第2話 ロボット研究員
三人は卒業すると、早苗は地元大手の百貨店に入社、千尋は親戚の経営しているホテルに就職した。二人とも自分のやりたかったことではないと言っていたが、本当にやりたかったことが何なのか、大学四年間で決められなかったので、就職できただけでもよかったとして、納得していた。
真田はというと、大学の研究室に残り、ロボット工学の研究をしていた。この世界の大学では、入学した時に専攻しようと思っていたことでも、途中で専攻を変えて、一定の試験に合格することで進路を変えることができる制度ができていた。
大学四年間で自分のやりたいことを決めることができなかった人もいれば、早々と決めることができて、そこに向かって進んでいる人もいた。
大学というところはそのとちらかに進路は決まるのだが、それでも四年間で自分のやりたいことを決めきれなかった人の方が圧倒的に多い。真田のような学生はレアだと言ってもいいだろう。
それだけに、真田はロボット工学の研究者からも信用されている。
途中で進路を変えた人を見て、元々から決めていた進路を進んでいる人から見れば、
「なんだあいつ、途中から入ってきやがって」
と、まるでよそ者扱いされる風潮が考えられるが、大学生に限って言えば、そんなことはなかった。
よそ者扱いする連中というのは、彼らの立場は最初から確立されていて、別に自分の努力で手に入れたものでない人なのではないだろうか。
彼らには自分に自信がないのだ。
自分の力ではなく、他力で手に入れた立場や力であれば、他の人の手によって、簡単に崩されてしまう可能性があるから、よそ者意識が強い。
しかし、自分の力によって手に入れたものであれば、そこには揺らぐことのない自信が漲っている。それを考えると、大学というところは、甘い考えの連中が多いように見られるが、すべてにおいて自分の力がなければ手に入れることのできないものである。集団意識に目を塞がれてしまうと、せっかく自信を持って入学してきた大学で、持っていた自信を失い、まわりに怖さしかなくなってしまう人間になってしまう危険性もある。そういう意味では真田という男、それだけでも尊敬に値する男ではないだろうか。最初から進路を確立させて入ってきた自信に満ち溢れた連中には、そんな真田の性格も考え方も見えているに違いない。ライバルとして見てはいるが、おかしな嫉妬や偏見など、そこには存在しない。
「真田さんの研究レポート、読ませていただきました。私の意見とは少し違っているようでしたので、少し参考にさせていただきますね」
と、他の研究員の言葉からはさりげない言葉であっても、相手に対しての思いやりや配慮がしっかりと含まれている。
それは彼らの無意識な言動であって、だからこそ、
――さりげない――
という表現になるのだ。
この頃になると、ロボット開発はほぼ軌道に乗っており、実際に検証結果では、
「実用性に問題はない」
という結論と、いくつかの研究所で発表していた。
真田の勤務するK大学の研究所でも、今度同じように実用性についての研究を発表する予定になっていた。
真田が研究している部分は、ロボット本体というよりも、ロボットの中に嵌め込む大切なパーツである、
――人工知能――
であった。
こここそ、
――ロボット工学三原則――
に逆らわないようにしないといけない部分で、矛盾や障害、かなりの部分において危険性を孕んでいることは分かっていた。
真田は自分としては、
――他の研究所で研究していないようなことを研究する――
というのが、彼のやり方であり、ポリシーだった。
これはある国営放送がロボット研究について研究している国立大学の権威である博士号まで持っている有名な先生をゲストに招いて、特番を組んだ時の内容である。
「ロボットというのは、人間といかにうまくやっていけるかというのが一番の問題なんですよね」
と、進行役のアナウンサーが言った。
「そうです。昔からロボット工学には三原則というものが存在していまして、それはあくまでも人間側から見て、ロボットをいかにうまく扱うかということを定義したようなものです。それが守られないと、ロボットは反乱を起こしたりして、我々人間のために開発したロボットに、人間が滅ぼされてしまうことになりますからね」
「なるほど、今までにたくさんのロボットアニメや特撮が製作されてきましたが、その中のかなりの部分において、このテーマが問題になっていますね。特に半世紀前ほどは、その兆候が大きかったと思われますが」
「ええ、三原則を著した人は、彼の中での作品のネタとしての発想だっただけなのかも知れませんが、ここまでいろいろな人がその発想をリスペクトしてきたということでしょうね。だから、我々研究者も、心して考えなければいけないんですよ。何しろ我々の研究では、フィクションは許されませんからね」
教授の話は当たり前のことを当たり前に話しているだけで、特に問題にするようなところはなかった。
「さすがに、国営放送だな」
と、真田は感心して聞いていた。
昔から国営放送というと、民間と違ってその言動の影響力は絶大だった。細かい点でも、他の放送局でおおっぴらに言われていることでも、言葉にできないこともあると思っている。
たとえば、大型連休というのがあるが、それを民間では、
「ゴールデンウイーク」
と呼んでいる。
しかし、この言葉は、ある企業が言い出した言葉だということで、スポンサーを持つことのない国営放送では、一企業をひいきするような言葉を口にするわけにはいかない。だから表現するとすれば、
「大型連休」
としか言えないのだ。
そのことを知っている人は、ほとんどいないだろう。国営放送だけが、
「大型連休」
としか言っていないなど、誰が気付くものか。
そういう意味では国民もあまり関心がないというか、厳しすぎる国営放送を毛嫌いしている国民も多いのかも知れない。
その時の特番で、
「ロボットというのは、人工知能が大切ですが、どこまでロボットに知能を持たせるかということが問題なんです。あまりにも陳腐な発想しか持っていないのであれば、ロボットである必要はない。最初から知能などなく、人間の操作だけで行動するものであればいいはずですよね」
「確かにその通りです」
「じゃあ、人間に限りなく近い知能を持ったとすればどうでしょう?」
と聞かれて、答えを出せないでいる司会者をあざ笑うかのようにニンマリと微笑んだ教授は、
「自分たちの心を持つことになります。心を持ってしまうと、ロボットはかつての人間のようにお互いの立場や、まわりとの関係を考え始めて、自分たちの置かれていることに理不尽さを感じないとも限りません。だから、人工知能には、そんなことを感じないように、あくまでも人間には従順で、人間とは絶対的な主従関係を叩き込んでおかなければいけなくなるんですよ」
「それでいいのでは?」
「ただ、そうなると、彼らの中の人工知能は少しずつ成長しているんですが、成長の度合いによっては、理不尽な思いに感情をマヒさせるという力が生まれてきます」
「それがどんな問題に?」
「感情をマヒさせるという力を持つことは、せっかく組み込んだ大切な三原則の考え方もマヒさせてしまう可能性が出てきます。そうなると、人間では制御できず、最悪の結果を招いてしまうことになるのではないでしょうか?」
その話を聞いた時、真田の中に一つの考え方ができた。これは教授と話をしたことはないが、同僚の島田との会話で少し深入りしたような雰囲気で話をしたことがあった。
島田というのは、自分と同期であり、彼も同じ大学からではあったが、真田と違って彼の場合は、教授から引き抜かれたことでの研究所入りだった。
「俺は元々、ロボット工学になんか興味はなかったんだ」
と言っていた島田は、本業はコンピュータのソフト開発が専門だった。
大学を卒業してコンピュータメーカーに就職が決まっていたが、そこを教授が引き抜いたという。
どのように説得したのか分からなかったが、いまだに彼はロボット工学に対して真剣に取り組んでいるのか疑問に思えていた。
そんな島田とはなぜかウマがあった。研究員の中で島田は浮いた存在だったが、やはり引き抜かれた特別な存在であるにも関わらず、公然とロボットに興味がないことを口にしているのだから、まわりから反発を受けても仕方のないことかも知れない、
「僕も、本当はロボット工学をやりたかったわけではないんだけど、なぜかここにいるんだよね」
というと、
「じゃあ、何をやりたかったんですか?」
と島田に聞かれたが、
「これと言ってはなかったんですよ。以前は心理学についての研究をしたいと思っていたんだけど、まさかロボット工学の研究をするようになるなど思ってもみなかったですね」
と真田は答えた。
真田は、大学三年生までは心理学を真剣に勉強していた。しかし、心理学を勉強していても、就職に何か有利になるはずもなく、現実的ではなかった。心理学を専攻していたなどというと、就職の時に、
「こいつは理屈っぽいやつのようだな」
と思われてしまって、不利になるのではないかと思えた。
そのことにどうして就職活動寸前まで気付かなかったのか、自分でも不思議だった。
就職活動という点では、情報処理関係を専攻していた島田には、苦労はなかった。彼は成績もよく、教授からの信用も絶大だったことで、就職先に関しては、こちらが選べるほどだったのだ。
彼にとっては、
――贅沢な悩み――
だった。
実際に就職先を決めるための贅沢な悩みは、彼なりにいろいろ考えたようだ。いくら贅沢とはいえ、悩みであることに変わりはなく、レベルの違いというだけで、就職活動で悩みのない人間などないに違いなかった。
ただ、まわりからはどう見ても、贅沢な悩みでしかなかった。いくら本人が苦笑いを浮かべても、それは嫉妬や妬みの対象でしかなかった。
島田という男は、子供の頃から同じような悩みを抱えてきた。
子供の頃から何でも無難にこなせてしまう彼には、まわりからは、
――苦労もせずにできてしまうんだから羨ましい――
という目でしか見られていなかった。
彼としても、別に努力をせずに何でもこなせているわけではなかった。他の人よりも先に行動し、問題点を絞ることにも長けていて、他の人が問題点について、何も考えていない間から、絞った問題点への解決方法を考えていた、
他の人はそれほど切羽詰まった状況ではない時に、島田だけが先に進んでいるのだから、まわりには彼の努力や悩みが見えるはずもなかった。
まわりがやっと問題点を絞り込み、初めて切羽詰まり出した時には、島田の中ですでに解決していることだった。すんなりと、こなしてしまっているように見えるのはそのためで、島田という男のすごさを誰も知ることはなかった。そういう意味では彼は損な性格だと言えるかも知れない。
彼は子供の頃から孤独だった。まわりに協調性がなかったのは、彼の悪いところなのかも知れないが、彼がすべてにおいて他の人よりも早く解決してしまうようになったのは、この性格があったからなのかも知れない。
それでも子供心に、
――どうして俺はこんなに孤独なんだ――
と、まわりに対して協調できないことに関して、感覚的に疎かった彼には気付かなかった。
だが自分がまわりの人に比べて、苦労を必要以上にしないのはいいことだと思っていた。まわりと違うと思っていた島田には、まわりの連中が皆同じ性格にしか見えなかった。もちろん、まったく同じだなどと思っているわけではないが、他の人が見て自分と他人の違いほどの距離を感じているわけではない。
遠くから眺めていると、皆が小さなかたまりにしか見えない。それが一人一人の個性を感じることができなくなっていて、自分だけが違っていると感じるのだった。
そして、違っている自分が他の人に比べて優秀であるということも感じていた。実際にそうなのだが、その気持ちを感じているということをまわりに知られるのは嫌な気がした。
だが、たまに、
――俺が他人よりも優れていることを、まわりの人間に思い知らせてやりたい――
と思うことがあった。
それが、世の中の理不尽を感じる時だった。
本当は島田には世の中の理不尽さは普段から感じているのは間違いないようだった。しかし、その感覚が普段はマヒしているようで、自分でもマヒしているということが分かっていなかった。
――自分の感じている感覚でマヒしている部分がある――
と感じている人がどれほどいるだろうか?
誰もそのことについて話題にすることはない。
本当は誰もが気付いていて、まるで暗黙の了解のようにお互いに話をしないようにしているだけなのか、それとも、まったく気付くこともなく、気付いた自分がやはり他の人と違って優れているからなのかのどちらかなのだろうと島田は感じていた。
島田は子供の頃、
――俺はロボットなんじゃないだろうか?
と感じたことがあった。
他の人間との違いを感じた時、他の人が普通の人間であり、自分の卓説した能力は、ロボットのような正確な頭脳を持っているからではないかと思っていた時期があった。
それこそ子供の発想なのだが、それはいくら彼が他の人と違って優秀だと言っても、本当に人間なのだから、子供のような発想を抱くことは至極当然のことで、そこに違和感がある方がおかしいとは思えなかったのだ。
島田という男は、大人になって子供の頃を思い返すと、自分がそういう人間だったということに気が付いた。他の人はなかなかここまで気付かないだろう。そういう意味でも彼はやはり他の人に比べて優れていたのだろう。
ただ、彼は子供の頃に聞いた言葉で一つ気になっていたのは、
「二十歳過ぎればただの人」
という言葉だった。
子供の頃には神童と言われて、
「末は博士か大臣か」
と言われていた少年が、大人になれば、他の人と変わらなくなるというような言葉である。
それは子供の頃にあった差が縮むということであり、子供の頃に伸びた背が、途中から伸びなくなるということなのか、それとも、子供離れした発想であっても、本当は当たり前の発想であり、他の子供にもちょっとした考え方の違いだけで、誰にでも考えることのできるものだったのかも知れないと感じた。
島田は、大人になってから、
――「二十歳過ぎればただの人」になりたかった――
と思っていた。
子供の頃からマヒしていた感覚が、大人になって気付いたことで、子供の頃、意識していなかったが、結構余計な気を遣っていたことに気付いたのだ。大人になってまで、こんな気を遣いたくないという思いが頭の中にあり、
――俺は普通の人間になって、他の連中のように普通に恋愛や青春をしてみたい――
と感じた。
大学に入った頃には、まだそこまで考えていなかった。自分が他の人と違っているということを武器に、友達もできるだろうと思っていた。それは集団の中に自分がいて、まわりを従えるということを楽しみに考えるようになったからだ。
彼が、問題点や問題に対して早く取り組むことができるようになったのは、
――自分の姿が見えるからだ――
と思っていた。
自分の近い将来が見えているということで、それが他の人と違って何でも先に進むことができるようだった。
自分の近い将来というと、
――俺がこれをできるようになると、まわりから尊敬の目を受けることができる――
だったり、
――これをこなることができて、まわりに教えてあげると、皆が自分を中心に輪を作ることができる――
という思いを勝手に想像していたようだ。
ただ、実際に問題点を絞り始めると、最初に見た自分の将来への発想を忘れてしまっていた。だから、自分がどうして他の人にないような先を見抜く力があるのか分かっていなかったのだ。
それに気付いたのは、大学に入学してからだった。
それまで友達などいなくてもいいと思っていたのに、大学に入って感じた大学という解放感に、どこか懐かしさを感じたのだった。
その懐かしさは、子供の頃のことだと思うようになると、
――友達というのもいいよな――
と感じた。
友達がほしいとまでは思わなかったが、ただ、
――人から慕われたい――
と感じ、その思いが正直な思いだったことを思い出したことから、子供の頃に自分が妄想していたのだと分かったのだ。
ただ、その思いを認めることは、自分の持っている能力を失ってしまうかも知れないと感じた。
――それは嫌だな――
とも思ったことで、島田の中で今までになかったジレンマを感じてしまったのだ。
島田は大学時代、実際に友達ができたこともあったが、長続きすることはなかった。
ただ挨拶するだけの友達はいなくもなかったが、その中から仲良くなりかけた友達もいたが、それは一対一で友達になりたいと思っている人ばかりだった。
島田もその方がいいと思っていたので、願ったり叶ったりだったのだが、実際にはすぐに仲がぎこちなくなり、自然消滅がほとんどだった。
つまりは、いつも同じ理由での友達解消だったに違いない。
ただ、本当に友達になったと言えるところまで仲良くなったのだろうか?
島田には、友達と言えるだけの相手だったのかどうか、疑問でしか仕方がない。
一度、
――彼は本当に友達だ――
と感じた人がいた。
彼は、島田の心を揺るがすような態度に出ることはなかった。無難な付き合い方であり、そんなさりげなさが彼にはありがたかったのだ。
――彼は本当の友達なんだ――
と思ったのは、彼の態度には、島田が考えていることを先にいうような相手だったのだ。
――今までの俺のようじゃないか――
と感じたのだ。
だが、彼はある意味、
――人たらし――
だったのだ。
彼は人の心を読むことに長けていた。相手の心を読んで、相手にいい思いをさせることで、悪くいえば相手を欺くことに長けていたのだ。
同じ相手の心を読むことに長けている人には二種類の人がいるのではないか。一人は相手を欺く人。そしてもう一人は相手を欺かない人。
彼の場合は、
――欺く人――
の方だったのだ。
人の心を読むという点では島田は完全に疎かった。そういう意味では相手にとって実にやりやすいタイプだったのだろう。
――こんなにやりやすい相手もいないな――
と思われていたのかも知れない。
そんな相手に引っかかってしまった島田だったが、彼は途中でそのことに気が付いた。自分が騙されているとはさすがに思えなかったが、
――彼と一緒にいていいことはない――
と思ったのだ。
彼の正体を知っていたわけではないが、
――彼と一緒にいることは自分のためにならない――
と思い、彼には悪いと思ったが、次第に彼から離れていった。
騙している方は、自分が騙されていることに関しては疎いもので、島田を欺くつもりだった彼は、結局、本人の気付かない間に島田から去られてしまって、置き去りにされていた。
お互い様ではあるが、まるで笑い話のようだ。失礼ではあるが、島田にとっては、事なきを得たというべきであろう。
元々二人は人種が違った。
騙そうとした方は、一つのことに関してはかなり突出したところがあり、もし相手が島田でなければ、きっと騙し通せたかも知れない。
しかし、島田は確かに一つのことに突出しているのは間違いないが、それ以外のことにも精通していて、騙す方の気持ちを分かるのも、当然といえば当然だった。
島田のことをハッキリと知らない人は、彼の知識の豊富さが、判断力を研ぎ澄ませることで、騙されるようなことがなかったのだと思うのだろう。だが、本当は何事も人よりも先に分かってしまうことが島田が道を踏み外さない理由であった。しかし、それは人に分かりずらいことであり、表に出ていることだけを見て、
「島田は頭がいいからな」
という一言で片づけられてしまうのだろう。
それが島田には幸いしていた。
本人としても、まわりから自分の本質を知られないことが自分にとって有利であるということを理解していた。人より先に自分のことを分かってしまうなど、まるで超能力のような力を、人によっては気持ち悪いと思うかも知れないからだ。
「自分のことが分かるんだから、人のことも分かるのかも知れない」
と思う人もいるだろう。
自分ですら分かっていないことを、先に他人から知られてしまうということは嬉しいはずもない。だから、島田にはなるべくなら、自分のこの能力を他人に知られないようにしないといけないと思っている。
ただ、分かる人には分かるというもの。彼の能力にいち早く気が付いたのは、誰あろう教授だった。教授が島田を引き抜いたのは、島田の能力を研究に生かせると考えたからで、実際に島田を引き抜くのは、案外と難しいことではなかった。
さすがに最初は島田も教授の言っていることがよく分からなかった。
「僕が教授の研究所に入所したとして、教授に何かメリットはあるんですか? 僕の専攻がロボット工学に直接影響するとは思えないんですが」
と、教授との面談で、島田は教授の気持ちを分からないまま、探りを入れるように話した。
島田の研究は工学系のソフト開発ではなく、事務処理系のソフトであり、一般的なITというべきであろう。
「確かに島田君の専攻は、ロボット工学に近いとは思えないんだけど、僕は君の専攻に対して興味があるわけではなく、君自身に興味があるんだ」
とさらりと教授は言った。
その言葉に力があるわけではなく、言葉に重みはあるのだが、セリフとしては聞き流されるほどアッサリとしたものだった。そのギャップに島田はドキッとして、教授が何を考えているのか、探ってみたくなった。
教授はニッコリと笑っているが、その姿が忌々しく感じられ、落ち着いているつもりでも、教授を前にしている自分が今までにない緊張感に包まれているのを感じた。
「教授は、僕の何に興味があるんですか?」
と聞くと、
「それは君が一番分かっていることだよね。ただ、君はそれよりも、どうして私が君のことを知ったのかに興味があるのではないか?」
その日の面談は、元々就職した会社の部長から呼び出され、
「K大学というところがあるんだが、そこのロボット工学の教授が私の知り合いなんだ。教授が君に会いたいと言っている。悪いけど、今度訪れてみてくれないか」
と言われた。
部長から呼び出されて何を言われるのか見当もつかなかったが、まさか営業ではなく人を訪れてほしいなどと言われるとは思ってもいなかった。
「えっ、その教授という人を私は知りませんよ?」
「いいんだ。どうやら君の話を聞いてみたいと言っていたので、話をしてきてくれるだけでいいんだ」
「分かりました」
島田は、よく分からなかったが、いきなり新入社員の自分を部長が呼び出したのだ。緊張しないと言えばウソになるだろう。
島田は、自分の将来を分かる能力を持っている。部長から呼び出された時も、その内容がどういうものなのか、なんとなく分かっていたような気がした。それは漠然としたものだったが、悪いようにされることはないと思っていた。
それを証明するように、最後になって部長から、
「悪いようにはしないから」
と言われた。
それを聞いて、
――やはり自分は将来のことが分かるんだ――
と再認識した。
再認識はしたが、やはり漠然としていた。それはどこまで分かるのか、その時々で違っていたからだ。
相手のセリフまで分かることもあれば、これから起こることが自分にとっていいことなのか、悪いことなのかという漠然としたことだけしか分からないこともある。ただこの能力は、
――人に知られてはいけない――
ということと、
――あまりこの能力に頼り切ってはいけない――
という思いの二つを感じるようになったのだ。
部長に言われるまま、教授と会うことになった。いや、
――会うことにした――
と言った方が正解である。
「じゃあ、部長にお任せします」
という言葉がすべてを表していたのだ。
翌日部長から声を掛けられ、
「じゃあ、今度の金曜日、朝から教授を訪ねてくれるか? 向こうにはアポイントを取っておいた。教授は感激しているようだったよ。私としてもよかったと思っている」
と言われ、教授との初対面となったのだ。
いよいよ当日、K大学を訪れた島田は、懐かしさを感じた。自分の出身校ではないが、この間まで大学生だった自分が、またキャンバスにいるのだから、不思議な気がした。
普段は先のことが分かると思っている島田なので、なるべく過去のことを振り返らないようにしていた。だから懐かしいなどという感覚はあまり味わったことはない。それだけにその時は素直に新鮮な気持ちになったのだった。
「すみません。ロボット工学の研究室はどちらですか?」
と、、受付で聞くと、
「ああ。島田さんですね。お聞きしています」
と言って、受付の女性事務員の後ろから声が掛かった。
「私は、教授から言われて案内をいたします者です」
と言って、教授室まで案内してくれた。
教授室の前で立ち止まり、背筋を伸ばすような雰囲気で案内人がトントンと扉を叩くと奥から、
「はい、どうぞ」
と少し籠ったような声が聞こえた。
案内人の態度が礼儀正しすぎてかしこまってしまった島田だったが、中に入るとそんな緊張感はすぐにほぐれた。
「やあ、君が島田君ですね。お待ちしていましたよ」
と言って、ソファーに手招きしてくれた。
教授の服はカジュアルなもので、まるでこれからゴルフにでも行きそうな雰囲気で、他で見ればただのおじさん。まさか教授だとは誰も思わないのではないかと感じた。
教授は島田の顔を少し眺めて、
「なるほど、君が島田君なんだね?」
と、最初にそう言って招き入れてくれたはずの教授が、またしても島田のことを再確認していた。
「ええ、私が島田です」
と、島田も自分から余計なことを言うつもりはサラサラなかった。
「単刀直入に言うが、うちの研究所に来ないかね?」
と言われて、さすがに驚愕した。
――何を言っているんだ。この人は――
まるでハトが豆鉄砲を食らったかのようにあっけにとられてしまっていた。
ただ、なるべく表情を崩すような気にはならなかった。教授と最初に顔を合わせた時、
――やはり、この人は俺を悪いようにしようとは思っていないんだろうな――
と感じた。
これは自分の将来が分かったからだというよりも、島田自身の洞察力によるものだった。人間観察については初対面の時ほど、他の人よりも洞察力は確かだと以前から思っていたので、初対面の人に対して感じた思いで、そのあとの自分の行動は決まると思っている。
今まで島田の感じた洞察力と、自分の将来が分かってからのそれぞれの延長線上に狂いはなかった。洞察力で、自分にとってよくない相手だと思ってその人と付き合わなかったとして、あとから分かったこととして、その人が自分を欺くような人だったりするので、
――よかった。仲間にならなくて――
と感じ、
逆に、自分と気が合うと思った人で、将来、自分にいい影響を与えると思った人とは、親友でいることができた。
ただ、それは半永久的なものではなく、長続きしないことの方が多かった。それがゆえに、
――人というのは、そう簡単に信じられるものではない――
という思いに駆られることもあり、人付き合いの難しさから、引き際については、
――将来のことを分かる性格が幸いしている――
と感じた。
島田が、
――自分のこの力を人に知られたくない――
と思うのは、引き際という意味でも大きかった。
下手に人に知られてしまって、引き際に引き止められて、自分が抜けられないことを危惧していたからだ。
島田は自分の性格に関してはあまりいい印象を持っていない。嫌いな部分も多いということだ。
特に嫌な部分としては、
――自分に自信が持てないところだ――
と思っていた。
だからこそ、こんな嫌な部分を補うために、特殊な能力を授かったと感じた。
この能力に気が付いたのは、中学になってからだった。
中学になると思春期が訪れ、それまでにない自分の性格が出てくる。その時、普通であれば、
――これは思春期だから出てきた性格なんだ――
と思うのだろうが、自分の将来について漠然としてではあるが分かるようになるというのは、
――どうにも思春期ではないような気がする――
と感じた。
もっとも、この能力は自分だけのものではなく、他の人も個人差こそあれ、誰でも持っているものだと思っていた。
そう思っていた時期は高校に入学するくらいまで続いた。中学時代のほとんどが、この能力は誰もが持つものだと思っていたので、自分だけが特殊だとは思っていなかった。しかも、まわりは自分よりも優秀だと思っていたこともあって、まわりは皆、
――俺のことなんかお見通しなんだ――
と感じていた。
島田という男性は、中学時代には密かに女生徒から想われていた時期があった。
実は島田はそのことを悟っていた。
――女の子から想われるってどんな気持ちなんだろう?
想われているというのが分かったのは、将来における自分のことが分かったからで、そうなると、将来の印象が漠然としているという理由と、さらに女性に想われることに漠然とした印象しかないことから、
――まるで他人事――
という印象しかなかったのだ。
実際に島田に告白してくる女の子もいたが、島田にはどう対応していいのか分からず、答えを伸ばしてしまったことで、せっかくの交際のチャンスを棒に振ってしまった。
島田は、その時の感覚があることと、自分の力が思春期から見えてきたことで、
――ひょっとすると、大人になってしまったら、この能力はなくなってしまうかも知れない――
と感じるようになった。
だが、この思いは間違っていたことが分かった。きっと高校に入った時、
――これは他の人にはない、自分だけの能力なんだ――
ということが分かったからである。
島田は、大学に入学した頃、やっと自分のことが分かりかけてきたのだが、相変わらず他人事のように感じる思いだけは拭い去ることはできなかった。
――大学生というのがこんなにも開放的だったなんて――
と、それまで自分が他人とは違っていることを意識していた島田は、少しビックリした。
人のことを分かるのは自分だけではないと思いながらも他人事のように感じていたのは、自分の中での矛盾だと思っていた。他の人も同じものを持っているという考え方がそもそもの間違いだったのだということに気付いてしまうと、あとは絡まった糸がほぐれていくように疑問に感じていることがことごとく解決していくはずなのに、最初の一歩が分かっていなかった。
大学に入るまで、人は基本的に自分を隠して、まわりに自分のことを知られたくないようにするのが本能のようなものだと思っていた。高校時代などは誰もは自分の殻に閉じこもっていて、まわりを露骨に敵視するような素振りすら見えたことで、その思いは核心に近いと思っていた。
しかしそれはあくまでも受験戦争という限られた世界に放り込まれたことで、誰もがまわりを敵視する環境に追い込まれたのだから当たり前だった。
誰も友達を敵だとなどと思いたくもないはずだ。だから、それでも敵だと思わなければいけない自分にジレンマを感じ、
「受験に打ち勝つのは自分に打ち勝つこと。欲や楽しみを捨てて、合格するまではすべてのことを我慢しなければいけない」
と、まわりの大人から洗脳されてしまい、さらに自分でも、
――そんなことは言われなくても分かっている――
と言わんばかりに、自分を追い詰めようとする大人に対しても、敵視してしまっているのだろう。
だからこそ、まわりすべてが敵だらけになってしまい、しまいには敵視しなければいけない自分に嫌悪を感じ、自分までもが信じられない状況に置かれてしまう。そんな状況を島田だけは、
――やっと皆が自分を隠さずに表に出すようになったんだ。この俺と同じように――
と感じていた。
もちろん、だからと言って皆に対して仲間意識を持ったわけではない。ただ、
――それでいいんだ――
と皆が敵視している状況に自分が馴染みやすいことを感じていた。
受験生にとって過酷な冬を迎え、年明けには受験本番になった。そんな時、島田は自分の合格だけは信じて疑わなかったが、まわりの受験生を見ていて、誰が合格し、誰が不合格なのか、その様子を見ていれば分かったような気がした。
誰もが同じような雰囲気なのに、どうして誰が合格するのかが分かったのかというと、
――合格する人は、この状況に馴染めていて、不合格の人は、どこかぎこちなく感じる――
と思ったからだ。
実際に誰が合格できて合格できなかったかなど、あとになっても分かるはずもない。一人一人顔を覚えているわけではないし、合格発表の時、合格不合格を見て一喜一憂する姿に、受験の時のぎこちなさは感じられないからだ。
不合格の人の場合、相変わらずの暗い表情になっているが、受験の時の雰囲気とは明らかに違っている。
合格発表でのドラマは、歓喜に溢れている連中と、地獄を見て、人生のどん底を感じている人の二種類だ。受験の時に皆一様に暗い雰囲気を醸し出していたが、その状況は厳密に見れば一人一人違っている。しかし、合格発表での雰囲気は、二種類でしかないのだ。そのことを分かるには、どちらにおいても、他人事で見ることができる人でなければできないことだろう。それを思うと、それができるのは自分一人だけなのだと島田は感じていた。
島田は、想像していたように合格できた。合格できて、それなりに安堵はしたが、他の人のように歓喜するようなことはなかった。
――やはり俺は、少々のことでは感動なんかしないんだな――
と思った。
受験勉強はそれほど楽なものではなかった。得意科目は成績が抜群だったが、苦手科目を克服することは、他の受験生と同じでそう簡単にできることではないと思っていた。
そもそも苦手科目というのは、自分が嫌いな科目である。どうして嫌いなのかというと、自分の中で論理的に考えることができないからだ。少しでも矛盾や疑問を感じたら、それが解決しなければ先に進むことはできない。そのことをよく分かっていた島田は、他の人に比べて、余計に苦手科目の克服には苦労するだろうと自分で感じていた。
予備校でも、そのことを理解していたので、予備校の先生からは、
「苦手科目を克服するのは大変だけど、ちょっと考え方を変えてみると、何か違ったものが見えるかも知れないよ」
と言われた。
島田には、そんなことは分かっていた。分かりすぎるくらい分かっていたのだ。ただ、先生の言っていることは至極正論で、逆らうことはできなかった。逆らうことは簡単だが、ここで逆らってしまうと、自分は二度と苦手科目を克服することはできないと思い、先生の言葉をぐっと飲み込むことにした。
――確かに、ちょっと考え方を変えるだけでいいんだよな――
と自分に言い聞かせたが、それができるくらいなら苦労もしない。
そう思うと、苦手科目を無理に勉強するよりも、得意科目をさらに伸ばすことに力を入れた。
――苦手科目の点数がいくら悪くても、得意科目さえ最高の点数が取れればいいんだ――
と思ったのだ。
普通に考えればその考えは危険なはずだ。
受験生のレベルが高く、合計点数の合格ラインが上がってしまうと、いくら得意科目で点数を稼いでも、追いつけないかも知れない。だからと言って、無理だと思っている苦手科目の克服に力を費やして、無駄な時間を過ごすことを思えば、どちらがいいのだろうと思うと、島田は時間の無駄をしない方を選択した。
実は、これが先生の話をしていた、
「ちょっと考え方を変えてみる」
ということだったのだ。
得意科目を勉強していくうちに、苦手科目のどこが納得できないことだったのかが、次第に見えてくるように感じてきた。
――今なら分かるかも知れない――
と感じて、島田はこの時とばかり、苦手科目を勉強してみた。
――なるほど、これなら俺にも理解できるぞ――
と感じた。
勉強の楽しさの真髄を初めて感じたような気がした。
――世の中には精神論を唱えて、楽をするのを嫌って、自ら困難な道を選ぶことを美化する兆候があるけど、それって本当なんだろうか?
と感じるようになった。
考えてみれば、島田は自分が納得のいくこと以外、信じることをしなかった。
――それが自分のポリシーであり、これは他の人にはないことで、自分だけにあることだ――
と思うようになった。
島田は受験勉強の間に、できることはすべてやり尽くしたという気がしていた。その証拠が、
――もう納得のいかないことはなくなっていた――
という自負があったからだ。
だから、受験本番では、自分の合格は揺るがないものだという自信があり、まわりを見るだけの余裕があったのだ。
そんな時、
――こいつは合格するだろうな。こいつは不合格だろうな――
と考えていた。
自分のことであれば、少しの先のことが見えているはずだったのに、受験に関しては見ることができなかった。一抹の不安もあったが、受験本番で、まわりの人の合格不合格を想像していると、次第に自分が合格する姿が見えてきた気がした。
――やっぱり、受験ということで柄にもなく緊張していたんだろうか?
と感じていた。
島田は、自分の合格を確信しながら試験に臨んだことで、合格発表でも余裕があった。
もし、少しでも合格に不安があったのなら、発表を見るまでは、他の人のように緊張で胸が張り裂けそうになっていたであろうし、合格が確定した瞬間には、今度はまるで天にも昇る心地になっていたことだろう。一気に精神状態が跳ね上がることは、島田にとって今までにはなかったことだ。そうなればどうなるのか、自分でも想像がつかなかった。当然地に足がつくことはなく、何も考えられない状態に陥っていたに違いない。
合格発表の時、まわりを見て、今度は合格した人の表情を見ることで、この人が受験の時、どんな顔をしていたのかということを想像してみた。想像できたのは、やはりあの時の暗い雰囲気にぎこちなさがなかった様子だった。
大学に合格すると、島田は勉強だけに力を注いだ。まわりではサークル勧誘が行われていたり、友達を作ることに躍起になっている人を横目に見る形になったが、
――あれが、合格発表の時の連中と同じ人間なんだ――
と感じた。
歓喜に満ちた表情は、島田にとっては発展途上に思えた。それは、目標達成に対しての発展途上であり、その人に確固たる目標があるかないかは問題ではない。合格の歓喜は、合格した人に差別なく訪れるものだ。だから、合格の絶頂は絶対にゴールではないのだ。
だが、友達を躍起になって作ろうとしている連中、サークルの勧誘を自分が上になったような錯覚を感じながら見下ろして見ている連中。その表情は完全に有頂天だった。
有頂天は絶頂を迎えていた。
――これ以上の幸福はないんだ――
という感覚が、錯覚であると誰もが感じていない。
もちろん、絶頂だと思っている連中に、
「下を見てみろ」
というのは難しいことだ。
島田は、絶頂になっている連中を見るたびに、合格発表で不合格という烙印を押しつけられた連中のあの寂しそうな表情を思い出していた。
彼らは悔しそうな表情をしているわけではない。目の前で歓喜の連中を見ているのに、その状態を悔しく感じないのは、自分にも後ろめたい気持ちがあるからではないかと思っていた。
「受験なんて、その時の体調だけでも大きく左右されたりするからな。運が悪かったということで片づけることもできる」
と言って、不合格者を慰めているのを聞いたことがあるが、正直、こんな言葉はタブーではないだろうか。
しかし、不合格の人間には通用しない。そんな言葉を受け入れるだけの気持ちに余裕はないのだ。
――それなのに、どうして後ろめたい気分になるんだろう?
これは、島田には今でも疑問だった。
島田は、これまでに、
「不合格」
という烙印を押されたことはなかった。
高校受験、大学受験、就職と、無難に合格してきたからだ。
ただ、島田は大学に入学してから、ずっと下ばかりしか見えなかった。
まわりの連中は、大学生活を、
――普通の大学生――
として謳歌してきた。
そんな連中から自分が下回るはずもなく、そのせいもあってか、大学が自分の中で、
――狭い世界。限られた世界――
にしか見えなくなっていた。
大学でソフト開発を目指したのは、そんな中でも島田にとって自分を顧みた時、
「俺は、何もないところから何か新しいものを作ることに造詣があって、その道に進んでみたい」
と感じるようになっていた。
それがソフト開発だったのだ。
理学系へ進むのが本当はいいのかも知れないが、島田の苦手科目は数学だった。理工系は好きなのに、数学だけは苦手だった。その原因は小学生から中学生になった時に発覚した。
小学生の頃の算数は、
「途中の過程がどうであれ、間違わずに答えにたどり着ければいい」
というものだったのだが、中学に入ると、何でも公式に当て嵌めて解く学問になってしまい、せっかく頭でいろいろ考えようとしていた算数も、過去の数学者が発見した公式に当て嵌めるだけで解ける数学に大きな疑問を感じたのだ。
――数学というのは、算数の延長系ではなく、これでは数学は算数とはまったく違った学問のようではないか――
と感じた。
その思いを解消できるようになったのが、先ほど述べた大学入試への受験生期間だったのだ。
島田は、ソフト開発を始めた頃、大学に入学した頃ほど、自分に自信があるわけではなかった。確かに他の大学生に比べると比べものにならないとは思ったが、ソフト開発を目指している連中のレベルは、想像以上に高いものだった。
島田はそれでも、高いレベルの中でも別格と言われるくらいに高度なプログラム開発テクニックを持っていて、
「君は優秀だ」
と当時の教授からも言われていた。
島田が大学二年生の頃であろうか。大学教授の中に、少し疑問に感じる人がいた。その人は無難な道しか選ばない人で、講義もただ漠然としているだけだった。
ただ、他の教授も大差のない状況だったのに、なぜかこの教授にだけ、他の人とは違う嫌な部分があった。
やる気がないのは最初から分かっていたが、どうやらその教授は、普段から自分が研究している情報処理という科目に疑問を感じているようだった。どうしていまさら疑問を感じるのかとも思ったが、いまさらではなく、最初から向いていないと思いながら、ずっと自分を偽って今まで生きてきたようだった。
それだけ長く偽り続けられるというのも、ある意味ですごいことなのだろうが、この教授を見ていると、まるで自分を見ているような気分になっていた。
最初は無意識だったが、人を見ていて意味もなく嫌になるなど今までになかったことなので、何とも嫌な気分になったのも仕方のないことだった。
しかし、その教授が別の大学に転勤になったことで、彼の顔を見ることがなくなると、それまでの嫌な気分がなくなった。
――やっぱり、あの教授の顔を見ているだけで、嫌な気分になっていたんだ――
と思い、実際にその教授がいなくなってからは、教授の顔すら思い出すことはなくなっていた。
その時、
――俺は自分にとって都合の悪い人を簡単に忘れることができる性格なんだ――
と感じるようになった。
島田は大学生活の間で、その時だけ、自分が、
――情報処理には向いていないのではないか――
と感じた。
情報処理の会社に入ってから、しばらくは順風満帆の時間を過ごしていたが、いつしか急に仕事をすることに疑問を感じるようになった。ちょうどその時、ロボット工学の教授が、このソフト会社へ来ることが何度かあった。
社長と知り合いということで、たまに立ち寄っているだけのことだったのだが、その時島田は、
――どこかで見たことがあるような――
と感じたが、それが誰なのか、思い出せなかった。
――無理に思い出すことなんかないんだ――
と感じたが、本来なら、知っている人に似ていて、その人が誰なのか思い出せないような状況に陥ってしまうと、そのまま放っていくことができない性格のはずだった。
それなのに、どうして無理に思い出すことなんかないと感じたのか分からない。普段から自分の将来のことは分かっていたはずなのに、過去のことを思い出そうとして思い出せないことをそのまま放っておくというのは、性格的に無理なのは当たり前のことであった。
島田は教授のことが気になり始めた。気が付けば無意識に教授の顔を見ていたり、いつの間にか目が合っていたりしていた。
教授はニッコリと笑って余裕の表情を見せていたが、その表情には嫌味なところは何もなかった。
――それなのに――
教授にニッコリと微笑まれて、島田は顔が硬直しているのを感じた。
――どうしてこんなに顔が固まってしまっているんだ――
相手に余裕のある表情をされると、こちらも負けじと余裕の表情で応酬するはずなのに、なぜ怯えているわけでもないのに、顔が硬直しているのか、訳が分からなかった。
島田は、教授の顔を見ながら、まるで時間が止まってしまったかのような感覚に陥り、まわりが凍り付いていて、動いているのは自分だけの気がした。
いや、自分が動いているわけではない。考えることができることで動けると思い込んでいただけなのだ。まわりの連中は完全に固まってしまい、表情もそのままだった。こちらから見ていて、そんな連中が何かを考えているなど信じられなかった。だからこそ、何かを考えることができる自分だけは、何もかもが凍り付いたこの世界で動けるのだと思ったのだった。
しかし、凍りついた世界の理由が、
――時間が止まっているからだ――
と感じると、今何かを考えている自分に矛盾を感じる。
――今考えていることが未来だとすると、過去から現在を経由して未来に進んでいることになる。もし逆に過去だとすれば、ただ思い出しているだけなので、時間の経過には関係のないことのように思えた。だとすれば、考えていることはすべてが過去だということになる――
と考えていると、
――今考えていることだって、一瞬にして過去になる。時間が絶え間なく進んでいるということを、まるで人間の心臓が止まらないことが当然であると思っているのと同じくらいに感じられる。本当に時間は絶え間なく進んでいるのだろうか?
オカルトなのか、SFなのか、島田は凍り付いた時間の中で、そんなことを考えていた。
毎日を情報処理に追われて過ごしている。それは時間に追われているのと同じだった。――果たしてそれが幸せな生活だと言えるのだろうか?
島田は、そんな疑問を感じたことはなかった。
ふと感じてしまったこの疑問。こんなことを感じる人を軽蔑もしていたはずだった。
その時に思い出したのが、大学時代の情報処理を専攻していることに疑問を持っていた教授だった。相変わらず顔を思い出すことはできなかったが、
――今の俺って、あの時の教授と同じことを考えているのか?
と感じた。
ということは、あの時の教授が見えていたものは、他の誰にも見えていなかった世界で、ひょっとすると、凍りついた世界、つまり時間が止まってしまった世界を自分の中で創造していたのかも知れない。
そう思うと、
――俺も他の人から、嫌な目で見られているのかも知れないな――
と感じたが、不思議と嫌な気分はしなかった。
島田は、大学時代の教授の顔を思い出せないまでも、思い出せる雰囲気はロボット工学の教授に似ていた。
――ひょっとして、教授と言われる生物は、俺なんかから見ると、皆同じようにしか見えないのかも知れない――
と感じるようになった。
島田はなぜかその時、宇宙空間を想像していた。
空を見上げれば、無数の星が天体を彩っている。もちろん、田舎でしか見ることのできない光景だが、プラネタリウムのような機械を使えば、イメージであっても、捉えることができる。
地球という星は、宇宙空間ではあるのかないのか分からないほど小さなものだ。そんな地球から見てすべての星が、天体に見えているというのは、おかしな感覚だ。
それぞれの星は、光の速度であっても、何万年という時間を掛けなければいけないところなのだ。
もっと言えば、今見えている星の光は、自分が生まれるずーっと前に光ったものであって、今も実在しているのかどうか分からない。しかも、隣に煌めいている星だって、地球から見て同じ距離だと言えない。まったく違う距離の星の光が、偶然今、空に煌めいているのだ。だから、同じ光でも、かたや三万年前のものであり、かたや五千年前のものなのかも知れない。この間は気が遠くなりそうなほどの時間が掛かっているのであるが、見えている自分たちにはその意識はまったくない。何とも不思議な感覚であろう。
つまり、人間は見えているもの以外、信じないのであり、信じようとしない。この当然と言えば当然の理屈でも、人に話すと対して感動されることはないだろう。むしろ、
「余計なことを言って、夢を壊すなよ」
と言われるのがオチであった。
島田は、宇宙のことを考えていると、目の前にいる教授とは本当は相当な距離があるに違いないと思いながら、実は天体の中では、同じ位置に属しているのかも知れないと感じた。
実際はどうであれ、見えているものを本物だと思う人間という生き物には、それだけで十分だ。その時の島田は自分を他人事のように見ることに徹した。
――普段から他人事のように見ているはずなのに、あらたまって他人事に徹するというのはおかしなものだ――
と心の中でおかしくてたまらなかった。
そこまで考えていると、その瞬間の時間が動き始めた。
まわりは何事もなかったかのように過ごしている。島田も凍り付いた世界が夢だったかのように思えたが、そう思いたくない自分がいるのも事実だった。
――俺は一人でいるのが好きなので、その思いが教授を見たことで成就したのかも知れないな――
と感じたが、その次に何を考えていいのか、頭が整理できるわけではなかった。
その時の教授がロボット工学の教授であるということを聞いたのは、それからしばらくしてからのことだった。そして、その時島田は会社の社長室に呼ばれた、こんなことは初めてだった。
「島田です。入ります」
と言って、緊張しながら扉をノックした。
島田は自分の将来が分かっていたはずなのに、その時社長から呼ばれたことが何を意味しているのか、想像がつかなかった。
――いったい何なんだろう?
悪いことではないという思いと、扉の向こうにもう一人誰かがいるような気がしているのだけは分かっていた。
果たして扉を開けて、中に入ると、ソファーに座っている人の後ろ姿が見えたが、その時に感じたのは、
――大学の時の、転勤していった情報処理に疑問を感じていたあの教授?
という思いだった。
顔は思い出せないが、後ろ姿を見て、一瞬そう思った。だが、大学時代も教授の後ろ姿など見たことがなかったはずなのに、どうしてそう思ったのか、今でも不思議である。
「やあ、君に紹介しておこう」
と言って、社長はその人を紹介してくれた。
「彼はK大学でロボット工学を研究している坂崎教授だ」
と言って紹介された坂崎教授は、後ろを振り返り、
「私が坂崎です。よろしく」
と言って、握手を求めてきた。
この様子は、本当であれば相手の方が完全に上から目線であるということを意識させるものであるにも関わらず、あくまでも低姿勢を貫いている状況に、
――営業と変わらない――
と感じ、少し残念な気分にさせられたことで、不服な気分になった自分の気持ちを押し殺すことなく、教授に向けていた。
それは、挑戦的にも見えたであろうが、なぜかまわりには失礼に見えているような気がしなかった。むしろ、教授としては、島田のそんな表情を最初から予想していて、その予想が的中したことを喜んでいるかのようにも見えるくらいだった。
「実は、坂崎教授が君のことをほしいというんだよ」
といきなりの社長の言葉だった。
「えっ?」
いくらなんでもあり得ない申し出に、本能的に感嘆詞を口にしてしまった島田だった。
「それはそうだろうね。君にとってはまさに青天の霹靂。いきなりすぎて混乱してしまうよね」
と、社長は恐縮していた。
しかし、島田が感じたのはそんなことではない。
――なぜ、そのことを俺が予感できなかったんだ? 俺は将来のことが分かるはずではなかったのか? しかも重要なことであればあるほど、的中率が高かったはずなのに――
ということだった。
――ということは、この申し出は俺にとって、それほど重要ではないということなのだろうか?
確かに人生の分岐点ではあるし、ロボット工学などまったく考えたこともない学問で、しかも、いきなり何も知らずに行って、大丈夫なのかという不安が最初に来るだろう。
もちろん、そんなことは教授も社長も分かっていることだろう。少なくとも社長の性格からすれば、社員をいくら教授から頼まれたとはいえ、苦労しかないと思えるところへいきなり飛びこませることはないはずだ。
――それなのに――
と感じる。
とほどの説得が行われたに違いない。しかし、どんな説得をすれば、社長が納得のいく回答が得られるというのだろう。島田には想像もつかなかった。
すると、教授が語り始めた。
「君は、将来のことが自分で分かる性格なんだよね?」
と静かに語った。
ビックリしている島田を見ながら教授は構わずに続ける。
「私も実は同じ能力を持っているんだよ。この能力を持っている人は最初君は、まわりの人皆だと思っていただろう? でも今は自分だけだと思っているはずだよ。でも、実際には君だけではない。少なくとも私もその一人だ。だから君のことは誰よりも分かるつもりでいる。ひょっとすると君よりも分かっているかも知れない。それを思うと、君を私が預かるのが一番だと思うようになったんだよ」
と言った。
「どうしてそのことを?」
「君は私に雰囲気が似ている人を見たことがあると思うんだ。その人は私とは関係のない人なんだけど、その人に対して感じた思いがあったことで、私は君のその能力を感じることができたんだ」
という教授の話に、
「よく分かりません」
というと、
「そうだろうね。私も説明は難しい。とにかく、私は君を知ってしまった。だから社長を説得して、君を預かりたいと願って、ここに赴いたわけだ」
と、坂崎教授は大切なことを、実にサラリと言ってのけた。
少し考えていると、坂崎教授が話始めた。
「君は、自分の将来のことが分かるというのはありがたいことだと思っているかね?」
と聞かれ、痛いところを突かれたと思った。
確かに将来のことが分かるというのは、何かの対策を取れるという意味ではいいことなのだろうが、漠然としてしか分からないので、対策を考えるのも難しい。しかも、誰かがそのことを分かっていて助言してくれたり、実際に助けてくれるのであれば考えようもあるが、どうしても限界を先に感じてしまうと、将来のことが分かってしまうのは、却って困ったものだった。
しかも、分かるというのは自分のことに関してのことだった。自分以外のことで、何がどう影響してくるのか分からないのに、自分のことだけが分かっているからといって、何かの対策などできるはずもない。対策を取ることもできないのであれば、将来のことが分かるなど、こんな迷惑なこともない。
そんなことを考えていると、
「そんなにありがたいことだとは思いませんね」
と答えるしかなかった。
口調は、完全に面倒臭そうに感じだった。
――嫌なところをいまさらつかないでほしい――
という気持ちが表に出ていた。
その気持ちはきっと同じ立場に立った人は、皆感じることではないかと思うのだった。
他の人と関わることを嫌いな島田なのに、なぜか、自分のことを考える時、まわりの人はどう考えるのかということを感じてしまう。これは、島田に限ったことではないのだろうが、ここまで無意識なのは珍しい。そういう意味では、真田と似たところがあるとすれば、こういうところになるのではないだろうか。
教授はそんな島田の気持ちを知ってか知らず科、話をし始めた。
「将来のことは分かるというのは、本能的なものであり、最初はありがたかったのではないかと思います。実際に私もそうでした。まるで目の前にタイムマシンがあり、それに乗って未来に行って、自分の将来を見てきたような気がしたからですね。ただ、ここでタイムマシンとの大きな違いというのは、タイムマシンで見るものはリアルな光景であり、そのために自分以外の人の未来も見えてしまう。でもこの能力は自分のことしか分からないということですよね。自分のことしか分からないので、漠然としてしか分かっていないような気がするんですよ。リアルではない感覚に、憤りすら感じてしまうのかも知れませんね」
と教授がいうと、島田はタイムマシンに関しては自分なりに造詣も深く、いろいろな発想を思い浮かべていた。
「確かにそうですよね。でもタイムマシンというのは、過去に行くことに関してはかなりのリスクがありますが、未来に行く場合にはそれほどのリスクは感じません。どうなんでしょうね?」
というと、
「それはパラドックスの発想ですね。過去を変えてしまうと、未来が変わってしまう。つまり今がその未来であり、変わってしまうと、タイムマシンに乗って過去に行くという現実も、別の世界の出来事のようになってしまうからですね。これがいわゆるパラレルワールドの発想ですね」
「その言葉は知っています。それは過去、現在、未来と繋いでいく時間の中で、一つの点を焦点にして、末広がりに広がっていく発想であり、それは無限ではないかという思いでもありますよね」
「ええ、そうです。だから、タイムマシンの開発は難しいんですよ。論理的に製造可能でも、それが倫理的にあり得ることなのかという発想がどうしても付きまとう。しかもそれがパラレルワールドを見てしまうことになると、何が正しいのかが分からなくなる。収拾がつかないということになりますよ」
という教授の話を聞いて、うんうんと島田は頷いていた。
「教授は、ロボット工学がご専門だということですが、ロボット工学というのも、矛盾を孕んでいるんじゃありませんか?」
と、島田は本題に近づくように話してみた。
「そうですね。私はロボット工学を志したのは、ロボット工学三原則というのを見た時だったんですよ。私も子供の頃は、まだまだ特撮やアニメ番組も発展途上で、それだけにロボットもののマンガなどは新鮮な感じがしました。ハッキリとテーマが三原則に沿ったものだって分かるものが多かったからですね」
教授は少し白髪交じりの頭を掻いて見せた。
――年齢的には五十歳を少し超えたくらいではないだろうか?
と感じた。
その年代の子供時代というと、ちょうど昭和四十年代くらいであろうか。ロボットもののマンガやアニメ、特撮が流行り始めたのがちょうど昭和四十年代後半くらいになるだろうか。それを思うと、教授のロボットへの造詣は分かる気がした。
「ロボット工学三原則を教授は最初から知っていたんですか?」
と聞いてみると、
「そうではないですよ。よく読んでいたロボットマンガの最初に、三原則が書かれていたんです。最初は何のことなのか分からなかったんですが、読み込んでいくうちに疑問に思うと、最初に戻って三原則を読み直してみたりしました。そうすると、ストーリーに対しての疑問が三原則を読むことで解消していたのを思い出しますね。今のアニメや特撮にも通じるものもあるんでしょうが、どこか新鮮さに欠けるような気がしているんです。今でもロボットの研究をする時、子供の頃に感じた新鮮さを思い浮かべながらであることを意識しています」
という教授の話は説得力があった。
「ところで教授は、私と同じように、未来のことが分かるとおっしゃいましたが、それを感じられたのはいつ頃だったんですか?」
という島田の質問に、
「あれは、高校生に入った頃くらいだったでしょうか? 本当はもっと前から気付いていたんですが、確信に変わったのが高校生になった頃でした。中学時代には、この力が自分以外でも誰にでもあるものだと思っていたので、意識もしていませんでした。でも、友達との話の中で、それが自分だけの力だって知って、実はショックを受けたんです」
「どうしてショックだったんですか?」
「だって、他の人にない力を自分だけが持っているというのは、不気味な気がしたんですよ。中学生の頃の私は、いつも何かに怯えているような気がしていて、他の人と違うことがあれば、いちいちショックを受けていましたね。自分が何かに怯えているというのが、他の人との違いを感じた時だということに気付いていませんでしたからね」
と教授がいうと、
「でも、今はロボット工学の研究を率先してやってらっしゃる。何かのきっかけのようなものがあったんでしょうかね?」
「それはあったと思います。ロボット工学の研究は、実は私が最初ではなかったんです。高校時代に一緒になって、将来ロボット工学の研究をしようと話をしていた友達がいたんですが、彼の方が私よりも気持ちは強かったと思います」
教授はそういうと、少し力が抜けたような表情になった。その顔は気持ちに翳りを見せていて、
「その人と一緒に研究されていたんですか?」
本当であれば、少し黙っている方がいいのかも知れないと感じた島田だったが、どうしても聞きたくなった。
「いいえ、彼とは一緒に研究をすることはありませんでした」
「そうなんですね」
本当はそれ以上聞いてみたかったが、その時の島田は、今の解答だけで十分だと思っていた。
しかし、少し経ってから教授がおもむろに語り始めた。
「一緒に研究をしたかったのはやまやまだったんですが、どうしてもできなかったんです。その時の友達は、大学への入学が決まってから少しして、死にました」
という教授の返答に、少し間を置く形で、
「えっ」
と小さな声で島田は答えた。
時間的には数秒くらいの間だったのだろうが、空気が凍り付いてしまったかのような雰囲気に島田自身、数十分くらいの時間が掛かったかのように錯覚していた。
島田は、時間が凍り付いてしまうような感覚を何度か感じている。まわりは時間が止まっているように感じていたが、実際には微妙に動いている。それを、
――時間が止まってしまったんだ――
と感じてしまうと、
――元の世界には戻れないかも知れない――
と感じていた。
島田は、教授の友達が死んでしまったという話を聞いた時、
――自殺?
根拠があったわけではないが、そう思った。
しかし、その思いは時間が経つにつれて、リアルに感じられ、次第に自殺以外には感じられなくなっていた。
島田は教授にそのことを聞きただす勇気はなかった。聞きたいという気持ちは間違いなくあったのだが、聞いてしまうと、自殺という最初に感じた衝撃が半減してしまうと思ったのだ。
普段から怯えや恐怖を人一倍嫌っているにも関わらず、この時ばかりは、聞いてしまって半減する恐怖を自分から拒否していたのだ。
「じゃあ、教授は大学に入って、一人ロボット工学の道を志したんですか?」
「ええ、もちろん、研究所の中のメンバーの一人なので、単独というわけにはいきませんでしたが、意外と研究員は自由に研究をさせてもらっていました。島田さんの情報処理のように決まった路線があるわけではないので、どうしても手さぐりでしたね。でも、いつ解散させられるか分からないという不安も、背中合わせでした。研究員は誰もそのことを口にする人はいませんでしたが、私はあまり気にしないようにしていました。でも、私独自の発想から論文を書いてみると、それが意外と評価が高く、現在の教授の地位まで、思ったよりも早く上り詰めることができました」
「なるほど分かりました。それが教授のステータスというわけですね?」
と島田がいうと、教授は分かったかのように、
「そういうことです」
とニッコリと微笑んだ。
ここまで会話をしてくると、島田には教授の人となりが分かってきて、
――ロボット工学というのも面白いな――
と感じるようになった。
「分かりました。じゃあ、私も一緒にロボット工学を目指します」
と島田がいうと、
「そうですか。これはありがたい。あなたの能力を私と一緒に研究していきましょう」
「ええ」
これで島田の研究所入りが決定した。
しかし、その時島田は、教授の考えていることの本心を分かっていなかった。教授は島田の中にもう一つ能力があることを分かっていた。
それは、島田と対面して分かったことだった。それまでは自分と同じように将来のことが分かるという程度の能力しか把握していなかった。しかし、実際には、
――もう一つ能力を持っているのではないか?
という思いがあることを感じていた。
それが何であるか分からなかったのだが、この時自ら面談に訪れた理由は引き抜きだけの理由ではなく、もう一つの能力の有無の信憑性について、実際に会うことで確信を持ちたいと思ったからであった。
それでも、もしその能力がなくても、島田を引き抜くことは決まっていた。研究員が不足していることもその理由だったが、教授にはもう一つ理由があったのだ。
――あいつの生まれ変わりなのかも知れないな――
あいつというのは、高校時代、一緒にロボット工学の道を目指そうと思っていた友達のことである。
実際には彼は島田の想像した通り、自殺であった。理由に関しては坂崎教授も分かっていない。何しろ大学に入学も決まって、いよいよこれから好きなことができ、将来を目指せると思っていた矢先のことだったからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます