以上に淡白だったのを感じた。

「清楚だなんて、思ってはいないわよね」

 と苦笑いをしたが、樋口の心の奥に、清楚な女性に対して、特別な感情が隠されていることを、美麗は知る由もなかっただろう。

 樋口のことを考えるのは、電車に乗ってからやめようと思った。余韻に浸っていたいと思う気分もあるが、あんまり考えすぎると、自分が告白したことに対して、確固たる返事をしてくれなかったことが気になってしまう。

「だけど、身体で示してくれたじゃない」

 と、自分に言い聞かせてみるが、それは慰めにしか感じられなかった。

 身体で示してくれたと言っても、一線は越えなかった。普段なら、優しさとして片づけてしまうのだが、告白した方からすれば、中途半端に感じられる。

 男は、理性を保ったと思っているかも知れないが、それは女心を分かっていない証拠。もっとも、樋口に女心の理解を求めるのは最初から無理な相談だと思っていた。

 樋口が女心を分かっているようなら、好きになんかなっていない。

 女心を分かっていて、それを手玉に取るような男性は、こっちから願い下げだと思っていた。

 樋口のような先生、いや、男性は美麗には初めてだった。

 樋口を見ていると、思わずニッコリとしてしまうほど、どん臭いところがあった。

「男性は、頼りがいがないといけない」

 という発想は、母親のもので、美麗も反対ではなかった。しかし、それ以上に頼りがいだけで、男性を判断できないのではないかという思いもあり、母親の考えすべてに同調するものではない。

 しっかりとした男性に対しての考えを持っていても、付き合い始めてすぐに別れることもあれば、成田離婚などということもあり得る。お互いの性格の相性が大切なことはいうまでもないだろう。

 女心を分かっている男性というのも、美麗には信じられないところがあった。胡散臭さといっても過言ではない。

「君のことを思って」

 と言っても、相手からすれば、

「有難迷惑なのよね」

 という話を女の子たちだけの会話から、よく聞かされる。

 美麗にも、中学時代には寄ってくる男の子がいたが、その男の子は、美麗に対して、

「優しさの押し売り」

 そのままだった。

「押しだけでは、女の子は感動しないものなのよ」

 と、言いたい言葉をぐっと飲み込み、美麗は、中学時代までは、男の子を異性として意識していなかったように思う。それだけ、異性に対しては晩生だったのだ。

 どん臭い雰囲気が情けなさを醸し出すものではなければ、それも個性の一つ、その人の魅力だと感じるのは、美麗だけだろうか。樋口はまさにそんな男性であり、男性の友達も一見少なそうに見えるが、意外と多いのかも知れないと思った。

 だが、実際の樋口に、友達は皆無だった。どん臭い雰囲気は見た目そのままで、まわりからは情けない男だと見られていたようだ。

 情けない雰囲気を醸し出していると、失敗は致命的で、誰からも相手にされなくなるという危機感を、樋口はいつも抱いていた。

 ただ、楽天的な性格でもあり、人から嫌われたとしても、気にしないところがあった。大学時代に友達を一気に増やしたことがあった。行き過ぎる相手に、振る手の数が、まるでその人のステータスでもあるかのような感じで、完全に「質より量」だったのだ。

 大学では、文芸サークルに所属し、小冊子を発行しているところが気に入っていた。ポエムを書くことがあった樋口は、小冊子に自分の作品が載るのを楽しみにしていたのである。

 同じお金を使うなら、自分の作品を発表できる場を与えてくれるところで使いたいと思うもので、作品は、同人誌仲間では、それなりに評価してくれていた。

 学園祭で、小冊子を配ったが、受け取るまではしても、数十メートル行ったところのゴミ箱にポイする人が多かった。それでも一生懸命に配っていたが、それでも、さすがに目の前で捨てるところを見てしまったら、思っていたよりも、落ち込みが激しかった。

 ただ、中には大切に読んでくれている人を見ると、救われた気がした。まわりをたくさんの人が行き交う中で、まるでまわりのことなど気にする様子もなく、ベンチに座って、本を読むことに勤しんでいる。

――一体誰と来たのだろう?

 一人でじっと本を読んでいる。

「誰かを待っているのかな?」

 という思いが強く、待ち人を意識しながら、彼女をじっと見ていたが、誰も近づいてくる様子はない。

 どれくらい経ったのだろう? 最初に焦れたのは、樋口だった。

「何を読んでいるんだい?」

 顔を覗き込むと、どこかで見た顔。それは後から感じたことで、本当は逆で、今知っている人に、彼女は似ていたのだ。

 それが誰なのかというと、他ならぬ利恵だった。利恵に対して一目惚れだと思っていたが、自分にこんな記憶が残っていたなど忘れていたのに、思い出したのは、本当に偶然だった。

 樋口は忘れっぽい性格である。

 それだからであろうか、利恵を好きになったのを一目惚れと思い、こんな思いを以前にも一度味わったことがあると思ったのだった。

 だが、実際に学生時代に感じた思いの方が、

「前に味わった気がする」

 という思いが強かった。以前に感じたと思ったのは、味わった気がすると言う気持ちになったことだったのかも知れない。

 また、今回、美麗が訊ねてくることも、予感としてあった。

 美麗を抱いた感触、肌の細かさを感じたが、これは、大学時代に見た女性に感じたイメージに近かった。

 最後の一線を超えなかったのは、あまりにも肌がきめ細かかったからなのかも知れない。抱きしめた瞬間、まるで吸盤に吸いつけられたような感覚があり、逃げることができない錯覚を覚えた。

「この身体に溺れてしまうかも知れない」

 と思ったのだが、溺れるのが怖かったというよりも、美麗が自分の肌に溺れている男性を目の前で見て、どんな感覚に陥ってしまうかが怖かったのだ。

 まるで魔性の女のようなイメージを持って、樋口を美麗から離さなくしてしまうかも知れない。吸盤の大きさが微妙に変わることで、性感帯を微妙な力で強弱をつけることが、男を魅了して止まないのだろう。

 樋口は、美麗が帰った後の一人の部屋にいるのが嫌だった。寂しさから一人でいるのが嫌だったわけではなく、少し沸騰してしまった頭を冷やしたいという気持ちもあったのだろう。

 家を出てから、どこに行くという当てもなかった。ただ駅まで行って、それまでにどこに行こうか決めようと思ったのだ。樋口の性格としては、あれこれ悩むのであれば、先に何らかのアクションを起こして、そこから選択肢の幅を狭めていけばいいという考え方であった。

 駅までは十五分くらいの距離、考え事をするにはちょうどいい。それだけあれば、どこに行こうか思い浮かぶと言うものだ。

 駅までの道のりを歩いていると、小腹がすいたことに気が付いた。一緒に朝食を摂ろうかと美麗に声を掛けたが、

「いいえ、帰ります。今日は本当にありがとうございました」

 と、一言いって、部屋を出て行った。

 その姿をぼんやりと眺めていたが、口調は淡々としていたが、今まで印象にあった美麗とは違い、感情が表に出ているように見えたのにはビックリした。

 美麗が学校で見せていた表情というと、ハッキリしたものだけで、露骨に嫌な顔をするイメージしか残っていなかった。

「この娘に楽しいと言う感覚はあるんだろうか?」

 と、感じたことを思い出した。

 美麗にとって、楽しいという感覚が欠如しているのではないかという思いは、今日も実はあった。一緒にいて、ずっと抱き合っていても、安心感と満足感は感じたが、やはり、楽しいという思いを起こさせない雰囲気だった。自分に欠如しているだけではなく、まわりにも感じさせないというのは、よほど、心の中に何かトラウマを抱えているのではないかと思えたのだ。

 一緒にいる時は、情が移って、美麗のことだけを考え、利恵への思いは、すっかり消えてしまっていた。しかし、美麗が帰ってしまうと、目を瞑って浮かんでくる顔は、利恵の顔だった。

「どうして、今さら」

 せっかく、自分のことを好きだと言って、勇気を持って訊ねてきてくれた元教え子を受け入れる気持ちになったのに、帰ってしまった後、他の女性を思い浮かべ、明らかに記憶が薄れていく状況に陥ってしまったことに、樋口は正直戸惑っている。

 樋口は、いつも駅まで行く時、何かを考えながらの時が多い。その日も、どこに行こうかと思いながら、その裏で、他のことを考えていた。

 同時に重複して何かを考えることができるのは、いいことなのかも知れないが、その分、本当に考えなければいけないことが疎かになってしまうようで、気になっていた。だから、考え事はなるべく似たようなことを考えないようにしている。頭の中で考えが錯綜してしまうからだ。

 聖徳太子は、一度に十人の話を聞けたという。そんなバカなことができるはずがない。脳がそれだけ必要だからだ。しかも、一つ一つをコントロールするためには、心もそれだけの数がいるだろう。まったくもって信じがたい話だ。

 樋口は、利恵のことを思いながら、

「今日は、喫茶店で、モーニングだな」

 と、駅に行く途中に喫茶店があるのを思い出した。

 以前に一度入ったことがあったが、すぐに出た気がする。時間がなかったからだったが、その時に店のイメージを何とも感じなかったのだ。今行けばどういう気持ちになるのかを確かめてみたいという気持ちがあったことで、喫茶店に向かう道の角を、気が付けば曲がっていた。

 最初に見た時は、大きな店だと感じたが、今日来てみると、思っていたよりも、少し小さかった。こじんまりとした感じで、表の駐車場も五台止めればいっぱいになりそうで、中の雰囲気も想像できるというものだ。

 それでも中に入ると、意外に広さを感じた。奥行きはあるようで、カウンター席とテーブル席、それぞれにスペースもゆっくりと作ってある。

 朝日が眩しかったせいか、中に入ると薄暗く感じた。薄暗く感じたもう一つの理由として、表は白壁で目立つように作ってあるのに、店内は、木造のような造りにレトロな雰囲気を醸し出させる造りになっていた。

 モーニングがスクランブルエッグなのは嬉しかった。目玉焼きも好きだったが、その日はスクランブルエッグの気分だった。その時々で食事の好みが変わるのも、樋口の特徴だった。

 コーヒー専門店のような、本格的な豆から挽いたコーヒーは、店内に充満している香りを彷彿させる。コーヒーを楽しむ気分のほとんどは、香りによるものであった。香りは、完成品よりも、挽く時に香ってくるものの方が、雰囲気を湧き立てさせるものだった。

 琥珀色のコーヒーに砂糖を入れてかき回すと、香りを感じている自分が、次第に落ち着いた気分になってくるのが分かった。

「コーヒー専門店のような趣だな」

 自分の知っているコーヒー専門店は、木造でレトロな雰囲気の店が多かった。元々、レトロな雰囲気をそのままにして、表だけ、白壁に塗り替えて、派手な雰囲気に、店のイメージを改造したのかも知れない。

 大学の近くにある喫茶店には、同じような喫茶店が多かった。店内のスピーカーからは、重低音で、クラシックが流れてくる。逆に明るくて白を基調にした店内からは、ジャズが流れてくる雰囲気があったのだ。

 樋口は、クラシックが好きだった。重低音で暗い店内で聴くクラシックも嫌いではなかったが、軽い感じのクラシックの方が好きだった。早朝の目覚めには、軽いクラシックで目を覚ますことが好きな樋口は、目覚まし代わりに、クラシックを鳴らすようにしている。東向きの部屋なので、カーテンからの木漏れ日の眩しさが、クラシックの音色を引き立て、少しでも気持ちのいい目覚めにしようと心がけていた。

 今日寄った喫茶店は、表の明るさを遮断したかのような雰囲気に、夏は、涼しさを感じ、冬はきっと、木目調が、暖かさを感じさせるのではないかと思った。樋口は木目調を見て、家具調こたつを思い出したことで、暖かさを感じたのだと思う。

 喫茶店に寄る時は、いつも文庫本を片手に寄ることが多い。今日も家から持ってきた文庫本を広げて読んでいたが、最近は、ミステリーを読むことが多かった。ミステリーを読んでいると、時間が経つのを忘れる。サスペンスタッチのものが、今は一番読みやすかった。

 クラシックを聴きながら、スクランブルエッグを突く。そして、もう一方の手には、文庫本が握られているという光景は、まわりから見ると、どのように写るのだろうか?

 利恵を最初に意識したのは、学食の前にあるベンチに座って、一人で本を読んでいるのを見た時だった。入学式の次の日で、まだ、全員の顔を把握していなかったが、利恵の顔だけは意識していたこともあって、座って本を読んでいる彼女が自分の生徒であることはすぐに分かった。

 だが、なぜ一人でポツンと、ベンチに座って本を読んでいるのか分からなかったので、

「変わった娘だな」

 と思ったのだが、見ているうちに、無表情に思えた彼女の顔が微妙に変わっているのが分かった。本の内容に共鳴しているのではないかと思えたのだ。

 読んでいる本の内容までは分からなかったが、本人は自分の表情が変わっていくのを意識していないのだろう。見る人が見ないと、表情の微妙な変化に気付くことはないからだ。恋愛モノを読んでいるのではないかと思ったのは、樋口の贔屓目であろうか。

「彼女だったら、恋愛モノ」

 というイメージがあったが、思い込みというよりも贔屓目なのかも知れない。その時、樋口には、贔屓目で見ていることがハッキリと分かった。ただ、それが恋愛感情であるということまでは、気付いていなかったようだ。

 樋口は明るいイメージのある女の子だということを、最初に感じるべきなのに、清楚な雰囲気を最初に感じたことに、違和感がなかった。

「話をしてみたいな」

 先生と生徒という関係ではなく、例えば、今読んでいた本の話などの些細な会話をしてみたいと思ったのだ。先生と呼ばれるようになって、生徒に手を出すことはタブーだと思っていたが、その思いを覆す生徒が現れるとは、思ってもみなかった。

 高校生の時に、憧れていたお姉さんがいたが、彼女が、よく学校のベンチで、本を読んでいた。

――どうして、図書館に行かないんだろう?

 と思って、一度聞いてみたことがあったが、

「図書館のように静かすぎるところは、私は似合わないのよ。それに本を読むなら、まわりに動きがある方が、本をリアルに感じられていいのよ。本を読んでいると、本の世界に入り込んでしまうというべきかしらね」

 と答えてくれたが、なるほど、その通りかも知れない。

 本の世界に入り込むという気持ちは、樋口にも分からなくはない。静かすぎる場所では、勉強するにしても、却って集中できないことが多い。図書館で勉強するという話をよく聞くが、

「よくあの環境で勉強できるな」

 と感じるのだった。図書館という場所は、本を読む場所であって、勉強するところではないという思い込みがあったからなのかも知れないが、実際に本を読むのでさえ、集中できないのは、それだけ自分に集中力がないからだとしか思えなかった。

 確かに本を読むのに、静かすぎる場所では集中できない。静かすぎる場所というのは、言葉では言い表せないような、圧迫感があり、それが、

「静かな環境で、本を読むには最高なのだから、集中して読まなければいけない」

 という感覚が、プレッシャーになるのだった。

 図書館といい、美術館といい、静かな雰囲気を作り出すため、必要以上に空間を多く取っている。

 しかも、空間の空気は薄く、圧迫感が与えられる上に、読まなければいけないというプレッシャーが過呼吸状態を引き起こし、気分が悪くなることもあったりした。今でこそ、理屈が分かるが最初は分からない。

「よほど、僕は勉強や読書が嫌いなのか、それとも、図書館という環境に馴染まないのかのどちらかなんだ」

 と、感じるようになった。

 じゃあ、自分の家で読めばいいというわけでもない。自分の部屋だと、却って気が散ってしまう。テレビのスイッチを入れてみたり、眠くなってしまったりと、完全にリラックス環境だと思っているのだ。

 自分の部屋で読めないとなると、次に考えたのが喫茶店だった。

 今でもその思いが一番なのだが、たまに日に当たりながら、表で本を読んでみたいという衝動に駆られることがある。実際に表で本を読んでいる人の姿を見ていて感じることだった。

 本というのが、どれほどの気持ちに安らぎを与えるかというのは、読もうとしている環境にも大きく左右されるのではないだろうか。本を読んでいると落ち着いた気分になるのは分かっている。まるで高尚な趣味に勤しんでいる気分にさせられるからだ。

 利恵が本を読んでいる姿を見て、学生時代の女の子を思い出したのは、その女の子を好きになったのに、最後に告白できなかったことが、後悔として残っているからだ。

 もしダメで、玉砕する形になっても、それはそれでよかった。やるだけやったという思いは自分の中に満足感として残るからだ。何もしないのであれば、何も残らない。ただ好きだったというだけで、未練のようなものが燻っているのを、消すことができないからである。

 利恵を見た時、すぐに好きだという感情が湧いてきたのは、この時の後悔を繰り返したくないという思いが強かったからなのかも知れない。一目惚れなどなかったはずの自分が、まさか後悔を引きずったために、一目惚れという形になってしまうというのは、皮肉なものではないだろうか。

 樋口は、喫茶店でスクランブルエッグを食べながら、その時のことを思い出していた。さっきまで一緒にいた美麗のことよりも、やはり利恵の方が気になってしまうのかと思ったが、なぜ利恵に一目惚れをしたのかということを考えていると、もう一つの思いが巡ってくるのだった。

 その日、樋口が喫茶店に行って、朝食を食べながら、本を読もうと思ったのは、今までの樋口なら当然のことだった。落ち着いた気分になりたい時に取る行動については、あれこれ考えることもなく、すぐに思いつくものだった。

 普段なら当然の行動をするその先に、思い出すのが利恵の姿だというのは、それだけ二人の間に運命のようなものを感じてしまうのは、やはり贔屓目に見てしまっているからであろうか? 贔屓目というのは、相手に都合よくというよりも、自分に都合よくという考えの元に生まれたものだと言っても過言ではないだろう。

 その日、本を読んでいると、ふと気が付いたのが、正面の壁に掛かっている絵だった。

 森のようなところに囲まれた大きな池が、光りに包まれて、開けている光景が、目の前に飛び込んできた。木造のため、部屋の中が暗く感じられるのだが、それでも、そこだけ木漏れ日が見えるような気がして、じっと見てみたのだった。

 絵に見覚えがあった。そこで見たのか、ハッキリと覚えていないのだが、光りを感じた時に、見たことがあると感じたのだ。

 それがいつだったのか、分からない。ごく最近だったのか、学生時代だったのか、あるいは子供の頃だったのか、記憶はそこまで教えてはくれない。

 だが、明るさで絵の存在に気が付いたという意識があったから、前に見た記憶があると分かったのであれば、そんなに最近のことではないように思えてくるのだった。

 子供の頃だったとすれば、きっと絵を見上げて見たことだろう。近づいて行って、下から見上げた記憶、そのつもりで思い出そうとすると、やはり子供の頃の記憶だったように思えてならなかった。

 絵を見ていると、絵の中に自分がいるように思えていたのは、子供の頃からだった。大人になってまで、そんなバカなことをと言われるのが嫌で、誰にも話していないが、子供の頃には、友達に話をすると、

「面白いな」

 と、言って感動してくれる友達が多かった。

 今から考えると、子供の頃の友達の方が、感受性が強いやつらが多かったように思う。

「二十歳過ぎれば、ただの人」

 感動という言葉すら忘れてしまったような連中に囲まれていると思うのは、教師という職業だからだろうか。昔のような熱血教師などありえないだろうが、いかにも公務員という雰囲気を醸し出しながら、ただカリキュラムに従って仕事をするだけの人間が多すぎる気がするのだ。

 絵の中に自分がいるという発想を最初にしたのは、樋口ではなかった。他の友達が言い出したことだったのだが、話を真面目には聞いていても、共感している感じはなかった。共感していたのは樋口だけで、その思いが次第に、

「最初に発想したのは、俺なんだ」

 という感覚になっていった。

 今では、その友達のこともすっかり忘れてしまっていたのだが、時々、壁に掛かっている絵が気になる時があると、その友達のことを思い出すことがあったのだ。

 自分から見つめられているような錯覚に陥って絵を見ていると、どこかで見たことがある光景だと思ってしまう。この感覚もいつものことで、そのうちに、感覚が当たり前になってくると、絵に対しての興味が薄れ、もう二度と店を出るまで、絵を気にすることはなくなってしまう。

 しかも、今度その店に行くと、絵が変わっているのだ。

「俺は幻を見たのだろうか?」

 と思ってしまうのだが、次の瞬間には、すでにどうでもいいことに変わってしまっていた。きっと、幻という言葉に違和感があり、頭の中から消してしまいたい衝動に駆られてしまうからであろう。

 一度ならず、二度までも、何度同じことを思っただろう。そのたびに、デジャブというものが、絵に対して特別な思いを抱かせることで、何かを思い出させようとしているのではないかと思うのだった。

 おかしな話だが、それが本当に自分が知っていることではないような気がする。それなのに、記憶として残っている。それは、きっと自分が誰かの生まれ変わりであり、生まれ変わる前の人の記憶が、何かの拍子に現れる。それが、絵画という媒体なのではないかと思うのだ。

 媒体はキーであり、生まれ変わりの前の人との記憶をこじ開けるアイテムなのかも知れないと思うと、あまり、非科学的なことは信じない樋口だったが、それだけは、信じてみたいと思うのだった。

 絵に対して、前から気になっていたのだが、絵が変わっていたというのは、まったく違う絵になっているというわけではない。たぶん、他の人が見れば、同じ絵に見えるだろう。それは、絵の中にいたと思っていた自分がいなくなったことで感じた感覚だということを、後になって知ったから、その時には分からなかったということである。

 その日も喫茶店で絵を見ていると、自分に見つめられているように思えていた。だが、この絵を見て、自分が見つめているのを感じるのは、今日だけのことに違いない。

 普段なら、そこまで感じないが、今日のように、気持ちが高ぶっていると、絵の中に見えているであろう自分から、どんな目で見られているのかが、気になってしまった。普段は、自分を見つめる絵の中の自分というシチュエーションに少なからずの違和感を感じていたが、今日は見られていると言うことには違和感がない。むしろ、どんな目で見つめられているかという方が気になるのだった。

 最後の一線は超えていないとはいえ、元教え子を抱きしめ、身体全体で女性を感じてきた。しかも、それが本当に好きな相手ではなく、さらに別れてから、今度は、本当に好きな相手のイメージだけを頭の中に持っているという不思議な感覚の余韻に浸っている表情は、普通ではないだろう。

 上気しているかも知れない。まるで恥じらいを感じながら、快感に酔いしれようとしている女性のようだ。

――どうして、女性の気持ちが分かるというのだ?

 抱きしめた時に、美麗の中にある感情を、感じ取れた気がした。共有したと言った方がいいかも知れないが、その時に、

「俺も、女性が感じている顔になれるかも知れない」

 と思った。

 男の自分が女の、しかも恥かしい顔ができるというのは、ありがたいことではない。ただ、見てみたい気がしたのも事実だ。普通なら見ることなどできるはずもないのだろうが、絵の中の自分だというのであれば、それも不可能ではない。

 美麗を抱いている時に、感じた自分の表情。それを確かめたいと思ったことが、無意識でありながらも、今日、この店に樋口を誘ったのではないだろうか。

 無意識な感覚も、現実になってしまえば、最初から、意識的だったと言っても、違和感はない。以前なら、無意識な感覚が現実になるのは嫌だった。あくまでも自分の意識は、最初から自分が考えたことでなければ、成立しないと思っていて、まるで他力本願的な感情は、自分のものではないと、受け入れようとするならば、そんな自分を許すことはできなかった。

 その日、樋口は、昼からの授業だった。授業までにはまだ時間があるが、美麗のことが少し気になっていた。

 短大は、朝からの講義だと思ったが、ちゃんと、授業を受けているだろうか?

 美麗の愛情に、中途半端に答えてしまったことで、彼女の中に、しこりのようなものを残したのではないかと、少し不安になってしまった。

 それなのに、頭に描くのは利恵のこと。美麗に対する想いは、後ろめたさと、罪悪感が入り混じった恋愛感情という複雑なものになっていた。それを感じないようにするために、なるべく美麗のことを考えないようにしているのだろう。

 本を読みながらの朝食は、時間を忘れさせた。普段と違い、絵の存在を意識していても、感覚は本を読んでいる時間が優先している。

 本を読んでいると自分の世界に入ってしまうのだが、入った世界で、気になっている絵が想像の中に入り込み、妄想を描くようになってくる。

 その日の樋口も妄想を抱いていた。

 恋愛モノの小説にふさわしい絵だとは言い難かったが、妄想を抱くには、ちょうどよかったかも知れない。今まで本を読んで入り込む世界は似たようなものが多かった。あまりドロドロとしていない、ベタな恋愛感情を抱きたい方だったが、妄想となると、ドロドロしていたり、淫靡な感覚が芽生えてくる。

――同じ本を読むにしても、別の世界が広がるんだ――

 と、感じながら妄想していると、今日、絵に気が付いたことが、ただの偶然ではないように思えてくる。

 もっと言えば、今日ここの喫茶店にきたのも偶然ではないようにも思えてくる。

 偶然という言葉、あまり好きではないが、嫌いなわけでもない。好きではない理由は、偶然の出来事を信じている自分があまり好きになれないという意識はあるから、偶然という言葉自体を、好きになれないと思ったのだ。

 だが、偶然の出来事が起こった時、

「最初から、予感があった」

 と、感じる時と、

「本当に偶然なんだ」

 と、思う時の二つがあった。

 最初から予感があった時に、偶然を信じる自分が、好きになれないのであって、素直に偶然を感じる自分は好きであった。偶然の出来事に、身を委ねてみようという意識があるからだ。

 今日の樋口はいつもと感情が違っていた。

 最初から予感があったような気がしているのに、そんな自分を好きでいられた。偶然に身を任せることができて、しかも、時間があっという間だったような気がする。

 本を読んでいたからなのか、それとも、美麗の感覚がまだ身体に残っているからなのか、身を委ねているものが、一つではないような気がして仕方がない。

 時計を見れば、そろそろ学校に行かないといけない時間になっていた。いつもより遅い時間の出勤なので、精神的にはかなり余裕があったが、今まではここで一旦気合を入れて、ギアの入れ替えを必要としたが、今日はこのままの気持ちで学校に行こうと思った。頭の中にはすでに利恵のことがあったからだ。

 普段の朝、ギアの入れ替えを行うのは、頭の中に利恵を復活させるためだった。

 学校から帰ってきて、一旦、利恵のことを頭の中からリセットする。それが樋口の日課となっていて、一度リセットしてしまわないと、いつまでも学校にいる感覚になってしまい、精神的に疲れが倍増してしまう。

 その日はリセットすることなく学校に行けるのは、精神的に気が楽だった。

――絵を見たことが、安心感を与えてくれたのかな?

 美麗のこともあり、利恵への思いも頭にはある。普通なら、複雑な思いを抱いたままの出勤になるのだが、その日は、自然だった。まるで絵の中の自分がすべてを分かってくれていて、複雑な思いを吸収してくれたのかも知れないと思った。

 学校までは一時間近くかかる。朝の通勤時間の間は、かなりの疲れを伴うのに、ついてみればあっという間に感じるが、今日などは。電車の中は空いていて、通勤途中ではあっという間に着いたような気がしたのに、後から思えば、通勤時間に要した時間は、長かった感覚であった。

 授業が始めるまでの準備は、昨日のうちに済ませていたので、普段であれば、昨日のことを思い出せば、すぐに教室に行っても生徒の相手ができると思うのだが、今日は、昨日のことが思い出せないのだ。

 実際に昨日のことを思い出そうとしたのだ。カリキュラム表を見て、昨日用意した資料に目を通した。それでもすぐには思い出せない。

――普段なら、中を見るまでもないのに――

 と思うのに、どうしたことだろう?

 資料を開いて、中を読んでみたが、何かしこりのようなものが頭の中に引っかかっていて、集中できない。

 集中できないものを、強引にでも集中させようとすると、汗を掻いてくる。

 汗を掻くまで、集中できないことに焦ることは、それほど少なかったわけではないが、時間が経てば、集中できてくるものだ。

 それなのに、今日は、集中する時間を重ねても、まったく先に進まない。一生懸命に水の中で水を掻いているにも関わらず、前に進むことができない時と似ている。

 今の心境は、身体が触れているものが空気なのか水なのかの抵抗感の違いがあるほど、余計な力が、身体の中から湧いて出るような気がしていたのだ。

 教員室で、じっと下を向いて資料に目を通していると、意識が薄れてくるのを感じた。

――やばい――

 と思い、頭をあげて、教員室を見渡したが。いつもより狭く感じられた。

 そのわりに、天井はやたらと高く、まるで美術館か、図書館にいるような感覚がしてきた。

――空気が薄い――

 とっさにそう思ったが、思ってしまったのが災いしたのか。どうやら、そのまま気を失ってしまったようだ。気が付けば、医務室のベッドの上で寝かされていたのである。

「ここは?」

 目を覚ました瞬間、飛び込んできた天井が、真っ逆さまに落ちてくるような錯覚に陥っていた。

「はぁはぁ」

 過呼吸を引き起こしていたのは、気絶する前に感じた、

――空気が薄い――

 という意識、それが強かったからだ。

 ここが、医務室の天井であることは、すぐに分かった。今までにこのベッドで寝かされたことが一度もなかったのに、どうして分かったのか、不思議だった。

 天井が落ちてくる錯覚のおかげで、身体が痙攣を起こしそうになるのを、寸前で堪えていた。

――落ち着かなければいけない――

 と、すぐにゆっくりと大きく深呼吸をしたのだが、その声で、医務室の先生に樋口が目を覚ましたことを教えたようなものだった。

「樋口先生、大丈夫ですか?」

 医務室の先生は、女医さんで、生徒には人気があった。いや、生徒だけではなく、男性教員の中でも、彼女のことを好きな人もいるようだ。生徒からは憧れのように見られていて、先生たちからは大人の女性のイメージを与えている。男性教師はいつも生徒しか見ていないので、余計に大人の色香を感じるのだろう。

 苗字で呼ぶよりも、綾香先生という親しみを込めた名前で呼ぶ人が多い。樋口もその一人だったが、綾香先生に対しての恋愛感情は、他の人ほど強くはなかった。

「ありがとうございます。だいぶいいみたいです」

 そういうと、綾香先生はニッコリと笑ったが、この表情に惹かれるところがあるのだ。この表情が、他の人を惹きつけて止まないのだろう。樋口は、他の人に比べて、クールというわけでもない。逆に人一倍惚れっぽい性格だと思うのだが、なぜか綾香先生に対しては、そこまで感じない。

――この表情を最初に見てしまったからなのかも知れないな――

 これも一種の一目惚れなのかも知れない。

 この表情を好きになったのだが、それは最高級の好感を持ったということであって、恋愛感情とは違うものだった。そのことに気が付くまでに少し時間が掛かったが、分かってしまうと、自分がどんな女性を好きになるのか、あるいは、人を好きになるという感覚がどういうものなのかが、感覚だけではなく、頭の中でも漠然としてではあるが、分かるようになってきたのだった。

 綾香先生の魅力は、それだけではなかった。

 男心が分かるのか、それとも、見ていて、相手の気持ちが分かるのか。時々、ドキッとすることをいうことがある。ただ、すべてを見透かされているようで、怖くなることもあるが、見透かされても、恥かしいとは思うが、怖いとは思わない。実は、綾香先生の魅力は、相手の気持ちが分かるところではなく、見透かされても、怖いとは思わないところにあるのだ。

 そのことを分かっている人が、果たしてどれくらいいるだろうか? 少なくとも、綾香先生のことを真剣に好きになった人には分からないかも知れない。むしろ、憧れを持った目で見ている人の方が分かっているのではないだろうか。

 樋口が綾香先生にお礼を言った時、綾香先生の顔に浮かんだニッコリとした表情。それを見た時に感じたのだ。

 樋口は気絶していて、ひょっとしたら、寝言を言ったのかも知れない。

 目が覚めた時、自分が気絶していたことを一瞬で理解し、綾香先生に介抱されたことも分かっていた。そして、その間に夢を見ていて、その夢に出てきたのが、美麗なのか、利恵なのか分からなかったが、何か寝言を言ったのも意識としてあった。

 寝言というのは、なかなか言葉になっていないだろうから、どんな夢を見ていたのか分かるはずもないと思ったが、相手は綾香先生なのだ。ひょっとしたら、分かったかも知れないと思うと、恥かしさで顔から火が出そうだった。

 もちろん、知られてはいけないことだった。自分にとっては、

「最高国家機密」

 に近いものであり、厳重にカギの掛かった金庫に閉まって、誰にも分からないところに封印しなければならないものだ。

 夢の内容が美麗であれば、昨日の思いが噴出したのだろうが、怖いのは一線を超えなかったことが、自分の中で欲求不満として残っているかも知れないと思ったからだ。

 逆に夢に出てきたのが利恵だったらどうだろう?

 実はこっちの方が、樋口には怖かった。

 想像だけの中で、勝手な思い込みで描いた利恵、夢の中では、妄想がとどまるところを知らない。実際に、自分が具体的な相手に妄想を抱くようになったのは、利恵が最初であった。学生の頃から妄想を抱くことはあっても、具体的な相手は頭にはない。もちろんモデルはいるのだろうが、具体的な相手がいない場合も妄想は留まるところを知らないだろう。

 しかし、相手の顔が浮かんでこない場合と、実際にハッキリとした顔を思い浮かべる場合では、明らかに違っている。顔が浮かんで感じる妄想には、夢の中であっても、身体が反応するからだ。

 綾香先生に気付かれて恥かしい思いをするのは、反応した身体と、寝言が結びついた時、ハッキリと夢の内容が分かるのではないかと思えるところだ。

――ある意味、一番知られたくない相手――

 それは、知られたことで、一番恥かしいと思える相手が、綾香先生だったからだ。そして今樋口のまわりで、一番知ることができる相手が誰かと聞かれると、

「綾香先生」

 と答えるであろうことも分かっているのだ。

 綾香先生がニッコリと笑ってくれたのが、本当であれば、救いに思えるのだが、果たして夢を知られなかったのかどうか、分からない。ついつい笑顔が引きつってしまって、綾香先生を探るような目で見てしまっている自分に、嫌悪感も抱いている樋口だった。

 そんなことを考えながら、隣のベッドを見ると、シーツが乱れていた。さっきまで、そこに誰かがいたような雰囲気だが、一体誰だったのか、気になるところである。

「綾香先生、こっち、誰かいたんですか?」

「ええ、先生のクラスの水沼さんが、さっきまでいたんですよ。貧血を起こしたようで、でも、すぐによくなって出て行きました」

「水沼って、水沼利恵のことですか?」

「ええ、そうですよ。彼女、どうやら貧血をよく起こすようで、先生も気を付けてあげてくださいね」

 綾香先生は、衛生器具の手入れをしながら、後ろ向きで、樋口に話した。そんな時に見せる綾香先生の後ろ姿は大きく見える。

――女と言っても、やっぱり医者なんだな――

 頼りがいのある背中を見ていて、ベッドで横になった状態から、安心感を与えられる気がしてきた。

「彼女は、僕が運ばれるよりも、先にいたんですか?」

「ええ、いましたよ。隣に運ばれてきたのが、樋口先生だったので、大層驚いていましたけどね。ただ、他の人が見れば、それほど大きな驚きには見えなったでしょうね。驚きを隠そうとしているようでしたから」

 綾香先生は、聞いてもいないことを話してくれた。

 だが、本当は聞きたかったことである。先読みして話をしてくれたのか、それとも、何も考えずに、自分の意見を述べただけなのか。綾香先生のことなので、先読みして話してくれたのであろうが、そこまで先読みされてしまうと、可愛げがないような気がして、複雑な心境に陥るのだった。

「で、彼女は大丈夫なんですか?」

「ええ、大丈夫ですよ。貧血が多いのも、別に身体のどこかが悪いというわけではないようなので、精神的なものなのかも知れないですね。このあたりになると、医者の私よりも、教師である先生方のお役目になるんでしょうけどね」

 精神的なこととなれば、確かに綾香先生の領域ではなく、こちらの領分だ。

「ありがとうございます。僕の方でも、肝に命じて、彼女を見ていくことにしましょう」

 樋口はどうして自分が貧血を起こしたのか分からなかった。確かに、最近、立ちくらみを起こすこともあったので、気を付けないといけないとは思っていたが、気絶するほどの立ちくらみはなかった。

 それに、座っていて、急に立ち上がったり、ずっと炎天下に立っていたりと、貧血を起こしそうな状況だったわけでもないのに、不思議だった。

 自分のことはさておき、気になるのは、利恵のことだった。

 小柄で華奢な身体の利恵は、確かに貧血を起こしやすいタイプに見える。だが、顔色がいつも悪いわけではない。むしろ、元気な雰囲気が利恵のいいところだと思っていたので、貧血を起こすようなタイプに感じられなかったのは、教師として、ちゃんと生徒を把握できていなかったということは反省すべきであろう。

 いつも一人でいる利恵を見ていることも、気付かなかった理由の一つかも知れない。

 友達もほとんどおらず、いつも一人だ。自分から友達を作ろうとしないと、なかなか友達はできるものではない。大学という環境であれば、自分から友達を作ろうとしなくとも、一人友達ができれば、その人から友達の輪は広がっていくだろう。だが、友達がいないのは、自分から友達を作ろうとしないからで、それだけ孤独に対して強いと思っていたからだ。

 孤独に強いからと言って、貧血を起こさないというわけではないのだが、孤独に強い人は、肉体的な忍耐にも強さを発揮すると思っていた。偏見ではあるが、根拠も何もなかった。

「綾香先生は、水沼のことを、よくご存じのようですね」

「ええ、時々お話することもありますからね」

 一瞬、作業している手が止まった。さっきまでの会話は、後ろを気にすることもなかったのだが、今度は、明らかに後ろ、つまり、ベッドの上の樋口を意識していた。利恵のことは、さっきの話で終わったと思っていたのを蒸し返したからである。

 貧血のことを気にしていると言った後、少し間があったことと、利恵のことを、改めて、しかも漠然と聞いていることに対して、ビックリしたのではないだろうか。

 綾香先生は、利恵のことを気にしているようだったが、医務室で一緒にいる時は、友達と話をしているような感覚なのではないかと思っている。貧血がウソだとは言わないが、二人だけの世界を医務室の中に作っているのは事実で、そこで語られる内容は、人に聞かれたくない話なのかも知れない。ただ、そこには深刻なものはない。少々気心が知れた相手であっても、利恵は自分の中にあるわだかまりは、そう簡単に、他人に話してしまうことはしないだろう。

 綾香先生は、女性にも人気があった。清楚な雰囲気を白衣で包み、さらに凛々しさを醸し出している。綾香先生のような女性に対して憧れを持つのは、特に新入生には多いことだろう。

 利恵は、いつも一人でいることが多いので、一人が好きなのだろうと思っていたが、人恋しいと思うこともあるのかも知れない。話をする必要もなく、ただ、そこにいてくれるだけで安心するような相手、それが綾香先生だったのだろう。

 利恵にとって綾香先生は、憧れであり、友達のような存在なのかも知れない。綾香先生は、利恵が自分に対して抱いている感情を分かって接しているのではないだろうか。医務室のベッドの中で寝ている利恵、そして、利恵に構うことなく、自分の机で仕事をしている綾香先生。その時の利恵の安心しきったような表情が目に浮かぶ。きっと安心して熟睡していることだろう。

 利恵の家庭を知らないので、何とも言えないが、利恵の性格は家庭環境に大きな影響があるように思える。

 利恵の表情は明るく、まわりに安心感を与える笑顔を見せるにも関わらず、笑顔を振りまいても、それが自分にいい意味で戻ってくることはない。本当は一人で寂しいのだろうが、一人を楽しんでいるように見られるのは、本人の意図するところではないように思えた。

「私は、まだ担任になってから、少しなので、まだ生徒の知らないことも多いんですよ。特に水沼利恵という生徒は、分からないことが多いですね」

 そう言って、綾香先生を見ると、今度は握っていた筆記具を机の上に置いて、完全に意識をこちらに持ってきたようだ。

「水沼さんは、他の人と違うところが表に出てきているようですけど、本当は感性が他の人と違うだけで、彼女も普通の女の子ですよ。それでも樋口先生が、違うとおっしゃるのであれば、どこか贔屓目に見られているところがあるのかも知れませんね」

 綾香先生の言い方は、どこか挑戦的だった。確かに凛々しさのある先生ではあるが、ここまで挑戦的で、挑発的な表現をする人ではない。何か思うところがあったのだろうか?

「別に、贔屓目はないと思いますが、綾香先生も、彼女の中の感性が、他の人と違うとお考えだったんですね」

 利恵の感性の違いは、接していれば分かるものだった。ただし、それは全員が分かるというものではなさそうだし、長く付き合っていれば、分かってくるというものでもない。

「そうですね。そこが少し彼女にとっては、損な性格になっているのかも知れませんね。お話していると、考えが通じるところも結構あり、ただ、それは話さないと分からないことのようですね」

 樋口は少し楽になってきたので、

「先生、ありがとうございました。そろそろ、戻ります」

 介抱してもらったことに「ありがとう」なのか、それとも、利恵について教えてくれたことに「ありがとう」なのか、綾香先生には分からなかっただろう。樋口の頭の中は単純なので、介抱してもらったことに対してのお礼だけだったのだが、綾香先生は、そうは思わなかった。

――余計なことを言ってしまったかしら――

 と、後悔したが、他の生徒がやってくると、すぐに忘れてしまっていた。

 美麗は高校時代、樋口のことをクールで、誰にも分け隔てない先生だと思っていたが、美麗の方に、かなりの贔屓目があっただろう。ただ、それは、聖職者と呼ばれることを嫌っていたことが、美麗の中で、樋口を「理想の教師」に仕立て挙げたのかも知れない。

 樋口は、美麗のことを意識していなかったと思っているようだが、本当は、美麗だけに限らず、教え子に手を出すことは、淫行にも繋がり、自分の人生を自分の手で破滅させてしまうことになるので、手を出さないように心掛けたのだ。

「こんなに辛いなら、先生にならなければよかった」

 と思うほどの辛さがあった。

 意識する女の子には、卒業してから、告白すればいいのだろうが、卒業してしまうと、今度は意識していた女の子への気持ちが冷めてしまう。卒業すると、それまで校則にしばられ、大人しくしていた服装や化粧、髪型が、一気に大人びて、派手になってくる。

「俺は、そんな彼女を意識したんじゃない」

 と、地味な女の子が好きだということを、思い知ることになり、実に皮肉なことだった。さらに、その時自分には教え子がいて、彼女たちの中に、またしても自分が好きになる女の子が現れないとも限らなかった。

 ただ、そこに一目惚れはない。一目惚れは利恵だけだったのだ。もちろん、今後他に現れないとは言いきれないが、利恵が特別なのは間違いなかった。

 樋口が利恵を意識し始めたことを、知っている人間は、少なくとも一人はいることが分かった。それは綾香先生で、何かを相談するには、少し敷居が高そうだが、決して口外するようなことはしないだろう。攻撃には不向きだが、防御には絶対的な相手だという見方もできる。

 だが、実は利恵のことを樋口が意識していることに気が付いている人がもう一人いたのだ。

 それは、樋口の同僚である加藤先生だった。

 加藤は、この学校に二年前に赴任してきた。年齢的には樋口よりも五歳ほど上だが、中年の雰囲気を醸し出していた。髪の毛は肩くらいまであり、少し茶髪っぽい、別に派手な雰囲気はない。むしろダサいと思われているかも知れない。男の樋口から見ても、

――もう少し、どうにかならないか――

 と思うほど、センスという意味では、最悪に見えた。

 これも偏見で見ているからかも知れないが、いつも何を考えているか分からないところがある。集団行動が苦手で、いつも一人でいるような男の典型であった。

 加藤は、樋口から嫌われているだけではなく、他の先生からも嫌われていた。性格としては、無骨で、言いたいことは、何も考えずに言葉にするという無神経なところが、まず、心証を悪くするのだ。

 無骨なところこそ、男らしいところだという大きな勘違いをしているところがあり、それもまわりの人間、加藤を見る目を共有していた。何人かで呑むことになると、いつも加藤の悪口が酒の肴になっているが、それは、共通の話題として、誰も疑わないからだった。そこから勝手な憶測が始まるのだが、樋口は参加しない。加藤に対して抱いている皆の意識の共有を、

「もっともなことだ」

 と、思いながらも、人の悪口に参加することは、まるで自分も惨めにしてしまいそうで嫌だった。

「どうして、簡単に人の悪口が言えるのだろう?」

 単純に、ストレスの発散だけを考えているのだろうか? その時は確かにストレス発散になってスッキリするのかも知れないが、一人になった時、その時のことを思い出すと、何とも言えないやりきれない気持ちになるのではないかと思うのは樋口だけだろうか。

 それとも、他の人は、一人になった時に、何も思い出さないというのだろうか? そこまで割り切りができるのであれば、逆に羨ましい気がしていた。

 加藤という男は、豪傑で、あまりまわりに気を遣わない男であるが、そんな男はどこにでもいた。高校のクラスメイトにもいたのだが、今までは、自分から関わらなければそれでよかったのだが、就職して、同僚ともなれば、そうもいかない。

 もちろん、それは樋口にだけ言えることではないが、他の人も同じで、どうしても、無視できない相手になってしまったことで、溜まったストレスを解消するには、酒の肴にしてしまうのが、一番手っ取り早かったのであろう。

 加藤は、勘が鋭いところがあった。樋口は気付いていなかったが、利恵を好きになっていることを、加藤だけが気付いていた。しかも、加藤は樋口が一目惚れしていたことも気づいていた。

 それは、加藤も利恵のことを気にしていたからだった。

 利恵という女の子は、あまり男性から好かれるタイプではないと思えてきた。最初は、明るさが、男性を惹きつけると思ったのだが、どこか二重人格的なところがあり、一目惚れでもない限り、徐々に彼女のことを見て行こうとすると、次第に分からなくなってくるところがあるのだと思えた。

 樋口の一目惚れを加藤が看破したとしても、それは樋口が加藤の立場でも分かったことなのかも知れない。

 加藤は、利恵に対して恋愛感情を抱いているわけではないが、興味を持って見ていた。利恵の中に、男を惹きつける魔力のようなものを感じたのだが、魔力は、あまりにも小さいものに思えた。

 だから、一目惚れでなければ効果のないもので、ただ、一度惹きつけられると、抜け出すことのできないような吸引力を持っているものに思えた。

 そのサンプルとして目の前にいるのが樋口であり、どこか、加藤から監視されているような気がしてくるまでに、かなりの時間を要することになる。少なくとも、今の樋口には、そこまで感じることはできないでいた。

 そのことを気付かせることを遅らせたのは、美麗の存在であった。美麗が樋口の前に現れたことは、樋口にとっては、まさに青天の霹靂。それは、加藤にとっても同じことだった。

 樋口の前に美麗が現れたことなど知らない加藤は、相変わらず樋口を見つめていた。相手に視線を感じさせないようにするのは、加藤の得意とするところだったが、一旦気が付いてしまうと、視線の強さに金縛りに遭ったかのようになってしまう。それを思い知るのは、まだ後のことだったが、加藤の視線の強さを、イメージとしては最初から抱いていたのかも知れない。

 加藤という異端教師の存在を、まわりは胡散臭いと感じながら、

「自分とは、関係ない」

 という意識も手伝ってか、仲間内でのトラブルに発生することはない。

「君子危うきに近寄らず」

 という思いは、加藤にもあるのだろうが、一触即発の状態には変わりなかった。

 だが、加藤も、樋口も知らないことであったが、利恵が好きな男性は、加藤だった。樋口がそれを知れば、ショックを隠し切れないほどの動揺を受けるのは間違いないが、当の加藤はどう思うだろう。

 今まで女性から好かれたことなどあるのかないのか、得体の知れない加藤を見れば、まさに、

「美女と野獣」

 そのものである。

 野獣に憧れる美女がいてもおかしくはないと思うが、まさかこんな身近に、しかも、直接自分の感情に関わるところで存在しているなど、俄かには信じられないだろう。ただ、憧れるのは生徒である。思春期の、まだ男というものを知らない女の子が見るのだから、その感情は人それぞれ、憧れだけのものなのか、それが恋愛感情に発展するのか、何とも言えないところであった。

 樋口が加藤のことをずっと気にしないようにしていたが、一度、加藤の過去について聞かされたことがあった。

 聞かせてくれたのは、校長先生だったが、

「加藤先生は、前の学校から、こちらの学校に赴任された理由としてなんだが」

 普段、あまり入ることのない校長室のソファーに座って、何を真剣な話をされるのかと思うと、加藤の話だった。

 加藤が赴任してきて、三か月くらい経ったある日のこと、校長先生から、不意に声を掛けられたのだ。まるで世間話でもするような感覚で、

「樋口先生、少しお話しましょうか?」

 と言われたのだが、まさか校長が二人きりで話をしようなどと言ってくるとは思ってもいなかったので、思わず最悪の事態まで覚悟したほどだった。

――転任か? 解雇か?

 まさか、そんなはずはないと思いながら、恐る恐る校長室に入っていった。

「樋口君、そんなにかしこまらなくてもいいよ」

「はぁ」

 いつもの笑顔を向けている校長先生だったが、緊張感が止まらなくなっていた。それを察したのか校長先生は、

「さっそくだが」

 と言って、話を切り出したのだ。

 予想もしなかった加藤の話に、拍子抜けした樋口を見て、校長先生は、

「そんなに緊張しなくてもいいと言ったのに」

 と声を掛けてくれたが、その顔は苦笑いしていた。そして、すぐに真顔に戻ると、

「加藤先生の前の学校である事故があったんだが、その問題の責任を取る形で、こちらの赴任になったんだよ」

「どういうことですか?」

「学校からの遠足で、登山があったんだが、加藤先生が担任していたクラスの男の子が一人、行方不明になったことがあってね。それで、登山隊を組織して、捜索してもらったんだが、とりあえずは見つかって、命に別条はなかったんだけど、先生の監督不行き届きということで、PTAや教育委員会から、問題になってね。その責任を取らされた結果になったんだよ」

 全国に無数の学校があり、たくさんの生徒がいるので、そういう事件は日常茶飯事なのかも知れないが、それが自分の身の周りで起こる可能性はどれくらいのものなのだろう。身近な人に起こったということは、自分に起こらないとは限らない。他人事というわけにはいかない。

「どうして、この話を私に?」

「このことは一部の先生しか知らないことなんでが、樋口先生は口外することもないだろうし、他の先生に話すと、何かあった時に、その話が蒸し返されそうになる気がするんですよ。知っておいていい人と、知らない方がいい人とをしっかり切り分けておかなければいけないと思っています。とりあえず、三年生の担任で知っているのは、樋口先生だけですね」

 その時樋口は、三年生の担任だった。

 加藤は、二年生の担任をしていたが、二年生の担任は皆知っていることのようだった。樋口の通っている学校では、学年ごとの担任の絆を強くすることが教育方針の一つで、生徒同様に先生も持ちあがりのシステムを取っているのだった。

 それにしても、生徒が行方不明になった時の教師の心境とは、どういうものだろう、いくら楽天的な人であっても、肝を冷やすに違いない。楽天的な人ほど、こんな時どうしていいかを考えていないだろうから、頭の中がパニックになるかも知れない。

 だが、それは樋口の考えであって、こんな時でも楽天的な考え方の人というのは、

「何とかなるでしょう」

 と思っているかも知れない。

――心臓に毛が生えている――

 というのは、まさしくそのことで、羨ましいと思う反面、

「自分には、到底できることではない」

 という思いが強かった。

 校長先生は、人を見る目のある人だ。人を見る目のある人というのは、会った瞬間にすぐにそう感じるものだ。校長先生と最初に対面した時、

「なんて、堂々としているんだ」

 と、感じたものだ。

 身体があまり大きくなく、人のいい初老の男性というイメージの人が、大きく見えたのだ。

 ここまで堂々として見える人を、樋口は知らない。この学校に赴任したできたことが、本当によかったと感じたのは、校長先生を見た時だった。校長先生から、話があると言われた時、理由らしいものはないので、解雇はありえないと思ったが、他の学校に転任などということになったら、今まで抑えてきたものを、抑えることができるかが、不安だったのだ。

「校長先生の期待を裏切ることはできない」

 という思いがあったから、生徒に手を出すことがなかったのだ。

 魔が差すという言葉があるが、そう思ったことは幾度かあった。それでも思いとどまったのは、校長先生の気持ちに答えるため、ほとんどが、その気持ちに支配されていたのだった。

 ただ、学校を離れると、考えも違ってくる。美麗のように卒業した元教え子であれば、男女の関係になったとしても、それは自由恋愛の範疇だ。学校に迷惑を掛けることもない。個人の問題に属することであろう。

 加藤は、生徒からは基本的に嫌われていた。ただ、中には興味を持っている生徒もいるようで、利恵もその一人なのだが、恋愛感情がそこに存在するなど、考えたくはない。

「思春期にありがちの、恋愛感情の思い込みではないだろうか」

 樋口には、加藤に興味を持っている女の子がいるのは分かっていたが、利恵もその一人だとは思わなかった。樋口が思っているよりも、加藤に興味を持っている女性とは、かなりいるようだ。

 自分が考えているよりもたくさんいるのだから、それぞれに考えも違うだろう。その中には、本当に恋愛感情を抱いている人もいないとは限らない。その中に利恵がいるなど考えたくもなかったが、問題は、加藤がどう考えているかである。

 利恵は、一目惚れしたことのない樋口に、一目惚れをさせる魅力を持った女の子だ。他の男性が利恵に同じ感情を抱かないとは限らないが、今のところ、利恵に対して樋口の知っている男性が特別な意識を持っているようには思えなかった。

 うまく感情を隠しているのかも知れないが、同じ思いを持った男性であれば、気持ちは分かるかも知れないと感じた。だが、裏を返せば、自分に対しても同じことが言え、いくら隠しても、同じ感情を持っている人には丸分かりになるということを意味しているのは皮肉なことだった。

 だが、それも同じ思いを抱いた人に見抜かれるのであるのが救いである。同じ感情を抱いていない人から見れば、悪いイメージしか抱かれず、何を言っても、聞き入れられることではないであろう。

 校長先生の話を聞いて、少しだけ加藤に対してのイメージが変わったが、それでも、豪傑なイメージに、気を遣わない人間性を好きになることはない。

 同情を抱くことはないが、他人事ではないというイメージから見るようになると、見る角度が変わってきたからだ。角度が変わっても態度が変わることはない。要するに、イメージが変わったからといって、こちらの態度が変わるわけではない。イメージは心の奥に黙って押し込むくらいのつもりであった。校長先生も、必要以上に樋口に対して、加藤のイメージを変えてしまうことを望んでいるわけではないようだ。

 同情というのは、同じ立場で抱くものではない。相手が自分よりも低いところにいる人に対して抱くものだ。

 校長先生との話では、あくまでも、同等な立場でしか話をしていないように思う。本当はいけないのだろうが、一緒にいるとどうしても、同等に感じられる。校長先生が同等の立場での話を望むように雰囲気を作り上げているようだ。それは樋口に対しても、他の人との会話では同じような雰囲気を作ることができるということを分かってのことなのかも知れない。

 加藤に対しては同情ではなく、あくまでも、他人事ではないという思いからだと思うと、今度は自分が、冷めた人間に見えてくるから、皮肉なことだった。

 同情を抱くと、相手との立場が微妙に変わってくる。自分に対して感じてはいけない嫌悪を感じてしまうこともあり、相手との関係を見誤ってしまう。加藤に抱くのは同情などではないと思うのだが、そうではないとハッキリ言いきれるかどうか、疑問だった。

 利恵の気持ちを、加藤が知っているかどうかが問題だったが、最初に利恵の気持ちに気が付いたのは、やはりというべきか、一目惚れをしてしまった樋口だった。ひょっとすると、他にも利恵に一目惚れをした人がいるのではないかと思ったが、まわりを見渡したところでは見当たらない。まず最初に気付いてしまった相手が加藤だったのだ。

 加藤は、利恵のことを、あまり気にしていないようだった。ただ、明らかに利恵に対して、今までとは態度が違っている。相手が自分をどんな目で見ているかを分からないままに、相手の視線を感じると、さすがにどうリアクションしていいのか分からないのだろう。

 利恵が、加藤を見る目は、最初、好奇の目だと思っていた。

 もちろん、最初は好奇の目だったのだろうが、次第に惹かれていく眼差しに変わっていくのを、じっと見ていなければいけないのは、耐えられることではなかった。

 実は最近、利恵の表情に、少し変化が見られるのを、樋口は見逃さなかった。その視線の先が、ずっと誰だか分からなかったが、それは、予感があった中で、一番そうであってほしくない相手であったことで、事実から目を逸らそうとする意識の表れだったのかも知れない。

 校長先生は、生徒が行方不明になった時、加藤がどのような態度を取ったのか、あるいは、動揺がどの程度のものだったのかなどという情報を、一切与えてくれなかった。ひょっとすると、校長先生も知らないのかも知れない。

 前の学校では厄介払いをしたのだから、受け入れてくれたところに、心象が悪くなるようなことは言わないだろう。逆に心象がよくなるようなことであれば、進んで話すはずだ。それがないということは、それだけ、心象が悪くなるようなことをしてきたのだろう。

 それなのに、利恵の視線の好奇の目で見ているということは、

「怖いもの見たさ」

 に近いものなのかも知れない。

 加藤が、以前話したことがあったが、

「女性と目を合わせると、俺は悪いことをしているんじゃないかって、思ってしまうことがあるんだ」

 と言っていたが、その時の加藤の目は、何かに怯えているようだった。

 初めて見る何かに怯えた目をした加藤だった。

――この男は、誰にも見せたことのない目を、俺だけに見せたんだ――

 と、思った。

 だが、果たしてそうなのか。他の人にも同じような目をしていても、相手に対して、

「自分だけに見せた顔だ」

 という印象を与えることのできる男なのかも知れない。

 性格的に得なのか、それとも損なのか、樋口には分からなかった。ただ、樋口に対してだけは、得だったのではないかと思えた。樋口が加藤に対して抱いたイメージが、おぼろげになっていき、次第に大きくなっていくように思えるのだ。

――相手の性格をハッキリと読むことができない――

 と、思うことで、相手に対して、絶対有利な立場を保つことができる。それは、一旦身についたものであれば、容易に取り除くことはできない。最初に強烈な印象を与えられると、疑う余地がないほど、信じきってしまう感覚と同じではないだろうか。

 それからしばらくして、加藤は、学校を休みがちになった。それまで、休むことなどなく、いつもの豪傑さを、如何なく発揮していたのだが、休みがちになる前くらいから、明らかに何かに怯えていた目だった。

 その時に、以前に話していた

「女性と目を合わせると、俺は悪いことをしているんじゃないかって、思ってしまうことがあるんだ」

 という言葉を思い出したのだ。

 豪傑な男は、女性に対して、どういう意識を持っているのだろう。モテたいなどという他の男性と同じ感覚を持っているのだろうか?

「樋口先生、今度一緒に呑みに行きませんか?」

 と、加藤に声を掛けられたのは、それから三日後のことだった。他の人に対しての態度と自分に対しての態度が違っていることは何となく分かっていたが、まさか加藤から、呑みに誘われるとは、思ってもみなかった。

「いいですよ、でも、僕はあまり呑めませんからね」

 最初に言っておかないと、豪傑に付き合わされてはかなわない。実際に、あまりアルコールに強くない樋口の言葉に、ウソはなかったのだ。

 連れて行ってくれたのは、加藤の家の近くにある居酒屋だった。縄のれんの掛かった、

「いかにも呑み屋」

 という雰囲気を醸し出した店で、中から焼き鳥のおいしそうな匂いがした。焼き鳥の匂いは、食べる前から満腹感を味あわせているかのような匂いなのだが、食べ始めると、いくらでも食べられる気がするから不思議だ。腹八分目で止めて、まだ食べられる余裕を残しておいたはずなのに、夕食の時間になっても、腹が空かないというのも、おかしな話ではないだろうか。

「私が、この学校に赴任してきた理由は、もうご存知なんでしょう?」

 樋口が、まだコップ半分くらいしか呑んでいない間に、加藤は、すでに五杯くらいは呑んでいただろうか。酒の呑み方も人それぞれだが、呑んでいて、楽しそうには見えなかった。

 意を決したかのように、コップを見つめ、目を瞑ったかと思うと、一気に喉を鳴らしながら、飲み干していく。とても味わって呑んでいるなどとは言いがたかった。

「ええ、校長先生から伺いました」

「そうですか」

 そういうと、少し背中を丸めて考え込んでいたが、その姿は普段の加藤から、想像できるものではなかった。

「とても、お辛い思いをされたのかと思ってますが」

 本当は思ってもいないことを口にしていた。加藤くらいの豪傑な男であれば、辛い思いなどしてほしくない。豪傑を地で行くのであれば、辛いなどという感情を口にしてほしくなかった。

 そう思っていると、さらに加藤は萎縮した態度を示した。こちらの考えている気持ちが分かるのだろう。普段から気を遣わない男が、相手の気持ちを分かるというのもおかしな感覚だが、気を遣っていないように見せかけて、実はしっかり気を遣っているのかも知れない。

 中には、無意識に気を遣っている人がいる。そんな人は案外、豪傑に見えたりするものだ。自分を表に出すと言うことを嫌う性格の人は、人に気を遣うことも嫌うだろう。ただ、自分の中に正義があり、人に迷惑を掛けたくないという気持ちが、寂しさを忘れさせようと、自分の中で葛藤を繰り返しているのかも知れない。

 だが、今回の樋口の言葉が気に障ったのか、少しイライラした様子で、

「お辛いとは、どういうことなんですか?」

 まさか、その言葉に反応するとは思わなかった。イラついている様子を見ると、やはり怒っているのに違いないようだ。

「あ、いえ、自分がもし、同じ立場になったら、どうなるだろうって、勝手に想像しただけです」

「それが迷惑なんだよな。勝手に辛いなんて思われたら、俺はどうすればいいんだよ」

 と、怒りの矛先を樋口に向けようとするのだが、どうやら、自分でも、どうしていいのか分からないようだ。

「すみません」

 とりあえず、謝っておいた。こんなことで波風を立てるのは愚の骨頂だった。相手が迷った顔をしている間に、謝っておけば、それでいいと思ったのだ。

 加藤も、それ以上は詮索してこなかった。ただ、少し考え込んでいる時間があるだけで、後はそのことについて触れてくることはなかったのだ。

――最低限のモラルくらいは持ち合わせているんだな――

 見直したというところまでは行っていないが、まったく話をするのが嫌だというところまでは行っていなかった。

「お前は、自分のことを、最低だって思うようなこと、あったかい?」

 下を向いたまま、加藤はボソリと呟いた。

「それはどういうことだい?」

「普段と同じ精神状態で、本能のままに動いていたら、注意しないといけないことが疎かになってしまって、大きな問題になってしまったら、激しい自己嫌悪に陥るよな」

 校長先生の話していたことの内容の話であろうか。もしそうであるとすれば、加藤は、監督しなけばいけない立場にありながら、本能の赴くままに、仕事をおろそかにしたということであろうか。

 それならば、自己嫌悪に陥ることも、自分を最低だと思うことも、別に不思議のないことだ。何も感じないのであれば、その人は、その時点で終わってしまっているだろう。

――それにしても、どういうことが、この男にとっての本能なんだろう――

 普段から、人と関わることを自ら拒否し、だからと言って、自分の世界を確立しているようにも思えない。最初こそ、豪傑な雰囲気は、それだけで十分、自分の世界を作っているように見えていたのだが、寂しさを表に出さなかっただけで、本当は、寂しさと自己嫌悪に毎日悩まされていたのかも知れない。

 一旦、人との関わりを自らが拒否してしまったら、まわりから相手にされなくなってしまう。そのことを、樋口は分かっているつもりだが、それ以上に分かっているのが、目の前にいる加藤ではないかと思えてきた。

――加藤が、俺を呑みに誘ってくれたのは、俺に同じような感性を感じたからなのかも知れないな――

 同じようなものを感じると、親近感が湧いてくる。今まで見えていなかったものが見えてくると、まるで、他のことまで考えが同じになっているように思えてくるのだった。

 同じような考えがいっぱいある中で、寂しさを共有している感覚が、まるで傷の舐めあいのように感じるが、本当は共有したいと思っている一番大きい部分ではないだろうか。

「俺は、監督しないといけない立場にありながら、ちょうどその時、気になる女性がいて、そっちの方ばかり意識してしまっていたんだ。そんなに長い間ではなかったので、大丈夫だと思ったんだが、まさかそれが命取りになるとは思わなかった」

 酒のせいもあってか、普段の加藤からは信じられないほど、口から言葉が出てくる。酒の力が喋らせるのか、それとも、喋りたいことを、酒の力を借りることで、実現しようとしたのか分からない。それでも喋ることができたからなのか、安心しているようだった。

 だが、見せている姿は、情けなさに尽きる。今まで豪傑だと思っていた人間が、ここまでなるのかと思うほどの情けなさなのだが、逆に、彼も普通の人間だったんだと感じることで、彼の顔に浮かんだ表情が、安心感から来るものだということが分かってきた。

 加藤が、どうして急に話をしたいと思ったのか、そして、相手がどうして樋口なのか、考えてみれば、不思議だった。

 普段から少しでも話をしているのであれば分からなくもないが、まったく話をしたこともない。それどころか、

「やつは、俺たちとは別の人種なんだ」

 くらいにしか思っていなかったのである。

 もっとも、加藤は樋口だけではなく、誰とも話をしていないだろう。誰かと話をしているところを見たこともないし、誰かと話をしているところを想像するのも、不可能に近かった。

「どうして、その話を僕になんかするんですか?」

 聞いてみたかったが、答えは決まっているだろう。

「誰でもよかったんだ。聞いてさえくれれば」

 というに違いない。

 それでも、軽い気持ちで聞いてみた。すると、答えは意外だった。

「樋口先生ではないとダメなんです。樋口先生なら、俺の気持ちが分かってくれるような気がしたんですよ」

「えっ? どういうことなんですか?」

 思わず怪訝な表情になり、疑いの目を加藤に向けてしまった。

「いや、樋口先生なら、女性から見つめられた時の気持ちが分かってくれるようだって思ったからですね」

 どういうことなのだろう? 

 最近の自分のことを考えてみると、おのずと答えは出てきた。

――美麗のことだ――

 美麗は、樋口を慕ってやってきた。その顔は、完全に樋口を求めていた。最後の一線は超えなかったとはいえ、愛し合ったと言っても過言ではないだろう。それなのに、学校にくると、利恵も気になってしまう。

――一体自分はどうしてしまったのだろう?

 と、考えさせられるのだった。

 加藤は、美麗のことは知らないはずだし、元教え子が訊ねてきたなど知る由もないだろう。それとも、樋口の中で、抑えているつもりでも、見る人が見れば、分かってしまうようなオーラを発しているというのだろうか。それをこともあろうに、加藤に見抜かれてしまうなど、まったくもって情けない。

 加藤に対して、さっき感じた情けないという言葉、そのまま今の自分に返したいくらいの気持ちだった。

「樋口先生は、女性に見つめられると、どうなります? 緊張で身体が動かなくなるとか、逆に、自分に自信が持てて、見つめられたことを、好かれていると思い、力が出る方ですか?」

 加藤の言葉から察すれば、自分は後者だろうと思う、自惚れかも知れないが、普段見つめられたことのない人間が、見つめられると、確かに加藤の分析した通りのどちらかなのだろうが、樋口の場合は、見つめられた時、以前から、誰かに見つめられる時がきっとやってくると思っていたかのように思えてくるのだ。そう思うと、やっと来たという思いから、力も湧いてくると言うものだ。

「僕は、好かれていると思い、力が出る方かも知れませんね」

 と、言いながら、最後の一線を超えることができなかった自分に、

「力が湧いてくる」

 とは、言い難いものを感じていた。

「加藤先生は、何が言いたいんですか?」

「前にいた学校で、生徒が行方不明になった事件があった時、俺を見つめていた女の子がいたって言ったよな」

「ええ」

「その時の視線を、俺は今感じるんだよ。俺を見つめる視線は非常に強いものなんだが、痛さは感じないんだ。普通、鋭い視線は、痛いっていうだろう?」

「はい、そう聞いたことがあります」

 実際に樋口は、自分も今までに鋭い視線を感じたことがある。それは女性からであればいいのだが、そうではなく、高校時代の友達からだった。その友達に対して裏切り行為をしたというのだが、自分にはそんな思いは一切なかった。しかし、友達があることないこと、他の人に喋ってしまったので、結局樋口は、一人孤立する運命をたどったのだ。

 そのままグループからは弾き出され、結局、高校を卒業するまで、どこのグループに所属することもできなかったのだ。

 その時の理由はずっと分からなかったが。最近、やっと思うところを発見した。

 それは、自分が友達の視線を最初に分からなかったことが原因だったのではないだろうか? いきなり強い視線を浴びたわけではなく、最初から友達は、信号を送っていたのだ。鈍感な樋口はそのことに気付くこともなくやり過ごしてしまっていたために、結局、他の友達からも、無視されてしまったのだ。

 最初に視線を浴びせた友達かからすると、

「どうだい? まわりの人間から無視されることの恐ろしさは」

 と、言って、ほくそ笑んでいたかも知れない。

「そんなことを今さら言われても」

 と言って、胸をかきむしる。

 痛みは感じないが、すぐに意識が朦朧としてきて、急に足元に穴が開いて、奈落の底に叩き落される感覚があった。

 ハッと目を開くと、そこは自分の部屋で、ベッドの上だった。

「夢か」

 安堵の溜息を吐いたが、果たして次の瞬間に感じたのは、安堵の続きか、現実に引き戻されたことで、無視された現実を思い起させられる苦しみがよみがえってきたのか、すぐには思い出せなかった。

 ただ、最終的には、苦しみだけが残った。現実の世界には、夢の世界を持ち込むことはできないのだ。

 加藤が樋口に何を言いたいのか、ハッキリと分からないが、とりあえず、話を聞くしかない。

「俺は、今年に入って、三年生を受け持つことになったんだが、新入生の中に、俺に対して強い視線を浴びせている人がいることが分かってきた。その鋭い視線は、痛い視線ではなく、柔らかく、包み込まれるような視線なんだ」

「……」

 分かるような分からない話に、疑念の表情しか湧いてこないのではないだろうか。

「分かるかい? 痛い視線の方が、まだいいかも知れないという気持ちが。柔らかい視線は最初に感じるには、心地よくていいのだが、いつの間にか、我を忘れてしまっていて、気が付けば、自己嫌悪が渦巻いている中に、放り出された感覚になってしまっているんだ」

「それは、以前の事故の時の自分への反省からではないんですか?」

 一番その答えが正当な回答に思えた。

「いや、そうでもないんだ。意識はハッキリしていて、錯覚でも、思い込みの激しさから来るものではないんだ。普通、何かあれば落ち着こうと思うだろう? 包み込むような視線には、却って逆効果なんだ。相手の方が思いは強いので、すぐに巻き込まれてしまう。そのせいで、俺は自分が分からなくなってしまうんだ」

 自己嫌悪というのが、また分からない。

「でも、自己嫌悪って、気が付いたらなっていたっていう、そんな感覚のものではないと思うんだが」

「俺もそう思っていたんだけど、どうも、そうじゃないみたいなんだ。自己嫌悪に襲われると、それまでの自分が分からなくなる、途中で置き去りにされているということだと思っているんだ。それを気付かせてくれたのが、今回の視線だというのも皮肉なことだと思うんだけどね」

 途中で置き去りというのも、すごい発想である。なるほど、途中で置き去りにされることほど怖いことはないと思えば、自己嫌悪の本当の恐ろしさがそこに潜んでいるように思えてくるのも、至極当然のことだった。

 置き去りにされてしまった感覚は、以前付き合っていた女性からフラれた時に感じたことがあったが、その時も自己嫌悪に近いものを感じたのを思い出した。

 あの時のショックは、どれくらい続いただろう?

 確か、半年以上立ち直るまでに掛かったような気がする。

 その時に感じたのは、

「友達って、案外といいものだ」

 というものだった。

 落ち込んでいる時というのは、人が羨ましくも感じるが、自分ほど惨めな人はいないという思いに包まれている。

 その中の一人から優しい言葉を掛けられると、

――俺なんかに、そんなに優しくしてくれるんだ――

 と、惨めさを噛み締めている自分に、救いの手が差し伸べられた気がして嬉しくなってくるのだ。

 優しくしてくれる人は、そんなに多くはないが、優しくしてくれる人がいるだけで、他の人から普通に話しかけられても、

――俺なんかに話しかけてくれるんだ――

 と、それまでの自己嫌悪を、跳ね除けるだけの、元気が出てくるようで嬉しかった。

 それでも、ショックは果てることなく続いていた。

――立ち直ることなんて、できるんだろうか?

 と感じるが、それは鬱状態のように、

――いつかは、絶対に通り抜けるんだ――

 と、周期的な感情が、百パーセントに限りなく近い可能性と違って、何かが原因で落ち込んでしまったら、理由なく抜けることはできないのだ。

「俺が、少々のことを気にしないような態度を取っているのは、自己嫌悪に陥らないようにしようという気持ちと、まわりの人に前の学校で起こった事件を、自分のせいだと思われたくないという気持ちが、豪傑な性格に見せようとしているんだ」

「何となく、分かる気がするんだが、どうして僕に話してくれたのかという回答にはなっていないようだが」

「実は、最近になって、その視線がどこから来ているものなのか、分かってきたんだ」

「それが僕に関係があるというのかい?」

「そうなんだ。その視線の主というのが、先生のクラスの水沼利恵だったんだ」

 加藤が教えている科目は日本史だが、日本史の授業は、週に二回ある。週に二時限は、利恵と加藤が顔を合わせることがあるということで、まったく面識がないわけではないが、利恵が加藤を意識する理由が思いつかない。

 加藤が自分で話していたように、最近までまったく利恵を意識していなかったというのは、ウソではないと思う。意識し始めたのは見つめられたからだろう。それを分からせなければ話が進まないということで、本当なら言いたくもないはずの、前の学校での事故の原因を、口にしなければならないという、ジレンマがあったに違いない。

 利恵は見た目、大人しそうには見えないが、目立つ方ではない。むしろ、目立たない方だ。目立たないように装っていて、そのくせ、自分からの視線は鋭いのだ。

 加藤が言っていたように視線に包み込まれる感覚は、利恵に対して、ならではの考えなのだろう。他の女性であれば、一度女性の視線で失敗している加藤が、そう簡単に引き込まれるとは考えにくい。それでも、何とか引き込まれないようにしようとする感覚が、ジレンマを呼び起こしているのではないだろうか。

 包み込むような感覚と言う表現を聞くと、優しさは母性本能に近いものを感じるが、母性本能には、あまり縁のない樋口にとって、加藤の話は、右から左に通り抜けてしまう内容に聞こえてきた。

 そういえば、最近樋口は図書館で調べ物をすることが多いが、図書館の雰囲気に、包み込まれるような感覚を味わったことがあった。

 静寂の中で、耳の奥の鼓膜がツーンとはちきれそうな感覚がしてくる中、濃厚な空気が漂っているのを感じていると、少し気が遠くなってくるのを感じた。

 しかし、気が遠くなる中で、濃厚な空気に包まれる感覚に陥ってくるのも感じていた。そこに暖かさはなかったが、急に誰かに見られているのを感じた。

 見ている人の視線は感じたが、自分が想像した人間はそこにはいない。見つめていると思っていた相手は他でもない、利恵だったのだ。

 室内を見渡しても、見当たらない姿を追い求めていると、気が遠くなりかかり、頭がぼんやりとしていたものが、すっきりとしてくる。それにしても、視線の先にあるものは何だったのだろう?

 樋口は、加藤の話を聞いているうちに、自分も誰かに見つめられているのではないかと思うようになっていた。美麗が学生時代に自分を意識していたことに気付かなかったが、もし気付いていたらどんな気分になっていただろうかと感じてもいた。

「僕は、誰かから見つめられることを意識したりすると、すぐに気が遠くなってしまう性格なのかも知れないな」

 そう思うと、教員室で、急に気分が悪くなったのも、誰かに見つめられていたのを意識したからであろう。

 水沼利恵という女性が少し怖くなった。今までは。惚れた者の弱みというべきか、自分が見つめているだけで、向こうから見つめる視線を自分で感じたことはない。

――利恵に、男性を強く見つめる視線など、ありえない――

 という思い込みがあったのだ。

――ひょっとすると、加藤の思い過ごしなのかも知れない――

 と、最初は、そう思ったが、自分も時々感じる誰かの視線。そして、原因不明の気絶してしまうほどの貧血と、続いて感じるものがあると、無視するわけにもいかなくなった。

 ただ、人の視線を感じるようになったのは、最近のことだった。利恵が入学してきてからのことで、今年の新入生を迎えてからのことだった。

 樋口は、自分が今まで一目惚れなどしたことがなかったのに、いきなり一目惚れをしてしまったこと、そして、感じることのなかった視線を急に感じるようになったこと、それは、樋口自身の意志とは別に、他の力が樋口に対して働いているのではないかと思うようになっていた。それは加藤の話を聞くまでにも少し感じていたことではあったが、加藤と話をして、やっと確信めいたものに近づいてきたのではないかと思うようになってきたのだ。

 樋口は、その日、加藤と別れて、一人自分の部屋に帰ろうとして、電車に乗った。それほど呑んだわけでもないのに、電車の揺れは、樋口に酔いの回りを強くしていた。時間的には、まだまだ宵の口とでもいうのか、電車の中は乗客でいっぱいだった。

 あまり、こんな電車に乗ったことはない。目立っているのは、酔っぱらいの集団が、他人を憚らずに、自分たちの世界を作り、必要以上の大声で、叫ぶように話している。

 豪快に笑い飛ばしているのを聞くと、不快指数は百パーセント。不快以外の何者でもない。

 しかし、その日は、目立っている連中に対してよりも、静かに列車に乗っているサラリーマンやOLの姿が、樋口の気を引いたのだ。本を読んだり、スマホや携帯を弄っている人も多いが、何もしていない人は、誰もが下を向き、何かを考えているように見える。

 いつも見ている光景のはずなのに、なぜか、今日は彼らが気になっていた。もっとも、普段の自分も同じ表情をしているに違いない。気が付けば、いつも降りる駅に着いている。その間、何かを考えていたような気がするが、降りる駅に近づいて、我に返ってみると、それまでの電車の中での意識は、どこかに飛んでしまっていたのだ。

――彼らも同じなのかも知れないな――

 と、思うと、普段の自分も、今の自分が見つめているような視線を浴びているのかも知れないと思った。

 視線を感じたことがないわけではないが、意識として残ったことはない。誰かに見つめられていると感じても、我に返るほどの意識がないということだ。

 きっと、電車の中にはたくさん人がいて、誰もが他人なので、見つめられたとしても、自分には関係のないことだという意識を持っていたのかも知れない。そのおかげで、電車の中ではまったくの自分の世界を作ってしまって、人を意識するなど、考えられないことだったのだろう。

 その日は、今までになく、一人の世界に入り込んでいたのか、我に返るのが遅れてしまった。駅に着いてからも、少し我に返るまでに時間が掛かったことで、もう少しで乗り過ごすところだった。

――危ないところだった――

 この思いは、本当に久しぶりだった。学生時代以来であろうか。

 それも、受験を間近に控えた時のことで、今から思えば、人の視線を今よりも感じていたのかも知れない。

 電車の中の視線を感じていると、また意識が朦朧としてきた。気が付けば、部屋の中で寝ていたのだが、電車の中での視線が、まるで夢の中でのことだったように思えた。

 夢の中での出来事だということですべてを片づけてしまうと気は楽なのだろうが、意識の中に、何かが残ってしまうと、夢の中というだけでは済まされない感覚に陥る。誰かに見つめられているというのは、被害妄想の表れだという思いが一番大きい。だが、被害妄想だと考えるのは、夢の中ではありえない。

 夢は潜在意識が見せるもの、都合の悪いことは、なるべく考えないのではないだろうか。それなのに、怖い夢を見るというのは、どうしてなのか? それは、夢を潜在意識が見せるものだということを、現実世界での意識に感じさせないようにするための、辻褄合わせなのだろう。

 夢とも現実とも知れない中を、樋口は彷徨っているかのようだった。


 美麗は、樋口への思いを打ち明けることができて、安心感に包まれていた。自己満足に近いものではあったが、今の美麗は自己満足でもいいと思っている。

 元々、自己満足をよしとしない性格だったはずなのに、どうして自己満足で安心感に包まれるのか不思議だった。一つのことを思いこむと、一気に気持ちを成就することだけをいつも考えていたからなのかも知れない。自己満足をしてしまうと、そこで一旦成就に向かう気持ちが、止まってしまう気がするからだった。

 樋口の感触を、まだ身体に残したまま、美麗は自己満足に浸っていた。部屋に帰ってからベッドに横になり、改めて自分の部屋を見渡してみた。

「今日から、私は生まれ変わったんだ」

 想いをぶつけることができたのは、自分を生まれ変わらせることができるほどの、大きな力になっている。学生時代からずっと溜めていた思い。それは時間が長ければ大きいというものではないが、少なくとも、何年にも及んで溜めていた感情は、二、三日で出来上がった俄かな感情と比べ物にならないほどの大きなものであることは、当然のごとく分かっている。

 昨日の今日のこの時間くらいだっただろう。

「明日の今頃、私は何を考えているんだろう?」

 意を決して、樋口の部屋を訪れようと心に決めていたが、長居はしないつもりだった。どんなに気持ちが盛り上がって、樋口と一線を超えることになっても、今この時、同じように自分の部屋のベッドの上で、同じように部屋の中を見渡し、最後は天井を見つめていようと、最初から心に決めていたのだ。

 昨日感じた感覚は、

――部屋が微妙に動いているのではないか?

 という思いだった。明らかに錯覚だったのは間違いない。部屋が動いたように感じるのはなぜなのか、一生懸命に考えてみたが、結局その日には分からなかった。しかし、

――明日になれば、きっとその答えが見えるような気がする――

 と感じた。もちろん、どこにそんな自信があるのか、根拠もないはずの考えに、明日は必ずこの時間に、同じようにベッドの上に寝転がって、部屋の中を見渡さなければならないという使命感に包まれていた。

 正直、樋口の部屋で、想いを遂げている時にも、この思いは頭から離れなかった。好きな男性のそばにいるのに、どうして他のことを考えるのか、不思議だったが、しばらくすると、一つのことに集中していたり、没頭している時というのは、無意識にかも知れないが、他に何か大切なことを思い抱いているのかも知れないと感じるのだった。

 美麗は、樋口の部屋を出てきた時の感覚が、次第に薄れてきた。それは、時系列が曖昧になってきたことが起因していることに、俄かには気付かなかったのだ。

 樋口の部屋で一緒にいる時のことは、まるでついさっきのことだと思うのに、樋口の部屋から出てきた時の感覚は、かなり前だったように思えるのだ。

 樋口の部屋を訪れた時の感覚は、まずは意を決して、

「思い切って、行ってみよう」

 という思いが最初にあり、

「今までの想いをぶつけるんだ」

 という思い、そして、満足した気分を抱いたまま、彼の部屋を後にして、帰ってくるまでの間に、普段の自分に戻らなければいけないという感覚だった。

 別に普段の自分に、絶対に戻ってしまわなければいけないわけではない。しかし、今日の美麗は、ハッキリと意識を戻してしまわないと、昨日感じた、

「同じ時間での、ベッドから見た部屋の雰囲気」

 を、感じることができないと思ったからだ。

 最初に感じた「意を決した思い」は、今から思えば、遥か前だったように思う。それは最初から分かっていたことではないだろうか。意を決して告白するまでに、いろいろな思いが頭の中にあり、パンクしかかっていたくらいだったはずだ。その気持ちが成就したのだから、意識としては、今とはかなり違ったものであって当然である。

 考えを論理づけるのであれば、かなりの段階を踏む必要があるだろう。たくさん考えた中に、本当に成就した内容のものが含まれていたかどうか、すぐに思い出せるものではない。それだけに、いろいろな考えを思い出すのが困難な中、記憶が近いことはありえないという思いが頭にあることだろう。

 そういう意味で、時系列は、樋口の部屋の中にいる時までは繋がっているのだ。

 だが、樋口と一緒にいる時間を、「至福の刻」として、心の中に残しておきたいという意識がある。そのために、この時間を特別なものにしておくために、最後に部屋を出てきた時を、

「ずっと以前の感覚」

 として、頭の中に残しておくことで、

「辻褄合わせの記憶」

 が生まれてくるのだった。

 この似たような感覚を樋口も同じくらいの時間に感じていたということを知っているのは、誰もいない。俗に言う、

「赤い糸で結ばれている」

 という感覚は、誰も知らないことで、成り立っているのかも知れない。

 美麗は、改めて、部屋の中を見渡した。

 昨日感じた。

「部屋が微妙に動いているという感覚」

 の原因が、瞬きにあることは、感じていた。目を一瞬でも瞑ってしまうと、違う感覚が生まれてくるのだ。それは瞼の裏に一瞬、残像として残ったものが、目を開けた瞬間、違ったものとなっていた。部屋が動いたと思うよりも、残像が残ったことで生まれた錯覚だと思う方が、どれほど自然であろうか。

 ただ、問題はそこではなかった。

 錯覚が起きるのだとすれば、起きるタイミングに法則があるのだろうかという思いである。その日は、最初から部屋が動いたように見える錯覚を、起こすのではないかという意識があったように思う。これも、辻褄を合わせるための思いではないかと思うのだが、底まで考えてしまうと、何もかもが、すべて辻褄合わせでしか考えていないように思えてくるだろう。

 今日、この時間に天井を眺めていると、動く感覚はないのだが、いつもより近く感じられた。そして部屋の中を見渡すと、いつもの部屋に比べて、狭く感じられるのだった。

 最初部屋を見渡した時には、何も感じなかったのに、天井を見て、近く感じられたことで、部屋が狭く感じられた。その日の部屋を感じるためのキーワードが、天井であることに気が付いたのだ。

 目の前に飛び込んでくる光景には、必ず何かのキーワードが存在しているのではないだろうか。想像した通りに光景は映し出されるので、キーワードの存在を意識することはないが、確かに存在しているのだとすると、

――どうして、それを今までに意識することがなかったのだろう?

 と、思わせる。

 キーワードという発想は、タブーな発想なのではないだろうか。発想する時は何かの警鐘で、キーワードを意識することで、そこからイメージするものが、辻褄合わせの発想に繋がってくるのかも知れないと思うのだった。

 美麗は、今まで意識した男性のことを思い浮かべてみた。

「そういえば、皆樋口先生を意識していたような気がするわ」

 高校時代に、通勤電車の中などで、他の学校の生徒の中に、意識してしまう男性が何人かいた。樋口に対して抱いた想いを彼らに抱くことがなかったのは、話をしたことがなかったからだと思っていたが、それだけではない。しょせん、樋口に似たイメージの男性ばかりだったので、どうしても、樋口と比較すれば、樋口以上であるはずがない。もっと違ったイメージの男性を好きになることは、美麗にはありえないことだったのだ。

「初恋だったんだ」

 今さら気が付くなんて遅すぎる。あれだけ樋口を意識しておきながら、初恋であることに気が付かないなんて、どこか抜けているんだと、美麗は自分の鈍感さを思い知った気がした。

 だが、本当に鈍感なのだろうか?

 美麗は、決して鈍感ではない。人に対して気を遣わなければいけないところには、キチンと気が付いているつもりだし、決して、無関心ではない。人から勘が鋭いと言われたことはあったが、鈍感だなんて、言われたことはない。

 ただ、他のことならいざ知らず。恋愛に関してであれば、感覚が違うというのは、美麗だけが感じていることではないだろう。

――恋愛に鈍感な方が、可愛げがあっていいのかも知れない――

 そんなことを考えていたことがあったのは、まだ中学時代のことだった。

 恋愛に関しては晩生だと思っている美麗は、異性を意識し始めたのは、中学二年生の終わり頃、友達が男の子と仲良くしている姿を見て、

「羨ましいな」

 と思ったのが最初だった。

「ブチッ」

 ハッキリと聞こえた記憶が残っている。心の中で、何かが切れた音だった。羨ましいと思ったその時に、

「これが恋愛感情なんだ」

 と同時に感じたのも、記憶の中でハッキリしている。異性を意識し始めた原因は、

「羨ましい」

 という言葉に尽きる。それが美麗の中で、自己嫌悪も同時に起こさせた。

「恋愛感情がこんなに簡単な感覚だったなんて」

 と感じたからだ。

 自己嫌悪という感覚も、実はこの時が初めてで、異性に対して芽生えた時に、一緒にいろいろな感覚まで芽生えてしまったのだ。

――これは私だけの感覚なのかしら?

 異性への意識は、思春期の過程においては、誰もが通る道である。だが、それも十人十色ではないかと思っている。美麗の場合は偶然にも、それらがすべて一緒にきたのかも知れない。

 だが、違う考えも実はあり、

「他のことは、皆もっと早い時期に経験しているのではないか。そして、ある時期を期限に、誰もがその時までに経験するのだとすれば、期限の最後の時まで、すべて経験していなかったことで起こったことで、偶然ではなく必然。限りなく偶然に近い必然なのではないだろうか」

 とも考えられた。

 とにかく、一度にたくさんの感覚を味わったのだ。それまでの自分とは違う自分になったのではないかと思ったとしても、それは無理のないことなのだろう。

 ベッドから起き上がると、美麗は、卒業アルバムを手に取って見ていた。まだ、一か月も経っていないというのに、このアルバムを見るのは何回目だろう。そのたびに、

――久しぶりに見る――

 と思ってしまうのは、なぜだろう?

 何度も見返しているところは決まっている。自分と、樋口の載っている部分以外を見ることなど、基本的にはないのだ。それなのに。久しぶりに見るという感覚になるのがなぜなのか分からなかった。

 だが、今日見ると、その理由が分かった気がした。

「どこかが違っているんだ」

 分かったと言っても、「どこかが」という但し書き付であった。半分分かったのと変わりはないが、それでも、まったく分からないよりも、調べようがあるというものだ。

 ただ、それほど気になってしまうほどのものではない。最近の美麗は、自分の部屋の雰囲気が前に見た時と違っていたりして、雰囲気の違いには、さほどビックリしなくなっていた。

 思春期の今、身長も伸びている。今までと違った立ち位置から見る景色は、一日の違いでも、まったく違ったものに見えることさえあるくらいだ。

 その意識があるからなのかも知れない。部屋の中だったり、電車の中、学校の教室と、毎日携わる場所が、違って見えることも結構あったからだ。

 そういえば、小学生の頃、五年生から塾に通っていたことがあった。学校が終わってから、家で夕食を食べて、塾に出かける。帰ってくる時間は、午後九時を過ぎていた。

 それまで夜出歩くなどということもなかったが、バス停が近いことと、家までの間にそれほど暗いところや環境の悪さはなかったことで、親も安心していたようだ。

 ただ、家に帰るには、最後に曲がった角から、少しだけ、街灯だけを頼りに歩かなければいけないところがあったのだが、その場所は、少し怖さを感じていた。

 足元から伸びる放射状の影が、歩くたびにクルクル回っている。少し不気味であったが、そこから目を離すことはできなかった。目を離してしまうと、却って怖い気がしたからで、見えているものすべてを信じられなくなりそうに思えたのだ。

「家まで、こんなに掛かるなんて」

 目の前に見えている家に、なかなかたどり着けなかった。目の前だという意識があまりにも強かったからなのかも知れない。

 気になったのは、足元から伸びる影の長さだった。毎日見ているのに、微妙に長さが違うように思えたのだ。道が悪いこともあって、でこぼこしている道に影が浮かび上がって見えることもある。それが怖かったのだ。

 その意識を今思い出していた。毎日微妙に変わって見えるのは、影を見た時のように、でこぼこしたところがあって、その時のでこぼこに似たものが何かが分からずに、微妙に違っているという意識だけが、心の中に残ってしまったのかも知れない。

 美麗は、塾に通っている間、毎日同じ感覚に襲われていたが、その間隔があっという間だったように思う。どんなに昼間、波乱万丈であっても、昨日、同じ道を通って感じた思いが、ついさっきのことのように思い出されてしまうのだった。

 美麗が小学校の卒業を間近に控えていた時、塾に通うのもあと少しだと思っていたそんな時、

「誰かにつけられている」

 と、感じたことがあった。

 今から思えば錯覚だったのかも知れないが、一度は、ハッキリと足元に誰かの影がクッキリと浮かび上がったのを感じた。

 すぐに振り返って、確かめたのだが、そこには誰もいなかった。すぐに足元を見たが、今度は、影は存在しない。

――錯覚だったのかしら?

 と思ったが、背筋に走った悪寒は収まらない。急いで家に帰って、部屋に飛び込んだのだが、その時に、急に自分の部屋が狭く感じられた。ベッドに横になると、天井までがすぐそばに感じられた。

「今にも落ちてきそうだ」

 と、感じたのだ。

 この思いは、その時初めてではなかった。以前にも同じ思いを感じたように思えたが、それがいつだったのか分からない。

 今でも部屋の広さが微妙に違うのを感じていると、その時のことを思い出す。意識がハッキリと、している時ほど、その時のことを思い出すのだった。

――時系列が曖昧になるのも、その時のことが影響しているのかも知れない――

 卒業アルバムを開く時、ドキドキした気持ちになるのは、そこに本当に自分が写っているかが気になるからだ。

 以前に、テレビドラマで見たことがあったが。アルバムの中で、そこにいたはずの人が急に見えなくなると、その人の存在を誰もが忘れてしまっているということ、恐ろしい発想だが、それでも、誰か一人は覚えているのだという。

「私は、その一人には決してなりたくない」

 という思いを抱いたが、それは、不気味な世界に、自ら足を踏み入れることを意味していたからだ。どうして一人なのかということを考える余裕はない。ただ、その一人になりたくないという思いを抱くのだ。それを本能だと思っていいものなのだろうか。

 美麗が抱いた自己満足、それは、世間一般に言われる悪い意味での自己満足ではなかった。

「自分で満足もできないことを、人に勧められるはずもない」

 セールスマンの人から、そんな話を聞いたことがある。

「要するに、自信を持ってお薦めしないと、相手も不信感を感じるでしょうし、不信感を抱いて買ったものは、せっかくいい商品であっても、相手に満足いただけることなんてないのよ」

 親戚にセールスレディの人がいて、その人の話だった。

 確かに自分を信じることが大切だというのはよく分かったが、それなのに、どうして自己満足がいけないイメージと結びつくのかが分からなかった。

「要するに、自信過剰と一緒になるからまずいんだ」

 ということを理解するまでに、少し時間が掛かった。自信過剰が悪いことだというイメージが、美麗の中でなかったからで、これも、いいことなのか悪いことなのか、どちらとも取れるような曖昧な感覚だったからだ。

「まったく自分に自信がない人と、自信過剰な人とでは、自信過剰な人の方が使えるように思う」

 自分に自信がない人に、いくら「自信を持て」と言っても持てるものではないだろう。本当に自信を持てるものがないのか、それとも自信を持つことができないだけなのかで、大きく違ってくるからだ。だが、自信過剰な人であれば、それだけ自信を持てるものがあるということだ。自信がないよりも、ある人の方が使えるだろう。

 少なくとも、大人になってからの仕事の話をしてくれたのは、そのセールスレディの人だけだった。子供に対しての説得力もあっての自信なのだろう。自信過剰に繋がる自己満足でも、美麗にとっては、新鮮に感じられたのだ。

 樋口は最近、美麗の子供の頃を知っていたのではないかと思うようになった。

 三十歳の樋口と、十八歳の美麗。どこに接点があるのかと思ったが、美麗が小学生の頃、というと、樋口は、大学卒業前後になるだろう。

 その頃の樋口は、家庭教師のアルバイトをしていた。相手は中学生だったが、顔にニキビが表れた、典型的な思春期の男の子だった。

 部活をしているわけではなく、友達も多い方ではなさそうだった。勉強を教えていても、まったく反応がなく、こちらの話を理解しているかどうかという以前に、話を聞いているのかどうかすら、ハッキリとしない。

 いくらお金をもらっているとはいえ、まるで苦痛を買いに来ているようなものだ。精神的にストレスになり、ストレスが異常反応を起こすこともあった。

「このままでは、まずい」

 とは思ったが、家庭教師を断る勇気すらなかったのだ。

 だが、あることをきっかけに、樋口は男子生徒を見直した。

 それは、偶然目にしたことだったが、家庭教師のない日に、樋口は大学が終わって、時間があったので、少しだけパチンコをしてから帰っていた。最初に大当たりし、調子がいいと思っていたが、今度は、なかなか大当たりまで時間が掛かった。出玉は呑まれるばかりで、どこが引き際か、悩むところだった。

 適度なところで切り上げたが、このタイミングがよかったのかどうか、分からない。それでもここで振り返ってしまえば、後悔などいくらでもできてしまう。なるべく考えないようにするのが一番だった。

 時間的には、夜の九時過ぎ、大学生としてはまだまだ宵の口なのかも知れないが、パチンコをしていた時間は、あとから思うと結構長かったように思えて、夜の九時過ぎでも、結構遅い時間に感じられた。

 あまり歩いたわけではないのに、足腰に疲れが出ていた。集中していた証拠なのかも知れない。疲れを感じながら歩いていると、前から小学生の女の子が一人で歩いている。

 本当はまわりが怖いのだろうが、気にする勇気もないようだ。かといって、身体は完全に萎縮していて、早く歩いているつもりだったのだろうが、足がついてこないようだった。

 その女の子の後ろを一人の男が追いかけている。帽子を目深にかぶり、いかにも怪しさを醸し出していた。

 怪しいだけでは、誰も何もできない。男に注意することもできず、もし本当に危ないのであれば、男を監視して、いざという時に飛び出していくしかないだろう。

 だが、まわりから見ると、監視している方も、よほど怪しい人間に見えてくる。それだけの勇気を持って、しかも時間を割いてまで、男を監視することができるのは、女の子の近しい人間、つまりは肉親か、本当に彼女に好意を抱いている人しかいないだろう。

 ただ、その時の様子は、明らかに異様だった。

――どうしよう――

 樋口は、迷っていた。このまま見逃すと、一生後悔するかも知れないと思っていた。とりあえず、少しだけでも様子を見るしかないと思い、今来た道に踵を返して、振り返ろうとしたその時、怪しい男から離れること十数メートルくらいであろうか。その男を監視する姿が見えた。

 怪しく見えたが、それは、樋口が怪しい男に気が付いて、監視を始めたからであった。もし、何も考えずに普通に歩いていたら、怪しい男には気が付いたとしても、それを監視している男には気付かなかったかも知れない。それほど、監視している男の気配は、消えていたのだ。

――どこかで見たような――

 と思ったその時にちょうど、街灯が男の顔に当たり、よく見ると、まだ子供のようだった。子供と言っても中学生で、そう、見たことがあると思ったのは、自分が家庭教師をしている男の子だった。

 普段から暗い雰囲気で、何を考えているか分からない雰囲気そのままに、男を監視している。しかし、監視するには気配を消さなければいけないという点では、彼は適任だったのだ。

 女の子は、自分がつけられているのには、気付いていないようだった。ただ、漠然と怖がっているだけだ。交番の前を通りすぎた時も、もし気付いているなら、とっさに飛び込んだはずだからである。

 交番の前を、怪しい男も通りすぎて行く。別に交番の前だからといって、緊張する様子もない。完全に、視線は前しか見ていないのだ。

 交番の中では、警官が、机に座って、書類に一生懸命何かを書いている。表をいちいち気にしている素振りはない。

 監視をしていた少年が、交番の前を通りかかると、自分から、交番に飛び込んでいった。何かを説明していたようだが、すぐに警官は、少年に対し、

「ありがとう、君は危ないから、帰っていいよ」

 と言っているようだった。

 警官は少年を帰すと、怪しい男に職務質問をしていたが、そのまま説得するかのように、男を交番の中に呼び込んだ。怪しい男は神妙にしながら、警官に従い、怪しい雰囲気だけを醸し出したまま、結局、ただの小心者であったことを示しているだけだった。

 その時の女の子は、そのまま何事もなかったように家に帰っていったが、その時の女の子が、美麗だったような気がして仕方がない。

 元々、教師になりたいとは思っていたが、大学生活の中で具体的にどんな教師になりたいなどと考えたことはなかった。家庭教師をしていても、反応のない生徒相手では、まるで暖簾に腕押し状態、何も得るものがなかった。

 だが、少年の勇気にも似た行動を見て、

――見かけだけで判断してはいけないな――

 と感じた。

 それでも翌日からの家庭教師に変化があったわけではないが、彼に対する見方だけは少し変わった。そのうちに話をすることもあるかも知れないと思ったからだ。

 結局、心を開いて話すこともなく、家庭教師期間は終了したが、彼もめでたく、志望高校に合格し、家庭教師としての「任務」は無事に終わった。

 めでたく高校教師になって数年が経って、美麗が入学してきた時、

――どこかで会ったかな?

 と思ったが、そう感じたのは、最初だけだった。直感で感じただけなので、すぐに錯覚だと思ったのだ。いや、錯覚以外の何者でもない。深く考える必要など何もないと思ったのだ。

 ひょっとして、美麗が樋口を意識したのが最初からであれば、樋口が感じた、

「どこかで会ったことのある」

 という感覚で見つめた時に、美麗も何かを感じたのかも知れない。

「見つめられている」

 と感じた時に、自分の中にある表に出たいという感覚が、

「先生が好きだ」

 という感覚に変わっていったとしても不思議ではないだろう。

 樋口はさすがにそこまでは分かっていなかった。ただ、以前に見たことがあったかも知れないという思いを感じたのは、二回だった。

 美麗が入学してきた時が最初で、その次は、美麗が卒業して初めて会った、そう、樋口の部屋を訊ねてきたあの時が二回目だったのだ。

 樋口は、美麗が入学してきた時を思い出したのは、無理もないことだった。一度意識をして、すぐに意識から外してしまった美麗。その間に美麗の中で、樋口に対しての想いを育んできたのだろう。

 美麗は、男の子にも人気があったようなので、美麗に告白してくる男の子も結構いただろう。それでも告白をすべて断り、樋口一途でいたのだ。

 樋口は、そんな美麗の視線にどうして気付かなかったのだろう? 最初に意識して、すぐに視線を逸らしてしまったので、その瞬間に元に戻すことができない呪縛のようなものに掛かってしまったのだろうか。

 美麗は樋口の好みのタイプだ。あまりにも好みにかぶってしまうと、今度は相手が自分を相手にしないのではないかとすぐに諦めてしまう性格があることから、意識しなかったのだとすれば、その気持ちは結構硬いものだっただろう。樋口が美麗を意識しなかった理由の一番はそこだったに違いない。

 樋口が一目惚れした利恵は、逆だった。樋口がいくら意識しても、樋口を見る様子はどこにもない。また加藤も同じような感覚になっているようだが、加藤に対しても同じだった。

 人からいつも注目されている人は、本能的に相手と目を合わさないようにできるのではないかとも思った。確かに利恵には人を惹きつける魅力が備わっている。一目惚れというのは段階があり、惹きつけられることが最初で、そこから自分の感情が働くのだ。自分の感情が働き始めた頃には、好きにならずにはいられない心境に陥ってしまっている場合、それを一目惚れという。惹きつけられて、感情が働いた時、少なくとも好意を持つことに間違いはない。その思いが次第に強くなるのか、それとも、一気に爆発するのかで、変わってくる。それが惹きつける強さに比例するとは一概には言えないだろうが、関係がないわけはないのだ。

 美麗には、利恵のような惹きつける力はない。だが、どこか気になる女性としての思いが、一度感じさせると、沸々としたものがこみ上げてくることになるだろう。一目惚れほど強烈ではないが、包まれる感覚をジワリジワリと感じることで、焦らされているようなくすぐったさが、快感を倍増させるのだろう。最後の一線を超えることがなかったのは、倍増した快感をじっくり味わっていたかったからだった。

 その時に感じなかったことを、後から思い出すと、いろいろ感じることができる。それが、美麗との間でこれから育んでいく愛情を保っていく秘訣ではないかと思うのだった。

 美麗と利恵を比較しても仕方がないと思うのだが、これから樋口自身、どう考えていけばいいのか、考えていた。

 美麗の気持ちに素直に答えるのか、自分の中で強烈な印象として大きな存在である利恵を見つめていくべきなのかである。

 もちろん、美麗と最後の一線を超えなかったのは、倍増していく快感を味わっていたかったからだというのもあるが、利恵の存在が頭を擡げたのも事実だ。そもそも目の前で一人の女性を抱いている時、他の女性のことが頭に浮かんでくるというのもおかしなものだと思った。

 だが、そう思うのは自分だけなのかも知れない。誰もが好きな女性は一人だとは限らない。そのうちの一人と愛してあっていたからと言って、他の人を頭に思い浮かべないことはないだろう。特に抱き合っている時ほど、頭に浮かんでくるのは、本能というものではないだろうか。

 そう思うと、安心してくる気もしたが、逆に言い訳がましい自分に、嫌悪感を抱いていた。

 嫌悪感は、どうしようもない疑念を抱くこともある。あることないこと頭に思い浮かべ、それがさらに頭を混乱させることで、記憶の奥に封印していることが噴出し。意識していることと、交わり合って、おかしな発想をさせてしまうこともあるだろう。それが起きている時に感じると、幻影になり、寝ている時に感じると、夢となって表れるのかも知れない。

 幻影とは、決してこの世のものとは思えないことだけを描き出すものではない。実際の現実社会でも、幻影というものは存在する。たとえば、一緒にいる人が何を考えているかを勝手に想像して考えること、これも自分だけが描き出した幻影と言えないだろうか。それは夢にも言えることで、誰とも共有しない独自のものだと思っていた。

 この発想は、樋口だけのもので、他の人はきっと違う考えを持っているだろう。誰もが微妙に違っているものを持っていて、共通点がそのまま気が合う部分として表に出てくるのだろう。少しでも気が合うところがなければ、友達付き合いなどできるはずがないからである。

 樋口は、美麗に対して、思い出したことが多いことで、気持ちが美麗に傾きかかっている。美麗への気持ちに素直になることが、今の自分にとっての一番だと思っているからだ。

 美麗と二人きりになったあの日から、そろそろ一か月が経とうとしているが、美麗がやってくることはなかった。

――本当に幻影のようだ――

 まるで他人事のように感じた。

 幻影を抱いているのは、樋口だけではなく、美麗にも言えることなのかも知れない。むしろ、幻影に惑わされているのは、美麗の方だと考える方が自然だ。

 短大とはいえ、これからの学生生活は目の前に広がっているのに、わざわざ過去の先生を尋ねてきて、愛の告白をしたというのは、考えようによっては、自分の中でけじめをつけたかっただけなのかも知れない。

 これから前を向いていく中で、後ろ向きである樋口に対しての気持ちをどうにかしなければいけないという気持ちがあったのも事実だろう。

 一つの「儀式」だったのかも知れないと思うと、樋口もスッキリすると思ったが、気持ちが中途半端なために、諦めきれないところがあった。

 本当に正面から向き合っていれば、もう少し気持ちも違ったかも知れないのに、今は、利恵と比較してしまった自分が、恨めしい。

――なぜ、もっと素直に受け入れようとしなかったのか――

 受け入れてしまえば、今度は本当に諦めきれないのだろうが、どちらかというと、

「熱しやすく、冷めやすい」

 そんな性格である樋口にとって、美麗を愛する気持ちに終止符を打つにはタイミングが必要だ。そのタイミングは、すべてを受け入れた上でなければ、成立しない。そう思うと、中途半端だと思った気持ちも否めないのだった。

 日が経つにしたがって、募る思いは強くなる。

 思わず、大学の近くまで行ってみようかと思ったくらいだが、短大というのは、大学と違い、目立ってしまう。高校の先生ということもあり、さすがにそこまではリスクが大きすぎるに違いない。

 ハッキリとした気持ちを持てないまま、待ち続けるのは、さすがに辛かった。学校では新入生が相手なので、精神的にも疲れる。皆純情で真面目に見えるが、日に日に、性格が分かってくる。中には、本当に皮をかぶっているのが分かり、剥げかかっているのが見えるのだ。

 いつ爆発するか分からない状態の生徒ばかりに見えてきて、次第に不安になってくる。この思いは、美麗が入学してきた頃とは数倍も大きくなっているようだ。それは、きっと利恵を意識してしまったことと、加藤の存在も無視できなくなっていたからだった。

 内に外に、悩み多き時期を過ごしていた。

 学校では、なるべく顔に出さないようにしていると、学校から一歩離れてしまうと、自分が孤独だということを思い知らされる。

 黙って一人でいる自分を思い浮かべると、これほど情けない気分にさせられることもない。

「学校にいる時と、一人でいる時とではどちらが辛いか」

 と聞かれると、

「学校にいる時だろうね」

 と、答えるだろう。

 だが、果たして本当にそうだろうか?

 学校にいる時の自分は表の自分、一人でいる時は、本性を現した自分。どちらが自分らしいかといえば、一人でいる時の自分だった。

 学校にいる時の方が辛いと思ったのは、本当の自分ではないからだ。本当の自分を隠して、敢えて明るく振る舞う。そう感じただけでも、ゾッとするほど嫌なものだった。

 学校にいる時は、まわりの目も気にしなければいけない。

 まわりの目は、人の目とは別に、自分の視線も感じる。最初は痛い視線を感じたのだ。それがどこから来るものなのか分からなかった。自分の視線なのだから、すぐに分かるはずもない。

 自分を客観的に見ることで、自分を視線を感じてしまうのだと思った。もちろん、自分に視線を自分で浴びせることなどできるはずもない。それなのに、できると思ったのは、客観的に見る自分をいつも意識しているからだろう。

 学校にいる時、自分以外の視線であれば、別に気にならない。

「しょせんは、他人なんだ」

 という意識があるからで、いつ爆発するか分からない生徒がハッキリと見えているのは、自分ではなく、客観的に見ることのできる自分の方なのかも知れない。

 一人になって孤独を感じていると、そばに寄ってくる人が、気持ち悪く感じられる。孤独は寂しくて嫌なはずなのに、それよりも、人と関わることの方が、嫌な瞬間があるのだった。

 孤独と寂しさを同じ高さで見ていると、見誤ってしまう。孤独があって、寂しさがこみ上げてくる。寂しさが孤独を呼ぶのではないからだ。

 しかし、樋口は最近、寂しさが孤独を呼んでいるように思えてならない。それは、まず最初に、得体の知らない寂しさをいきなり感じることがあるからだ。

 得体の知れない寂しさは漠然とした感覚で、孤独とは違うものと思えていた。同じ寂しさでも、人と関わりたくない寂しさもある。それが欝状態の時に感じる寂しさに通じるものがあるのだ。

 寂しさは、自分の中の頑固な気持ちが作り出すものである。人と関わりたくないというのも、自分の中にある頑固な気持ち、他人には決して受け入れられるものではなく、自分も人を受け入れたくないと思う時、寂しさを感じるのだ。

 世間一般に言う寂しさとは別のものだった。

 世間一般に言う寂しさとは、孤独を伴うものだからである。

 孤独な時に限って、寄ってくる人もいる。例えば、加藤などがそうだろう。人と関わりたくないと思っている時に、わざわざ僕を誘うこともないのにと思ってみたが、加藤は、そんなことはまったく分かっていないに違いない。

 加藤が、また性懲りもなく誘ってきた。

「また、今晩、どうですか?」

「いいですよ」

 二つ返事で答えた。今日はなぜか一人ではいたくない日であった。

――しかもどうして、加藤なんだ?

 他の人だったら、断っていたことだろう。加藤は他の人と変わらずに、愚痴も言えば、人の悪口もいう。ただ、加藤の言葉はまるで自分の代弁のように聞こえるのだ。

――気が合うということか?

 そんなはずはない。むしろ性格的には正反対で、考え方も似ているところもあるが、基本的には、途中に大きな結界のようなものがある。加藤にはそれが見えているのか、樋口は見えているわけではないが、存在は感じていた。

――この男、話をしてみないと分からないことが多すぎる――

 話をしたからと言って、性格まで分かってくるわけではないが、共通点の多さは自分でも認めているので、加藤と一緒にいる時間を、少しずつでも増やすのもいいかも知れないと思うのだった。

――それにしても、どうしてこの男なんだ?

 加藤が寄ってくるようになって、避けることができなくなった。別に嫌われても問題ないと思っているのに、不思議な感覚だ。

――加藤は、僕も知らない僕に関わる秘密を知っているのかも知れない。ただ、寄ってくるのとは、理由が別だろう――

 と、感じていた。

 加藤に誘われて呑みに行くのは、これで四度目だった。だいぶ慣れてきて、愚痴を零されても、さほど嫌な気分はしなかった。内容もさることながら、自分にだけ零しているのだと思うと、嫌な気分にはなれないものだ。

 ただ、その日の加藤は、愚痴を零しているのではなかった。真剣な表情になったかと思うと、いつになく神妙になり、

「俺が前の学校を辞めなければいけなくなった理由、知ってるだろう?」

「ええ」

「その時に行方不明になった少年なんだが。彼はどうやら、俺に恨みを持っていたんじゃないかって思うんだ」

「それじゃあ、仕返しのつもりか何かだというのかい?」

「そうは思いたくないんだが、そう思えて仕方がないんだ。ただ、俺には恨まれる理由がハッキリとはしないんだけどな」

 樋口も、以前家庭教師をしていた時、少年が美麗と思われる女性を助けたのを偶然見てしまった時、その少年が、こちらに気づいていたように思えてならなかった。

 あの少年とは、その時に感じた視線が、家庭教師を辞めるまでに何度となく、身体に突き刺さってくるような感覚だったが、辞めてから、一度も会ったことはなかった。だが、たまに、あの時に感じた、突き刺さるような視線を感じることがあったが、その時に、少年に感じた視線だということまで、気づいたわけではなかった。

 彼が女の子を助けたのは、計算ずくのことだったのかも知れない。助けた後、彼が美麗に対してどのような態度を取ったかまではハッキリとは知らない。ただ、あの時は、助けたい一心だったのかも知れない。あの場面でストーカーのような男を見つけるのは、偶然以外の何者でもないからだ。

 加藤に対して恨みを持ったとしても、まだ子供である。何ができるというわけでもないので、できる範囲のことを考えると、出てきた答えが、

「行方不明になる」

 ということであろうか。

 だが、相手が窮地に追い込まれるほど、長い間行方不明になるということは、かなりのものである。時間に関係なく、行方不明になった時点で、すでに責任者失格の烙印が押されることになるのだろうが、いつの時点で、行方不明と認定されるかまで、子供では分かるはずもない。

 ということは、相当長い間、行方不明になっていないと難しい。その間、少年はどこにいたのだろう。

 仲間と呼べるような友達がいて、彼にかくまってもらっていたのか。友達であれば、彼も子供だ。子供同士で、そんな大それたことができるものだろうか。仲間の親が出てきて、

「一体、何をやってるの」

 と、言われてそれでおしまいだろう。

 ただ、その友達も孤独な環境にいて、親の目が届いていないのだとすれば、可能かも知れない。

 先生に仕返しというのが、おだやかではない。高校生くらいであれば、クラスメイトの女の子への思いが高じて、先生への逆恨みであれば、余計に激しいかも知れない。なぜなら、聖職者という立場でもあるので、

「聖職者でありながら、生徒に手を出すなんて」

 と思われてしまうからだ。

 それを思うと、今の樋口の気持ちと同じだった。

 また、その思いを抱いているのが、美麗ではないだろうか。卒業を迎えてから、思いを打ち明けにやってきた美麗、彼女は、先生に対して気を遣ったのか、それとも、自分がまだ十八歳未満であることを単純に考えただけなのかは分からない。ただ、彼女の判断は賢明で、「大人の決断」だったに違いない。

 樋口は、自分も誰かに恨まれているのではないかと思う。

 中には、仕返しを目論んでいる連中もいるかも知れない。すでに仕返し作戦が進行中で、知らないのは、当事者の中で、本人だけだというしゃれにもならないことになっているのかも知れない。

 恨まれているとすれば、家庭教師をしていた時の少年、彼には、何も悪いことはしていないはずなのに、彼が樋口を見る目は尋常ではなかった。

 親の命令で家庭教師をつけられ、本人としては、屈辱に燃えていたのかも知れない。樋口にも思うところはあるが、自分からしようとしていることを、人から注意を受けると、これほど屈辱的なことはない。

「今、やろうとしていたんだ」

 本当のことを主張しても、これほど言い訳になるようなことはない。自分でも言い訳にしか聞こえないところが情けないと思うのだ。

 歯を食いしばって耐える気持ちは、十二分に分かる。人から命令されるというのは、そういうことなのだ。

 樋口は、なるべく人から言われる前に、自分からしようと努力した。しかし、樋口のまわりには短気な人が多いと言うか、いつも先を越されてしまった気分にさせられる。そのうちに、

「バカバカしいや」

 と思い、人から言われる前にしようという気が失せていた。

 家庭教師に行くようになったのが、ちょうどその頃で、何をやってもバカバカしいと思うことで、生徒にも同じように接していたかも知れない。

「こいつ、何を考えているんだ」

 と、子供から思われていても仕方がない、だからといって、仕返しされるほどではない。ただ、少年は何かをした。そのせいで、樋口に災いが起こったことも意識できる。

――では、何を一体されたというのだ?

 される方には意識がなく。する方だけが意識するというのも、仕返しにはもってこいなのかも知れない。

「知らぬが仏」

 はここでは通用しない。逆に知らないことが、災いして、知らなければいけないことを知る機会を失った。

 名言、格言の類には裏の言葉があり、正反対の意味が、往々にして、大きな影響を与えられてしまう。

 知っていることが仏なのか、知らないことが地獄なのか、一見、同じ意味に感じられるが、まったくニュアンスが違う。二つの間には大きな空気の穴が開いていて、他の誰かが入り込めるほどの穴なのかも知れない。

 勉強を教えることには、何ら問題はない。彼は物覚えが悪いわけでも要領が悪いわけでもない。それなのに、なぜか成績がパッとしない。家庭教師をしていて、これほど辛いことはないかも知れない。

 教えても覚えてくれなければ、イライラはするが、どうすれば覚えてくれるかを考えればいいことだった。しかし、物覚えが悪いわけではなく、応用力もある。それなのに成績が悪いというと、教える方は、どうしていいのか分からない。

 学校の先生とは違うのだ。

 勉強を教えて、生徒の成績を上げることだけを目的にして雇われている。いくら教えても、それが形にならないのであれば、家庭教師失格なのだ。

 教え方が悪くて覚えてくれないのであれば、ダメ家庭教師の烙印を押されても仕方がないが、覚えてくれていて、理解もしてくれているのであれば、それ以上、どうすればいいというのか。成績が悪いというのは、家庭教師に対して、何か恨みがあってのことではないかと思っても仕方がない。

 少年は、時々ニヤリという不気味な笑顔を浮かべることがある。その顔はゾッとするもので、そのまま帰ってしまおうかと思うほどで、自分がどうして、こんな目に遭わなければいけないのか、運命を腹立たしく思うのだった。

「自分の思った通りにならないことの辛さが、先生にも分かったかい?」

 とでも言いたげな雰囲気に、樋口は初めて、子供が怖いと思った。子供だからということで、正直舐めていたところがあったが、甘い考えであったことを思い知らされた。

「先生、女性のことで悩んだりしたことあるでしょう?」

 まだ、少年の恐ろしさを知る前のことだったが、

「ほう、ませたことをいうね。まるで君は知っているような言い方じゃないか」

「うん、先生が知っているくらいのことなら、僕にだって分かるさ」

 子供のくせに、何を言っているのか。これ以上、御託を並べると、無視してやろうと思っていた。

「そんなに大人の世界を知りたいと言う気持ちは分かるけど、他の人にはあまり言わない方がいいよ。先生だからいいけど、何言われるか分からないよ」

 と、たっぷりと皮肉を込めたつもりで言ったのだが、

「ふん」

 と言って、鼻で笑うと、

「先生はロリコンみたいだから、小学生には気を付けた方がいいよ」

 ドキッとした。確かに大学時代には、小学生くらいの女の子が可愛いと思っていたのだ。相手が小学生なので、可愛いという感情は、愛情とは違うものだと思っていた。

「ロリコンとは、ひどいな。先生をからかうのは、いい加減にしたらどうだ?」

 最高潮の怒りが込み上がってきたのだが、あまりにも的を得ていると、怒りは身体を硬直させ、引きつった表情は、気持ちも引きつらせる。それでも、必死に堪えながら平静を装い耐えていたが、

「先生、無理しなくてもいいよ」

 こみ上げてくる怒りに蓋をして、軽く揺らして、こちらの怒りをさらに増幅させるような言い方だった。

――無理しなくてもいい? 一体、何様のつもりなんだ――

 落ち着いているつもりでも、歯を食いしばって耐えていても、顔には出ているのだろう。それを嘲笑うかのように、またしても、ニヤリと微笑んだのだ。

 樋口は加藤の話を聞きながら、その時のことを思い出していた。加藤の前だが、もう思い出してしまった以上、表情を元に戻すことはできない。普段落ち着いて見られるだけに、樋口の表情に、加藤は、どう考えているのだろう。

「でも、その時の少年は、他の学校に転校して行ったんですよね?」

「ああ、転校して行ったんだが、おかげで、非難は、俺のところに来たさ。行方不明になったのが、どうやら、俺に対しての当てつけだったんじゃないかって噂が流れてね」

「どういうことなんですか?」

「何でも、彼には悩みがあったらしくて、それを先生に相談したんだが、冷たくされたので、面当てに行方不明になったっていうことになったのさ。俺の知らないところで噂は勝手に独り歩きを初めたのさ。だけど、噂になった時点で、俺が何を言っても、言い訳でしかないんだからな」

 その気持ちも分からなくはなかった。家庭教師をしていた時の少年も同じで、

「僕に何かあったら、全部先生の責任になるんだよ」

 とまで、ほざいたくらいだった。

「しょせん、家庭教師さ。そこまでの責任なんて負えるわけないだろう」

 完全に頭に来ていたので、怒りを込めて相手に言葉をぶつけた。

 相手はそれを待っていたかのように、ニヤリと微笑み、

「先生、何言ってんだい」

「?」

 少年は落ち着いていた。樋口の言った言葉、それはいくら腹が立っても、言ってはいけないことだったのだ。

――すると、今のは誘導尋問?

 樋口は急に恐ろしくなって、部屋の中を見渡した。どこかに盗聴器でも仕込んであって、録音でもされていたらと思うとゾッとする。

「先生、大丈夫だよ。盗聴器なんてないからさ。大体僕は中学生だよ。そんなもの買えるわけないじゃないか」

 完全に嘲笑っている。

「それはそうだが」

「じゃあ、何かい? 僕の親が何か仕掛けてあるとでも思った? 僕か先生を監視するために」

 この少年の性格からすれば、それくらいのことがあっても、驚かなかった。

 理由は二つある。

 まず一つは、こんな子供の親なんだから、どんな性格なのかと思ってしまう。まるで、

――親の因果が子に報い――

 とでもいうのであろうか。

 また、もう一つは、子供がどれほどひどい性格であって、何をするか分からないという意味で、苦肉の策としての盗聴器である。

 どちらにしても、子供が大人には手に負えない性格だということである。

 もちろん、まさか盗聴器などあるとは、本気で思っていない。あたりを見渡したのは、本能とでも言えばいいのか、誰かに見つめられているような恐ろしさがあったからだ。

 そう思うと、部屋が急に狭く感じられた。カーテンで向こうは隠れているが、窓の向こうは、鉄格子が嵌っているのではないかという思いだったり、カーテンの向こうに、もう一つの部屋があり、子供が寝ている時など。時々親が覗いているのではないかなどと考えさせられた。

 部屋を狭く感じたのは、言い知れぬ圧迫感に包まれたからで、圧迫感は、窓の向こうから見つめられる恐怖を表していたのだ。

 少年の言葉には、次第に抑えている怒りが見え隠れしているようで、その反面、喜々とした声に、背筋に寒気を感じさせるものがあった。

 ここから先は、樋口の勝手な想像だったが、想像している樋口には、自分がどこにいるのかすら分からないほどの、混乱が頭の中にあった。目隠しをされ、立ったまま、何度もクルクル回されたような気がするのだ。

 平衡感覚がなくなると、状況判断などできるはずもない。夢と現実の狭間に境界がなくなり、錯覚が現実の延長であるかのように思わせるのだった。

「僕は、今までに企てた復讐を、何度も実現させてきたんだよ。先生だって、僕に何かしたら、どうなるか分からないよ」

「何をするというんだい? 君に仕返しされる覚えはないが?」

「そんなことを言っていられるのも今のうちかもよ? 僕に関わった大人の人は、結構僕の復讐を甘んじて受けてきたのさ」

「復讐なんて、恐ろしい言葉を軽々しく吐くもんじゃない」

 しょせんは、中学生の絵空事、想像というのがとどまるところを知らないのは、自分が思春期だからなのかも知れない。

 大人になってから、子供の頃のことを思い出して、

「なんて、大人げない子供だったんだろう」

 と思うかも知れない。

 本人が復讐と思っていることでも、復讐したいと思っている相手が、勝手に墓穴を掘ったのかも知れない。子供相手に怒りを抱かせるほどの人間なんだ。しょせんは、大した大人ではないのだろう。

――ということは、僕も、大した人間ではないということか――

 分かっているつもりだったが、人の考えからまわり回って思い知らされるのは、決して愉快なことではない。

「僕は、復讐のためなら、少々のことは耐えられるし、頭だって働くのさ。先生だって、僕の成績がどうして悪いか不思議で仕方がないんだろう?」

 成績が悪い原因を探しあぐねていることをこの少年は分かっていて、しかも樋口を追いつめるような言い方をしたのだ。

「教えてあげよう、どうして僕の成績が悪いかね」

「どういうことだ?」

 少年は、もう笑っていない。いや、笑っていないように見えるのだ。笑顔に真剣さが滲み出てくれば。笑顔は不気味さを帯びてくる。もはや、笑顔ではないかのように思えてしまうのだ。

「人間って、能力の一部しか使っていないって言われているのは知っているでしょう? 確かにその通りなんだけど、でも、どんなことをしても、能力の一部以上を発揮することができる人間は限られていると思うんだ。それも選ばれた人間だよね。そして、それを選ぶのは、自分自身だって思うんだ。要するに、気付くか気付かないか。そのことを身を持って気付いた人間だけが、隠れた能力を使うことができるのさ」

「じゃあ、知っているだけではダメだということなのかい?」

「うん、気付いただけではダメさ。気付かなくても身体で感じれば、その人には力を使う権利が生まれる。考えてみれば、他の人は皆、もったいないことをしているよね」

「じゃあ、君は自分を「選ばれた人間だ」って思うのかい?」

「そんなことは思いやしないさ。僕が選ばれた人間なら、学校の成績がいいはずだからね。何が言いたいかというと、僕の成績がよければ、僕も選ばれた人間だということさ。二兎を追うものは、一兎も得られないか、それとも、二匹とも得ることができるかのどちらかなのさ。中途半端はありえない」

「逆に言えば、君は、他のことで、誰よりも長けていることがあるということが言いたいんだな?」

「そうだよ。だから、僕には復讐に関しては長けている。僕に逆らわない方がいいということさ」

「それは、僕に対しての脅しかい?」

「そう取ってもらってもいいと思うよ。でも、先生に復讐をするという気にはならないんだ。まず復讐する気があるなら、こんなことを、先生に話したりはしないからね。話すことで、せいぜい、先生に恐怖に似た思いを味あわせたいと思っているだけなんだ。

 樋口は、復讐という言葉を思い起してみた。

 復讐とは、復讐を企てる人間に対して、何かをしたことで、その報復のことである。ただ、中には逆恨みというのもあり、あくまでも、復讐を企てる人間の一方的な思いの元に出来上がる。

 だが、樋口には復讐される思いもない。それだけに、相手が何に対して復讐を感じているのか、見当もつかないことが恐ろしいのだ。

 少年は、

「先生には復讐を考えていない」

 と言っているが、この話をする時点で、復讐ではないか。ただ、その度合いは少年に言わせれば、大したものではないのだ。

「先生、僕が復讐する人には、共通点があるんだ」

「それはどういうことなんだい?」

「僕が復讐を思う相手というのは、偶然なのかも知れないけど、なぜか先生と呼ばれる人ばかりなんだよ。これは覚えておくといいよ」

 このセリフ、

「覚えておくといいよ」

 という件は、頭の中にクッキリと残っていた。

――僕の勝手な思い込みだと思っていたけど、この思いには、何かの力が働いているのかも知れないな――

 と思うのだった。

 やっぱり、以前にも感じたことを思い出しているんだ。ただ、それが、この少年だったのかどうか分からない。他の人との記憶が錯綜しているのかも知れない。

「樋口先生」

 相手は、ハッキリと、自分を樋口先生と呼んだ。ということは他の人に対してのセリフではなく、間違いなく自分への言葉だった。

「樋口先生の場合は、結構人を好きになることが多いだろうから、複数の人を好きになった時、気を付けた方がいいよ。ひょっとしたら、その時に僕が現れるかも知れないからね。特に先生が好きになった女性には、強迫観念に囚われることの多い人が多いようだから……」

 何もかも知り尽くしていると言いたげであった。その表情が恨めしい。

「僕は、小学生の時に復讐した先生は、学校を辞める羽目になったからね」

「……」

 一瞬、嫌な予感がした。

「簡単なことさ。僕がいなくなるだけのことだからね」

――ああ、やはりそうか。この少年が復讐した相手というのは、加藤だったんだ――

 少々のことには動じない加藤を手玉に取った少年は、この少年以外ではありえない。もし他にこの少年と同じような子供が他にもいるのなら、それはそれで恐ろしい。

「やっぱり、先生だ。考えていることがすぐに顔に出る。先生は、僕の話を聞いて、誰のことだか分かったようだね。そう、加藤先生のことさ。あの男は僕のことをバカにしたのさ。それも普通にバカにしたわけじゃない。後ろめたさがあるくせに、相手を子供だと思って、甘く見たのさ。あの男の大雑把なところは見かけ倒しで、しょせんは、小心者なのさ」

 樋口も、加藤の性格は分かっているつもりでいた。彼の性格は見た目の大物ぶりはまったくの見かけ倒し、本当は小心者だと分かっていた。だからこそ、自分に相談するように呑みに誘うのだと思っていたが、共通点のある相手が偶然であったのだと思ったが、ここまで来ると、本当に偶然で済まされるのかどうか、悩むところだった。

「君は、自分の隠された力を十分に生かしているということかい?」

「そうとも言えるけど、それだけじゃないのさ。この力にはもう少し違う力が隠されている。そのことは、樋口先生も、そのうちに知ることになるだろうね」

 何をもったいぶっているのだろう?

 もったいぶっているというよりも、ここで話すことではなく、しかも、樋口自身が自分で気付かないと意味のないことなのかも知れない。

 樋口は少年との話に集中してしまっていて、加藤のことを頭の端に置いてしまっていた。話の内容が加藤の話に移っているにも関わらず、加藤のことが、形になって目の前に現れてくれなかった。

――まるで、加藤は蚊帳の外――

 自分の思考がどうなってしまったのかと思ったが、樋口にとって、加藤のことはどうでもいいのかも知れない。

 加藤が見かけ倒しの人間でなければ、もう少し違っただろう。

 そういえば、少年は、

「復讐する人間には、共通点がある」

 と言っていた。それは相手が先生であるということだと思っていたが、少し考えてみれば、

「見かけ倒しの人間」

 というのも、少年にとっては、復讐の対象なのかも知れない。

「君は、親に対してはどう思っているんだい?」

 さっきまでの笑顔でも、真剣身を帯びた、不気味な笑顔でもない表情が浮かんだ。

 歯を食いしばっているようで、唇を歪め、さらに目をカッと見開いている。その表情は怒りに満ちていた。

「親? バカバカしい。復讐する価値もないさ」

 本当に嫌悪しているようだった。

 その思いは、樋口にも分かった。親というのは特別で、恨みという言葉は親子関係では存在しないようなものだと思っていたが、少年の顔を見ていると、自分にも親に対しての恨みがあるように思えていた。

 少年の前で、親の話題はタブーだったようだ。

 ひょっとすると、この少年の不思議な力は、親に対しての恨みの思いが形を変えて現れてきたものではないだろうか。少年も言っていたではないか、

「選ばれた人間が持つことのできる力だ」

 ということをである。

 それからの少年は明らかに態度が変わった。樋口と目を合わそうとはしなかった。最初はじっと樋口を睨んでいたが、途中からは、絶対的な優位が自分にあることが分かったのか、視線を合わせることが少なくなった。完全に上から目線だったのである。

 それが今度は目を合わせることをしない。合わせないどころか、どこか焦りのようなものが見られる。

――怒りは焦りを生むんだな――

 と思うと、それまで一部の隙もないと思っていた相手に、小さな穴が開いているように思えてきた。

 小さな穴はそこから綻びを生む。生まれた綻びは、相手にそれまでなかった心の余裕を与えることになるのだ。

 余裕は考える力である。余裕のない中で考えたとしても、それは相手が描いたシナリオの上で踊らされているに過ぎない。そのことが分かると、今度は加藤の心に余裕がないことが見えてきた。

 加藤が余裕を持つと、どんな人間になるのか、想像もつかない。あくまでも余裕があるかのように装っていて、樋口はさっきまで、完全に騙されていたわけだからである。

――このまま騙されついでに、何も知らないつもりでいると、今度は加藤のことが分かってくるかも知れないな――

 と、思うようになっていた。

――そういえば、少年の言っていた、強迫観念とは、どういうことだろう?

 少年は、樋口が複数の女性を好きになったことを知っていた。それは美麗と利恵のことだろう。利恵に関しては、最初から好きになった一目惚れ、そして美麗に関しては、後から告白されたことで好きになった相手、そこに大きな違いはあるのだろうが、好きだという感覚に違いはない。

 同じ好きだと言う感覚であっても、それぞれに違う。もちろん、相手が違うのだから当然のことだが、強迫観念という意識はあまりない。

 特に、美麗に関しては、教え子だった頃から、あまり意識しないほど、普通の目立たない女の子という意識が強かったが、利恵のことは、まだまだこれから知ることになるはずだった。

 それなのに、少年は看破している。いや、まだ樋口自身も、女性と知り合う前なので、樋口の性格から察したことなのか、それとも、少年には予知能力のようなものがあるからなのか分からない。そんなことを考えていると、樋口はこの少年と、近い将来出会うような気がして仕方がなかった。

 樋口は、最近、交差点が気になるようになっていた。交差点というのは、以前から気になるスポットの一つであったが、それは不特定多数の人間が入り混じっているということが気になる一番の理由だった。

 お互いに知っている人がいても、気付かない。中には気付いている人もいるかも知れないが、相手が気付かないのであれば、わざわざ声を掛けるようなことはしない。

 交差点では立ち止まらない。後ろからすぐに人が押し寄せてくるからだ。立ち止まらないのではなく、立ち止まれないのだ。立ち止まってしまうと、そこで、将棋倒しになってしまう可能性があるからだ。

 交差点が気になるようになったのは、交差点特有の雰囲気と、さらに、誰かの視線を感じるようになったからだ。その視線は、強く感じる時と、ほとんど感じさせない時がある。強く感じる時は、反射的に感じた方を見るのだが、そこには、知っている人はいない。すでに通りすぎたあとなのだろうが、

「気のせいか」

 と、すぐに意識を切り替えることができる。

 逆に微妙な強さの視線を感じる時は、意識は強く、さらに長く残ってしまう。気のせいだとは思わないからだ。

 強い視線を浴びる時は、その人に作為は感じられないが、微妙な視線を感じる時は、相手になるべく悟らせたくないという意志が明らかに働いている。最近、特にこの微妙な強さの視線を感じるようになった。何度となく感じているうちに、視線を感じることに敏感になってきたようだ。

 その視線が、男性であることは分かった。そして、思ったよりも低いところからで、小柄な男性からの視線だった。

 ちょうど、中学生くらいの身長になるだろうか。樋口が家庭教師をしていた少年が確かこれくらいの身長だったように思う。

 だが、あれから何年も経っているのだ。成長期の彼は、まだまだ大きくなれる要素があった。長身になったかどうか分からないが、あの時の身長のままだというのであれば、解せない気がする。

 しかし、この交差点は、通勤路に当たる。毎日、少なくとも行きと帰りの合計二回、ここを通ることになるのだ。毎回視線を感じるというわけではないが、感じているうちに、中学生だった少年のイメージが浮かび上がってくるのだった。

 樋口は、もし少年に遭った時、聞いてみたいことがあった。それが、樋口と付き合う女性に生まれる強迫観念のことである。

 強迫観念とは、人と話をした時に、追いつめられる感覚を思い浮かべるが、そのことだろうか? 会話をしなくても、意識の中だけでも強迫観念が生まれると思っているが、それは孤独や寂しさを表に出さないようにしている人が感じることだろう。そう思うと、美麗にも利恵にも、隠された寂しさがあるというのだろうか。

 美麗に対しては、樋口は分かっているつもりだった。一晩だけでも一緒にいれば、分かってくる。特に教え子としてしか見てこなかった相手に、女を感じたその日、最後までするしないの問題ではなく、美麗が樋口をどれだけ愛しているかが問題なのだった。

 樋口と美麗の出会いは、先生と生徒の関係であった。

「生徒に手を出すわけにはいかない」

 という思いから、樋口は、美麗の気持ちが分からなかった。いや、分かっているつもりでも、相手が教え子ということで、無意識に気付かないように心掛けていたのかも知れない。

 いくら、教え子と分かっていても、相手の方から好きになってくれたのであれば、理性をどこまで持たせることができるか、分かったものではなかった。

 交差点を渡りきって、何度、後ろを振り返ったことだろう。それは今までに何度もあったことであるし、同じ時に、何回も後ろを振り向くこともあったくらいだ。

 ある時、そこに中学生を見かけたが、その少年を見た時、時間を遡った気がした。顔はおぼろげにしか覚えていないが、口元を歪めた、余裕のある笑顔を見た時、家庭教師をしていた時に感じた不気味さを再度思い知らされた気がした。

 気がしたというのは、瞬きした瞬間に、その場から、少年が消えていたことで、

「錯覚だったのか?」

 という疑念を抱かせ、次第に、疑念が本当の意識として、固まっていったのだ。

 中学生は人の波に呑まれていた。そんな時に限って、人の波が多いのを感じるのだった。きっと今までは人の波など漠然としてしか意識していなかったに違いない。だから、急に意識させられると、人が多いと感じるのかも知れない。

 その少年だと意識したのは、笑ったように思ったからだ。それも、樋口を見てのことだった。樋口は、ゾッとしたものを感じたが、それが家庭教師をしていた時に言っていた意味不明の会話を思い出させたのだ。

 樋口が、交差点で、家庭教師をしていた少年を見たのと前後して、美麗も、同じ交差点で、その少年を見ていた。

 美麗は、短大に通うには、この交差点を通ることになる。樋口もこの交差点が通勤路になるのだが、二人が毎日通る道での共通点はここだけだった。

 時間が合うことはなかったが、これだけの人がいるのだから、時間が合ったとしても、気付くことはまずないだろう。気付いたとしても、お互いに急いでいる時間だろうし、ゆっくり話をすることはできない。それなら、気付かない方がいいのではないかと、お互いに考えていた。

 美麗はその日、朝から少し体調がおかしかった。少し熱っぽくて、ボーっとしていたので、熱を測ったが、平熱とほぼ変わらなかったので、そのまま学校に出かけた。

 家を出るまでは重たかった身体だが、表に出て、歩き始めると、ゆっくりとであるが、身体の重たさが取れていった。

「これなら大丈夫だわ」

 と、今までにも何度も同じようなことがあったので、安心していた。ただ、身体は楽にはなったが、頭はまだ少しボーっとしていた。これも珍しいことではないので、学校に到着するくらいまでには、何とかなると思っていたのだ。

 いつもの交差点に差し掛かった。

 相変わらず、車は多く、喧騒とした雰囲気にウンザリしていた。その日は頭がボーっとしていたせいもあってか、空気がいつになく淀んで見える。まるで排気ガスが空気を汚しているのが、目に見えるかのごとくであった。

 ただ、これは珍しいことだった。今までにも少しくらいの空気の淀みなら感じたことがあったが、その時は、グレーだった。その日の目の前に広がっている空気には、限りなく薄いが、茶色に染まっていた。限りなく薄いにも関わらず、ウンザリするほどなのは、色が普段の淀みを感じる時と違っていたからだ。こんなことは初めてだったのだ。

「相当、体調が悪いのかも知れないわ」

 休めばよかったと思ったが、せっかくここまで出てきたのだから、学校には行こうと思った。熱があるわけではないし、それほど気にすることもないだろう。そう思うと、美麗は歩みをゆっくりに変えていた。

 今まで少々くらいの体調の悪さだったら、却ってスピードを上げていた。なぜなら早く通りすぎて楽になろうという意識があったからだ。だが、その時は自分の身体なのに、どうにも分からないことが多すぎる。無理をするのは、得策ではないと考えたのだ。

 ゆっくり歩いて交差点に差し掛かった。交差点では、それまでと、違った角度で前が見えるから不思議だった。それは自分の身長が少し伸びたように感じたからだ。これだと、少し小さな男性と変わりないくらいであろう。

 百六十センチを切っている美麗は、自分が百六十五センチを超えているくらいに感じられた。この差はかなりなものだ。思わず下を向くと、まるで二階から覗いているくらいの高さを感じた。もちろん、こんなことも初めてだった。

 高さが違うと、思わず背筋が伸びているように思う。これ以上ないというくらいに背伸びしているように感じられることも、背の高さを感じる理由なのかも知れない。

 自分がゆっくり歩いていると、まわりもゆっくりに見えてきた。目の錯覚だとは思いながらも、不思議な光景だった。

 さらに、あれほどウンザリしていた喧騒とした雰囲気も、耳鳴りとともに、ほとんど音が聞こえなくなっていた。まるで、巻貝を耳にあてた時に感じる、風が通り抜ける時の音が聞こえるかのような雰囲気だった。

――どこかで聞いたことのあるような音だわ――

 美麗は、最近見た夢を思い出していた。

 あたり一面、すすきの穂。高原のようなところなのだが、風が吹くと、吹いてきた方から、徐々に穂がたなびいているのが分かる。

 すすきの穂など、今までほとんど想像したことはない。これが夢の世界であって、想像の中にいることは分かっているのに、どうして想像がすすきの穂なのか、分からなかったのだ。

 穂がたなびく中、ゆっくりと前を歩いている。

――どうしてゆっくり歩くの?

 動かしている身体は自分のものなのに、必ずしも自分の意志によって動いているものではなかったのだ。

 もちろん、数日後に、体調が悪くなってゆっくりにしか歩けない状態に陥るなど、その時には分からなかった。だが、そんなにゆっくり歩くことなどなかったはずなのに、

「以前にも同じような感覚があったような」

 と思ったのだ。

 しかし、交差点の中では、夢で見たことをすっかり忘れていたのか、本当に初めて感じることだとしか思えなかったのだった。

――夢と現実とで、意識が交錯している――

 時系列が夢と現実とではバラバラなのは今に始まったことではないが、記憶している意識が、交錯してしまうことはそんなにあることではない。

 すすきの穂を歩いて行くと、夢だという意識があるのに、なぜか、現実に近づいていくように思えた。

 それは目を覚ますという意味ではなく、小高い丘を越えたその先に、現実が待っているのではないかという意識だ。

 だから、ゆっくりにしか歩けないのだ。夢から覚めたくないという意識が強いのだが、歩みを止めることはできない。ここはそういう世界なのだ。とどまっていることは許されない。かといって歩き続ければ、いずれは、夢から覚めてしまう。

 しかし、考えてみれば、夢の世界とは、すべてがそうなのではあるまいか、時間を止めることはできない、そして、覚めない夢はないのだ。夢から覚めないということは、そのまま死を意味することになる。それも、美麗には分かっていることだった。

 小高い丘に近づいていくうちに、そこに誰かいるのを感じた。夢の中で想像するのだから、いてほしいと思う人がいるはずだ。それは樋口以外の誰でもないはずだった。

 その時は、それが誰だったのか、ハッキリとは分からなかった。だが、樋口以外にはいないと思い、それなりに満足して目が覚めたのを覚えている。その時の感覚と似たものが、今交差点の中で感じられるのだった。

 交差点の中では、背が高くなったのを感じていると、ちょうど同じくらいの視線で、見つめられたのを感じた。

 最初はどこから感じるのか分からなかった。これだけゆっくりまわりが進んでいるのに気付かないというのも、おかしなもので、やっと気付いた時、相手は、立ち止まってこっちを見ていた。

 相手に気付いた時、ゆっくり進んでいたはずのまわりが、普通のスピードに戻っていた。だが、喧騒とした雰囲気が戻ってくるわけではなく、相変わらず、耳に押し当てた貝殻状態だったのだ。

 目の前にいる相手は、少年だった。まだ中学生くらいの男の子。どこかで見たような気がしたのだが、どこでだったか覚えていない。ニヤリと笑った少年は、そのまま踵を返してその場から立ち去った。あっという間の出来事に、さっきまでゆっくり進んでいたペースが覆された気分だった。

 正直、不快な気分になった。誰だか分からない人にニヤリとされて、気持ち悪さしか残らない。それも、だいぶ以前に感じた不快な気持ちを思い起させる。まだ、子供だった頃のことだった。

 美麗は、子供だった頃を思い出すことは、最近ではあまりなかった。

「思い出したくない」

 という思いがいつでも頭の中にあり、その思いが、記憶を封印させてしまう。封印した記憶は、不快な気持ちを呼び起こすであろうことが分かっているからだ。

 子供の頃に、後ろからつけられていた記憶はあった。

 それが誰だったのか分からない。ただ、美麗は、それを中学生だと思っていた。その途中にいた男の存在は美麗の中に残っていないのだ。中学生だと思い込んでいたのは、美麗にとって、自分の中で記憶を納得させたい上での必死の抵抗のようなものだったのかも知れない。

 誤った記憶であっても、美麗の中で、今交差点で見つめられたことで、子供の頃の記憶がよみがえり、繋がったような気がしたのだ。

 都合のいい記憶であっても、繋がってしまえば、それが美麗にとっての真実であった。

 交差点で見た少年が、本当にその時の少年だったわけがない。あれから何年経っているというのか。だが、幻影であっても、意識の中で辻褄が合っていれば、それは美麗の中の真実である。

「何かが私を真実に導こうとしているんだわ」

 と、思っていた。

 その日は、それ以上何もなかったのだが、美麗が樋口の部屋を訪れてみたいと思った大きな理由に、そのことがあったのも事実だ。

 確かに、美麗は樋口の部屋に行きたいと計画していたのだが、最後、背中を押してくれるものがなかった。それは、交差点での「真実」によって、実現したと言っても過言ではない。

 樋口の部屋に来る前に、交差点で感じたことだったのは間違いないのだが、それがいつだったのか、分からない。

 その日から交差点を通る時、どうしても意識してしまう。それは、喧騒とした音が、貝殻を耳にあてた時の音になるのを感じようとするのか、それとも、見えているスピードがゆっくりになってくるのを感じようとするのか、または、空気の淀みが、茶色に変わってくるのを感じようとするのか、そのすべてを意識して、歩いていたのだ。

 だが、思ったようなことは、二度と起こらなかった。それは、順序立てて段階を踏んでいるから、すべてを感じることができたのだ。そのことを、まだ美麗は意識できていなかった。それが分かってきたのは、樋口の部屋を訪れて、想いをぶつけることができたからではないだろうか。

 樋口の部屋で、美麗はまた自分が少し背が伸びた感覚を味わったのを思い出した。その感覚が、樋口の部屋でも、交差点を思い出させ、意識の中で、自分が夢と現実の狭間にいるのではないかと思わせたのだ。

 樋口の部屋にいた時間は、夢の時間のように、後から思えば、あっという間だった。だが実際には、もっと濃厚なもので、一線を越えていないにも関わらず、すべてを与えてしまったような錯覚に陥ったからだった。

 樋口の部屋を出てから、美麗はどうやって家まで帰り着いたのか分からない。

 美麗は、樋口には話していなかったが、その時すでに処女ではなかった。

 友達の紹介で付き合うつもりで知り合った男性がいて、何となく雰囲気はよかったのだが、一線を越えてしまうと、お互いにどこかよそよそしくなって、そのまま別れることになった。

 よそよそしさがあったのは、美麗の方だった。相手の男性は思ったよりも慣れていて、女性の扱いには長けているようだった。

 近くの大学に通う三年生。すでに成人しているせいか、とても大人っぽく見えた。

 最初は、大人っぽさが新鮮で、そこに徐々に惹かれていく自分を感じた。少し白々しい言葉も、この男性なら、白々しく感じられなかった。

 大人の男性に憧れていることを、美麗はその時、再認識したのだ。そのことが、樋口への想いを再燃させることになるのだから、皮肉なものだった。

 元々この男性と付き合い始めたのは、それまで燻っていた樋口への想いを断ち切ろうと思ったのが最初だった。

――叶わぬ恋――

 それが、樋口への思いであり、自分の中で、どこかで断ち切らなければいけないことだったのだ。それには、新しい恋で打ち消すしかない。そう思うのは、至極当然のことだった。

 子供の頃の記憶が繋がり、忘れてしまいたいと思った樋口への想いを成就させ、美麗は、今新しい自分を見つけようとしているのかも知れない。

 美麗の中で、樋口だけでなく、交差点で見た少年の存在が、最近は大きくなっている。もちろん、それは恋心ではない。自分の真実を見つけようとする中で、通らなければならない道があるとすれば、避けて通ることのできない大きな存在になるであろうことは、間違いないだろう。

 交差点で見た少年が、今は大学生になっている。そのことを美麗は知らない。だが、美麗は、処女を与えたその男性に、

「以前から知っていたような気がする」

 と思っていた。まさか、彼がその時の少年ではないかという、大それた想像をするが、考えてみれば、交差点で見たのが、数年前の中学生であって、今の姿ではないのは、そのためではないかと思えるのだった。

 それだけ、今の美麗の想像はとどまるところを知らない。その原因が、樋口にあるのだということを、徐々に美麗にも分かってきたのだ。

 美麗は、処女を失った時、それほど悲しくはなかった。むしろ、大切に守っていくものではないという考えがあり、いつも一人でいる女の子は、他の回りの女の子が処女に対してどういう考えを持っているかなど、知る由もなかった。

 別に知る必要もない。自分の中で、処女は重荷でも、何でもなかったからで、捨てた時、なぜか涙が出てきたが、不思議に思わなかったのがなぜなのか、自分でも分からなかった。

 処女を失ってからの美麗は、すぐに彼を捨てた。彼の方でも、美麗に興味はなくなったようで、お互いに自然消滅だったのだが、相手に対して、気持ちがなくなったというよりも、最初から、気持ちなど存在していなかったようにさえ思えたほどだった。

 美麗は、小学生の時に、怪しげな男につけられていたことを忘れてはいなかったが、気にしているわけでもなかった。その時の男を今まで、加藤ではなかったかと思ったが、樋口に抱かれた日から、あの時の男性は、樋口だったのではないかと思うようになっていた。

 樋口は、記憶の中で、美麗と思しき女の子が男につけられていたというのが残っているが、最近になって、それが錯覚だったのではないかと思うようになっていた。

 しかも、それが美麗を抱いたあの日からである。

 美麗は、あの時の男を樋口ではないかと思うようになり、樋口は目撃したことが、錯覚だったと思うようになったというのは、二人が愛し合ったことで、記憶の中にあるものが、お互いに通じ合う中で、交錯していったのかも知れない。もちろん、お互いに相手がどのように考えているのか分からないが、意識が、それぞれの感情を司っているのだとすれば、そのうちにお互いに分かってくることではないだろうか。

 樋口は、美麗を追いかけていた男を加藤だと思っていた。美麗もなぜか、追いかけてきた相手を加藤だと思った。お互いに似た人間を想像したのだが、それが偶然加藤だったということだろうか。

 美麗と樋口にとって、加藤という男の存在は、まったく違った角度から見るはずなので、違って見えて当然のはずなのに、それが同じに見えるのは、まるで同じ角度で見ることができたかのようなイメージであり、それが実現できるのは、交差点での意識ではないかと、美麗は思った。

 樋口には交差点の意識まではなかったが、美麗が時々自分と同じ高さで見ていることがあるのではないかということに、徐々に気付いていくのだった。美麗は、あれから何度か樋口の部屋を訪れて、いろいろな話をしたりしていた。もちろん、愛し合い、今ではお互いに最後の一線も超えている。その中で、いろいろ目からウロコが落ちるような発見もしていたのだ。

 美麗は樋口しか見えていない。美麗が今まで生きて来て、今こそ一番自分に対して素直になっているのだと確信している。自分に対して素直だと思っていた時期であっても、それは表に対していい子でありたいという気持ちが心の中に存在していて、邪魔していたのだろう。

 樋口も美麗だけを見ていればいいのだろうが、利恵を意識してしまったことで、抜けられなくなった自分の意志の弱さを感じ、美麗と一緒にいる中で、少しでも、利恵を忘れるようになればいいという他力本願的な弱さを持っていた。

 弱さというのは相手にも伝わるもので、美麗も、

「何かおかしい」

 と思いながらも、惚れた者の弱さからか、樋口に対して、余計な詮索をしないようにしていた。それこそが自分に正直になった自分を好きになれる一番の近道だと感じたからである。

 こんな関係がいつまで続くのか、お互いに薄氷を踏む思いであったが、

「少しでも長く続けられるようにするしかない」

 というところで、二人の気持ちが一致していたのは、皮肉なものだ。しかし、そんな思いでも共通した思いがあると、なかなか壊れないもので、お互いに気持ちがゆっくりと絆が強くなってくるのを感じた。

 焦りがなければ、結構うまくいくものだ。お互いに薄氷を踏む思いが、お互いに強く結びつこうとする気持ちを抑えている。強く結びつこうとする気持ちは、どうかすれば、焦りに繋がるものである。二人の関係は、ある意味、理想的な関係に近いのかも知れなかった。

 利恵は、樋口のことをどう思っているのだろう。そのことを知っているのは、綾香先生だった。当の本人である利恵は、結構早いうちから、樋口の視線に気付いていた。男性の視線に対して聡いのは、母親からの遺伝ではないかと、利恵は思っていた。

 利恵は、この性格が一番嫌だった。

 母親は、元々スナックなどをいくつも変わって、生活をしていた。父親は自営業なので、スナックに立ち寄ることも多かった。町内の寄合などで、スナックに行くことも多かったが、景気のいい頃に通い詰めたスナックで母親と知り合い、結婚したのだが、父親の押しの強さに負けたのが、一番の理由だった。

 父親の豪快な部分まで遺伝していたら大変だったが、気が強いところは、ひょっとすると父親譲りかも知れないと思った。

「綾香先生は、樋口先生のことをどう感じてますか?」

「それはどういうことなの?」

 最初に説明せずに、いきなり聞いたので、さすがの綾香もビックリしていたようだ。

「私、樋口先生の視線に、男性の目を感じるんです」

「樋口先生は、どちらかというと、ストイックな感じがするんだけど、男性の目を感じたというのは、やっぱり本人じゃないと分からないところがあるのかも知れないわね」

「嫌な視線ではないんですが、やっぱり、先生と生徒ということもありますし、相談できる人もいないので、綾香先生に聞いてみたんですよ」

「私も、今までに、同じような相談を結構受けてきたんだけど、相手が樋口先生というのは初めてだわ。樋口先生は、ケジメを付ける人だって思っていたので、少し意外だったけど、でも、少し安心した気もするわ」

「どうしてですか?」

「樋口先生も、普通の男性だっていうことよ。あまり気にしなくてもいいと思うのよ。樋口先生に限って、変なことはしないと思うから」

 と、綾香がいうと、少し俯き加減で、

「そうじゃなくて、私も樋口先生、いい先生だって思うんですよ。それに……」

 恥かしがっている態度を見せる利恵に対して、綾香は、

「あなたも、悪い気はしていないわけね。でも、先生と生徒の間ということもあるので、気になっているのね?」

「それもあります」

 綾香は、さらに下を向くと、

「実は、私の母親は、以前スナックに勤めていて、客だった父親が強引に口説き落として結婚したらしいんですけど、父がいうには、私はその時の母に似てきたっていうんですよ。私も、母のように、大人のオンナとしてのオーラのようなものを醸し出しているのだとすれば、少し複雑な心境なんです」

 大人に近づいてきた思春期の女の子の心境としては、分からなくもない。特に綾香の場合も、大人の色香を醸し出していると言われ続けただけに、利恵の気持ちは痛いほど分かるのだった。

「利恵ちゃんは、自分の中に流れている血と、今まで育ってきた環境を、ずっと気にしてきたのね」

「ええ、そうなんです」

 憐みのような表情を見せる綾香に対して、利恵は分かってくれる人は、やはり綾香だと思っていたことに間違いがなかったことを、嬉しく思った。綾香も、実は似たような思いをずっと抱いていて、利恵を見た時、

――似たようなところがある女の子だわ――

 と、感じていたのだ。

 その思いはずっと変わらず抱いていて、少しずつ確証のようなものが得られる気がしていたのは、最近、よく医務室にやってくることが多くなったからだった。

 仮病かと最初は思ったが、本当に貧血の気があるようで、貧血も、綾香が心配しているところから滲み出ているのではないかと思うと、放ってはおけないと思っていたのだ。

 医務室で横になっている利恵を見ていると、時々、ずっと天井を眺めている。何か寂しさがこみ上げてくるものがあるのだろうと思っていると、そのうちに眠ってしまっている。寝ている時の表情は、実に安心感が溢れていて、利恵は、そのまま寝かせてあげることにした。時々次の授業に差し障りがあることもあったが、

「医務として、彼女を起こしてまで、授業に行かせるわけには行きませんでした。申し訳ありません」

 と、謝っていた。本当はそこまでしなければいけないわけではないが、そこまでしておくと、今後の利恵のためになるとも思ったし、相手もそれ以上、利恵に対して、言わなくなると思ったのだ。これも、先生の「ケジメ」の一つなのだろう。

 綾香は、利恵の話を聞きながら、自分の女子高生時代を思い出していた。

 本当は思い出したくない記憶だったのだが、綾香の父親に対する憎悪が、その思い出したくない記憶だった。

 綾香の母親は、父親と離婚していて、今の父親は、義理の父だった。綾香が小学生の頃にやってきた父は、豪快な男性で、無骨で下品だった。似ているとすれば、加藤に似ているのだが、加藤とは明らかに違って見えた。

 それも、綾香が大人になって見るからであって、本当は、子供の目線からであれば、似たような感じだったかも知れない。

 しかも、義理とはいえ、相手は父親、他人ではなかった。特に母親から、

「お父さんとは、仲良くしてよね」

 と言われていた。

 母親に対しても、綾香はいい思いをしていなかった。離婚したどちらの親についていくのか子供の側から選べるのであれば、綾香は、父親について行ったであろう。

 本当の父親は、大人しい性格の人だった。雰囲気は、樋口に似ていたかも知れない。樋口が前に立つと、綾香は何も言えなくなる。利恵が告白したことが、そういう意味で綾香を驚かせ、少なくとも自分の口から、樋口の悪口は絶対に言えなかった。

――私は公平に見ることはできないわ――

 と思いながらも、言葉では樋口を擁護していた。相談してくれたのは嬉しいが、本当は自分以外の他の男性にしてほしかったというのが、綾香の本心であった。

 ただ、綾香は、義理の父を恨んでいた。

 あれは、中学二年生の頃だっただろうか。父親が、酒に酔って帰ってきた。

 近寄らないようにしようとしていると、そんな綾香の行動に気付いたのか、

「おい、こっちに来て、酌をしろ」

 と、命令口調が飛び込んできた。普段なら、シカトして部屋の中に籠るのだが、その日は目が座っていて恐ろしい。なるべく逃げ腰にしていたが、今にも飛びかかってきそうな義理の父に恐怖を感じ、急いで家を飛び出した。

 どこをどう通ったのか分からないが、家に帰りついた時は、母親と一緒に帰ってきた。

 母親は何も聞かなかったし、綾香も何も言わない。父親だけが、酒を煽って、そのまま眠ってしまっていたのだ。

 義理の父親は、それから少しして家から出て行った。母は何も言わなかったが、どうやら他に女ができたようだった。離婚の成立まで大変だったようだが、子供の綾香には分からない世界だった。その時から、何もされなかったとはいえ、父親の視線の恐ろしさがトラウマとなって、男性を好きになるのが怖くなっていたのだった。

 大学で知り合った男性と初めて恋愛をしたが、その時は、綾香のトラウマは、なぜか消えていた。その男性と別れが来るなど思いもしなかったが、別れる時は、アッサリとしたものだった。

 綾香は、自分が考えているのと、まったく違った男性経験を歩むことになった。付き合い始めても、結末はまったく違った形で出来上がる。綾香は、ビックリさせられるだけだった。

 学校の先生を目指したかったのだが、途中で断念したのは、相手が生身の人間だということ、医務員も同じであるが、先生という職業とは全然違う。カウンセリングの知識も多少はあるが、実際に免許を持っているわけではない。それだけに綾香は、自分が教師に対して抱いている思いは尊敬であり、その思いを裏切らないでほしいという気持ちが強かったのだ。

 綾香は、自分のそんな育った環境を、利恵の中に見たのだ。利恵の母親も自分の母親と同じスナック務めだったとは思いもしなかったが、放ってはおけないという思いと、

「本当に自分でいいのだろうか?」

 という思いが交錯していた。

 同じような環境で育った人間なら、気持ちは分かるかも知れないが、公平な目で、見ることができるかと思うと、自分でも疑問に思うのだった。

「綾香先生は、どこか私に似たところがあるように思うんですよ」

 と言われて、また愕然としてしまった。

――このセリフ、私が以前に言った言葉だったわ――

 その時は、相手が学校の先生でもなく、学校関係者ではなかった。近所に住んでいる大学生のお姉さんだったが、その人に相談すれば、すべてがうまくいくと言う気持ちだったのだ。

 だが、その時のお姉さんは、冷たかった。

「あなたの気持ちは分かるけど、私はあなたじゃないのよ。人に相談するのは悪いことではないと思うけど、頼ってしまってはいけないわ。今のあなたのセリフは、完全に私に頼りたいという気持ちが出ていたものね。相談してくれるのは嬉しいけど、あなたのご期待に沿えるとは思わないわ」

 と、言われた。

 そこまで言われてしまえば、何も言えなくなってしまう。お姉さんはどういうつもりでこの言葉を言ったのか、ハッキリとは分からなかったけれど、綾香は、依頼心を捨てるつもりで、少しだけお姉さんに話をした。それは相手に偏見を抱かせないようにしようという気持ちを表に出したものだった。

「あなたの気持ちはよく分かったわ。でも、大丈夫、あなたなら、ゆっくりとした気持ちを持っていれば、時間が解決してくれる。私は時間が解決してくれるという言葉、本当は好きじゃないんだけど、あなたになら使えそうな気がするの。なぜなら、あなたには、その意味が分かると思っているから」

 そう言って、お姉さんは笑ってくれた。

 言葉では言い表せないが、お姉さんいの言う通りだった。確かに時間が解決してくれた。それはまるで鬱状態を抜ける時のように、自然な時間経過の中で、それでも、抜ける瞬間が分かるのだ。前兆も分かっているので、時間が解決してくれたという意識は、捨てられない。

 綾香は、その時のことを思い出しながら、目の前にいる綾香を見つめていた。

 綾香は、利恵を他人のように思えなくなっていた。このことが、利恵と、綾香、さらには、まわりを巻き込むことになるとは、まだその時に感じてはいなかったのだ。

 綾香は、利恵の話を思い出しながら、三年前に前の学校で、卒業していった男の子のことを思い出していた。

 綾香が前の学校の最後の年だったのだが、その少年は、綾香に告白してきたのだ。

 綾香は、高校生の男の子に興味を持つような女ではなかったので、今までにも告白してきた男の子はすべて断ってきたが、その少年だけは、なぜか断れなかった。

「先生のこと好きなんだけど、一回だけでいいんだ。一回だけ抱かせてくれたら俺、先生のことを諦めるから」

「あなた、何を言ってるの? 自分が言ってる意味が分かっているの?」

 ただやりたいだけの告白には、さすがにウンザリだった。だが、綾香が気持ち悪がっているのに、その少年は訴えながら泣いていたのだ。

 少々豪快な連中であれば、涙を見せるなどありえないと思うのだろうが、この少年に限っては、彼らよりも、さらに涙を見せるところが信じられない。

「涙が似合わない」

 という、取ってつけたような言葉では言い表せない。

――彼が、泣くというのは、目から血を流すようなものだ――

 というくらいに、信じられない光景だった。

 しかも、どこまで出てくるのだと言わんばかりに、床は洪水のようになっている。

――私は、夢でも見ているのだろうか?

 と思うほどの光景に、綾香は気持ちがどうかしてしまったのだろう。

 結局、彼の気持ちを受け入れることになったのだ。

――私が、こんなことになるなんて――

 綾香は彼に抱かれて、

――この一度だけ――

 と、思ったのに綾香の中で、彼への気持ちが募ってくるのを感じた。

――離れたくない――

 という思いが綾香の中で蓄積し、彼にしがみついて、

「離さないで」

 と、今度は自分が、哀願している。それなのに……。

 彼は最初の言葉通り、一度だけで本当によかったのだ。綾香は、

――その気にさせられて、どうすればいいの?

 言われて昇った梯子を、下から外されて、下りれなくなってしまったような感覚になってしまった。

 綾香は、何とか立ち直ったが、またしても男性に対してのトラウマが残ってしまった。

――もう、この子とは、二度と会うこともないんだわ――

 彼が卒業して行った日、綾香は一人で泣いた。泣いて涙が枯れ果てたと同時に、彼を忘れることができたのだった。

 次の日の綾香は、普段の自分に戻っていた。ここまで普通に戻れるというのも、自分では信じられない気分だった。

 綾香が先生として、その学校にいたのは、それから一月ほどだった。

――やっぱり、彼とはもう会うこともないわね――

 住み慣れた土地から離れることよりも、その思いの方が先に現れた。新しい学校に行って、そこから先の生活を思うと、複雑な気がした。新しい学校でも、似たような雰囲気の生徒はいたが、彼のような人はいなかった。

――初恋だったんだわ――

 彼に処女を与えたことを、本当によかったと思い、初恋だったことを今さらに知るというのも、

「人のことは分かっても、自分のこととなると、まだまだだわ」

 と思い知らされた。

 ただ、彼が綾香の前に現れるとすれば、偶然ではなく、必然なことに違いないと思っていた。彼が現れたのは、ちょうど、美麗が樋口の部屋を初めて訪れた、まさにその日だったのだ。もちろん、綾香も樋口もそんなことをまったく知る由もなかったのだ。

 綾香の前に現れた少年。彼が待っていたのは、駅前の交差点だった。

 そこは、十字路ではなく、一本細い路地に通じているような、不規則な交差点だった。

「綾香先生、お久しぶりです」

 綾香は、そう言われて相手が誰だか、すぐに分かったが、気付かないふりをしていた。少し上目遣いに、

「あなたは私の前に姿を見せないと言った。それなのに、どうして今さら?」

 と言いたげで、唇を真一文字に結び、見方によっては、怒っているように見え、また違う角度からは、見たくないものを見てしまったような軽蔑の目にも見えただろう。少なくとも、相手を見る目に、暖かさはなかった。

 少年は、学生時代とは比べ物にならないくらい、大人になっていた。綾香の表情を見ても、まったくひるむところなどない。綾香もその表情に負けまいと、必死に睨みつけている様子なのだが、負けまいという意識に対しての意志は、さほど強固なものではなかったようだ。

 表情が最初に緩んだのは、綾香だった。それを見て、少年もやっと顔を崩したが、その表情は、まだまだ子供で、懐かしさがこみ上げてきた。

――最初から素直になればよかったんだわ――

 と、思ったのだが、やはり、自分も大人になったことを、相手にも分かってほしいという気持ちもあって、すぐには折れない姿勢を見せたのだ。

 大人げないのは、綾香の方で、少年は、いつもの様子だった。子供だと思っていた学生時代も、他の人には、大人の風格を漂わせていた。ただ、綾香にだけは、甘えてくる。綾香だけが癒してくれる唯一の相手だったのだ。

「綾香先生に会いたくなってね」

 笑みを浮かべていたが、いかにも苦笑だった。

「抱かせてあげたら、忘れてくれるんじゃないの?」

 そう言いながら、くすぐったさを感じた綾香だったが、こちらも苦笑しているのが分かり、さらに苦笑してしまう。くすぐったさが、身体を震わせるのだ。

「そんなこと言ったっけ? 綾香先生の聞き違いじゃないの?」

 と言って、今度は苦笑していない。綾香に対しての挑戦に似た笑顔だった。綾香は、自分がまるで手玉に取られているようで、癪に障ったが、

――ここで大人げない態度を見せると、彼の思うツボだわ――

と、何が思うツボなのか分からないまま、再会を苦笑で彩った会話が続いた。

「僕も綾香先生を忘れようと、真面目に考えたんだよ」

「でも、忘れられなかったの?」

「先生もそうでしょう? 初めての相手って、完全に忘れてしまわないと、忘れられるものではないんだよ」

「えっ、君も初めてだったの?」

 綾香は、痒いところに手が届くような愛し方をしてくれた少年の指使いを思い出して、顔が真っ赤になった。

「そうだよ。ん? 今先生、僕とのあの日のことを思い出したね?」

 そう言って意地悪をいうので、またしても苦笑するしかなかったが、今度の苦笑は、自分から望んでした苦笑だった。それにしても、彼が初めてだとは意外だった。完全にリードされていたので、彼の誘導に従っていただけだが、スムーズに、そして静かに進行する「儀式」は、綾香に強さを与えてくれた気がした。

 今、医務室の先生として生徒を見ているが、生徒が慕ってやってくる。悩みを相談されて、的確なアドバイスを送っているつもりだが、綾香に的確なアドバイスを送ることができるようにしてくれたのは、少年の堂々とした態度だった。綾香に、強さを与えてくれたのだ。

 綾香は、少年と再会することを正直望んでいた。学校が変わって、少年も卒業していった。綾香は心機一転のつもりでいたのだが、心の中で忘れられない思いが燻っていることは決して嫌な気分ではなかった。

 忘れられない人がいるというのは、思い出としては最高である。

 人間、誰にでも一人や二人、そんな人がいるものだと、綾香は思った。そんな相手にいつ出会えるのかというのも、運命と言えるだろう。

 綾香の心機一転は、思い出を一つ作ることで出来上がったものだと思っている。だが、思い出がどこかで寂しさを同時に育んでいることに、それまで気付かないでいた。

 思い出の中の少年は、いつも堂々としていた。そして、そんな彼にしがみついている綾香、今までならそんな自分を客観的にであっても、想像するなど、できるはずはなかった。想像すれば、自分の弱さを露呈することになると思っていて、弱さが自分にとって一番のネックになることを恐れていたのだ。

 弱さを意識しているということは、いろいろなところに弊害をもたらす。普段ならできるであろうことができなくなり、咄嗟の判断をしなければいけない時に、判断力を鈍らせる。

 綾香は、弱さを隠そうとすることが、自分を強くできないことにずっと気付かないでいた。やっと気付いたのは、少年との一夜を過ごしたその日だった。

 自分を説得するような言葉があったわけではない、言葉など、最初から存在しなかったのだ。

「綾香先生、強くなったんだね?」

「ええ、あなたのおかげかも知れないわね。そういう意味ではあなたには、お礼を言わなければいけないと思っていたの」

「そう言ってくれると嬉しいよ。僕は先生に強くなってもらいたいんだ。先生に強くなってもらって、助けてもらいたいんだ」

「助ける? 誰を?」

「僕じゃないんだ。島田美麗という女性のことなんだけど」

「島田美麗? 聞いたことがあるわ。確か、この間卒業して行った生徒の中に、そんな名前の女の子がいたのを覚えているわ」

 少年の口から出てきた美麗の名前。そして、微かではあるが記憶が残っていた綾香の意識。美麗が一体どうしてここで出てくる名前なのか、よく分からない綾香は、少年の言葉を聞いて理解するしかないと思った。

 綾香は続けた。

「でも、卒業生に対して、どうして私が?」

「先生じゃないとできないことがあると思っているんだよ」

「その前にあなたと、その島田さんとの関係はどういうことになってるの?」

「僕は卒業して、先生を忘れるために、いろいろな女性と付き合ったんだけど、美麗に対しても、付き合ってみようと思ったんだが、彼女は決して僕を受け入れようとしてくれないんだ。でも、彼女の中で苦しみが感じられるのは事実で、何とかしてあげたいと思うようになった。先生のことを忘れるために他の女性と付き合った自分に対しての戒めに、彼女は、僕に対して壁を作っているようにさえ思えたんだ。でも、それは違っていて、美麗を好きになるには、強くならなければいけないって思うようになったんだ。でも、それは自分が強くなることが、彼女の抱えている悩みに対応できないことを気付かせたんだね」

「彼女の悩みって、何なのかしらね?」

「ハッキリは分からないけど、彼女は今、本当に好きでもない人を強引に好きになろうとしているって思うんだ。彼女を見ていると、本人には気付かない思いが、僕に訴えかけるんだ。自分の本当の気持ちを知りたいとね」

「それで、あなたにはどうすることもできず、私を頼りたいと思ったのね。そして私は、あなたの見立てに合格したということになるのね?」

「ええ、そうですね。先生がそばにいてくれることが、力になると思うんです。先生の感情は、まわりから見て力強さを感じさせます。今までは、力強さを内に籠めようとばかりしていたんですね」

 何となく話は分かったが、どうにも漠然としている。

「あなたの気持ちはよく分かったわ。でも、私も自分で確認してみないと、何とも言えないわね。あまりにも漠然としたお話だし、何よりもあなたの目から見た、一方的な感情でしかないからね」

「それは、もちろん、その通りです。だから、先生にも確認してもらいたいと思っています。今度、美麗に一度会ってほしいと思っているんですけど、いいですか?」

 もちろん、それが大前提、会うことなくして、この話は先に進まない。

 綾香にも、学生時代に気になる先生がいた。好きになって、思い切って告白までした。そのまま先生に処女を与えるつもりだったのに、先生は二股を掛けていたのだ。

 付き合い始めて、三か月もした頃、

「ごめん。もう別れよう」

 いきなりの話に青天の霹靂だった。

「えっ、どうしてなの? 私が何か悪いことした?」

「いや、君のせいじゃないんだ。悪いのは僕なんだ」

「どういうことなんですか?」

「いや、実は強引にまわりから見合いをさせられて、結婚させられることになったんだ」

 そういえば、綾香が納得するとでも思ったのか、あまりにも幼稚な言い訳にしか聞こえなかった。

 今まで尊敬していた先生が、ここまで相手を甘く見ている。こんな幼稚な言い訳で、相手を納得させようなんて、バカにするにもほどがある。

 さすがに言われた時は感情的になって、ここまでの発想はできなかったが、話も分かってくると、冷めてくるのもあっという間だった。

――こんなに簡単に、愛情が冷めてくるなんて――

 と思うほど、あっという間だった。

 ここまでくれば、もう相手に対しての愛情などありえない。気持ちの中に容赦はなくなり、学校で、先生のあることないこと、思い切り噂を立ててやった。

 最初は底辺に噂の種を撒いてやればそれでよかった。実に簡単なことだった。噂好きな連中があとは勝手に、たんぽぽの綿毛を、空中に散布してくれる。

 先生は、すぐに学校にいられなくなり、いつの間にかいなくなった。

「本当は、結婚の知らせを皆にもたらして、祝いの言葉をもらいたかったはずなのに、いい気味だわ」

 先生のことだから、人の言葉も鵜呑みにしただろう。

「結婚、おめでとうございます。お幸せに」

 などという言葉、他人から言わせれば、他人の幸せなどどうでもいいことなのだ。それを真に受けて、

「いやぁ、ありがとう。嬉しいですよ」

 などと、有頂天になっているのを見ると、これほど馬鹿げたことはない。そういう人に限って、人を裏切るのも平気なのだろう。

 だからこそ、あんなくだらない言い訳をしたりして、本当にバカみたい。

「まわりが、強引に?」

 それって、自分が優柔不断で、決め切らないから、まわりが決めているだけのことで、自分が情けない人間ですって宣伝しているだけではないか。そんなことを分かっていて、それでも、綾香に別れを切り出したのか、もう少し言いようもあったはずだ。

 復讐されることをまったく考えていなかったのだろう。純情な女を騙すとどうなるか。思い知ったはずだ。

 だが、綾香も最初はスッキリした気持ちだったが、しばらくすると、やってしまったことに対しての良心の呵責に苛まれるようになった。

 良心の呵責は、綾香の精神を少しずつ蝕むようになり、性格が暗くなってしまった。まわりとのかかわりを一切遮断するようになり、精神的に鬱状態に陥った。それが治ってくると、次第に、冷静さだけが意識として残ったのを感じたのである。

 綾香に、義理の父との確執があったのは、その後のことだった。復讐してしまった自分に対してのバツのようなものではないかと思ったが、世の中、そんなにうまくつながっているものなのかと思うと、綾香は意外と自分をそれほど不幸な女ではないと思うようになっていた。

「要するに気持ちの問題なのよね」

 ここまで冷めた考え方ができるようになったのは、喜ばしいことなのか分からないが、綾香には、

「信じるものがあるとすれば、それは自分だけ」

 という思いが、確信として残ったのだった。

 孤独とは思わない。これが自分の発見した真実。そう思うと、人を好きになるのも、違った意味で楽しみであった。

 そういう意味で、この少年が初恋だったと言えるのかも知れない。

 少年には、今まで知り合った人にはない、何かがあった。パッと見たところでは、ただの暗い少年に見えるが、彼は二重人格であった。冷めた部分と、甘えたい部分が同居している。しかも、両極端なその性格を、巧みに操るすべを知っている。もっとも、それを発揮する相手は、自分の気に入った人。それ以外の人の前では、気配すら消して見せることができるのではないか。

 少し買い被りすぎかも知れないが、綾香には、それくらいに感じていた。それくらいの男性でないと、特に年下ということもあって、恋をしたり、自分の処女を与えたりはしなかっただろう。

 彼は約束通り、綾香の前から姿を消した。そして、姿を消されてしまって、本当の自分の気持ちを悟った綾香は、初めて泣いて泣き明かしたのだ。それを思うと、もう一度自分の前に現れて、今度は助けを乞おうとしている少年に対して、自分がどう対応していいのか、迷ってしまった綾香だった。

「精一杯、何とかしてあげたい」

 と思ったが、何をどうしていいのか、とりあえず、冷静になって、彼が自分を頼ってくれた意味を探ってみたのだ。

 少年は、綾香を強くなったと言ってくれた。それまで、いろいろな挫折を味わった綾香は、本当の強さをそこで身に着けたわけではない。復讐を企てたり、逃げ出したりは、決して強くなったわけではないのだろう。本当の強さは、挫折の中から生まれるのではなく、本当の自分を発見することができた時、初めて、生まれるのかも知れない。

 本当の自分、それは、愛とは何かを知った時だったと綾香は思う。そういう意味で、少年との出会いは、綾香を強くしたという意味でも、大きな存在なのは、間違いのないことだ。

「信じるものは自分だけ」

 確かにその通りだ。そして、その自分が信じた相手、それも本物だということを知った。

 綾香は、知ることの大切さを、少年に教えてもらった。逃げてばかりではいけないということに繋がるのだ。

 頑なな自分の気持ちは、氷解していき、次第に、何が大切かを悟るようになる。今自分のまわりにいる人、皆大切なのだと思うようにもなっていた。

 少年は、まず綾香に、自分と美麗の話をし始めた。

 自分は、昔から美麗のことを知っていて、怪しい男の人につけられているのを助けたこともあったと言っていたが、それは自慢しているというよりも、助けたことを後悔しているかのように見えたところが、綾香には気になるところだった。

 美麗とは幼馴染で、自分は、いつも美麗に助けられていたと言っている。そんな自分が美麗を助けたことがあれば、本当なら、自慢の一つもしたいのだろうに、なぜに後悔しているような表情になるのか、理解に苦しんだ。

 ただ、美麗が大人の人をも魅了する力があることを知ってしまったことは、いつも助けられていた少年には、少なからずのショックだったことは間違いないだろう。

「先生と美麗を比較するわけではないんだけど、僕は、先生のような魅力を美麗に感じていたんじゃないかって思うんです。美麗には幸せになってもらいたいとは思うんだけど、その相手は僕じゃないって思うんですよ、でも、今好きになった相手に対して抱いている気持ちがどこまで本当なのか、きっと本人にも分からないことが分かるのが、僕じゃないかって思うんですよ」

 少年も、綾香も、美麗が好きになった相手が、樋口であることを知らない。綾香はもちろん、樋口のことは知っているが、まさか美麗の好きになった相手が、樋口だとは夢にも思っていないようだ。

 少年は、樋口のことを知らないわけではない。綾香が通っていた学校の先生だということは知っているが、それ以上は分からない。最初、美麗が好きになった相手が樋口ではないかとも思ったが、好きになったのなら、すぐにでも行動を起こすだろうと思ったことで、卒業するまで感情を表に出さなかった美麗の好きな人が、樋口であるわけはないと思ったのだ。

「僕は、美麗のことを好きだと思ったことは何度もあります。そのたびに打ち消してきたんだけど、好きになったその時の感情は、その前に好きになった時の気持ちとは違うものなんですよ。それで、僕は本当に美麗のことが好きなのか分からなくなってしまって、結構、これでも悩んだんですよ」

 この子は、本当に純情な子なのだ。最初は、何を考えているか、掴みどころのないことに不安がある、怖さを感じたと言ってもいいだろう。だが、綾香のことを好きになって、忘れるために、一度抱かせてほしいと言った言葉にウソはなかったはずだ。それは身体を重ねた綾香だからこそ分かることだった。

 正直。綾香は今、美麗に対して嫉妬している。

「この子をこれ以上、誘惑しないで」

 と、心の中で訴えていた。

 そして、自分が少年を好きになってしまったことを、綾香に宣言したいと思うようになっていた。そのためにも、美麗に会って、彼女の迷いを解かなければならないと思った。

 しかし、それは逆もありうることだった。

 美麗の中にある迷いを断ち切ることによって、彼女の目が少年に向かないとも限らない。敵を一人作ってしまうことに、自らが加担してしまうということは、まるで、自分で自分の首を絞めるかのようではないか。

 美麗にとって、誰が好きなのかをハッキリさせたい気持ちはあるのだろう。少年に対して、本当に好きな気持ちがあったとすれば、自分に正直になれない気持ちに迷いが生じているのかも知れない。

 そんな美麗に対して、綾香はどうすればいいのだろう? 好きになった相手の切望に答えないわけにはいかないが、それが自分の首を絞める結果になりかねないと分かっている以上、どうすればいいのかなど、分かるはずもない。言い知れぬジレンマに陥ってしまった綾香は、

「先生は本当に強くなった」

 と言ってくれた少年の顔が浮かんできた。

 綾香は、美麗の気持ちがぐらついている思いが分かる気がした。今美麗が好きになっていると思っている相手が、どんな人か分からないが、少年への気持ちも断ちきれない。美麗は美麗なりにジレンマに陥っているのだろう。そして、それを解決したいと思い、行動に移している。それが美麗の性格なのかも知れない。

 美麗は、待ち合わせ場所に最初から来て待っていてくれた。綾香も美麗のことが覚えていた。名前と顔が一致しなかったが、少年の話を聞くうちに、大体のイメージが湧いてくると、卒業生の中にいた女の子を想像し、卒業アルバムまで見てみて、何人かにイメージを絞ったが、その中の一人だったことで、改めて会った瞬間に、美麗の学生時代のことが次第に思い出されてきたのだ。

「綾香先生、お久しぶりです」

 にこやかに笑った美麗は、完全に大人になっていた。学生時代のイメージをそのままの残し、わずかな間にここまで女にしてしまうとは、ひょっとすると、オンナになるための「儀式」を済ませたのではないかと思うのだった。

 美麗の方は、綾香を見て、

――相変わらず、ステキな女性だわ――

 と、なるべく表に出さないようにしていたが、女としてのプライドを掻きたてられた気がした。

 美麗は、学生時代から競争心を煽るようなことはなかった。どちらかというと、

「自分は自分。人は人」

 という考えを持っていて、必要以上に敵対心を持たないようにしていた。

 敵対心がジレンマを生むことを知っていたからで、その思いは、綾香も同じだった。きっと、少し話をしただけで、ジレンマに関してはお互いに共有できる感覚だということを感じるに違いなかった。

「島田美麗さんね。彼から聞いているわ。そういえば、あなた一人?」

 すると、美麗は訝しい表情になり、

「えっ、綾香先生と一緒に来るものだと思っていたんですが」

 と、美麗は少し不安気な表情になった。

「私は、あなたと同伴で来るのかと思っていたわ」

 同伴という言葉を口にして、思わず苦笑したが、美麗がその言葉の意味を知っているかどうか、微妙だった。美麗は相変わらずの表情で、考え込んでいたが、

――なるほど、彼らしいわ――

 少年は、こんな時まで、最高の演出を考えているのかも知れない。まず最初に二人だけにしておいて、後から現れるタイミングを見計らっているのだろう。見えるところにいるか、あるいは、時間で適当に入ってくるつもりなのかも知れない。

 美麗は次第に落ち着きを取り戻してきた。

「来ないものをいくら待っても来ないんだわ」

 と、思っていることだろう。綾香は、美麗は自分の考えと違って、彼はここに現れないんじゃないかと思っていると感じていた。

――それにしても、一体何から話せばいいのだろう?

 この思いは二人とも同じだった。だが、やはり年の功というべきか、経験から言っても、最初に口を開くのは綾香の方であることが自然であろう。

「島田さんは、好きな人がいるって聞いたんだけど、その人に告白はしたの?」

「ええ、一晩一緒にいました。でも、最後の一線は超えていません」

 急に口調が力強くなり、そこまで言うと、呼吸が整わなくなったようで、お冷の入ったコップを口元に持っていくと、半分くらい喉を鳴らしながら飲んでいた。その様子を見ながら、ゆっくり待っている綾香は、美麗がまだ、大人になりきっていないことを感じていた。

 綾香の言葉は、完全に言い訳にしか聞こえなかったが、綾香に対して何を言い訳しているというのだろう。言葉に出すことが彼女にとっての言い訳にしかならないのであれば、必要以上なことは言わなければいいのにと思う。だが、美麗は言わずにはいられないのだろう。

 一つは、会話にならないと、苦しいのは自分だと分かっているからだ。会話にするためには、自分の中に燻っているものを吐きだす必要がある。そのためには、恥かしがっていたり、

「軽蔑されたらどうしよう」

 などという思いを抱いたままでは、どうしようもない。まずは、自分の中で扉を開いて、相手にある程度、手の内を見せるくらいの気持ちに余裕がないと、話にならないと思っているのだった。

 もう一つは、美麗の性格が、話をする上で、重要で、隠しておけないようなことは、最初に言ってしまわなければ気が済まないという考えがあるからである。

「好きなものと嫌いなものと並んでいる時、どっちを最初に食べますか?」

 と聞かれた時とニュアンスは似ている。

 最後まで好きなものを残しておくタイプなのか、それとも、なくなる前に最初に食べてしまうタイプなのかで違ってくる。綾香は、好きなものを先に食べるタイプだが、美麗の場合は違うようだ。

 美麗のように、好きなものを後に取っておくタイプで、先に自分のことを言ってしまわないと我慢できないという人は、ある意味したたかなのではないかと思っている。計算づくで何事も考えてしまう人に多い気がする。

 それは、相手にまず先入観を持たせようと考えることだ。自分を曝け出すことで相手も安心する。しかし、焦ってまで相手に訴えようとする人は、どこか芝居がかっている人もいる。相手に分かってほしいだけなら、そこまで力強く宣言することではないだろう。そこに相手に対して先入観を植え付けようとする意志があるのであれば、大げさな方が効果的であることに違いがないからだ。

 綾香は、美麗の言葉を聞いて、今は、本当に自分がその人のことを好きだという感覚に間違いないようだと思った。ひょっとすると、少年の思い過ごしではないかとも思ったくらいだ。

 だが、綾香にも経験があったが、思い過ごしに気付くには、何かのきっかけが必要だ。一番効果的なのは、好きになった相手本人から、気付かせる何かを引き出すことだが、それはなかなか難しい。しかし、性格がまったく一緒というわけでもない。ましてや、同じ性格だからうまくいくと言うわけでもない中で、お互いに信じあえている間が、一番幸せであろう。

 だが、それもいつ崩れるか分からない。崩れることを前提で付き合う人などいるはずもなく、綾香は美麗の心を静かに見つめることから始めるしかないと思うのだった。

 美麗の心は綾香の中で、まるで万華鏡のように見えていた。綺麗に見えている部分は、すべてが筒の中、少年から植え付けられた先入観が、綾香の発想を狭めてしまう。仕方のないことではあるが、綾香自身、人から先入観を植え付けられたと意識させられるほど、少年の言葉は巧みで、演技力は抜群だったのだろう。

「一晩一緒にいて、どうでした?」

「ええ、一緒にいるだけで幸せな気分になれるんだって、再認識しました。ただ、抱き付いているだけで、彼のぬくもりも感じられたし、私は満足でした」

 頬を赤らめ、美麗は恥じらいの中にいた。

 綾香はその言葉を聞いて、その通りだと思った。感心したと言ってもいいだろう。自分にも経験がある。少年との一晩は、確かにそうだった。だが、決定的な違いがある。綾香は、最初からその時が最後だと思って臨んだ一晩だったことだ。覚悟と、最後には後悔もあった。後悔というのは、一晩限定だということを承諾したことだ。

「あれはウソ、あなたとずっと一緒にいたいわ」

 などと、殊勝なことが言えればどれほど気が楽だろう。綾香にとっての後悔は、人が考えないようなことが多かった。

 綾香は、美麗の顔を見ていて、その時の自分よりは、殊勝であると思った。もっとも、自分の時のように最初から、最初で最後だという覚悟の上で身体を重ねることは、ほとんど稀にしかないことだろう。

「その人は、島田さんを愛してるって言ってくれたの?」

「ええ、最初は少し戸惑っていたようなんですけど、私の目を見ようとしなかったからですね。でも、途中から私の目を見て、ちゃんと愛してくれたので、私も彼に委ねることができたんです」

 思ったよりも落ち着いていたようだ。落ち着いていたというよりも、冷静さの中で、自分をしっかりと見つめることができたということだろう。綾香は、そんな美麗の、「委ねる」という言葉を反芻してみた。

「委ねる」という言葉と、「慕う」という言葉があるが、綾香は「慕う」という言葉の方を使っていた。委ねてしまうと、完全に任せてしまう形になるが、慕うのであれば、全幅の信頼で、決定するのは、自分になるからだ。相手に任せてしまうだけの信頼を相手に持つことが、綾香にはどうしてもできなかった。

 美麗も同じなのだと思うのだが、口から出てきた委ねるという言葉には、身体だけに限定されたものがあったのかも知れない。それであっても綾香には、

「精神と身体は同じレベル」

 という思いがあることから、身体であっても、すべてを任せることができないでいた。

 処女を失った時も同じである。

 綾香は失ったという意識ではなく、与えたと思っている。少し表現はおかしいのかも知れないが、綾香にとって一番似合っている表現だった。

 美麗が委ねる気持ちになったのは、相手から、愛しているという言葉を聞いたからだろう。綾香の場合は逆に、愛しているという言葉を聞くと、気持ちの一部が冷めてしまうように思えた。

「本当はこんなに疑り深い性格は嫌なんだけど」

 と、思いながら、気持ちの中で燻っている感情が、ジレンマを思い出させるのだった。

 綾香は、美麗の気持ちを少しずつ和らげるように話を聞いてみた。必要以上なことは聞かず、それでも、ストレートな聞き方は、相手にプレッシャーを与えるかも知れない。

 もちろん、その時点で、美麗が好きな相手が樋口だと、綾香は知らなかった。だが、自分の知っている人である可能性はかなり高いと思っている。樋口と美麗を、想像の中で並べて比較しても、想像できるものではなかった。

 その日の美麗は、ほとんど寡黙だった。綾香としても、寡黙な相手を問いただした時、、得られるものは何もないと思っていたので、しばらく世間話に花を咲かせた時間帯を持ったくらいだ。

「綾香先生は、学校でもいろいろな人から相談を受けたりしているんでしょうね」

「そうね、カウンセリングができるわけではないんだけど、話しやすいって言ってくれる女の子もいるわね。こんなにズバズバ言う先生なのに、どうしてなのかしらね」

 と、言って綾香が笑うと、美麗も微笑みながら、

「それだけ、ズバズバ言ってくれる人が恋しいと思っている女の子が多いということじゃないんですか? いつも奥歯にものの挟まったような言い方しかしない、腫れ物にでも触るような扱い方をされたんでは、却って疲れますからね」

「そうかも知れないわね。私はこれでも一度、教師になりたいって思ったことがあったのよ、すぐに諦めたけどね。でも、その気持ちは今でも思い出すことがあるわ。きっと慕われたいと思っていたからなのかも知れないわね」

 決して委ねられたいわけではないということを、遠まわしに言ったつもりだった。委ねるということは、それだけ、自分にもリスクがあるわけで、相手と一蓮托生、共倒れの覚悟も必要だということだ。

 美麗から、相談を受けているのではないかと言われて、最初に頭に浮かんだのは、利恵だった。

 利恵は、貧血気味でよく医務室に顔を出していることで、綾香先生とすぐに仲良くなった。

 綾香は利恵のことを、

――この娘も、私と同じような考えを持っている娘だわ。まるで妹みたいな気がする――

 と思ったのはまんざらでもない。

 綾香は、一人っ子で育った。家庭環境に恵まれていたわけではなく、どちらかというと不幸を背負っているかのような人生に、半分嫌気が差していた。姉か妹がいればよかったと思っている。男兄弟はいらなかった。

 男兄弟がいらないと思ったのは、物心ついた頃からだった。その頃から、男というものに対して、人種の違いのようなものを感じていたのだろう。男に近づくのが怖かった時期、気持ち悪いと思った時期、近づいただけで、気絶してしまった時期と、子供の頃は、本当に悲惨だった。

 原因については、本人が決して口にしようとはしなかった。

「私、分からない」

 と、医者の前でもシラを切り、徹底的に誰にも理由は悟られないようにしようと思っていた。それなのに、男の中には、

「俺がついていてあげよう」

 などと、

「人の気も知らないで、何を言うか」

 と思わせる男性も少なくなかった。

 中学に入った頃から、少しずつ気持ち悪さが抜けていき、男性恐怖症が治ったのではないかとさえ思えるほどになったが、やはりそんなに甘いものではない。義理の父親との確執が、綾香にとどめを刺した。

 もし、少年が自分の前に現れなければ、どうなっただろう? 綾香は彼を男として見ていなかった。恐怖症に陥ることのない唯一の男性だった。彼のことを名前で呼んだこともない。本当の名前も知っているのだろうが、意識したことがない。呼ぶ時も、

「あなた」

 と呼ぶが、それは結婚相手に対して呼ぶイメージと似ていた。ある種の感覚が、

「一心同体」

 に近いものがあるのだろう。綾香は彼に対して、必要以上に男性を感じない。

「そうか、必要以上に感じるから苦しいんだ」

 と、今さらなことを感じさせてくれたのも、彼の存在があったからだ。

 彼は、綾香に「強さ」を求めた。それは、綾香の自爆を解き放ちたいという気持ちからだ。自分の力だけではどうにもならない。綾香自身が強くならなければいけない。そのことを、彼は最初に感じたのだ。

 そのおかげで、綾香は彼に男性を感じながら、辛さはなかった。綾香にとって彼は、救いの神でもあったのだ。

 彼が、美麗のことを気に掛けているのは、なぜか心配にはならない。彼が自分以外の女性を意識するとは思えないからだ。

 綾香は、男性を見ることができないと思っていたが、学生時代から、見ようとしなくても、男性のことが分かるようになってきた。何とも皮肉なことである。

 利恵も綾香に対して、

――姉のような気がする――

 という意識を抱いていた。

 綾香が、妹のように思っているよりも、その気持ちは強いかも知れない。

 利恵は、ずっと自分が一人っ子だったことに、疑問を持っていた。利恵の中には、姉がいて、夢の中によく登場していたのだ。

 子供の頃から、時々危ないと思ったことがあっても、気が付けば回避されていたことが何度かあった。

「奇跡のようだけど、誰かの見えない力が働いているみたいね」

 と、言われたこともあったくらいで、確かに利恵にとって、そんな力が働いていたと思ったことがあったのだ。

 もちろん、偶然が重なっただけだろうが、利恵には、時々霊感のようなものが働く時がある。偶然は、その霊感によってもたらされたものなのかも知れない。それでも、利恵には偶然で片づけられないものがあったのだ。

 綾香は、利恵に霊感があることを知っていた。本人から聞いたわけではないが、話を聞いていて、

――この子は霊感の強さを感じる――

 と、思わせることが、たびたびあったのだ。

 また、利恵には、男性を惹きつける何かがあるという意識もあり、自分が望んでいない男性を惹きつけてしまうこともありそうに思えた。

 綾香には、利恵のことは手に取るように分かった。自分のことよりも分かっているのかも知れない。妹のように思えてくるという意識も、分かりすぎるくらいの意識があってのことだった。

 そんな利恵は綾香を慕ってくれている。委ねることがないのは、利恵も綾香の性格を分かっているからだろう。

「お互いにお互いを分かり合っている」

 それが二人の間にある、共有した意識だったのだ。

 綾香のいる医務室に、最初に利恵がやってきたのは、最初に貧血を起こした時だったのだが、貧血の原因が、樋口の視線だった。

 樋口の視線を一番最初に感じたのは、入学式の日だったが、その時は、何も身体に変調はなかった。入学式から一週間ほど経ったある日、急に貧血を起こしたのだ。

 それまで、毎日自分が樋口の視線に晒されていることは意識していたが、気持ち悪いという意識までもなかった。実際に貧血で倒れた日も、樋口の視線を気持ち悪いとまでは感じていなかったのだ。

 それなのに、どうして急に倒れたのだろう?

 貧血は呼吸困難を引き起こす。過呼吸に近いものがあるのだが、その時に、何かの異臭を感じるのだった。アンモニアのような鼻を突く臭いであり、頭の芯に響くものだった。どこから意識を失ったのか分からないが、目の前に無数の線が入り、そこから意識が薄れていった。

 無数の線は、まるで毛細血管を見ているようだった。毛細血管は、視界の中心から、放射状に、まるで蜘蛛の巣が張っているかのように広がっていた。毛細血管を意識すると、目の前が真っ暗になり、激しい頭痛の襲われた。

「助けて」

 声にならない悲鳴をあげるが、それに誰かが気付いたのか、駆け寄って来て。

「大丈夫ですか?」

 と、声を掛けてくれる。

 しかし、すでにその時は、意識は朦朧として、気を失う一歩手前、意識を戻すことなど不可能だ。気が付けば医務室で寝かされていたというのが、最初に綾香のいる医務室で目が覚めた時の意識だった。

 それから何度か起きる貧血も、似たような感覚だった。誰もいないところで意識を失うことが多く、人がいない時の方が、却って意識が長く持てたのではないだろうか。

 綾香は、利恵の話を聞いて、貧血を起こす時に感じる視線がいつも一人だというのが気になっていた。利恵を見ていて、男性を惹きつけるオーラがあると思っていたのに、いつも特定の人だからだ。

――利恵が感じるのは、特定の人の視線だけではないだろうか?

 他の人の視線を感じることがないというのは、彼女が鈍感だというわけではなく、特定のインスピレーションがあってこその、視線を感じる意識だと思ったからである。

 ただ、最近になって、利恵がおかしなことを言い出した。

「今感じている人の視線の後ろに、誰か違う視線を感じるんです」

 利恵は、毎日視線を感じていたが、それが誰の視線かまでは分かっていなかった。そういう意味では、鈍感であった。

「他の人の視線を感じるというのは、延長線上ということ?」

「ええ、他の人の視線を別の角度から感じるというわけではないんですよ。何か不思議な感覚なんです」

 最初は、どういうことか分からなかったが、よく考えてみると、もう一つの視線というのは、自分かも知れないと思った。

 利恵に対して、誰かの視線があるのを感じていたが、どこからの視線か分からない。それで、利恵を見て、向いている先を探ろうとしていたことがあったので、その時の視線を感じたのかも知れないと思った。

――どうしよう? あれは自分だということを言うべきだろうか?

 綾香は悩んだ。話をしてもいいのだが、自分が視線の元々の相手が誰なのか、ハッキリと分かっていないのに、話をしても、却って混乱させるだけではないだろうか。それを思うと、もう少し黙っている方がいいかも知れない。

 しかし、後になればなるほど、言いにくくなる。ただ、それは綾香側の都合で、利恵がどのように思うかを考えると、今は時期尚早ではないかと思えてならなかった。

 一つ、懸念があるのは、利恵が、同じ角度からの視線を感じると言ったことだ。同じ角度からであれば、綾香にも相手が誰なのか分かりそうなのだが、利恵の話をそのまま鵜呑みにすると、利恵が感じている視線は、綾香ではないということになる。すると、その視線は誰なのだろうか?

「利恵ちゃんが感じる、もう一つの視線というのは、貧血が起きる時と、同じ時なのかしら?」

 利恵が感じている視線に、貧血が関係しているとすれば、ひょっとすると、勘違いという可能性もある。あくまで可能性であるが、

「ええ、確かに、貧血の時だと思います」

「だったら、貧血を起こす時の、錯覚なのかも知れないわ。最初の視線が貧血を引き起こして、起こってしまった貧血から、もう一つの視線という錯覚を引き起こす。そういうことだってあるんじゃないかしら?」

――だから、気にすることはないのよ――

 と言いたかったのだが、言葉にできなかった。言葉にできるほど、信憑性や説得力のあるものではないからだ。

「そうなのかも知れませんね。あまり気にしすぎない方がいいのかしら?」

「そうよ、その通り」

 利恵は、自分に言い聞かせるように言ったので、綾香も安心したように、その言葉をなるべく肯定するように、頷いていた。

 綾香も、利恵くらいの頃、つまり高校に入学したての頃に、よく人の視線が気になっていた。

 綾香の場合は、清楚な雰囲気を醸し出す中で、プロポーションが妖艶だったこともあり、そのアンバランスさが、男性の目を惹きつけていた。

「綾香先生は、男の視線をよく感じているはずだよ」

 少年と、愛し合った時、綾香のことをそう言っていた。

「それも、ずっと以前からだと思うんだ」

――この子は、どうしてここまで私のことを分かるのかしら?

 と思ったほどで、そう思えば思うほど、綾香は自分が少年に惹かれていくのを感じていた。

「綾香先生の魅力は、誰もが知っている。でも、その中にある本当の魅力は僕しか感じないのさ。ある意味、皆綾香先生の表に出ている魅力に騙されているのさ」

「あら、騙されているとは、失礼ね」

 綾香は、笑いながら少年を見つめた。その視線は完全に慕う気持ちが籠っていて、それでいて、包み込むような笑顔だった。包み込むような笑顔こそが、綾香の真の笑顔であり、そのことを知っているのも、少年だけに違いない。

 少年は、綾香を抱きしめた。綾香は急に呼吸が困難になるが、ぐっと堪えた。

 少年は決して焦らない。焦ってしまえば、綾香を苦しめるだけだということを分かっている。

「あなたは、本当に女性の身体を熟知しているのね」

 というと、

「そうじゃないさ。相手が綾香先生だから、何でも分かるのさ。きっと他の女性とでは、僕の方がバカにされるくらいじゃないかな? でも、僕はそれでいいのさ。他の女の子のことが少々くらい分かるくらいなら、綾香先生だけでいいから、すべて分かった方がいいに決まってるからね」

「そう言ってくれると嬉しいわ。これが相性というものなのかしらね?」

「相性? 確かにそうかも知れないね。でも、僕はそんな言葉では言い表せないものを持っていると思っているんだよ。きっとそのことを分かる時が来ると思うんだ」

「今じゃ分からないの?」

「綾香先生がそのことを知るのは、僕からの話だけではダメなんだ。他の人から聞かないと、きっと先生は納得しないと思うよ」

 それはどういうことだろう? 少年は続けた。

「綾香先生は、僕を慕ってはくれているけど、委ねようとはしないでしょう? その違いについては、先生もおぼろげに分かっていると思うんだけど、でも、全幅の信頼があっても、全面的に任せているわけではない。その違いが、最後の最後、信じられないところが生まれるのさ。だから、僕の言葉だけでは、信憑性に欠けると思っているはずじゃないかって思うんだよ」

 少年の言葉には、いちいち説得力がある。もちろん、誰であっても、すべてを信じることができないというのは、綾香の中でのポリシーであり、「真実」であった。そのことを、その時に思い知らされたのだ。

 綾香もその時、複数の視線を同時に浴びていた。そのことを少年は分かっているのだ。

「綾香先生が感じている視線に、まったく想像もしていない視線がある。それと同じ気持ちでいる人も、案外先生の身近にいるものさ。今はまだその人は感じていないけど、そのうちに感じるようになるのさ」

 その時の少年の言葉を思い出し、反芻しながら、綾香は、利恵と接していた。

――あの時の言葉は、ここに通じるんだわ――

 と感じた。

 少年が、それ以上何も言わなかったのは、その時に話しても、ピンと来ないだろうという意図があったのかも知れない。ハッキリ理解できない相手に話したとしても、後から思い出して納得することもあれば、却って混乱をきたすこともある。この場合は、前もってあれ以上の話を聞いていたとしても、完全に混乱してしまって、それ以上、意識することはできなかったに違いない。

 ただ、少年は確かに予言したのだ。

「今では分からないけど、近い将来、他の人から教えられて、繋がるのだ」

 と言っていた。

 相手は利恵で、そして近い将来が今ということか。そして利恵という女の子が、まるで自分の歩んできた人生を後から歩んでいるような気がしたのは気のせいであろうか。利恵についての過去もいろいろと聞いてみたが、決してまったく同じというわけでもない。経験という意味では利恵の方が多いかも知れないが、その分、浅いように思えた。ただ、そんな相手だからこそ、惹き合うものがあるのかも知れない。

 相性という言葉だけでは言い表せないものがあると少年は言った。まるで綾香の心の中を見透かしたかのような言い方だった。

 綾香が相性という言葉を口にしたのは、綾香自身も、相性という言葉だけで言い表せるのかどうか、疑問だったからだ。

 だから、それを少年に正してみた。

 少年がどのように答えようとも、綾香は少年を信じている。委ねられない分、慕っている上で、相手の言葉には全幅の信頼を置いている。全幅の信頼を置いているということは、すべての言葉に従うということでもある。

「まるで、主従関係に近いものがあるかも知れないね」

 と、少年は言葉を選ばずに言ったように思えたが、

「先生は失礼なことを僕が言っていると思っている?」

「いいえ、あなたがいうんだから、間違いないわ」

「それこそが、僕に「従」している証拠さ。だから、僕はそんな先生だから、愛することができるのさ」

 この時の少年が言った、

「愛することができる」

 という言葉、気になった。

――ひょっとして、彼は私以外の他の女性を愛することができないと思っているのかしら?

 と感じた。

 彼の言い方はまさしくその通りで、確かに彼が他の女性を愛しているところなど、想像もできなかった。

 そういえば、医療の勉強をしていく中で、男性の性癖についての話があった時、

「男性の中には、一人の女性しか愛することができないと思い込んでいる男性がいます。でも、それはトラウマに支配されているだけで、他の女性も愛することができますが、一人の女性しか愛せないと思っている時、愛される女性は、本当に幸せな気分になっています。そういう意味で、男性のトラウマを解消してあげることが、本当に最善なのかは、難しい判断ですね。医学的、心理学的な分野では、このようなことがいろいろあります。皆さんも、そのあたりをしっかり判断して、立派なお医者さんになってくださいね」

 と、先生が言っていた。心理学という分野にまで発展した話は、聞いていて、なるほどと思った。ただ、まさか綾香は自分が、その当事者になるなどその時は思ってもみなかったのである。

 利恵も信じることができる人が自分の近くにいればいいと思っていた。今まで、信じたいと思っていた人に裏切られたこともあり、たった一度だけの裏切りだったが、そのせい、人というものを信じられなくなった。

 友達はもちろん、肉親も信じられない。むしろ、信じたいという思いが強かっただけに、肉親に対しては、恨みすら浮かぶほどだ。

 人を信用することがどれほど感情の中で薄っぺらいものかを知ってしまった気がした。利恵は、見た目よりもずっとクールである。一度信じられないと思うと、徹底的に嫌悪してしまう。嫌悪していると、気が楽になるからだ。だから、まわりからは、何の感情もないように見えるのだが、それは、感情というものが欠落しているというよりも、

「楽になりたい」

 という、本能がそうさせるのだ。

 表情も豊かではない。嫌な感情が表に出ている時は、人にも分かるのだが、それ以外はほとんどが無表情だ。人に考えを見られたくないというよりも、本当に何も考えていない時の方が多い。

「あの子、一体何を考えているのかしらね」

 と言われて、

「何も考えていないんじゃないの」

 と答える人もいるが、ほとんどは、

――そんなことはないわね――

 と思っているはずなのだが、利恵に関しては、本当に考えていないのだ。いくら、相手の気持ちを読み取ろうとしても、読み取れるはずはないのだ。

 貧血を起こすのは、何も考えていない頭と、実際の気持ちにギャップがある時に起こすものなのかも知れない。

 考えているつもりで、感情が頭の中を覗きに行くと、そこは空洞である。空洞が頭の中に真空状態を作り出しているというのであれば、貧血を起こすのも無理のないことだろう。利恵のそんな性質を分かっている人は、まずいないだろうが、一番近い感情を抱いているのは、綾香である。それでも、もしすべてを分かったとすれば、

「こんな想像を絶するようなこと、ありえないわ」

 と感じるに違いない。

「そういえば」

 貧血で思い出したのは、樋口のことだった。

 ある日を境に、樋口は、貧血を起こすようになったと言っているが、それは今年の入学式が終わったあとからのことである。

「これまでに貧血らしいことは?」

「低血圧なので、たまにあったんですが、今は血圧も正常に戻っているんです。でも、ここ数か月、新入生を迎えたあたりから、特に貧血が激しくなってですね」

 と話していたのは、この間、教員室で急に意識不明になったといって、急遽、医務室に運び込んだ日のことだった。

 綾香も、樋口の顔色が、ここ最近悪いとは思っていたが、綾香の知らないところで、頻繁に貧血を起こしていたとは知らなかった。救急車を呼ぶほどのこともなく、ベンチで座っていれば、しばらくして正気に戻るということなので、本人もさほど気にはしていなかったが、

「でも、やっぱり、気持ちのいいものではないですね」

 と言って苦笑いをしていたが、その表情はスッキリしたものだった。

 その日美麗と何があったかなど、知る由もなかった綾香は、樋口の中にあるジレンマに気付きながら、追及して考える気にはならなかった。

 もし、美麗と樋口の間に何があったか知っていれば、綾香は樋口をどんな目で見ただろう?

 美麗は結局相手が誰なのか、話さなかった。綾香が知っている人物だということは、敢えて名前を口にしなかったことが、暗黙の了解でもあるかのように分かりやすいことだった。

 綾香は、美麗と会ってみて、彼女の中に、自分がいるような気がして仕方がなかった。今気になっている女性二人。利恵と美麗、どちらが自分に近いかというと、利恵の方が近い気がした。しかし、美麗を見ていて放ってはおけない気がするのは、美麗の中に、綾香自身が見えたからだ。

――もし自分なら、美麗のような行動を取るかも知れないわ――

 綾香は、確かにクールな性格だが、利恵ほど感情を押し殺し、一人でいることを自然に感じることなどできないと思っていた。それでも、性格的には似ている。似ているからこそ、貧血で苦しんでいる彼女を放ってはおけない気がしたのだ。

――だけど、利恵は本当に貧血で苦しんでいるのだろうか?

 見た目は苦しそうで、助けてほしいというのが、本人の中の本音であろう。だが、利恵が、貧血を利用して、自分という性格の中に隠れてしまっているように見えて仕方はないのだ。貧血をかつて起こしたことのある綾香は、実際にきつかったこともあって、できるだけ貧血を起こさない環境や精神状態を、どうすれば作れるのかということを、自分なりに模索したものだ。

 利恵が感じている最初の目というのが、樋口だということに、綾香も気づき始めていた。綾香は確かに、人の視線の行き先に関しては、あまり感じる方ではない。だから、

「誰かの視線を感じる」

 と、利恵から言われて、いろいろ見つめていたが、相手が誰だか分からなかった。

 綾香が人の視線に気付かないのは、無意識に、人の視線を、

「恐ろしいものだ」

 と、思っているからだ。

 学生時代に、男性の視線に悩まされたことがあって、無視することで、気にしなくなったのだが、その影響で、視線というものすべてに、恐怖感が残ってしまった。自分では分かっていないのだが、恐怖心は、自分が逃れようとしたことに対しての報復のようなものが存在しているとすれば、一番効果的なのは、相手に悟られずに、恐怖心を植え付けることではないだろうか。克服したと思っていることが、実は恐怖心と背中合わせだったということをいずれ知ることになると、その恐ろしさは、計り知れないに違いない。

 綾香は視線の主が樋口だと知ると、それまで隠れていた恐怖心が頭を擡げてきた。

――一体何に対する恐怖心なのだろう?

 予期せぬ恐怖心の出現で、綾香は恐怖が怯えに変わっていく。それまでまわりを客観的に見ることで、

「自分の冷静な目が、人を助けるんだ」

 とでも思い、綾香の静かな自信にも繋がっていた。

 だが、恐怖心だけではなく怯えにまで繋がってくると、もう人のことを考えている余裕などなくなる。

 それでも容赦なく慕ってくる人はいる。

「そういえば、あの子も私を慕ってくれているんだわ」

 そう思うと、彼の言葉を思い出した。

「綾香先生は強くなったね」

 そう言われて、嬉しくなったのは、ついこの間のことである、一体何が強くなったというのか、逆に怯えから逃れられない自分を目の当たりにして、どうしていいか分からなくなっている。

「彼にどういえばいいのかしら?」

 美麗の相談にも乗ってあげなければならない。

 ただ、美麗の相談の、その相手というのが、樋口である。樋口は。片方の女の子を見つめながら、片方の女の子に言い寄られている。そんな状況を知れば、綾香は、樋口に対して弁明の余地などない人間だと意識してしまうだろう。

 相手が樋口でなかったら、こんな怯えはなかったのかも知れない。自分が相談されている相手二人ともに関わっているなど知る由もない綾香は、樋口に対して、言い知れぬ感情を持っていた。

 男としては男らしさを感じさせる人なのだが、自分が好きになることは、まずありえない相手だと思っていた。

 少年が綾香を訊ねてきたのはそれから三日経ってのことだった。少年との連絡は、綾香からすることはなく、いつも彼が突然現れるのだ。

 突然と言っても、ビックリすることはない。綾香の中では何となく彼が現れるのは分かっている。

「他の人には鈍感なのに、彼のことだけはすぐに分かってしまう。怯えもなければ、ただ慕っているだけ」

 と感じていた。綾香にとって、彼は砂漠の中に見えている、オアシス以外の何者でもないのだろう。

 ただ、逃げ水という言葉があるように、蜃気楼であるかも知れない、いつも頭の中ではその覚悟を持って彼に接している。もちろん、他の男性にはない感覚だ。それが愛に繋がっているかどうか分からない。だが、真実は彼がいつも綾香のそばにいるということだ。

 綾香が次に美麗に会ったのは、最初に会ってから、二週間後だった。

 その時は、美麗の方から連絡があったのだ。連絡があったと言っても、少年を通してであったが、

「美麗が、先生に会いたがっているんだ」

 と言ってやってきた。その時の少年の顔がいつになく神妙だったのを覚えている。

「分かったわ」

 待ち合わせの場所は、郊外の喫茶店だった。駅からは近いので、それほど苦痛はなかったが、知らないところに行くのは抵抗もあったが、新鮮さも感じる。その日は、どちらかというと新鮮さの方が強かった。昨日までの蒸し暑さがウソのようなスッキリとした天気は、梅雨の合間に五月晴れを思い起させるかのようだった。

「ごめんなさい、先生。私、やっぱりあの人のことが忘れられないんです」

「そうなの。私には、何もしてあげられなかったわね」

「いえ、先生には相談に乗ってくださっただけでも感謝しています。きっと、彼も感謝していると思いますよ」

 美麗は、自分が好きな人のことを「あの人」と呼び、少年のことを「彼」と呼ぶ。綾香も少年のことを名前で呼ぶことはないが、美麗もあまり男の人を名前で呼ぶことはないようだ、それは利恵にも言えることで、彼女も、あまり人の名前を肩っているところを見たことがなかった。

 その頃になると、綾香は美麗のことを名前で呼ぶようになった。

「美麗さんが決めたことだから、あまり強くは言わないけど、後悔しないのであれば、それでいいわ」

 何を今さら当たり前のことを言っているのかと、思わず自分で苦笑したほどだった。

「綾香先生、彼のこと、宜しくお願いしますね」

「えっ」

 どうやら、美麗は少年と綾香のことを知っているようだ。少年のことだから、美麗には話したのかも知れない。

 不愉快な気はしない。美麗であれば、別に知られたとしても、嫌な気はしないし、逆に分かってくれている人が身近にいるのは心強い。

「綾香先生は、高校時代の私の憧れでしたからね」

 と言って、ニッコリと笑った。

「私になんて憧れても、何も出ないわよ」

 と、綾香が笑うと、今までに見せたことのない純粋な笑いを美麗は浮かべた。ホッとした気分になったが逆に美麗の表情が少しずつ暗く感じられた。落ち着いた気分になったと思ったが、また、何かを考え始めたようだ。このあたりが、利恵との違いなのだろう。

 綾香が、美麗の笑った顔を見たのは、それが最後だった。

「先生は、死ぬなんてこと考えたことありますか?」

「えっ?」

 いきなり何てこというんだろう? しかし、相手が美麗であれば、このくらいのことを聞かれてもビックリしないというのが本音かも知れない。まさか本気で死んだりなんかするはずもないし、男性と恋愛している時、死について考えたことがある女性は意外と多いものだ。

「私は、死ぬとすれば、一人では死にたくないんですよ。寂しいですからね。でも、死っていうのは、寿命でもない限り、突然訪れたりするものでしょう? 本当はもう少し生きていたいのに、死ななければいけないという感覚ですよね」

「え、ええ」

 本当にこの子は一体何を考えているのだろう。確かに死について考えないこともなかったが、あまり人に話すことではないと思っていた。ひょっとすると、死にたいと思った時、誰かに話したいという衝動に駆られることはあるかも知れないが、本当に話すことはしないと思っていたからだ。

「あなたは、誰かと一緒に死にたいと思っているの?」

「死にたいという感情は置いておいて、自分の運命を自分で決めることができないのは、死ぬことも同じなんだなって、感じると、急に悲しくなったんですよ」

「あなたは、今好きな人と一緒にいれて、幸せなんだって、私は思っていたけど、そうじゃないのかしら?」

「いいえ、私は幸せですよ。でも、その確証がないんです。私は確証がほしいって思っているんですよ」

 今まで大人しかった少女が、愛を手に入れたことによって、欲が出てきたということか。それとも、自分の運命について、考えられる心の余裕ができてきたのか、要するに、先に進んだことで、一つ一つの壁があることに気付いたということなのだろう。綾香にもそういう経験は、過去にあった気がしていた。

「私は死にたいという感情を抱いたわけではないんですよ。死ぬとしたら、どうやって死にたいと感じたかということなんですよ」

 普通であれば、

「何言ってるの。そんなこと言わないでよ」

 と言って、諌めるはずである。

「病気で、生きたいと思っても生きられない人だっているというのに」

 と、まで言ってしまうと角が立つが、もし、美麗が真剣に死にたいと思っているのであれば、そこまで言ったかも知れない。

 死について考えることは、誰にでもあることである。綾香も今までに何度か考えたものだ。仕事上、避けて通れないという意識もあるが、自分のこととして考えた時も、死というものを考えることが、むしろ、前向きなのではないかと思ったこともあった。

 前向きというのは、死を怖がって、最初から目を逸らしてしまうと、他のこともおろそかになってしまいそうに感じたからだ。何も考えずに、

「死を考えることはいけないことなんだ」

 と、勝手に思い込むのは、自分の人生から逃げているのと一緒だと思うからだった。

 死と向かい合わせにあるのは、「生」であり、背中合わせにあるのも、「生」である。それを思うと、美麗の考えていることも分からなくはないが、美麗には、そんなことは考えてほしくないというのが、綾香の考えだった。

「死を考えるなとは言わないけれど、死の裏側にあるのが、生だということも忘れないでよね。死ぬよりも辛いことだってあるかも知れないんだし」

 と、そこまで言うと、美麗の顔が、真っ青になっていた。死ぬよりも生きる方が辛いという言葉に反応したのだろうか。綾香も、

――言い過ぎた――

 と、思ったが、この話題に対して、それ以上でもそれ以下でも、言葉は見つからなかったのだ。

 話題を変えるしかないと思い、違う会話にしたが、美麗はすでに気持ちを切り替えていた。会話は普通の女子大生と変わらぬ笑顔で展開し、

「最初の「死」の話題って、何だったんだろう?」

 と思わせるほどだった。綾香は完全に安心しきっていて、結局その日は、美麗が好きになった男性の話題に入ることはできなかった。

 時間的に二時間ほど話をしていたのだが、あっという間だったように思った。何を話したのか、綾香は、あまり意識の中にはない。それは自分からの話題ではなく、美麗が出した話題がほとんどだったからだ。考えてみれば、完全に美麗のペースに嵌ってしまっていた。

 綾香は、美麗と別れた後、駅まで歩いたが、来た時よりも帰りの方が、遠く感じられた。時間的には夕方で、西日が最後の力を地表に降り注いでいた。

 足元から伸びた影は、足の疲れを誘発するようで、歩きながら、棒のようになった足を地につかせない、根が生えたかのようであった。

 少し熱っぽさも感じた。背中に当たる夕日が、焼けるように熱い。来る時は日中でも爽やかさが残っていたはずなのに、夕方になるだけで、どうしてここまで変わってしまったのか、

「雨でも降るのかしら?」

 綾香は、雨が降るのが分かる時がある。いつも絶えず分かるわけではないが、雨が降る前というのは、必ず頭痛に襲われる。梅雨時期のように毎日雨だと、却って辛さに慣れてしまっているのか、身体のだるさは感じるが、辛さにまで行きつくこともない。楽をしようと思うから、身体が拒否するのではないかと思っていたほど、梅雨の時期は、特別な感情があるのだった。

 駅に着く頃には、額から汗が滲み、身体の奥から逃げられない熱さが、籠ってくるのが分かる。やっと電車に乗ったかと思うと、今度は乾ききらない汗が、冷房に冷え切ってしまい、寒気を伴うようになっていた。

「頭が、ボーっとするわ」

 何かの錯覚でも起こしそうな感覚に、先ほどの美麗を思い出していた。

――死について話していたけど、あの子は一体――

 あまり余計なことを考えると、頭痛がひどくなるのも忘れるほど、考え込んでしまったが、一定の時間を過ぎると、今度は、その反動からか、頭痛に耐えられないほどになっていた。

 意識はいつの間にかなくなっていて、気が付けば、降りる駅の一つ手前の駅に停車していた。

「危ない危ない。もう少しで乗り過ごすところだった」

 と、今度は意識をしっかり持っていたつもりだったが、なぜかまた眠ってしまった。

――いけない――

 と思い飛び起きたが、まだ、降りる駅に着いていなかった。

――一体、どうしてこんなに時間が進むのが遅いのかしら?

 この空間だけ、綾香を中心に時間が回っているのではないかと思わせるほどであった。

 この瞬間のことがしばらく頭から離れなかった綾香だったが、次の日に、学校に行くと、教員室では大きな騒ぎになっていた。

 一人の生徒が行方不明になったということで、親が捜索願いを出していたのだという。

 その時間というのが、どうやら、綾香が昨日、電車に乗って自分の降りる駅に近づいていたあの意識が朦朧とした時間だったという。何か運命的なものを感じた。

 行方不明になった生徒というのは、樋口が担任のクラスの男の子だという。

 男の子は真面目な性格で、地味で、目立たない性格でもあった。後になって、すぐに見つかったのだというが、生徒の説明には、今一つ納得のいく答えは得られなかったという。

 本人は、別に家出をしようとか、自殺を考えていたなどという危険なことではなく、自分が行方不明扱いになっていて、知らないところで騒ぎになっていたことに驚いていたようだ。

 どうして家に連絡しなかったのかと聞かれると、自分がどこにいたのかすら分かっていない様子で、それ以前の問題だったようだ。まるで神隠しにでもあったかのように、その時、本人すら、どこにいたのか意識の中にはなかったのだ。

 その少年は、数日後、やっとほとぼりが冷めたようで、学校に登校してきたが、精神的にも体力的にも、どこか辛いところがあるようで、三時間目が始まる頃には、体調を崩して、医務室に現れた。

「疲れているようなのでビタミン剤をあげるから、これを飲んで、ゆっくり休んでいなさい」

 といつもの調子でいうと、

「ありがとうございます。綾香先生だけが、僕の味方ですね」

 と、意味不明なことを言ったので、

「どういうこと? 敵も味方もないわよ」

 というと、

「だって、僕は綾香先生の夢の中に入ったから、あの日、家に帰れなかったんですよ」

 また不可解な話である。

「どういうことなの? それじゃあ、この間の事件の原因は、私にも責任の一旦があると言いたいの?」

「責任ということを言っているんじゃないんですよ。僕は、綾香先生の夢を覗き見たことが嬉しくて、いろいろ言われても、今はあまり気にしなくなりましたよ」

「私の夢を見たと言うのは、それこそ君の錯覚じゃないの? 人の夢に入ったなんて、本気で思っているの?」

 いつになく、綾香は挑戦的だった。何をふざけたことを言っているのか、あまりにもバカげていることをいうので、綾香は呆れ半分、苛立ちがこみ上げてきた。それは、こんな茶番な話に付き合わなければならない自分に対しての情けなさから来たことだった。

 いつもなら、大人げないということで、もう少し苛立ちを抑えられるのだろうが、この日の綾香は違った。

 バカバカしいと思いながらも、完全に否定することができなかったのだ。話を聞いていて、自分にも思い当たるところがある。バカバカしさで苛立っているのではなく、彼の話を全面的に否定できれば問題ないのだが、否定できる術を持ち合わせていない。綾香はそんな自分を情けなく思うのだった。

 その日、美麗と別れて、綾香の頭は少し混乱していた。美麗の話だけが苛立ちのせいではない。美麗の話を聞いた後、帰りがけに、綾香の言っていた死に対する気持ちをいろいろ考えていた。

――考えなくてもいいことを――

 と思いながら、帰りがけに頭の中で、美麗のことを考えていた。

 すると、美麗が考えていることが、漠然としてだが、分かってきたような気がした。

 綾香が考えている中に、綾香が登場してきた。考えている中に他人が登場するなど、普通であれば考えられない。もし考えられるとすれば、それは夢以外の何者でもないであろう。

――私が美麗の夢の中に入ったのか、私の夢の中に、美麗が入ってきたのか――

 起きていたはずの世界が、急に開けて、そこに美麗が登場した。自分が美麗の夢の中に入ったと思うのが、自然ではないだろうか。

 美麗の夢の中は、確かに綾香の夢の中とは違っているように思えた。

 美麗の夢の中には何もない。あるのは、深緑の広がる、森のようなところだった。

 迷ってしまいそうなところで、すぐ横を見ると、そこには、大きな池が広がっていた。湖と言ってもいいかも知れない。風が通り抜ける音と、軽く打ち付ける水の音、そのどちらも綾香には新鮮な音だった。

「喉が渇いたわ」

 と、思ったのは、水が打ち付ける音を聞いたから。そして、

「流しそうめんが食べたい」

 と、思ったのは、風が通り抜ける音に涼しさを感じたからだ。

 綾香の発想は、食べ物、飲み物に限定されていた。

 綾香が中学生の時、少し思い病気にかかり、食事がほとんど食べれなくなったことがあった。本当は食べたいのだが、食べるのはきつい。

「食べても、きっとすぐに吐き出してしまう」

 という妄想に駆られていて、

「吐き出すくらいなら、お腹なんか減らない方がいい」

 と、思うようになってから、本当に食欲が激減してしまったのだ。

 それなのに、夢の中では、いつも何かを食べている。それはお菓子や軽食に限られるのだが、夢の中であっても、食べられるものが限定されていると思うと、やはり、精神と肉体の関係は、バランスが取れていないといけないということだろう。

 夢の中で不安定であれば、現実でも不安定。夢が現実社会でのバロメーターになっていると言えなくもないかも知れない。

 今では、食事も普通に摂れるようになったが、夢の中では相変わらず、食事がいけないというイメージを持ったままの自分がいる。

 他人の夢の中にいると、普段の自分の夢が思い出せない。しかし、身体だけは覚えているのだ。いくら環境が変わっても、精神的なトラウマと、肉体的なトラウマを排斥できるわけではなかったのだ。

 以前、行方不明になった生徒は、綾香の夢の中に入ったから、帰れなかったと言ったが、本当に自分の夢だったのだろうか?

 あの時の自分は人の夢の中に入っていて、自分の夢を形成できる環境にはなかったはずだ。絶対に彼の思い込みのはずである。

 だが、思い込みだけで、わざわざ聞きにくるだろうか?

「君は私の夢の中に入ったと言ってるけど、そこに私はいたの?」

「いいえ、綾香先生はいませんでした。僕も拍子抜けして、そのまま目を覚まそうかと思ったくらいです。でも、よく見渡してみると、綾香先生が、さっきまでいたというのが分かってくるんですよ」

「じゃあ、私はいないと思ったら、すぐに出て行ったかも知れないわね」

「そうですね。他にも入ってみたい人の夢もありますからね」

 この男は、自分が入れる夢を、コントロールできるというのだろうか。

 彼が入った夢が本当に綾香の夢だったか、本人がそういうだけで、確証はない。綾香は偶然をあまり信じる方ではないので、正直、彼の話を信用していない。だが、彼が今目の前にいるのは事実であり、話をした内容も頭の中から消えるわけではなかった。

 気が付くと、降りる駅に到着していた。タイミングを間違えると、そのまま乗り過ごしてしまいそうになるのを、寸止めで思いとどまった感じである。

 そういえば、顔や目に危険が迫っている場合、必ず回避できているのは不思議だった。

 たとえば、調理をしている時、油が跳ねて、顔の近くに飛んできた時、偶然瞬きをして助かったと思うことがあった。その時は、偶然を信じたが、信じられる偶然は、身に危険が迫った時に、回避できた時だろう。

 電車から降りながら、夢について考えてみた。

「夢というのは、目が覚める寸前の数秒間で見るものらしい」

 という話を聞いたことがある。

 目が覚める過程は、あまり気持ちのいいものではないが、それは夢の世界と、現実を隔てるトンネルを抜けるための試練のようなものであり、次元の違いを感じさせないために、意識を朦朧とさせているのかも知れない。

 一旦夢の世界に入ってしまうと、意志の働く幅が狭められているように思う。狭まった世界では、意志の力は強いもので、自分の夢なのだから、どうにでも展開できるものだと思っていた。

 だが、実際には、意志の強さは中途半端にしか作用しない。潜在意識の中でしか夢は成り立たないと思っているからだ。

「人間は、自力で空を飛ぶことはできない」

 という意識を持っていれば、いくら夢の中だとはいえ、宙に浮くことはできたとしても、空を飛ぶことはできないのだ。

 綾香の夢に出てきた行方不明になった少年、普通であれば夢から覚めてくるにしたがって忘れていくもののはずなのに、忘れるどころか、次第に現実味を帯びて綾香の意識に残っていた、

「どこかで会ったことがあるのかしら?」

 と思うと、今度は、

「いや、ずっとそばにいたような気がする」

 と、思った時、綾香のそばにいて離れることもなく、綾香はそれを幸せだと思っている相手、彼が頭に浮かんできた。

 医務室で眠っていた少年が目を覚ました。

「僕は、綾香先生が慕っている人の弟なんです」

「彼に、私のことを聞いたの?」

「はい、僕たち兄弟は、いつも話をしなくても、感覚で分かるので、中途半端に感覚だけで分かるくらいなら、話をした方がすっきりしていいでしょう?」

 確かにその通りだった。中途半端な想像は、とどまるところを知らず、暴走してしまう可能性があるからだ。

「でも、どうして行方不明になんかなったの?」

「樋口先生を困らせてやろうと思ったからさ。兄貴も加藤先生を困らせてやろうとして同じことをしたんだけど、加藤の性格が変わるわけもなく、それでも、少しは大人しくなったかも知れないね」

「そんなことをする意味があるというの?」

「ええ、樋口先生の場合は、少し危険なところがあるので、効果はあったんじゃないかな?」

「どういうこと?」

「樋口先生を好きになった女の子がいるんだけど、彼女は兄貴に相談したようなんだ。兄貴は、その後、綾香先生に相談にきただろう?」

「美麗ちゃんのこと?」

「そうだよ。彼女は樋口を好きになったと思い込んでいるみたいだけど、途中から違うと思ってきたようなんだ。でも樋口の性格からして、一度好きだと告白してきた女性を手放すわけがない。どんなことをしても繋ぎとめようとするだろうね。今はまだ、そこまで過激なことはないけど、で、僕は樋口に、他の女性を宛がおうと考えたのさ」

「というのは?」

「決して樋口に靡くことのない女性、そして、僕と兄貴の二人がかりであれば、必ず守りきれる女、そんな女性を、やつに仕向けたのさ」

「それは一体?」

「綾香先生も知ってるだろう? 利恵だよ」

 何となく分かった気がしていたが、利恵という女性の神秘的な雰囲気に、決して心の奥を覗かせない雰囲気があったのは、この二人の少年が、いうだけのことはあると感じさせた。

「でも、どうしてそこまで樋口先生を憎むの?」

「憎むというか、僕の兄貴は、子供の頃から、美麗が好きだったんだ。美麗が樋口を好きになった理由はよく分からないけど、樋口には、人に言えない秘密があることに気付いたんだ。それが、学生時代に一人の女の子を蹂躙したことがあって、その女の子は、まだ小学生だったんだ。誰にも言えなくて、最後は自殺してしまったんだけど、ちょうどその頃から、美麗が死について語るようになったんだ。まだ、小学生だった美麗がいきなりだよ? そりゃあ、ビックリしたさ。兄貴の驚きは尋常じゃあなかったからね。樋口は、その少女が死んだことを知らなかった。ちょっとした悪戯心を起こしただけで、女の子が何も言わないことをいいことに、決して近づこうともしなかった。最初は怖がっていたかも知れない、女の子が告発しないかをね。でも、告発しないことで、すぐに忘れてしまった。そんなやつなのさ」

「そんなことがあったんだ。でも、美麗ちゃんがどうして、樋口先生を好きになったのか分からないわね」

「何となくは分かっているんだけど、あまり信憑性のある話ではないからね」

「でも、利恵ちゃんは大丈夫なの? 彼女に樋口先生の魔の手が伸びるということは?」

「それは大丈夫なんだけど、美麗の方は少し心配なんだ。どうやら、一度樋口のところを訪ねて、自分の気持ちを告白したようだ。ただ、その気持ちが本当の美麗のものではないと思うんだけど、樋口という男は、女性を愛する時、自分ではなくなるように思えるから、それが心配なんだ」

「どういうことなの?」

「自分を好きになってくれた女性が目の前に現れると、相手は、自分を好きになったんじゃなくて、自分の中にいるもう一人の自分を好きになったって思うみたいなんだ。だから、女性を愛する時は、本性の自分ではなく、もう一人の自分。つまり、女性から見れば、決して樋口が悪い人には見えない仕掛けになっているのさ。だから怖いんだ」

「本気にさせられるということ?」

「そういうことだね。美麗の場合も、本気になりかかっていたようだ。卒業してから樋口のところに行ったのも、意識の中で、自分を生徒としてではなく、一人の女性として見てほしいと言う意識と、それに、樋口が淫行になることで、自分を愛してくれないんじゃないかって思ったからなんだが、その意識は逆に、淫行になることで、樋口の異常性欲を掻きたてるのが怖かったという気持ちもあるはずさ。要するに、樋口に対しての気持ちには、必ず裏があるということなのかも知れないね」

「でも、やっぱり、利恵ちゃんが気になるわ」

「利恵は大丈夫さ。僕が利恵を愛している以上、危ないことはない。ただ、利恵の中には幼さの中に、妖艶な雰囲気を醸し出すことができる。それは、自分でコントロールができるのさ。もっとも、コントロールできるように仕込んだのは、この僕なんだけどね」

 と言って、彼は怪しげな笑みを浮かべた。

 彼の兄は、綾香を愛していると言ってくれた。しかし、美麗のことも気になっている。綾香の頭は混乱していた。そんな自分に、弟と名乗る彼は、容赦なく自分たちの話を続ける。

――私は利用されたのかしら?

 と思ったが、次の瞬間、

――そんなことはないわ。利用されただけなら、こんな形で事情を説明されるわけはないし、しかも、事情を説明しているのは弟と名乗る男、どういうことなのだろう?

「そういえば、美麗ちゃんは、この間会った時、死について話をしていたんだけど、今から思うと、そっちも気になるわ」

「それはきっと樋口と一緒にいて、死についての意識を思い出すことがあったんだろうね。無意識とはいえ、自分のせいで一人の女の子が死んでいるんだから」

「女の子が死んだということと、あなたたち兄弟の関係は、どこかにあるの?」

「関係はないよ。美麗が好きになった相手を調べていると、樋口にぶち当たった。樋口の過去を調べていると、見つかったのが、女の子を殺したという事実」

「でも、よくあなたたちにそこまで分かったわね」

「それを教えてくれたのは加藤だったのさ。利恵が加藤から聞き出してくれた」

「利恵ちゃんをそんなことのために使ったの?」

「利恵は、僕のいうことなら、何でも聞くからね」

――狂ってる――

 どこまでが真実で、どこからが虚空なのか分からなくなってきた。

「綾香先生が強くなってくれたのが嬉しい」

 と、彼の兄は言ってくれたが、強くならなければ、きっとこんな話、まともには聞けなかっただろう。今もどこまでまともに聞けているか分からないが、少なくとも、理解しようとは思っている。

「利恵ちゃんの貧血というのは?」

「ああ、あれは生まれつきというよりも、育ってきた環境から貧血を起こしやすくなったみたいなんだ。でも、今はある程度なら、自分でコントロールできるようになっているみたいだよ」

「それでも、私にはまだ理解できないのが、どうしてあなたたちが、そこまで樋口先生を憎悪しているのかなのよ」

「加藤には以前、制裁を加えた。やつも同じように女の子を蹂躙した経験を持っているからね、だから今度は樋口なのさ」

「あなたたちは、正義のためにやっているというの?」

「そんな単純なものじゃないさ。でも、復讐というわけでもないかも知れないね」

「復讐も、正義の制裁も許されることじゃないわよ」

「復讐だったら、しょうがない。正義の制裁は、許せないという感情があるからでしょう? 確かに正義の制裁は行う方の勝手な理論でしかないからね。でも、僕たちが行動しないと、誰もしないじゃないか。もっとも、他の人にはできっこないけどね。天命と言えば大げさだけど、それだって、ありなんじゃないかな?」

「なかなか難しい話ね」

「世の中には、表に見えていない部分がたくさんあって、誰もが人に言えない辛さを抱えて生きているのさ。少しでも分かっていることがあれば、何とかしてあげたいと思うのは、僕たちのわがままなのかな?」

「じゃあ、あなたたちが知らないところで起こっていることに対しては、誰が救済するというの?」

「きっと僕たちのような人間は、他にももっといると思うのさ。救済できる人から助けられた人も結構いると思うんだ。これだって、表に出ていないだけなんだけどね」

「それでも、何か不公平な気がするわ」

「そうだね、結局は、潰しても潰しても、どんどん新しい不幸は生まれる。イタチごっこの繰り返しに過ぎないというのは、僕も兄貴も感じていることさ。ただ、兄貴が綾香先生を愛しているのは、本当なんだぜ。それだけは信じてほしいと思うんだ」

 ここまで告白して、もはやウソはないだろう。もし今の言葉がウソなら、すべてがメッキで包まれた話であり、近い将来すべてのメッキが剥がれてしまうに違いないからだ。

 綾香は、今までの話を頭の中で整理してみた。すると、それまで知らなかったことがいろいろ分かってきたような気がした。

 美麗や利恵の過去まで、聞いてもいないことが頭に勝手に浮かんでくるのだ。それは、きっとこの不思議な兄弟の意識が、綾香の頭の中に共鳴したかのようだ。夢を共有している感覚になったのも、きっと、二人の意志が働いているからで、話の内容よりも、共鳴する意志の強さのおかげで、綾香も二人の気持ちが次第に分かってくるのだった。

――私は、洗脳されてしまったのかしら?

 利恵が、この少年のいいなりになっているのは、洗脳されたからなのかも知れない。ただ、利恵はまだ高校一年生だ。意志の力だけで従わせるのは、難しいかも知れない。

――身体の関係も否定できないわ――

 と思うと、思わず、顔をしかめてしまうような想像をしてしまう。

 そうなってしまうと、綾香は、また二人に疑問を持ってしまうのだ。

――一人の女の子の人生を蹂躙しているのは、あなたたち二人じゃないの?

 と言いたくなってくる。

 ただ、頭の中にある利恵の過去を考えると、目の前の少年が、「救世主」だと言っても過言ではない気がする。もしそうであれば、一体どうなるのだろう?

――一人の人間が不幸だという考え方は、考えている人の勝手な思い込み以外の何者でもないかも知れない――

 勝手な思い込みは、その人にとって大きなお世話であって、

「余計な詮索しないで」

 と、言われてしまえば、それ以上深入りできなくなってしまう。

 しかし、利恵に関しては深入りしなくては、この少年の話を理解することができなくなる。深入りするためには、余計な詮索をしてはいけない。何も考えず、少年の話を聞く時間を持つ必要があるのかも知れない。

「綾香先生だったら、分かってくれると思って話をしているんだよ。兄貴は、綾香先生は分かってくれていると思っているようだしね」

「お兄さんとは、こんな話、まったくしていないわよ」

 というと、少年はそれを聞くと、軽く微笑んで、

「話さなくても分かるのが、兄貴と先生の関係でしょう?」

 と言われて、綾香の顔がカッと熱くなり、紅潮していることを、この少年が見逃すはずはなかった。

「どうやら、見抜かれているようね」

 もう、観念するしかなかった。この少年に隠し事はまったくの不要である。

「綾香先生と、兄貴の関係は本当に羨ましいよ」

「あなただって、利恵ちゃんと、同じような関係になれるのよ」

 というと、少年の口元が、

――困った――

 という風に歪んだように見えた。この少年が初めて戸惑いを見せた証拠である。

――この子、冷静に話しているようだけど、利恵ちゃんに対しての気持ちを自分の中で整理できないということがネックになっているようだわ――

 と感じた。

――この子も、普通の少年なのね――

 と思うと、急に今まで話していたことが信憑性を帯びて感じられるようになっていた。それだけ、綾香は二人のことを理解できてきたのだと思ったのだ。

 この少年は、やはりお兄さんに似ていると思った。しかし、違うところも綾香にはハッキリと分かってきた。

 果たしてこの少年がお兄さんとの違いをどこまで理解できているか分からないが、理解できていないところが二人の特徴であって、今の計画も無難に進行できているのだと思えた。

「私、やっとあなたたちのことがよく分かってきたわ」

 というと、少年は複雑な表情になり、その言葉に対して、返事ができないようだった。

「実は僕、今話をしている中で、綾香先生の過去に何があったんだろうって、いろいろ想像していたんだけど、結局できなかった。利恵の時にはちゃんと想像できて、話をすれば、ほとんど合っていたので、利恵は、その時から、僕の心の中の人になったんだよ。ただ、当の利恵は自分の考えはしっかり持っていると思うんだ。そこが洗脳しているという感覚とは少し違っているかも知れないけどね」

「心まで支配できるということ?」

「そうだね、そこまで大それたことは思わなかったけど、少なくとも、僕にとっての利恵が確立されたと思ったのは間違いないんだ」

「それであなたは満足だった?」

「……」

 少年は黙り込んでしまった。どうやら、主導権が移りかけているようだった。

 少年にとって、こんなことは初めてであろう。自分が握ったはずの主導権を相手に奪われてしまったのだから、相当動揺しているに違いない。

 ここで一気呵成に形勢逆転を狙ってもいいと思ったが、ここでの形勢逆転には、何の意味もない。ただ自分の立場だけを考えての形勢逆転は、愚の骨頂でしかないからだ。

「先生、先生は本当に兄貴が愛した女性だけのことはあるよ。僕も先生を慕いたいって思うようになったくらいさ」

「何言ってるの。あなたには、利恵ちゃんがいるでしょう?」

「利恵か。確かにそうだね。僕も利恵に対しては、もう少し見方を変えた方がいいのかも知れないな」

「違うわよ」

「違う?」

「ええ、見方を変える必要なんてないのよ。あなたの見方は間違っていない。ただ、あなたを見つめる利恵ちゃんの方を、何とかしてあげないといけないと思うのよね。あなたが、見方を変えても、決して利恵ちゃんのあなたへの視線が変わることはないからね」

「……」

 少年は考え込んでしまった。

「僕は、利恵を利用したことでの罪の意識はあったんだ。でも、利恵があまりにも何も僕に対して求めてこないので、僕は、その考えに甘えていたのかも知れない」

「でしょう? だから、利恵ちゃんの方の視線に問題があるのよ。それには、まずあなたが、利恵ちゃんのことを分かってあげようとしないといけないのよ」

 少年の顔に少しゆとりが見られた。

「確かにそうだね。綾香先生と話をして本当によかった」

「私も、あなたたちの考えていることを全面的に賛成できるわけではないけど、あなたたちの気持ちを一番分かっていると思ってほしいの。美麗、利恵と二人の女の子を巻き込んでしまったのは事実なので、私もあなたたちの考え方を少しでも分かるようにして、最善の方法を考えるようにするわ」

「僕たちは、決して特殊な能力を持っていると思っているわけではないんですよ。ただ、他の人と少しだけ考え方を変えるだけで、見えていなかったものが見えてきたり、見えると思うことが、天命に繋がると思っているんですよ」

 少年の顔が真っ赤になっていた。

――この子の本当の顔は、これなのかも知れないわ――

 と思っていると、

――以前に、どこかで会ったことがある顔だわ――

 と思うようになっていた。だが、少年は覚えていないようだ。もし分かっていれば、口にしているからだ。

 綾香は、少年と話していて、ずっと上を見上げていたように思っていたが、初めて、上から見つめているように思えた。形勢逆転ではないが、上から見つめることができたことは、よかったと思っている。

 少年は、すでに綾香を慕っていた。その表情から綾香は、その向こうに見えている利恵の面影を感じることができるようになっていた。

 利恵の過去に何があったのかということまでは分からないが、綾香の過去と似たところがあり、記憶を共有できる唯一の相手ではないかとまで思えるようになっていた。

――利恵は今、どうしているんだろう?

 と、思うと、次第に不安な気持ちを拭い去ることができなくなっていた。

 元々、利恵に対しては。不安を感じていた。どこか危なっかしくて、誰かが見ていないと、どうにかなってしまう性格を秘めていたからだ。

 それをコントロールしているのが、目の前にいるこの少年。しっかりしているようだが、まだ頼りないところがある。綾香は、そこに不安を感じていた。

 利恵は、もし少年に見放されたら、どうなるだろう?

 考えるのも恐ろしいが、今感じている人の中で、一番脆いのが利恵であるのは間違いない。

「本当に、ちゃんと利恵ちゃんを見ていないといけないわよ」

 自分でも表情がこわばっているのが分かった。

「はい」

 少年は、それ以上の言葉は言わない。さっきまであれだけ饒舌だった人間が、ここまで変わるものであろうか。

「先生、本当にありがとう」

 医務室での会話は、短いものだったが、感覚としては、数時間は一緒にいた気がした。それだけ、中身の濃い話だったのは間違いない。

 綾香は、少年との話の中で、樋口と加藤は似た種類の人間なのかも知れないと思った。だが、その中でも樋口は、まだ救いようがあるように思えていた。美麗が死を口にしたのは、自分が死を意識したからではない。樋口の中に死というものを感じたからだ。それは、後悔の念をずっと持ち続け、死を意識してきたからだろう。美麗はその意識を感じた上で、樋口を好きになったようだ。美麗には、何か覚悟があるのかも知れない。それを少年たちも分かった上で、美麗を守りたいと思ったのだろう。

 彼が、綾香を美麗に会せたのは、好きになった相手と別れさせようという意志があってのことだと思っていたが、そうではないようだ。美麗が死というものを悟っていることで、今まで好きだと思っていた感覚が、別のものに変わっていくことを分かったが、どうしても男である自分たちには分からないことがあるため、綾香に確認してもらいたいという気持ちがあったからだと思っている。

 樋口が死を意識しているのは、本当に死にたいと思っているからではない。自分の人生に諦めを感じていて、最終的なものとしての死を感じているのだ。

 人生の諦めが、すべてを投げやりにしてしまう。樋口は、自分の目の前で救えなかったものをいくつも感じていた。自分が悪いわけではないのに、理不尽なこともいっぱいあった。

 樋口には、人の人生を見ることができる能力があるようだ。過去にあったトラウマなどが見えてくる。それが理不尽であれば、まるで自分のことのように抱え込んでしまって、世の中の理不尽さを、まるで自分のせいだとまで思えてくる「損な性格」であった。

 教師になったくせに、人と関わるのが嫌なのだ。冷静でいることで、人から好かれないようにしようと思っていたのに、美麗が来てくれたことで、人生が変わって見えるようになった。

 利恵のことを好きになったというのも、美麗が来てくれることを予期できたからなのかも知れない。それまで感じたことのない思いを抱くようになり、それまで見ているのに記憶になかったことが、ドッと押し寄せてきた気がした。

 ただ、美麗が現れることは分かっていたはずなのに、実際に美麗が自分に対して示した態度を予知することができなかった。今まで手に取るように分かっていたことが分からないと、焦ってくるもので、利恵のことを意識し始めたとすれば、美麗を抱きしめた時だったのかも知れない。それだけ時系列の上でも、樋口の頭は混乱していたのだ。

 樋口が喫茶店で見た絵も、以前にどこかで見ていて、絵の中に誰かを当て嵌めたことで、絵に対しての意識が残ったのかも知れない。樋口は、人の人生を見た中で、それを目の前に見えるものに当て嵌めてしまおうとするくせを持っていた。もし、目の前の光景に当て嵌められなければ、当て嵌められるまで意識の中に残っていて、ちょうどいい光景が見つかると、一気に意識を押し込め、そのまま記憶の中に封印していたようだ。

 封印されたものを見ることをできる人など、どこにもいない。それは、樋口自身の意識の中に、封印していることすらないからだ。

 人の人生を見てしまい、自分の中でトラウマとして残ってしまったことで、意識は消えてしまうと思っていた。だから、逆にトラウマを消すことなど、できるはずはないと思ったのだ。トラウマを消すには、一度記憶の中にあるものを、意識の中に戻してからゆっくりと瓦解していかないとダメだからである。要するに、記憶の元から断たないとダメなのである。

 理屈は分かっているのだが、それが簡単にできるくらいなら、苦労はしない。いろいろ考えた中で気がついたのが、死への意識だった。

 死というものが人生の最終結末だということであれば、分かってしまった人の人生の死について考えを及ぼさないといけないと考えた。その思いに共鳴したのが、美麗だったのだ。

 美麗は、在学中から樋口のことを意識していたのだが、近づきがたい存在だった。理由は分からないが、近づくことに危険を感じた。美麗のような女の子は、危険を冒してまで、好きかどうか分からない相手に近づくことはしない。本当に好きになった相手でないと、気持ちを開かないというのが、美麗の気持ちだった。

 樋口は、学生時代の美麗に意識がなかったわけではない。美麗の人生がまったく見えなかったからだ。

 美麗のことをずっと思っていたわけではない。樋口が相手の人生を見れることに気付くのは一瞬だからである。一瞬見ただけで、その人の人生を見ることができると思うと、さらに相手を見つめようとする。

「見たくないものを見てしまった」

 そんな思いを何度したことだろう。だが、相手の人生を見ることができることに気付くと、見てしまわないわけにはいかないのだ。

「もし、自殺などを考えていたら、どうしよう?」

 と思うからで、そう簡単に自殺など考える人ばかりではないと思いながらも、感じてしまうのは、相手の気持ちを見ることができると分かって、最後まで見てあげないことは、相手に対して失礼だと思うからであった。

 もちろん、全員が全員見えてくるわけではない。中にはあまりにも頑なで、見ることができない人もいる。だが、そんな人は見ていてすぐに分かるのだ。そう、最近であれば、綾香先生などがその最たる例で、

「あの人は、人を受け入れない何かがあるんだ」

 と思ったのだ。

 だが、実際には違っていた。綾香には、少年たちや美麗のように、慕ってくる人が多い。それだけ、まわりに自分を解放しているから、皆が慕ってくるのだ。ということは、樋口の能力は、自分を隠そうとしている人の人生は見えるが、オープンにしている人を見ることができない。その人たちは樋口の死角に入っているからなのか、それとも、灯台下暗し、つまり目の前に見えているものが一番目につきにくいという心理の錯覚によるものなのかのどちらかであろう。

 樋口は、一度自殺を試みたことがあった。もちろん、未遂に終わったのだが、その時に死に切れなかったことがさらなるトラウマを生んだことも事実だ。しかし死に切れなかったことが樋口の意識しないところで間接的に、人が死ぬことになったのを、樋口は知っていた。

 樋口が自殺を試みた時、助けようとして、電車に飛び込む結果になった人がいたことだった。

 亡くなった人の知り合いは、

「あの人が自殺するなんて」

「人を助けることはあっても、自分から死のうなんて絶対にしない人なのに、どうしてなのかしら?」

 という話が聞かれた。

 だが、彼らのほとんどが、数日経つと、すぐに彼のことを忘れてしまっている。その時に、気持ちが締め付けられるような気がした。まるで、自分が死んでしまって、まわりの人がどう思うかを見たような気がしたからだ。

「僕が死ねばよかったんだ」

 しかし、人間、そう何度も死ぬ勇気など持てるものではない。それよりも、死という事実を受け止めて、一生生きていくという道を選んだのだ。

 美麗は、そんな意識を持った樋口に惹かれた。死を意識しているとは分かっていたが、違う意味での死であることには、気付かないでいた。だが、樋口と一緒にいることで、次第に樋口の気持ちが分かってきた。樋口の中にある、自分では意識していない罪の意識も理解できた。

 そのおかげで、好きだという気持ちとは違うものが自分にあるのに気付いたのだが、それを少年に話すことはしなかった。あくまでも、自分と樋口の間の問題だと思ったからであろう。

 綾香は、美麗と話をしていて、なかなかそこまで理解はできなかった。綾香は、理解などできなくてもいいように思えた。美麗の目が、

「分かってもらう必要はないのよ」

 と、訴えていたのだ。

 それは、

「あなたには分からないでしょう?」

 という挑戦的なものではない。分からないことを、無理して分かる必要はないという気持ちだった。

 言葉にしてしまえば、至極当然のことであるが、捉えようによっては、いろいろな側面から見ることができる。言葉の抑揚のような強弱を、いかに感じるかが肝心なことであるからだ。ここでは、かなり軽い方の意識が、美麗の中に働いていた。綾香になら、汲み取ってもらえると、思ったからだろう。

 美麗の性格であれば、自分を分かってくれる人でなければ、説明するだけ無駄だと思っている。そういう意味では少なくとも綾香に対して信頼感を抱いていたことは間違いないだろう。

 樋口が少年の言ったように、学生時代、一人の女の子を蹂躙して、その女の子が死んだというのは、本当なのだろうか?

 実は、樋口は一度だけ、前後不覚に陥る発作を起こしたことがある。人の人生を見すぎてしまい、その意識が記憶のキャパを超えてしまい、無意識の行動に出たのだ。

 樋口には、今でも意識がない。自殺を試みたのは、それが原因だったのだが、その後に自分を助けようとして死んでしまった人間の意識が強すぎたからだ。ただ、意識の中では、立て続けに自分の存在が人を死に追いやったという気持ちだけはあった。幸か不幸か、そのことを知っている人は自分以外はいなかったが、そのことが、樋口をさらに死の意識に導いたのである。

 死ぬ勇気もないくせに、死だけを意識しているうちに、普段、何も考えないようになっていった。考えるとしても、それは意識の中から出てくることはない。行動するには意識が身体に伝達を与えないと生まれてこないものが必要だ。感覚がマヒしてくるのは、逃げの気持ちも、怖い気持ちも超越したものがあるからなのかも知れない。

 気力がなくなるところまで憔悴するというのは、なかなかないことだ。ものぐさな意識が働いているからだという自己嫌悪を抱く中で、樋口は人と関わらないことを意識しなくても、何も感じなくなっていた。

 そのくせ人恋しいと思うことがある。何と勝手なものなのだろう。孤独を好きだと思っていながら、人恋しさは、女性に対してだけだった。男性に対しては、何も感じなかったのだ。

 女性に対しても、何も感じない時がある。それは鬱状態に入る直前のことだった。

 鬱状態に入り込むと、男性であっても女性であっても、受け付けなくなる。人が近寄ってくるだけで、嘔吐を催し、露骨に嫌な顔をしているかも知れない。そんな時に限って今まで知らなかった女性が近寄ってくる。何とも皮肉なものだった。

 前後不覚に陥ったのも、そんな時だった。

 鬱状態に入ることが予感できた時、目の前の世界が、黄色掛かって見え、精神的な焦りからか、身体から汗が滲み出ているのが分かるのだ。

 過呼吸になり、胸を掻き毟りたくなるような衝動に駆られるのに、

「倒れてはいけない」

 という意志が強く働いていて、強すぎる意志が、普段の人恋しさの中で妄想していた、

――自分を慕う女の子――

 のイメージを勝手に作り上げ、目の前にいる女の子を蹂躙しても許されるという身勝手な錯覚に陥らせてしまった。

 ちょうどその時目の前にいた女の子が、樋口の中で、

――永遠の理想の女性――

 として、記憶の中に残ってしまったのだ。

 その時に彼女の後ろに広がっていた光景が、深緑に満ちた、視界いっぱいに広がる中で、大きすぎる池のほとりにいることを意識していた。

 時々、そのことを思い出させる。しかも、壁に掛かっている絵を見かけると、まったく違った絵が掛かっていても、意識している光景に見えてくるから不思議だった。

「どこかで見たことのある光景だ」

 と感じるのは、そういうことだったのだ。

 樋口のそんな意識を、美麗は共有しているようだった。

 樋口の苦しみを分かっているつもりになっていた美麗だが、どこまで分かっているのか、実際には分からない。半分は分かっているつもりだったが、先が見えてこないのだ。完全にベールに包まれた部分が、まだ樋口には存在しているようだった。

 さすがに、人を死に陥れたことがあるなど、美麗に分かるはずがない。ただ、大きな池の周りに広がる広大な森が、彼の意識にどういう影響を与えているかまで分かっていない美麗には、自分が中途半端な立場にいることを分かっていながら、その気持ちに耐えるだけの強さを持たなければいけないことは分かっていた。

 綾香と話をして、綾香が自分に足りない強さを兼ね備えているのを感じた。綾香を慕いたい気持ちになったのは、他の人たちとは少し違った意識があったが、その気持ちを整理することが、樋口に近づく最善の方法に思えたのだ。

 樋口の中にもう一人誰か女性がいることは、すぐに分かった。元々孤独な樋口に人の気配があれば、すぐに分かることである。きっと美麗に限ったことではなく、他の人にも樋口の目が誰かに向いていることに気付いている人はいるに違いない。

 その相手である利恵も、かつて辛いことがあり、今は復讐の手段に使われようとしている。しかも、彼女には意志の力が働いているわけではなく、弟少年の「いいなり」になっているという他人には到底理解できない立場を持った女性であった。

 利恵とは、本当に感情の通っていない操り人形のような女性なのだろうか?

 利恵のことを詳しく知っている人はあまりいない。ただでさえ存在を感じさせない女性である。

 それはまるで暗黒の星のようだった。

 昔天文学者が創造した星の中に、まったく光を発しない星というのがあった。

「星というのは、自らが光を発するか、あるいは反射させて光を発するものだが、まったく光を発しない星があるという。つまり、近くにいても分からない。そばにいてもぶつかるまでは分からないという恐ろしい星の存在だ。これは本当に恐ろしい。いつぶつかって、自分がこの世から消滅してしまうか分からないんだからね」

 この話は、現実世界にも言えることである。そんな人がそばにいると考えただけで恐ろしい気持ちになるというものだ。

 利恵のことを考えると、この星のことを思い出してしまう。この星の話をしてくれたのが兄少年だというのも皮肉なことだろうか。

 兄少年がこの話をしてくれたのは、綾香が初めて抱かれた時だった。頭を下げてお願いしていたのに、抱いてしまうと、急に態度が大きくなった。

――女が抱かれた相手に対して皆が皆従順になると思ったら、大きな間違いよ――

 とばかりに兄少年を何度睨み返したことか。そのたびに少年は余裕の笑顔を返してくる。それがまた悔しかったりするのだ。

 兄少年は、弟が一人の女性を自分の言いなりにしているのを知っているのだろうか。知らないわけはないだろう。だが普段の様子から見て、そんな肉親を許せる性格ではないように思える。

 そういえば、彼が言っていた言葉があった。

「人に従うことが幸せになることもあるんだよ。人から見れば拘束されていると思っても、それが本人の意志であれば、その人にとって決して不幸ではないということだね」

 おかしなことを言う人だと思った。会話に何の脈絡もなく口から出た言葉だったが、必要以上のことは聞かなかった。それは綾香のことを言っているからだと思ったからだ。

 だが、きっと利恵のことを言っていたのだろう。

「大人しいと思っていても、鎖でつないでいないと、まったく別人のようになって、感情をあらわにする人もいるからね」

 とも言っていた。

 綾香の近くにも、そんな人が確かにいた。普段は、冷静沈着で、冷静な判断力に敬意を表し、誰からもその人の考え方を否定されることはなかったのだが、ある時、急にタガが外れて、イライラを爆発させる人がいた。その時は完全に瞬間湯沸かし器である。

 だが、利恵の爆発はイライラが高じて爆発するのではない。どこか計算高いところがあるに違いない。そうでなければ利恵のような落ち着いた女性が、一人の男性の言いなりになるはずはない、どこかに、彼女の中の打算が顔を出しているのだろう。

 樋口が、利恵を見て一目惚れをしたと、弟少年は言っていた。一目惚れなどするはずのない人間だと樋口は思われているようだが、どうしてそんなことが分かるのか不思議だった。

 綾香も一目惚れなどしないタイプだが、一目惚れをしない理由にはいくつかある。

「もっといい人が現れるんじゃないか?」

 という思いがある人だ。貪欲というわけではなく、むしろその逆である。恋愛をあまりしたことのない人間にありうることだろう。

「贅沢を言ってると、逃げられるぞ」

 と、言われてもピンと来ない。恋愛に慣れている人は、それだけ女性を見てきている。そして自分のこともそれまでの恋愛でよく分かってきているだろう。だからこそ、

「これ以上の人が僕の前に現れることなんかないんだ」

 と思うのだ。

 特に一目惚れをしたことのある人は、一目惚れという経験を実に貴重なものだという。

「いくら惚れっぽい人でも、一目見ただけで好きになるなんて、稀なケースだと思うよ。だから余計に舞い上がってしまって、自分の目が本当に正しかったのかどうか、疑いたくなるのさ」

 一目惚れをした人は、まわりから見ているとすぐに分かる、どんなに隠そうとしても、舞い上がった気持ちがオーラとなって表に放出されるのだ、

 樋口の場合も、見る人が見れば一目瞭然だった。だが、利恵も樋口を好きだというオーラがあり、相思相愛に見えた。それは利恵の計算ずくだったというのだろうか。

 冷静な利恵は、作り上げられたものだとは思いたくない。

――人間が他の人間の性格を作り上げる――

 それが恋愛感情であっても、怖い気がした。特に弟少年を見ていると、完全に服従させているという雰囲気にしか見えない。

――まさか、利恵には最初から性格の欠如が見られたのだろうか?

 性格の欠如、そこには何らかの力が働いている。その力は、綾香にも樋口にも分からない世界であった。

 二人の兄弟の出現は、綾香にとって、今まで抱えていたトラウマを解消するものだった。そして、美麗、利恵という二人の女性を解放するものなのかも知れない。

 利恵に対しては、弟少年のいいなり状態であったが、これが利恵にとっての幸福なのかも知れないと思うようになっていた。

 綾香は、兄少年と愛し合うことで、自分のトラウマが解消でき、美麗の気持ちの中にある樋口への気持ちを、一度リセットさせた。

「もし、美麗ちゃんが、もう一度樋口先生を好きになったりしたら、どうします?」

「それはそれでいいのさ。美麗に気付かせてあげられればそれでいいんだからね。でも、僕は二人の間には二度と恋愛感情など浮かんでこないような気がするんだよ。浮かんでくるとすれば、それは、この世界ではないということかも知れないね」

 そう言いながら、少年は、綾香の手を取るようにして、樋口の通勤路に差し掛かった。樋口は必死に誰かを探しているようだった。

――美麗を探しているのだろうか?

 と思っていたが、そうではない。いつもの交差点で、ウロウロしている樋口に、美麗が通りかかった。

 交差点で二人はすれ違ったが、美麗だけが一瞬後ろを振り返ろうとしたが、すぐにやめた。樋口は、まったく美麗の姿が目に入っていない。

 美麗は二度と振り返ることなく、前を向いて歩き始めた。その顔には、今まで感じたことのない、爽やかな表情が満ち溢れていた。

 兄少年の満足そうな笑顔、

「先生、これで僕はやっと先生を愛することができる身体になったんだよ」

 と言って、綾香を見つめた。その表情は、強迫観念に包まれている樋口とはまったく対照的だった。

「先生、美麗の顔を見てごらん。あれが本当の美麗の表情なんだよ。そして、綾香先生の今の表情も本当の顔なのさ。僕が保証する」

 そう言って、少年はさらに綾香の手を引っ張って、先ほど、樋口と美麗がすれ違った交差点の中に、消えて行ったのだった……。


                 (  完  )

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幻影少年 森本 晃次 @kakku

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