WHO ARE ROBBOT?

森本 晃次

第1話 三人三様

この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。



 時は近未来の近未来。目の前の時代の出来事のようで、実は今までにどうしてできなかったのか、誰もが不思議に感じることだろう。

 たとえば公共事業や建築についてもそうなのだが、計画の話が出てから、実際に形になるまでにかなりの時間が経っていることが多い。

 さらに、形になってからでも、少し進んでは、まったく進まず、いつ工事が行われているのか分からない状態がかなり続いたかと思えば、いつの間にかできあがっていたという状態になることも少なくはないだろう。

 近未来という言葉も曖昧なもので、どこからどこまでを「近」という表現で表せばいいのか難しいところである。距離を示す時に使う時、時間を示す時に使う時で、ニュアンスも微妙に違ってくる。

 時間を距離に当て嵌めて見ることもできるし、距離を時間に当て嵌めて見ることもできる。しかし、そのニュアンスはどちらに重きを置くかによって微妙に違ってもいる。

 時間を距離にして見る時というのは、時計をイメージするのが一番である、距離の場合は自分がいる場所から見ると、遠くになるほど、距離は曖昧に感じられたりする。

 だから、時計をイメージして時間を循環で考えると、刻んでいる時というのは、すべてが等間隔に感じられる。

――時間というのは等間隔で刻まれるのである――

 という当たり前の発想が、年齢を重ねるごとにマヒしてきているように思う。

 ただ、ここに一人の青年が、そのことに少しずつ疑問を感じるようになっていた。

 彼の名前は真田という男で、大学三年生になる、彼はK大学でロボット工学を専攻していて、ロボット工学を専攻してはいるが、将来ロボットの研究をするかどうか、考えているわけではなかった。

 ロボット工学というと、ここ十年くらいの間に注目を浴び始めた。ただ、注目を浴びてはいるが、目立って研究の成果が出てきたわけではない。確かに国家予算の中でもロボット工学に対して、ここ十年はかなりの額に達している。

 野党は、

「そんな海のものとも山のものとも分からない研究に、大事な国家予算を投入するのは予算の無駄遣いだ」

 と言って、予算案審議の中で、いつもやり玉に挙がっている。

 しかし、

「まだ始まったばかりなので、成果についてはもう少し待ってください」

 という与党の発言に対し、必要以上に執着することはなかった。

 実はロボット研究の分野に関しては、野党もその恩恵を少なからず受けていた。そのため、本来であればやり玉に挙げるのは筋違いなのだが、予算の額が半端ではないので、野党としても審議の話題に挙げなければ、国民を納得させることもできない。与党とすれば、逆に野党から攻撃されても、それでも審議を通せるのだから、国民に対しても言い訳をする必要はないのでありがたいことであった。

 つまりは、国会でのロボット審議に関しては、演技でしかないのだ。

 だから、時間もさほど使うこともなく簡単に予算を通すことができる、ロボット予算が通せれば、それに関連していくつかの予算案も連鎖式に通るものもあった。国会の茶番は別にして、研究としては真面目に文部科学省も取り組んでいて、予算に見合うような研究所の充実にも一役買っていたのだ。

 ただ、研究はかなり厳しいもので、予算の無駄遣いに関しては、しっかりと目を光らせていた、国民の目も無視できるものではなく、研究を志す研究員や学生の数は年々増えてきていた。

 K大学でも、元々存在していた工学部は、電気関係の研究が主で、コンピュータ関係を目指す人が爆発的に増えた時期には、情報処理学部として独立した学部となった。これはK大学に限ったことではなく、他の大学にも言えることで、世の中の情勢からか、専門学校も増えてきたのは、周知のとおりであった。

 だが、ロボット工学については、確かに注目もされているし、国家予算の投入も半端ではない。だが、情報処理が発達した時ほどの爆発的な発展はないだろうというのが、世間一般の考え方だった。

「ロボット工学というのは、情報処理よりもさらに前から研究されていたにも関わらず、コンピュータの方が先に日の目を見た。それは、コンピュータの方が研究しやすかったわけではなく、ロボット工学の研究の方が、難しすぎるのだ」

 と言われてきた。

 一般の国民には、詳しいことまでは分からなかったが、少なくともコンピュータや工学関係を目指している人には、広く知られたことであったのだろう。

 ロボット工学には、大きな問題が潜んでいた。

 一番大きな問題は、

「ロボット工学三原則」

 と呼ばれている問題だった。

 この問題は、すでに二十世紀の中旬くらいに発表されたものだった。しかも、発表したのは工学研究者ではなく、小説家だったということを知っている人は、どれほどいることだろう。

 それ以降に発表された特撮関係のドラマや映画でロボットを取り扱ったもののほとんどは、この三原則をテーマにしていたといっても過言ではないだろう。

 元々、三原則の発想が生まれたのは、フランケンシュタインの存在からであった。

 フランケンシュタインも元々は小説からの発想であり、博士が作った人間の形をしたロボットが開発者の意思に反して、人類を滅亡に導くような内容のものであった。フランケンシュタインという発想自体がなかなか信じられない発想であるのだから、その結末も、あらゆる可能性を含んでいるとも考えられる。どんなに奇抜な結末であっても、誰もが疑うことはない。それを時代が進んで二十世紀半ばの小説家が、ロボット開発の問題点について提起した小説を発表したのだ。

 つまりは、

「ロボットに人間に逆らわないような内容の絶対的な意識を植え付けることで、にフランケンシュタインのような悲劇を起こさないようにする」

 というものである。

 人間を傷つけてはいけないという発想だったり、人間のいうことには絶対に服従であったりという原則をあらかじめ、セットしておくというものである。

 しかし、提案したのは小説家である。彼は、自分の提唱した三原則を、小説の中で矛盾をつくことで、ストーリーを作り上げるという作法を用いた。その手法として、

「三原則に優先順位を持たせる」

 というものだった。

 優先順位を持たせることで、ロボットはその優先順位に悩んでしまい、動くことができなくなるという「危機」に陥った。

 ロボットが陥った危機は、当然それを作った人間にも大きな影響を与える。それをいかに解決するかというのが小説の骨格であり、作者には、作家としての才覚と、研究員としての目を身に着けることで、小説は伝説になってしまったのだろう。

 ただ、小説の中に出てきた「三原則」が一人歩きを始めたというのが、今のロボット工学研究の原点になるのだろうが、三原則がパイオニアになって、それ以降のSF小説や特撮にロボットという発想を与えることで、研究よりも小説が先行してしまうことになったのであろう。

 小説や特撮は、基本的にロボットの危険性について提起しているものが多い、ロボットが世の中のためになるという世界はあまりにも短絡過ぎて、物語としては面白くないものになってしまう。しかも、三原則を原点にして発想を膨らませることで、小説の幅を広げるのは他の発想に比べると難しいことではないのかも知れない。何しろ、三原則を提起したのも、元々が小説だったからである。盗作というわけではないが、スピンオフやリスペクトなどという発想で、いくらでもロボットに関する話が生まれてくることだろう。

 特にロボットに心を与えることでロボットが人間のように悩んでみたり、恋愛感情を起こすことで、ロボットが人間になりたいという思いを抱くという、反対の発想が生まれてくる作品も生まれてきたりした。

 三原則の話が生まれてから、二十年ほどは日本でも、たくさんの特撮や小説が生まれた。今でも残ってはいるが、新しさという意味では色褪せてしまってはいる。しかし、それも無理もないことだと思う。ロボットに関しての興味はずっと持たれていたのに、実際にロボット開発が行われたとは聞こえてこなかったからである。

 逆に特撮は開発が遅れていたこともあって、ずっと同じ発想であっても、問題はなかった。特に特撮は子供の視聴者が多く、大人になるにつれて見ることはなくなってくる。

 そのため、次世代の子供が世代交代として見ることになるので、前の時代のことを子供が分かるはずもない。そのまま何年も同じ発想であっても、別にかまわないのだ。

 だから、ロボット工学の進展のなさは、特撮関係者にとってはありがたかったのかも知れない。何十年も続いている「○○戦隊シリーズ」が生き残っているのも、そのためであろう。

 ただ、まったく進歩していないわけではない。俳優の選別や映像技術の発達により、見た目としては発展しているであろう。しかし、発想は昔のまま、そう思っているのは、そんなに少なくはないかも知れない。

 ロボット工学は、そんな特撮の、

――伸び悩み――

 から、研究も発展していない。

 元々の発想は、どうしても、

――超えられない壁――

 が存在していて、まるで結界のように見えているはずの目の前に手が届きそうで、絶対に超えることができないものであったはずだ。

 それを特撮が後押しする形になり、そのまま研究もできなくなる。完全な悪循環に見舞われてしまっていた。

 しかも、コンピュータの研究がロボット工学の伸び悩みとは裏腹に、ある時いきなりブレイクしたことで、猛烈な勢いで発達した。それを誰が想像できたというのか、コンピュータの研究は世界的にも歴史的にも大きかっただろう。

 そこに国家としての研究が急務だったりもしたはずだ。経済、政治、軍事、それぞれに仮想敵が存在し、相手に勝るには、コンピュータの開発が急務だったのだ。

 コンピュータの開発はすべての国共通のテーマであるが、コンピュータの開発によって派生する、

――コンピュータを使った研究――

 が、それぞれの国家で熾烈を極め、その余波で、さらにコンピュータの開発を促進することにもなった。

――ロボット工学の悪循環とは正反対の繁栄――

 と言えるのではないだろうか。

 コンピュータとロボット工学は、成長という意味では正反対の道を歩んだが、それぞれに切っても切り離せない関わりがある。それがいつの間にかロボット工学研究を、少しずつだが促進することになるとは、コンピュータ最盛期の時代には、想像もつかなったに違いない。

「ロボット工学の研究なんて、忘れていた」

 と感じるくらいに、完全に研究が停滞し、風化してしまっていた時期が存在していたのも事実だった。

 K大学の真田は、大学入学の時からロボット工学の勉強を目指していた。

「ロボット工学って、お金にはならないぞ」

 という人の話も聞いていたが、

「研究所に残れれば、それはそれでいい」

 と話をしていた。

 確かにロボット工学の研究所はそれほど多いわけではない。国家予算の額は大きくとも、一つの研究に掛かる単価は決して安いものではない。それだけに、研究所も最初はいくつもできたが、途中から統廃合を繰り返し、限られた数になってしまった。

 研究を志す人も少なくなってきて、今では最盛期の五分の一にも満たないくらいになっている。

「だから我々は、精鋭部隊なんだ」

 と、少数精鋭を喜んでいるのが研究員たちで、口には出さないが、他の学問の研究員とは明らかに違っているということを、ほとんど全員が思っていた。

 真田は、そんな研究員や教授たちの気持ちを読み取ることで、自分の研究への気持ちが少しずつ冷めてくるのを感じた。

 確かに研究員は自尊心が人より強くなければいけないと思ってはいたが、それも口に出さないだけで露骨に感じているのを見ると、自分もそうなってしまうことへの懸念を感じるのだった。

 真田は大学二年生の頃から、心理学に興味を持ち始めた。心理学とロボット工学とではまったく違う学問のように最初は感じていたが、三原則を考えてみると、

――三原則だって、しょせんは人間が自分たちを守るために考えたものなんだ――

 と思うことで、人間のエゴを思い知らされた気がした。

 特撮や、フランケンシュタインの発想だって、人間のエゴがあるからこそ、ドラマになるのであって、それをロボット側から見るのか、人間の側から見るのかによって、ストーリーはまったく違ったものになる。

 ただ、

――それぞれの正対する立場から見るとしても、まったく正反対の発想に行き着くわけではない――

 と真田は考えていた。

――立場の違いを見る方向だけで考えることは、本当に正しいことなのか――

 ということを真田は考えるようになり、その思いが心理学への思いへと駆り立てるのだった。

 真田が心理学の勉強を始めたのはただの好奇心からであった。しかもその好奇心を与えてくれたのは、高校から一緒だった女の子の影響だった。別に彼女のことが好きだったというわけではなく、彼女の言動や行動に興味があったと言っていいだろう。

 高校時代から女友達の間でも浮いていた彼女は、彼氏がいるわけでもなく、彼女の話の奇抜さに、誰もが閉口していた。

 彼女の名前は幸田早苗と言った、彼女は友達と一緒にいる時はあまり会話に参加する方ではなかったようだが、急にいきなり何かを口にして、場を乱したり、しらけさせたりしていた。最初はそれでも皆大目に見ていたが、次第に彼女の言動についていけなくなり、彼女を避けるようになっていた。

「どうしていきなり誰も予期していないようなことを口走るの?」

 と、友達に言われて、

「そう? いきなり口走ったという感じはしないわ。確かに自分が口を挟むタイミングでなければ自分から何も言わないんだけど、ここぞって思った時に口を開いているだけなんだけど、それってどこかおかしいのかしら?」

 と、開き直りなのか、それとも天然なのか、彼女はあっけらかんとそう言ってのけていた。

 それを聞いた友達はあっけにとられているというよりも呆れていると言った方が正解なのかも知れない。

「でもね。まわりの雰囲気というのもあると思うのよ。空気を読めないと思われてしまうわよ」

 というと、

「きっと、空気が読めないんでしょうね。でも、私は言いたいことを口にしているだけなので、別にそれでいいと思っているのよ」

 と、早苗はいう。

「どうしてそう思うの?」

「だって、思いついちゃったんですもの。せっかく思いついたり思い出したりしたことを口に出さなければ、忘れてしまって、永遠に口から出てくることはないでしょう? そんなのもったいないわよね」

 という早苗の話を聞いて、

――それも確かにそうよね――

 と感じる友達だった。

「早苗さんの言っていることも一理あるような気がするんだけど、もったいないわね。せっかく思いついたことも、まわりが分かってあげられないというのは気の毒だわ」

 というと、

「ごめんね。なんとなく気を遣わせてしまっているようで。でも、私には私の道があるのよ。もしそれで友達を失うというのであれば、それでもいいの。私と合わなかったというだけのことなので、それはそれで仕方のないことじゃないかしら?」

 彼女の言葉を聞いていると、彼女には友達というのは二の次のような気がしてきた。別に強がっているわけでもないし、話を聞いているだけで友達の方が説得されているようにさえ感じられた。

――私だけでも、彼女と友達でいてあげればいいんだわー―

 と感じたが、彼女もいつまで彼女と友達でいられるか、自分で自信がなかった。

 友達の名前は迫田千尋という。実は彼女は真田の今の彼女だった。

 真田が千尋と知り合えたのも、この時早苗に対して千尋が、

――私だけでも友達に――

 と思ったおかげだと言っても過言ではない。

 早苗と真田が知り合ったのは、大学入学してすぐのことだった。やっと一年の講義も決めて、大学生活が本格的にスタートした頃だった。大学というところは高校までと違って、自由であるが、何でも自分で決めなければいけないところであった。自主性に任されているということで、真田には願ってもないことだった。

 真田は、大学に入学した時には、何になりたいという具体的なものは何もなかった。ほとんどの大学生はそうなのかも知れないが、それでも大学の勉強には興味があり、自分が何を専攻することになるのか、まるで他人事のようだが興味があった。

 そんな時、早苗と知り合った。

 早苗は講義ではいつも最前列でノートを取っていた。仲間がいるわけでもなく、真面目にノートを取っている姿は、真田の興味を引いた。

 講義室で一番前でノートを取っている人はいつも数人いた。そのほとんどは、

――いつものメンバー――

 だったが、皆つるむことはなく、一人が多かった。

 早苗もその一人だったのだが、同じように一人で黙々とノートを取っているうちの一人には違いなかったが、一度気になってしまった瞬間があった。背中が丸まっていて、覇気がなかったのだ。

 他の連中の黙々とノートを取っている姿は、覇気を感じさせるものではなかったが、最初から最後まで一貫している雰囲気ではなかった。しかし、早苗の場合、背筋を丸めながら、その態度には最初から最後までその姿勢は一貫していた。普通そこまで背筋を曲げていれば数分単位くらいで身体を起こしてみたりして、姿勢を変えなければきつくなってしまうのは必至だろう。

 真田はその姿を見ながら早苗に興味を持った。ある時講義が終わって、

「あの、いつも講義の時、先頭の席でノートを取っておられますよね?」

 と、ありきたりでベタな言葉を掛けた。それ以外にどう声を掛けていいのか分からなかったのだ。

「ええ、そうですけど、あなたは?」

 早苗は大げさなくらいに警戒している姿を見せたが、言葉は平然としていたのがアンバランスで、さらに彼女への興味を深めることになった。

「僕は真田って言います。よろしくです」

 と、簡単な自己紹介をしたが、早苗もそれ以上、真田のことを聞いてこなかった。

「私は講義を受けるのが好きなんです。ただ、それは勉強が好きだという単純なことではなく、講義室の雰囲気や、教授の教え方を見ていると、飽きないというか、何かを得られるような気がしてですね」

 という早苗に対して、

「何か……、ですか?」

 漠然とした表現をする早苗に対して、その部分を突っ込んでみたつもりで聞き返した。

「ええ、何かです。だって、教授だって人それぞれ、講義のやり方にもいろいろあるでしょうし、学問もそれぞれですからね。それに私は教授がどうしてその道を志すようになったのか、講義を聞いていると分かってくるような気がしているんです。講義そのものよりも、私はそっちの方に興味がありますね」

 やはり漠然としてしか感じなかった。

 同じ漠然とした雰囲気ではあるが、千尋が友達として仲良くなりたいと思った高校時代の早苗とかなり違っているということを、真田はもちろん知る由もなかったことだろう。

 早苗の方は、高校時代は友達というと、千尋だけになっていた。千尋の考えていた通り、早苗の性格を受け入れてくれる人は、高校時代には存在しなかった。千尋だけが早苗の友達だったのだが、実は千尋は早苗を尊敬するまでになっていた。

――皆が、早苗の本当の姿を知らないおかげで、私は早苗を独り占めできているんだわー―

 と千尋は感じていた。

 将来のことで悩んだり、現在進行形で悩んでいることなど、早苗に打ち明けることで、最終的に悩みの小ささに気付き、

――自分のできることだけをしていればそれでいいんだー―

 と思うことが、その証明であると感じさせてくれるのが早苗だった。

 早苗は余計なことを口にすることはしない。逆に早苗が口にすることはそのほとんどに意味があるのだ。最初の頃は、

――何て漠然とした言い方なんだろう?

 としか感じていなかったのに、いつの間にか、

――彼女の言葉を聞き逃さないようにしないと――

 と感じるようになっていた。

 短時間でこれだけ正反対の思いにさせられた早苗に対して一定の敬意を表する気持ちを持った千尋も、まわりからは、

「あの子も、幸田さんと同じ穴のムジナなんだわ」

 とウワサされるようになっていたが、千尋はむしろ、

――早苗と同じだと思われるのは、私としてはありがたいことなんだわ――

 と感じるようになっていた。

 受験生の頃は、友達付き合いをしていても、心の底では、お互いをライバルであり敵のように思っているというのを垣間見ることができると、

――何とも情けないように思えてくるわ――

 と早苗は感じていた。

 それに比べて自分と千尋は、前と変わらぬ付き合いを続けていて、彼女たちがうわべだけの付き合いだったことが浮き彫りにされた反面、自分と早苗は変わらずの付き合いができることに誇りすら感じていた。

――やはり私は間違っていなかったんだわ――

 と思うようになると、それまでうわべだけで付き合っていた他の友達とも疎遠になっていった。

 受験生という立場だったことが、疎遠になった理由を詮索されずに済んだのはありがたいことだった。

 早苗と千尋は幸いにも成績的には拮抗していた。大学を決める時も、お互いに先生から勧められた大学は同じだった。

「また同じ学校で会えるといいわね」

 と千尋がいうと、

「ええ、私もそう願っているわ」

 と二人は同じ大学を目指すことで、本来ならライバルとなるべき関係であったが、一緒に入学するという目的をハッキリと持って受験勉強ができたことで、暗く陰湿な時代であろう受験生時代をそれほど苦痛に感じることなく過ごすことができた。

 そのおかげというべきであろうか、二人は現役で志望校に入学することができ、

「よかったわ。二人とも合格できて」

 と千尋がいうと、

「私は信じていたわ。二人そろって入学できるってね」

 と早苗は言った。

 そのセリフには説得力が感じられた。早苗はいつものような漠然とした言い方ではなく、確信に満ちたような言い方をしたことで、余計に信憑性を感じたのであろう。

 ただ、大学に入学したことで、二人は少し距離を置くことにした。同じ大学ではあったが、学部も違っていたし、何よりも大学が自主性を持って生活する場であることを、二人は分かっていたからだ。

 その思いは早苗の方が強かった。ただそれは大学に入学するまでで、入学してしまうと、千尋の方から早苗に連絡をすることはあまりなかった。

 確かに気を遣って連絡を控えていたというのもあったが、初めて体験する大学という自主性を重んじるところに身を置いたことで、千尋の方も、それまで感じることのなかった何かを感じたのだった。

 それは大学というところが、自分が想像していたよりも自由気質で、さらに開放的な雰囲気であり、自主性というものを嫌でも感じさせられたことで、自分ひとりの世界を満喫することに目覚めたと言ってもよかった。

 そんな千尋をよそに、早苗も千尋の邪魔をする気にはならなかった。

――もし、千尋が望むなら、このまま疎遠になってもいいわ――

 と感じるほどだった。

 だが、そう思ってしまうと、今まで感じたことのなかった感覚が早苗の中に芽生えていた。

――なんとなく落ち着かない気分になったんだけど、これって何なのかしら?

 それが今まで早苗の感じたことのなかった、

――寂しさという感情――

 だということに早苗が気付くことになったのは、真田と知り合ってからのことだった。

 人と知り合ってから、寂しさを知るというのは何とも皮肉なことであるが、そのことに最初に気付いたのは真田だった。だが、真田はそのことを早苗に話そうとは思わない。

――この思いは、墓場まで持っていくことになるかも知れないな――

 と、何とも大げさな発想を抱いていたのだった。

 真田が早苗に興味を持ったのは、この寂しさという感情からだったのかも知れない。

――彼女はいつも一人でいるのに、寂しさを感じさせないような気がするな――

 と感じたからだ。

 寂しさというのは、いつも一人でいるから感じるものではない。むしろいつも一人だと感じないものだ。

――絶えず誰かがまわりにいてくれないと辛い――

 と感じる心が寂しさであり、それは、いつも誰かが自分のまわりにいてくれたということを逆に証明しているようなものである。

 まわりに誰かもいない時期がある程度まで達すれば、その感覚は頂点に達し、感覚がマヒしてくるものではないかと思うからだ。常和状態になった感情は、破裂することなく、うまく収縮してくる感覚は、実際になった者でなければ分からないだろう。

 ただ、その感情を自覚することはほとんどないだろう。その感覚に至るまでに自分の中の感覚はマヒしてしまい、マヒした感覚が、飽和状態を収縮させる作用を持たせるものではないかと今の真田は思っている。

 これも心理学を志してから、最初のうちに考えたことだった。結論に至るまでには紆余曲折を繰り返すことになったが、それも真田にとっての教訓であり、知り合った相手が早苗だった証拠なのだと思っている。

 早苗と仲良くなった真田は、早苗に友達が一人もいないと勝手に思っていたが、実際には千尋という友人がいた。そのことを知ったのは、早苗と知り合ってから一か月が過ぎようとしていた時だった。

 早苗から千尋のことを紹介された時、

「彼女は私の通っていた高校で、ずっと一緒だった迫田千尋さんです」

 と型どおりの紹介に、言葉の抑揚もなかった。

 サラッと流しているかのように聞こえたのは、それだけ彼女が棒読み状態だったからだろう。実際に紹介された千尋の方が、

「はい、幸田さんとは、高校時代にずっと仲良くしていただいていました迫田です。よろしくね」

 と言って最後には微笑んだが、彼女もどこか棒読みのようで、お互いに本当に仲がいいのか分からないと思うほどだった。

 千尋が棒読み状態だったのは、千尋なりに考えてのことだったようだ。早苗のプライドを考えてのことで、それは早苗の言い方が棒読みであることが自然であることを物語っていた。しかもそのことを早苗自体は意識していない。それだけ早苗という女性は、

――面倒くさい女――

 だったのだ。

 それなら、

「そんな相手と仲良くしなければいいじゃないか」

 と言われるかも知れない。

 だが、千尋にとって早苗はかけがえのない友達だったのだ。

 しかしそれは、親友としてかけがえのないという意味だけではなく、もう少し現実的なところでもかけがえのない相手だった。むしろ千尋にとって、現実的な方が自分にとって大きな存在なのだと言えるのではないだろうか。

 早苗は心理学の本をたくさん読んでいることもあってか、急におかしなことを言いだすことがあった。他の人であれば、

――何言ってるのこの娘は――

 と、一蹴するかも知れないが、千尋には早苗の一言一言を聞き逃さないと思う心が存在していた。

 それだけ早苗の言動には千尋に考えさせる力が込められていた。そのことに千尋が気付いたのは、仲良くなってからしばらくしてからのことだった。

 最初こそ、

――どうして私は早苗のような面倒な女にかかわっちゃったのかしら?

 と、かかわってしまったことを後悔していた。

 だが、後悔はすぐになくなった。早苗の言っていることを真面目に聞いてみると、その先を考えてみようと思うようになっている自分を感じたのだ。

 その先を考えていると、急に楽しくなっていった。それまで何かを考えようとすると、途中で自分が分からなくなり、袋小路に入り込んでしまったかのように、考えが堂々巡りを繰り返すことになっていた千尋だった。早苗の言葉の先を考えるようになると、それまでの自分がまるでウソのように、次第に結論めいたところに考えが向かっていることに気付いたのだ。

 何かを考えている時というのは、

――結論が見えていないから、いろいろな発想が生まれて楽しいんだ――

 と考えていた時代があった。

 しかし、実際にはいろいろな発想が生まれてきても、それが堂々巡りを繰り返してしまっているのであれば、それは本末転倒なことである。そう思うと、千尋は自分が考えを纏めることのできない人間だと思い、いつの間にか自分に限界を課してしまっていることに気付くのだった。

 限界を感じるということは、想像以上にショックなことだ。失恋に違いものがあるのではないかと思っている。考えてみれば失恋というのも、好きになった相手に、

「もう君とは恋愛感情を持つことはできない」

 という最後通牒を突き付けられたに等しいものだろう。

 自分から相手をフッた場合も同じことで、相手に自分にとっての限界を感じたから最後通牒を突き付けるのだ。

 早苗という女性と話していると、彼女の発想は自分の中で思いついただけで、それを発展させようという気持ちがなかった。ただ思いついたことを口にしているだけで、話題を相手に投げているのである。人によっては、

――投げっぱなしで無責任な話だ――

 と思う人もいるだろう。

 そんな人は早苗と合うはずもなく、意外とそんな人はたくさんいたりした。

 そのおかげで、千尋は早苗を独占できると思っていた。

――こんなにいろいろな発想を抱かせてくれる人を敬遠するなんて、皆何を考えているのかしら?

 と思ったほどで、千尋にはすでに面倒くさいという発想を早苗に対して抱くことはなくなっていた。

 千尋は、早苗から聞いた話を着色して、一歩進んだ発想を頭に抱く。それを早苗には話していた。

「千尋ちゃんって、何て素敵な発想をするの? 感動しちゃうわ」

 と、大げさに言われて、少し恥ずかしく感じてしまうが、

「何言ってるの。元々はあなたの発想から生まれたことなのよ」

 と言いたいのを、喉の手前で押し殺していた。

 押し殺したと言っても、それほど必死になっているわけではなく、口にしないということを選んだだけだった。

 そんな二人の関係は、まわりから見ると、分かっていないようだった。実際に早苗と千尋が親友だなどと知っている人はごく少数だったのではないだろうか。同じ高校から入ってきた人でも、二人が親友だということを知っている人はほとんどいなかった。

 別にまわりに隠そうとしていたわけではない。表に出さないだけで、それだけ早苗にも千尋にも、他人の関心がなかった言ってしまえばそれまでなのだろう。

 ただ、二人はその方が好都合、お互いも別に親友とは名ばかりで、相手に何かあっても、助けようとするのが親友なのだという定義があるとすれば、二人は親友ではない。お互いに冷静な付き合いの中で、冷たさの中に時折感じさせる暖かさが二人を包んでいるといっても過言ではないだろう。

 二人には、お互い以外の友達は、ほとんど存在しなかった。千尋は高校時代まで友達はいたが、大学に進学する時、他の友達とは進路が皆と違っていた。ほとんどは就職してしまい、そのせいで疎遠になった。

 元々、高校時代までの付き合いだったのだろう。自分だけが大学生になったことで、千尋には後ろめたさがあった。その後ろめたさは無意識で、疎遠になったのは、社会人になったことで皆忙しいのだろうという遠慮からだと思っていた。

 しかし、突き詰めれば遠慮も後ろめたさに繋がることもある。そのことを千尋はすっかり忘れていた。

 早苗からは一人でも寂しさは感じられなかったが、千尋からは寂しさというオーラが醸し出されていたようだ。本来なら一人であれば寂しさを感じさせる方が当然というもので、早苗のように寂しさを感じさせないのは、稀なのではないかと思える。

 早苗と最初に知り合った真田は、早苗に対して感じた興味深いイメージを持ったまま、早苗から千尋を紹介された。最初は、

――普通の女の子なんだ――

 と、別に興味が湧くこともなかったが、実際に三人で話をしてみると、千尋の発想が少し自分たちと違っていることに気付いていた。

 どこが違っているのかすぐには分からなかった。

「千尋は本当に突飛な発想をするでしょう?」

 と、早苗が真田に千尋の話を振った時、

「えっ、まあ」

 と、うろたえたかのように口籠った態度を見せた真田に対し、千尋は困惑したような表情を浮かべていた。

 その時の真田の態度は、別にうろたえていたわけではなかった。早苗の言動に興味を持ったことで、千尋の言動が早苗の言動の発展系であるということにすぐに気付いた真田にとって、早苗がそのことに気付かなかったことが不思議だったからだ。

――どうして?

 という思いが強かった。

 しかも、言われた千尋は困惑の表情を浮かべてはいたが、何も口にしようとはしない。まるで苦虫を噛み潰したかのような表情を、早苗に分かってもらおうという雰囲気でもなかった。

――とりあえず、自分の気持ちだけは表情に出しておこう――

 とだけ考えたのだろう。

 もし、ここで気持ちを発散させておかないと、自分で勝手に飽和状態を作り出すまで、抑えてしまう自分を感じていたからなのかも知れない。

 内に籠ってしまう人間は、えてしてそういうところがあるのかも知れない。飽和状態というのは、一見苦しそうに感じらるが、精一杯に膨らんだ状態は、空気の薄くなった状態で、破裂してしまうと、自分が傷つきさえしなければ、爽快な気分になれるのではないかと思っている。

――破裂してしまうと思うからなんだ――

 と、いまさらながらに感じたと思っている真田は、以前からそのことには気づいていたかのように思えていた。

 実際に捻挫などした時、痛みが究極の状態になった時、患部が腫れ上がってしまい、熱を持ったり脈打ったりしてしまったりするだろう。

 しかし、そんな時でも、

――ここを通り過ぎれば痛みを感じなくなる――

 と、思っているので、それほど苦しみを辛いとは感じない自分がいるのだった。

 実際に、痛みはなくなっていた。ただそれは痛みが本当になくなったわけではなく、マヒしてしまっただけだった。

――絶頂を迎えた快感が、通り過ぎた時に出てくる虚しさに似ているのかも知れないな――

 と、少し隠微な発想をしてしまった真田だったが、これ以上の比喩は存在しないように思えた。

 早苗は自分が人に影響を与える存在だということに気付いていなかった。むしろ一人でいることの方が本当はよかった。それなのに、なぜ千尋と親友のようだと言われて嫌な思いがしないのか、自分でも不思議だった。

――本当は、千尋のことが好きなんじゃないかな?

 と感じた。

 その「好き」という感覚は、友達として好きだというものではなく、もっと生々しいところで好きだという感覚だと思っていた。

――女同士ではしたない――

 と思えるような発想であったが、それだけではなかった。

――本能が求め合っているんだわ――

 と感じたが、それは、そのものズバリ、

――身体を求めている――

 という思いに至っていた。

 だが、千尋の方にはそんな思いは欠片もなかった。千尋に少しでも隙が存在していれば、早苗は容赦なく千尋に襲い掛かっていたかも知れない。

――下手をして、せっかくの友達関係まで崩してしまったらどうしよう――

 という思いがなかったとは言えない。

 早苗にとって千尋は、

――無くしてはいけない関係を育んだ相手――

 という意識があった。

 しかし、千尋の方は少し違っていて、

――自分を召喚させてくれる存在が、早苗なんだ――

 と思っている。

 ここでいう「召喚」とは、千尋は自分が普段から、

――自分は他の人とは違う――

 と思っている状態から、他の人と会話ができるまで、自分を「堕とす」という感覚でいたのである。

 それは普段から意識していることではなく、早苗と一緒にいる時に感じるものだった。だから、まわりに対しては、特に他の女の子とは違ったところがないというようなイメージを植え付けたいと感じていたのだ。

 しかし、そう思っていても、実際には性格などというのは滲み出るもので、召喚という意識をまわりに悟られることはなかったが、自分にとっての早苗をなるべくまわりに意識させないようにしたいという感覚はあったのだ。

 友達だと思われることは仕方がないとしても、親友だと思われるのは心外だった。それは早苗と友達だということを他人に知られ、自分がおかしな人間であるかのように思われることを嫌ったわけではなく、正反対の思いが千尋には存在していた。

――自分が早苗に興味を持っているということを悟られて、他の人も早苗に興味を抱いてしまうと、せっかく早苗を独り占めしてきたことが無に帰してしまう――

 という思いからだった。

 早苗に興味を持つということは自分だけの特権であって、この思いを他の人が共有することは許せないことだったのだ。

 千尋には、そういうところがあった。独り占めしたいという感情は、子供の頃から持っていて、それは千尋が三人姉妹の次女だったことに影響している。

 長女や末っ子は、甘えさせられていた。長女は祖母に、末っ子は母親に、それぞれ可愛がられていた。それなのに次女の自分は、洋服などは姉のおさがりで、また事あるごとに、

「お姉ちゃんなんだから、妹に譲ってあげなさい」

 と言われてきた。

 自分が長女から譲ってもらうように促されたことなど、ほとんど記憶にないのに、どの口が言っているのかと、理不尽な言葉に千尋は唖然とし、何も言えなくなってしまうのだった。

 千尋は早苗にとってそれほど執着する相手ではなかった。その立場は高校時代から変わっていなかった。

 しかし、その立場が反転する時がやってくるなど、早苗も千尋も分かっていたことなのだろうか? 特に早苗には青天の霹靂だったに違いない。それまでの二人の不動ともいえる関係に割って入ったのが真田という男の存在だった。

 真田は友達がほとんどいなかった。高校時代から友達を作ろうというタイプではなかったし、大学に入ったからと言って、進んで友達を作ろうともしなかった。

 最初はそれでも友達を作ろうと思っていた。

「大学に入るんだから、友達を作ることも大切だよ」

 とまわりの人からも言われていた。実際にそのつもりでいたのだが、どうにも大学というところ、真田が考えていたよりも、相当軽薄に見えたようだった。

 その雰囲気をほとんどの人は、高校時代の暗かった自分の生活と比較して、

「こんなにも楽しい世界なんだ」

 と、想像はしていただろうが、まわりの雰囲気に呑まれてしまい、浮かれてしまっても仕方のないところはあるのかも知れない。

 何しろ、それまでの閉塞した生活、そして、

――まわりは皆敵なんだ――

 と思っていたような人間にとって、まるでパラダイスのような生活は、感覚をマヒさせるに十分な効果を持っていた。

 だから、皆友達を作ることに躍起になっていて、友達の数がまるで自分のステータスのように思えるのだろう。敵だったはずのまわりが、今度は「内輪」になるのだ。快感だと言ってもいいのではないだろうか。

 しかし、真田はそこまで軽薄にはなれなかった。感覚がマヒする以前に、冷めてしまったのだ。

――なんだ、この雰囲気は――

 ほんの少しでも距離を持てば、かなり遠くから見つめているような気分になるのも、溺れてしまう感覚なのかも知れない。まるで台風の暴風域のように、中に入ってしまうと、巻き込まれるが、少しでも離れていると、そこは影響のまったく及ばない場所であり、しかも、

――蚊帳の外――

 として、冷静に見ることができるのだ。

 暴風域とそれ以外の場所にはれっきとした結界があり、結界を超えるか超えないかは、台風同様、分からない。しかし、越えてしまうと、

――ここが結界だったんだ――

 と気付く人もいるだろう。

 要するに越えなければハッキリと分かるわけではないということだ。

 真田は、自分がその結界を超えた気がした。最初は友達を作りたいと思い、大学に入学してから少しの間は、見るもの聞くものが新鮮だった。それは浮かれた気分になるまでには至らなかったが、一歩間違っていれば陥ったかも知れない。それは時間的なものなのか、それともタイミングの問題なのかは定かではないが、明らかに結界を意識したことは間違いない。

 だから、真田は、

――大学では勉強するものだ――

 と思っていた。

 部活も考えた時期があったが、一度結界を超えてしまうと、部活の勧誘も白々しく感じられた。入部するまではちやほやされて、入ってしまうと、そこは先輩後輩のガチガチの関係が待っている。そのいい例が新入生歓迎コンパではないか。呑める呑めないは関係なく、新入生を歓迎という名目で潰そうとする。確かに洗礼という言葉を使えばいかようにも判断できるのかも知れないが、すでに冷めた目でしか見ることのできない真田にとって歓迎コンパは、

――悪しき習慣――

 でしかなかったのだ。

 そうやって考えてくると、大学生活というのも、最初に考えていたほどいいものではない。だんだんそれまで新鮮だと思ってきたことがわざとらしく感じられてきて、次第に視野がどんどん狭まってくるのを感じたのだ。

――とりあえず、勉強するか――

 と思い、授業には必ず出席し、最前列でノートを取ることにした。

 大学の講義では、いつも同じメンツのメンバーが最前列でノートを取っている。彼らはそれぞれ暗黙の了解があるのか、どの講義も教室が違っていても、その「陣地」は決まっていた。いわゆる指定席というのだろうが、それを皆が承知しているのだ。

 そんな彼らをどうしても真田は、

――仲間だ――

 と感じることはできなかった。

 暗黙の了解で毎回同じ行動を取っている彼らにもわざとらしさを感じ、

――あの軽薄な連中とどこが違うんだ――

 としか思えなかった。

――まだ、あの軽薄に見える連中の方がマシなのかも知れないな――

 と感じるようになったのは、最前列でノートを取っている連中に余裕という言葉が感じられなかったからである。

 余裕というべきか、「遊び」というべきか、この場合の「遊び」はハンドルなどの遊びと同じ意味で、いわゆる「伸びしろ」と言ってもいいものであった。

 真田はそうは思っても、授業に出てノートを取るのはやめなかった。そんな中で一人の女性が真田に興味を持った、それが早苗だった。

 真田も早苗に興味があった。同じノートを取っている連中とはどこかが違っていた。彼女もひょっとして、

――自分が他の人と違っているということを意識しながら、講義を受けていたんじゃないのかな?

 と感じたからである。

 実際にその感覚に間違いはなかったが、早苗は真田が感じていたよりも、想像以上に異質な女性だった。

 どうして異質と感じたのかが分からなかったが。早苗から千尋を紹介されて三人で話をするようになってから徐々に分かってくるようになった。

――早苗という女性は、千尋という友達の影響を大きく受けているんだ――

 と感じた。

 そのことが、早苗を異質と考えた理由であるが、だからといって、千尋が早苗以上に異質な雰囲気の女性であるということではないようだ。

 千尋はむしろ、

――まともな女性――

 なのかも知れない。

 ここでの「まとも」とはどういう意味なのかというと、真面目であったり、他の人とさほど違っていないという意味ではない。

――早苗に比べて――

 という言葉が頭につくのであって、言葉足らずであれば、知らない人に誤解を受けさせることになるだろう。

 しかし、頭に言葉をつけてしまいと、今度は早苗を卑下することになってしまう。それも失礼なことであって、真田の本意ではない。

 早苗も千尋も、二人とも他に友達はいなかった。真田も他に友達がいなかったことで、この三人が友達のいないもの同士で仲良くなったというのは、ある意味必然だったのかも知れない。

 最初は、この三人の関係は、すべてにおいて平等だった。だが、真田は付き合っていくうちに、千尋と早苗の関係が少しずつ分かってくるようになってきた。

――千尋という女性は、執着心が強く、早苗はそれほどでもない。その関係が二人の位置づけをしていて、表向きには平等に仲のいい友達同士として写っているだろうが、実際には千尋が早苗を離さないようにしているんだ――

 と感じた。

 早苗の方に、自分が執着されているという意識があるのか分からなかったが、二人の関係はそこまで分かってきても、まんざらでもないとしか思えなかった。それはきっと早苗の中にも千尋に対しての何かがあるからなのかも知れない。ひょっとすると、自分を成長させてくれる相手だという認識を持っているのではないだろうか。

 その思いに間違いはなかった。

「私、千尋ちゃんと話をしていると、いつも目からうろこが落ちたような感覚になるんですよ。彼女の方とすれば、別にそんなつもりもないでしょうし、他の人が聞いても何らその人にとって影響のないような話にしか聞こえないでしょうからね」

 と言っていた。

「それは、二人の間にだけ流れている独特の空気がそうさせるのかも知れませんよ」

 というと、

「そうかも知れませんね。でも、時々千尋ちゃんと一緒にいると怖いと思うこともあるんですよ」

「怖い?」

「ええ、目が据わっているいうんでしょうか? 私を見つめる目が急に冷静になるんです。いや、冷静というよりも、冷徹と言った方がいいかも知れません。まるで凍りつきそうな気分にさせられるんです」

「それはどういうことですか?」

「実際には、凍りつくような視線がそんなに長く続いたわけではないんです。というのも、彼女の視線は、じっと見ていると吸い込まれそうな視線なんでしょうけど、次第にその思いが薄れてくるんです。最初はそれがどうしてなのか分かりませんでしたが、次第に分かってきました。彼女は最初は私を見ていたんですが、途中から、私以外の誰かを見ているようなんです」

「それは、誰か他にの違う人を見ていたということですか?」

「ええ、もちろん、その場所には私と二人だけしかいませんので、他の誰かを見ていたというわけではないんです。だからすぐには自分でも信じられなかったんですが、でも見つめられているうちに、自分の後ろにいる誰かを見ているような気がして仕方がないんです」

「誰を見ていたんでしょうね? まさか背後霊が見えたりするわけではないんでしょうけどね」

「それはないと思いますよ。金縛りに遭うような視線でもないですし、実際に吸い込まれそうに感じるわけでもないんです。虚空を見つめているというと語弊がありますが、似たような感覚なのかも知れません」

 早苗の話を聞いていた真田は、不思議な雰囲気に包まれたのを感じた。

 それは、話をしている相手である早苗を巻き込んでの異様な雰囲気ではない。自分のまわりだけに存在している異様な雰囲気だった。

――ひょっとすると、早苗は僕のことを結界の外から見ているのかも知れないな――

 とも感じたが、そんな素振りはなかった。

 それは、真田の勘違いなのか、それとも早苗には分かっているが、それを顔に出してはいけないと思い、それができる力を持っている女性なのかのどちらかなのだろうが、真田には後者のように思えて仕方がなかった。

 それが、早苗と二人きりで話をした時の会話で覚えている話だった。早苗とは時々二人で会うこともあったが、ほとんどは他愛もない会話が多かった。

 真田は千尋とも二人きりで会うことがあった。

 この三人の関係は、お互いに恋人同士でもないのだから、男女が二人きりで会うことを戒めるというような雰囲気はなかった。

――嫉妬って本当にないんだろうか?

 と真田は危惧していたが、それならば、わざとそれぞれと二人きりで会って、どちらかの嫉妬心を掻き立ててみたいという思いがあったのも事実だ。

 真田にはそういうところもあった。自分にサディスティックなところがあるというのは、それまでに感じたことがなかったことだ。それはただ単に、それまで友達がいなかったことで、サディスティックな気分になる要素がまったくなかっただけのことだった。

 ただ、真田の考えの中には、

――サディスティックな内面は、誰にでもあるというもので、それを表に出すか出さないかというのは環境で変わってしまったり、何かのきっかけで一気に表に出てくることだってあるのではないだろうか?

 というものがあった。

 だから、自分に、

――サディスティックな面があるんじゃないか?

 と感じた時、疑ってみることはなかった。

 他の人が自分のS性に気付かないのは、

――絶えず、自分の考える異常性について、否定から入る癖を持っているからではないか?

 と考えたからである。

 その思いは子供の頃から持っていて、大学に入学してからも変わっていない。むしろ早苗や千尋と知り合ったことで、余計にその思いが固まってきたことを自覚し始めていた。

――僕がこんな風になったのは、異様な幼児体験をしたからなのかも知れない――

 と思っている。

 しかし、その記憶は自分にはない。ただ、子供の頃からまわりの大人が真田の時々口走る異常とも思える言動に明らかな怯えを感じているのは肌で感じていた。だからこそ、友達を作ることが自分にはできなかったのだと感じているのだった。

 千尋が真田を好きになったのは、彼を独り占めしたいという自分の気持ちだけではなく、真田の異常性格について気付いた頃から、彼のことが気になって仕方がなくなったようだった。

 そのことを早苗は知らない。

 真田の異常な性格に関してはなんとなくではあるが気付いていたようだが、そこに目を瞑って行こうと思ったようだ。

 早苗は相手を美化してしまうところがあり、相手に欠点があっても、そこはなるべく見ないようにしようと思っていたのだ。

 いわゆる、

――お花畑的な発想――

 だと言えるのだろうが、そのことを早苗は意識していない。

 そのせいもあってか、自分が真田に惹かれているような気がしてきた時、

――どうして惹かれてしまうのかしら?

 少なくとも自分のタイプの相手ではないはずだった。

 異常性格に目を瞑っているはずだったのに、彼に対してあまりいいイメージがないのは、異常性格から派生するあまり自分が好きではない性格が見え隠れしているからではないだろうか。つまり、好きではない性格がハッキリしていないことで、嫌いにもなることができず、それが惹かれる原因の一つだと思うと、

――何を持って男性を好きになるというのだろう?

 という思いが頭をもたげるのだった。

 最初はそこに千尋の感情は含まれていないと思っていたのだった。

 ただ、真田という男性を、

――男性として好きだという意識はないけれど、友達としては大切な人だわ――

 と思っていた。

 そう思うことで、

――友達という感情が邪魔をして、好きな人だという意識になれないからではないのかしら?

 と感じた。

 普通なら逆ではないのだろうか。好きな相手であれば、友人として付き合うことはできないと思うことはあっても、友達という感覚を大切にしたいから、好きになってはいけないという発想を抱くことは稀だと思っていた。

 こんな話を他の人としたことはなかったが、実際には友達だと思っているので、その人を好きになってはいけないという気持ちになることも多いようである。そしてその思いを自分に納得させるために、その男性を好きになっている親友の女性がいると、その人への遠慮が自分の気持ちを押し殺さなければいけなくなり、彼を好きになってはいけないという理由を、

――友達だから――

 という言葉で片付けようとしたのだ。

 それは、自分の気持ちに対しての辻褄合わせにすぎない。その気持ちを美化してしまう気持ちが早苗にはあったのだ。

 だが、好きになった人を友達として見ることができないというのはどういうことだろう?

 二つ考えられる。

 一つは、好きになって付き合った相手と何かの理由で破局を迎えた時、その人と果たして別れた後も、友達として付き合っていけるかどうかということである。少なくとも千尋にはできないと思っていた。早苗はあまりそんなことまで考えたことがなかったので、どうなるのか、想像もつかなかった。

 もう一つは、好きになった人を、自分の親友と思っている人も好きになった場合であろう。

――昨日までの親友が、今日から恋のライバルになってしまう――

 という環境に置かれた時、どう考えるかということである。

 親友との関係を解消してでも、好きになった男性を手に入れようとするかどうか。もし、そこまで考えているのだとすれば、本人にどれほどの「覚悟」があるかが問題である。

 その人にとっては、貪欲にその男性を何としてでも手に入れるという気概を持って、それ以外のすべてをなくしてでも手に入れるという思いがなければ、難しいことになるだろう。少なくとも親友とは絶縁になってもしょうがないとまでは思わない限り、この恋が成就することはない。

 そこまでの覚悟があるかどうか分からない人は、自分がどうして恋焦がれているのかを分かっていないかも知れない。そんな時に一番気持ちの中に引っかかっているのは、嫉妬ではないだろうか。

 自分があきらめてしまうと、親友と好きになった男性の二人が付き合っている姿を嫌でも想像させられてしまう。想像というのは、その人にとっていいことばかり頭に浮かぶのであればいいが、嫉妬からの想像は、どんどん最悪な方への想像しか浮かんでこないであろう。自分が嫉妬していると気付いていない人は、本当は最初から分かっていなかったはずではないだろう。分かっていて、想像しているうちに、最悪な発想が思い浮かんでくろと、想像する感覚がマヒしてしまい、自分が嫉妬していたということすら忘れてしまっているに違いない。

 早苗と千尋、そして真田の三人は、いわゆる三角関係なのだろうが、この三人の関係こそ、ドラマにでもなりそうな、典型的な三角関係ではないかと思えたのだ。

 三人の関係は、意外とまわりからは知られていない。なぜなら、三人が一緒にいることよりも、それぞれに二人だけで行動している方が多かったからだ。しかもこの三人には、それ以外に普段から行動を共にする相手もおらず、大学に入学した時に少し友達ができたとしても、三角関係のような形になりかかったあたりから、他の友達を寄せ付ける雰囲気がなくなってしまっていたのだ。

 この三角関係は、しばらくこう着状態になっていた。それはそれぞれを結びつける力が均衡していたというべきであろう。三人が一緒になることが少なかったのも影響しているのかも知れない。三人三様、それぞれに性格が似ているところもあれば、まったく相容れないところもある。三人が一緒にいると、きっと三すくみの関係ではないかと思えた。誰かの力が誰かを打ち消して、それが均衡する力を生み出すことになる。

 しかし、その均衡は、もろ刃の剣のようなものなのかも知れない。そのうちの一角が瞑れると、三人の関係はまったく違ったところに行ってしまうだろう。それを分かっていたのは真田だった。三人で決して会おうとしなかったのは、真田の考えからだったからだ。

 だが、真田が三人で一緒に会わないようにしようと思ったのは、この関係性というのが単純に、

――僕を中心にできあがっているものだから、三人で会うのは危険をともないことになる――

 と考えたからだった。

 それは結果的に間違いだったのだが、三人で会わずに、単独で会っているうちに、それぞれの相手が、もう一人の女性のことを一切話さないことで、

――僕を中心だと思っていたけど、実際にそうなのだろうか?

 と思うようになった。

 その思いが次第に強くなってくるにしたがって、

――三すくみの関係だったのかも知れないな――

 と感じ、やはり三人で会うのが危険だと思ったのは、間違っていなかったことを理解したのだ。

 ただ、このままの関係の続くことが、決していいことだとは思わなかった。

 千尋の覚悟にも似た強引さや、早苗の自分では気づいていないと思われる嫉妬心の強さを感じるようになってくると、どうしていいのか分からなくなっていた。

 真田は自分のサディスティックな部分にそれとなく気付いてはいたが、それが異常性格ではないと思っていることで、三すくみの自分の部分に異常性格が絡んでいることを分かっていないことで、ある程度まで分かっていても、それ以上は分からない。そのために、考えが袋小路に嵌りこんでしまったのだ。

 真田は自分の異常性格について、そして早苗は自分の嫉妬について、少しは気付いているが、この三人の関係の中でかかわっているということを気付いていない。しかも、千尋の覚悟は、そんなまわりの関係がどうであれ、自分が突き進むだけだと思っていることで、完全にまわりを恫喝していたのだ。

 ただ、恫喝はしていたが、早苗の嫉妬心、真田の異常性格の部分を侵食することはできなかった。それぞれに自分の領域を持っていて、真田も早苗も、

――他人を寄せ付けない――

 という確固たる思いを持っていたのだ。

 頑固というべきか、それだけ自意識が過剰なのかも知れない。自意識が過剰という意味では千尋の覚悟はそれほどではないだろう。

 もっとも、自意識が過剰な人は、好きになった人のために、覚悟を持つことができるだろうか。

 この場合の覚悟は、

――自分を捨ててでも、相手を手に入れる――

 という思いがあるに違いないからだ。

 相手が嫉妬しているのを分かっていて、好きになった相手が異常性格であることも分かっていることで、彼を手に入れると、他のすべてを失うことは分かっていた。表向きの体裁は整っていても、それは抜け殻でしかない。そういう意味でも千尋には、三人で会うことがなかったことはありがたかった。

 三人の関係を知っている人もごく少数であればいるにはいた。その人から見れば、三人で出会わないメリットが一番あるのは千尋に見えたに違いない。そういう意味で、千尋の覚悟はすべてにおいて優先していて、この関係の主導権を握っているのは、千尋なのだと思っていたに違いない。

 千尋は、まわりから見ればそう思われることも分かっていた。分かっていたが、それは千尋にとっても好都合だったのだ。

――そう思ってくれた方が、本当の関係を見られることがないので、他の二人に対して遠慮しなくていいんだ――

 と感じたからだ。

 千尋にとって、三人のこの関係は、本当は息苦しくていやではあるが、崩れてしまうことも嫌っていた。もし壊れてしまうと、せっかくの覚悟が水泡に帰鶴と思ったからで、最初から何もなかったことになると思ったのだ。

 もし、彼女が最初からやり直してもいいという気持ちが少しでもあれば、この関係が崩れてもいいと思ったかも知れない。しかし、彼女には前しか見えていないところがあった。過去に戻りたくないという思いがあったのだ。

 千尋は、いつも真面目である自分の姿をまわりに見せつけているところがあった。

 ただ、自分の本当の姿をまわりに見せつけたいという思いがあるのは事実で、それが真面目な性格を裏付けているのだった。

 子供の頃、千尋の両親は離婚した。

 父親はとても厳格な人で、母親はおおらかな性格であった。

――そのアンバランスが夫婦生活をうまく回らせていたんだ――

 と、子供心に感じていて、今でもその思いは変わっていない。

 ただ、この関係は一触即発でもあったのだ。歯車がうまく絡んでいる間は、これ以上ないというほどのおしどり夫婦に見えたかも知れない。しかし、どこかで歯車が狂ってしまうと、収拾がつかなくなるところまで行くのは必至だった。

 だが、そんな泥沼への一直線の中にも、いくつかのターニングポイントがあったのではないかと千尋は思っている。

――あの時とあの時――

 千尋は大人になってから思い出すと、それらしい時期に気付いていたように思えた。

 そんな中で一番辛かったのは、ターニングポイントを両親ともに分かっていたと思える時期に、大ゲンカしていたことである。

――私にでも気付くんだから、二人にだって気付いたはず――

 それなのに、二人は衝突した。お互いに遠慮し合って生きてきた感情が、歯車が狂ったことで、初めて自分の主張を通そうと、お互いにぶつかったのだ。

 そこには覚悟などありもしない。ただ自分の言い分をまるで子供の喧嘩のように言い合っているだけだった。

――こんな罵り合い、これが自分の両親だなんて――

 と思うと、辛くて仕方がなかった。

 しかし、こうなってしまうと、他人ではどうにもならない。お互いの殻に閉じこもって自分の言い分を相手に対してぶつけているだけなんだから、たとえ子供であっても他人でしかないのだ。

 そう感じたことが一番悲しかった。

 千尋が、

――自分が手に入れたいことであれば、相手がいくら親友であっても、容赦することはない。自意識を叶えるためには覚悟すればいいだけなんだ――

 と思うようになったのだろう。

 しかも、両親の離婚の時、いくら血を分けた子供であっても、他人だと思われたのだから、親友など他人でしかないのだった。

――あれだけ辛かったはずなのに――

 という後悔がないかと言われると、まったくないと言えるだけの自信はないが、覚悟をすることで、そんな感覚は簡単に吹っ切れたのだった。

 そんな千尋は、子供の頃に親の離婚を経験したことが今の自分を作っていると思っているので、

――あの時の感情を忘れてはいけない――

 と感じている。

 しかし、

――過去には二度と戻らない――

 という感情も頭の中にあって、たまにその感情が頭の中で矛盾を感じさせることになり、自分が分からなくなることがあるようだ。

 早苗という女性は、おおらかに育ってきた。裕福な家庭というわけではなかったが、両親がおおらかな性格だったこともあって、別に何も困ることなく育ったのだった。

 成長期の中学時代、好きになった男の子がいたが、早苗自身、晩生だったこともあって、好きな相手に告白できずにいた。そもそも、自分がその男の子を好きだったという意識もしばらくしてから気付いたのであって、それを気付かせてくれたのが、彼に彼女がいたという実に皮肉な話だった。

――ロマンチックなんだわ――

 嫉妬するわけでもなく、自分が彼のことを好きだったのだと気付いた時、彼女と仲良くしている彼を想像して、

――何かしら、このムズムズした気持ちは――

 と感じたのだが、別にその正体を見極めたいとは思わなかった。

 高校生になると、千尋と知り合うことになるのだが、千尋が早苗と友達になった時の気持ちは、

――何ておかしな女の子なんだ――

 と、天然といわばそれまでだが、千尋の思いもしない発想をする女の子だったのだ。

 それが新鮮で、惹かれたのだが、あくまでも自分にないものを持っているという理由が一番だった。

 ただその時、千尋も、

――私には、彼女のようにはなれない――

 という思いがあり、二人の間に見えない結界のようなものを感じていた。

 普通なら結界を感じたのなら、すぐに離れてしまうに違いないのに、なぜか早苗から離れることができなかった。

 早苗は高校時代から、心理学を勉強したいと思っていたが、そのきっかけになったのが千尋の存在だった。千尋には自分にないものを感じたことで、

――人の考えていることが分からない。分かりたいと思うんだけど、ちょっと怖い。でも、自分の考えていることを分かってほしいと思うのはどうしてかしら?

 不思議な感覚だった。

 確かに千尋のことを分かりたいと思いながら、その前に彼女に分かってほしいと思っている自分もいた。だが、最初に分かってほしいと思ってしまうと、相手のそんな気持ちを悟ることに怖さを感じる。何とも矛盾した考えである。

 普段からおおらかで、余計なことをあまり考えることのなかった早苗に、ここまで考えさせる千尋は、

――きっと私の中のまだ伸びきっていない伸びしろを、彼女が引き出してくれるんだわ――

 と思うようになった。

 心理学を勉強したいと思ったのは、心理学を勉強することで、これから自分が感じることの中で納得できないことにぶち当たった時、心理学の考え方に当て嵌めることで、自分を納得させることができるようになるのではないかと思ったからだった。

 早苗は心理学の勉強を志すようになって、

――どうせ勉強するなら心理学以外でも、もっとたくさん興味を持てる学問を志してみたい――

 と思うようになった。

 心理学の勉強は、自分を納得させることのできる勉強だけではなく、これから膨らんでくる自分の興味を持つことの第一歩でもあったのだ。

 そんな早苗を見て声を掛けてきた真田。早苗には人を惹きつけるオーラがあるように真田は感じたが、実際に早苗のオーラに応えられるのは、一部の人間だけだった。それが千尋であり、真田なのだった。

 高校時代の千尋は、真田と知り合う前と違って、早苗をできるだけバックアップするようなタイプだった。

 千尋は家庭でのイザコザから解放されたくて、学校ではなるべく一人でいるようにしていた。下手に人とかかわると、嫌なことを言われた時、自分がどんな反応を示してしまうのかが分からず、怖いと思ったからである。

 だが、早苗と一緒にいる時は違った。早苗は決して千尋の嫌な態度を取ることはなかった。それは早苗の持って生まれた性格でもあり、千尋が羨ましく思う部分でもあった。本当なら、早苗に対して感じた羨ましさが嵩じて、一緒にいることで自分が卑屈になるのではないかと思えてくるはずなのに、早苗に対してそれはなかった。やはり自分にはない何かを早苗が持っているからであろう。羨ましいという気持ちがそのうちに、

――私にだって、彼女のようなおおらかな気持ちになれる資格があるんだわ――

 と思っていた。

 おおらかな気持ちを持つことに対して、資格であったり、権利であったりと、千尋はいろいろ感じていたが、そのうちに、

――余計なことを考えるからダメなんだわ――

 と思うのだった。

 早苗がそんな千尋の気持ちを知ってか知らずか、早苗は千尋をじっと見つめていた。

 千尋には、自分が見られているという自覚がなかった。なぜなら自分の方が強く見つめているという意識があったからで、そのおかげで、早苗は千尋を見つめていることに気付かれないでいた。

 しかし、それは千尋に対してだけであって、まわりの他の人には通用するものではなかった。二人の異様な雰囲気は少しでも二人に近い存在の人であれば気付いておかしくないものであり、その異様な雰囲気に、思わず苦虫を噛み潰してしまうような、やりきれない気分にさせられていた。

 ただ、そんな気持ちが二人のどこから来るのか分かっていなかった。二人の雰囲気に均衡を感じている人は苦虫を噛み潰す気分にまではならなかったが、どちらかに威圧感の強さを感じる人には、二人の関係が隠微なものに映ったに違いない。

 だが、実際に二人の間に隠微な関係は存在しなかった。お互いに自分の方が相手に対しての思いが強いと思っていて、相手は自分に対して同じような思いを抱いているなど気付いていないのだから、相手を分かっているつもりでいるはずなのに、実際には何も分かっていないという不思議な関係だったのだ。

 そんな二人だったが、均衡が破れそうになったことが何度かあった。

 まず高校時代であったが、早苗に対して恋心を抱いている一人の男子高校生がいた。彼は早苗を遠くから眺めているだけでよかった。そのことを知っている人はごく一部だったが、千尋も分かっていなかった。

 彼が千尋に近づいてきたことがあった。彼も早苗に直接告白できるような勇気を持った男性ではなかったことで、友達の千尋から、早苗のことをいろいろ聞いてみたいと考えたのだった。

 千尋は別に彼のことを好きだったわけでもなく、自分に寄ってきたことが早苗のことを知りたいからだということにも気付かなかった。ただ、友達のような感覚で、彼がさりげなく聞いてくる早苗のことを、自分の気持ちを正直に話しただけだった。

 だが、それがいけなかったのだろう。彼は千尋から聞いた早苗の話で、早苗のことを誤解してしまったようだ。どのように誤解したのかは詳細に説明することは難しいが、

――どうして彼女のことを好きになんかなったんだろう?

 という思いを抱かせるほどになってしまったのは間違いないようだ。

 そう思ってしまうと、今度はその思いを感じさせた千尋も嫌になってきた。

――知らなければよかった――

 という思いにさせ、千尋と早苗の分からないところで勝手に思いを焦がせ、勝手に好きだったという気持ちに終止符を打ったのだ。

 その男の完全な独り相撲で、二人にとっては、自分たちの知らないところで起こった一人の人間の心の葛藤だったのだ。

 ただ、千尋にとっては、それでよかった。早苗への気持ちは、独り占めしたいという思いが無意識ではあったが心の奥に存在したことで、勝手に離れていくのは、事なきを得たと言えるのではないだろうか。

 その頃からだっただろうか、

――千尋は、自分を映す鏡のような気がするわ――

 と感じてきた。

 それがどのような状態なのか、ハッキリとは分からなかった。自分の前と後ろに鏡を置いて、半永久的に映し出されるすの姿を何度も想像したことがあった。千尋のことを考えていると、その鏡に映っているのが本当に自分なのか、疑問に思えてくるのだった。

――途中から、千尋が写っているのかも知れないわ――

 と思うと、自分の頭の中がどうかなってしまったのではないかと思うようになっていたのだ。

 そんな頃、本屋で見た心理学の本。背表紙には、

「自分を映す鏡」

 と書かれていた。

 まるで小説のタイトルのようだったが、自分が千尋に感じている気持ちを代弁したようなタイトルに思わず手に取って読んでみることにした。

 少しだけ読んでみたが、チンプンカンプンであった。さすがに入門書という解説ではありながら、専門書でもあるその本は、今まで心理学の欠片も知らなかった早苗にとっては、まるで辞書を見ることもなく、初めて読む外国の本のようだった。

 本を衝動的に買ってはみたものの、実際に読んでみる気にはならなかった。しばらく自分の部屋の本棚の肥やしになっていただけで、気が付けば他にも同じような本が何冊かあることに気が付いた。

 早苗は本が好きで、文庫本などは、買ったらすぐに読破してしまわないと気が済まない方だった。途中で中断してしまったり、最初から読むつもりではあったのに、読み始めるタイミングを逸してしまうと、そのまま本棚の肥やしになってしまうこともしばしばあった。

 別に飽きっぽいというわけではない。何かのきっかけがないとなかなか重い腰を上げることはなかった。

 しなければいけないということは分かっていても、きっかけがないとなかなかやらないというのは、小学校時代の夏休みの宿題で立証済みであった。

 ただ、これは早苗に限らず、たいていの小学生に言えることではないだろうか。夏休みも後数日となり、慌てて絵日記や自由研究などに手を付けるというのは誰にでもある。そのため、夏休みの終わり頃になると、図書館は盛況となり、ネットが普及する前は、図書館で過去の新聞を見て、天気を確認する姿が見られたものだった。

 要するに、ギリギリにならなければ腰を上げないということだ。

 中学生の頃までは、試験前には皆が勉強を始めるのに、早苗は勉強をする気にはならなかった。呑気だと親からは言われていたが、まったくやる気にならないのだ。

 それなのに、友達は皆、試験の一週間くらい前から勉強を始める。誰も相手をしてくれないことで、一人孤立してしまう時期があり、この時期が早苗には一番嫌な時期だった。

 試験中よりも、この時期の方が嫌いだという人は少なくないだろうが、早苗のような理由の人は、ごくまれではないだろうか。

 早苗のようにきっかけがないと何かをする気にはならないというのは、高校時代くらいまで気持ちの中で大げさなくらいに意識していたことだった。

 そんな思いがあったからなのか、大学に入ると、一番前でノートを取るという行動に出たのだ。

「これがきっかけになれば」

 と、千尋に対して口にしていたが、千尋にはその気持ちは分からなかった。

 千尋は早苗が、きっかけがないとなかなか動かない性格であることは分かっていた。千尋は、早苗と違って、

「私はとりあえず、まず行動することを心掛けているようにしているのよ」

 と言っていた。

 それは、子供の頃に親が離婚したことで嫌というほど思い知ったことだった。

 親は、離婚をずっと考えていたくせに、なかなか離婚に踏み切らなかった。その間に大ゲンカがあったり、千尋に嫌な思いをさせることなど日常茶飯事だった。その気持ちを知ってか知らずか、離婚の話をしているのを聞いてみると、

「あなたは離婚する気があるの?」

 と、母親に離婚を切り出された父親は、

「ああ、今すぐにでもしたいと思っているよ。でも」

 というと、

「でもって何よ」

 と、母親の声が一オクターブ上がる。何が言いたいのか分かっているようだ。

「千尋がいるじゃないか。まずは千尋のことを考えてあげるべきではないか?」

 というと、母親もすぐには口を開けないようだが、急に我に返ったように、

「何よ。それっていいわけじゃないの」

 と母親が怒り出す。

 それについては、千尋も同意見だった。

――自分たちの都合に私を巻き込まないでよ――

 と言いたかった。

 だが、夫婦のことは夫婦しか分からないし、何よりも自分を言い訳にしている以上、言い訳になっている自分が出ていって何になるというのか、子供心に出ていくことの恐ろしさがすぐには分からなかったが、自分を納得させるには、そう解釈するしかなかった。その思いはおおむね間違っていないだろう。千尋という女の子は、頭のいい女性なのだが、それはきっと、嫌いな親であっても、気を遣う気持ちになっていることから生まれた環境による性格なのかも知れない。

 その気持ちや性格を一番分かっているのは、早苗だった。

 早苗はその頃の千尋を知っているわけではないが、千尋の気持ちを理解しようとしている最中に、親が離婚した頃のことを話してくれた。もちろん、深いところまで話してはくれなかったが、それでも、それまで繋がっていなかった歯車が噛み合ったような気がした。

――千尋は、やっぱり私を映す鏡なのかも知れないわ――

 と感じた。

 性格は正反対だが、根本では似ていると感じたのは、早苗の話を聞いただけで、二人の関係の将来が見えてきたような気がしたからだった。

 真田は、子供の頃から、何もないところから新しいものを作り出すことに興味があった。小学生の頃は作文だったり、工作だったり、暗記物の学問などよりも、よほど好きだったのだ。

 ロボット工学に興味を持ったのも子供の頃からだった。特撮アニメなどで、ロボット開発を行う博士や研究所を見て、

――大人になったらロボット博士になりたい――

 と真剣に思っていた時期があった。

 しかし、現実は難しいもので、実際にロボットの本を片っ端から読んでいると、その気持ちが萎えてくる内容が結構あった。それが「ロボット工学三原則」にあるような矛盾がどうしても、研究の限界を感じさせるのだった。

 それでも、ロボットへの夢をあきらめたわけではない。少し気持ちは萎えてはいたが、その分、心理学を研究することに目覚めたのだった。ロボット工学三原則に見られる矛盾は、自分の中で解決できないのあれば、心理学を研究することで補えると思ったのだ。

 最初から心理学への興味があったわけではなく、他への興味からの派生であったということを、他に心理学を勉強している連中に話をするつもりもなかった。ただ、ロボットに興味を持っているということだけは、話をした友達もいなくはなかった。それは中学時代のことで、そのことが思わぬ波紋を呼ぶことになり、他の友達から無視される結果を招いたことがあった。

 図書館でロボットの本を読んでいるところを見つかったので、下手に隠し立てする必要もないと思って、

「ロボットに子供の頃から興味があってね」

 と話をし始めた。

 図書館で真田を見つけた友達は、真田とはあまり親しいというほどの相手ではなく、学校であっても、たまに挨拶する程度だった。

 実際にその友達は、あまりまわりとの協調性のない人で、孤立していると言ってもよかった。

 真田も中学時代あまりまわりと絡むことはなかったので、似た者同士のように見えたかも知れないが、真田本人は、

――全然違う――

 と思っていた。

 どちらかというと、何を考えているか分からないその友達を見下していたところがあった。

 どうしてそんな風に感じたかというと、彼もまわりとの協調性のなさを実感していて、まわりと協調できないのは、すべて自分が悪いからだと思っていた。

 そんな彼を見ているから、真田も彼に対して優位性を感じ、同じ人と関わらない状況でも状況はまったく違っていると思ったのだ。

 彼は真田に、

――なついてくる――

 ようだった。

 まるで犬のように靡いてくる様子は、最初こそ、真田の優越感を擽っていたが、それが長く続くと次第に億劫になってくる。自分が惨めに感じられてくるのだった。

「真田君が仲良くしてくれるので、うちの子も安心だわ」

 と、彼の母親からもそう言われてしまっては、真田の中で身動きが取れなくなってしまっていた。

 そんな彼に図書館で迂闊にもロボットの本を読んでいるところを見つかってしまった。彼には見つからないように注意していたのだが、迂闊だったというよりも、彼の性格を読み切れていなかった自分が迂闊だったということだろう。

 彼は図書館などに姿を現すことはなかった。

「図書館にいると眠くなってしまうので、立ち寄ることはないんだ」

 と言っていたので、真田は安心して図書館に籠ることができた。

 実際に彼に対して億劫に感じ始めた時の隠れ家として図書館があるのはありがたいことだった。

 図書館には、思ったよりもロボット関係の本もあった。さらに心理学の本ももっとあり、一日一時間でも足りないくらいだった。

 本を読んでいる時、真田は時間があっという間に過ぎていくことに気付いていた。一時間というのがこんなに短いものだということにビックリしていたくらいだ。

 ただ、一時間以上図書館に籠ってしまうと、さすがに彼が探しに来ると思い、ちょうど一時間という時間を選択したのは、間違っていなかったはずだった。

 それなのに、なぜ彼が図書館に現れて、ロボットの本を読んでいる真田の姿を発見することになったのか、今となっては覚えていない。案外と他愛もない理由だったような気がする。

 ただそれは真田の側の一方的な思い込みであって、本当は彼が好きになった女の子が図書館にいるという情報を掴んだことで、図書館いn立ち寄っただけだった。真田を発見したのはあくまでも偶然であり、真田がビックリした以上に、彼の方がビックリしたことだろう。うろたえていたと言っても過言ではない。

 だが、真田自身もうろたえていたのだ。彼のその時の心境をまともに見ることなどできるはずもない。お互いに出合い頭を何とかごまかそうとしていたので、真田には、彼の理由が他愛もないものだと思ったのだ。

 しかし、その時、お互いにごまかそうと思っていたこともあって、真田としては、

――まずいところを見られた――

 と思った。

 彼の方では、その時真田が何を読んでいたのかなど別にどうでもよかったのだが、まさか真田が読んでいる本を見られるのを嫌っているなどと思ってもいないので、話題をそらそうとしての話が本の話になった。

 触れられたくない部分に触れられたと思った真田は、彼に対して露骨に嫌な顔をした。それを見た彼も、

――まずい――

 と思ったのか、その場が完全に凍り付いてしまった。

 そこから二人の亀裂は絶対的なものとなり、そのまま気まずい中、友達としては自然消滅したかのようになってしまったのだ。

 友達は、好きになった女の子と、めでたく付き合うようになったようだが、長続きはしなかった。好きになった女の子も彼のように閉鎖的な性格で、彼は自分と似た者同士だと思った人間とはうまくいくものだと思っていた気持ちが、完全に崩壊してしまったようだった。

――僕との関係で分かっていたことだったはずなのに――

 と、彼が別れてしまったという話を聞いた時に感じたことだった。

 それからの彼がどうなったのか分からないが、真田はその時の経験から、自分がロボットに興味を持っているということを封印しようと、再認識したのだ。

 大学に入学し、やっとロボット工学の勉強を解禁した。

 実際に高校時代には心理学の本を読むことはあったが、ロボット工学の本を読むことはなかった。最初にロボットに興味を持ち、三原則から感じた限界を払拭するために心理学の勉強を始めたのだが、勉強していくうちに、

――それぞれ平行して勉強する必要があるんだ――

 と思うと、ロボット工学の方が先行してしまっていることを感じた真田は、ロボット工学を封印することで心理学に追いつかせることを選択したのだった。

 心理学は勉強すればするほど、奥の深さを感じさせられた。ロボット工学にはまだ奥の深さは感じられなかった。それだけ研究するのに三原則の限界が結界になってしまって、頭打ちの状態なのだろうと感じていた。

 そういう意味で、心理学の勉強の方が、真田を夢中にさせていた。本を読んでいるとその時間があっという間に過ぎていくようで、

――どこかで感じたような感覚だ――

 と思ったが、それが中学時代の図書館での一時間であることに気が付いた。

 図書館ではピッタリ一時間を費やすようにしていた。それはわざとそうしていたのであって、それ以上にならないように、そして一時間に満たない時間でキリがよくなっても、もう一度、その時に読んだ内容の要点をおさらいするくらいであったのだ。

 毎回同じ時間を過ごしていると、慣れてくるにしたがって、時間の間隔は微妙に変化してくる。さらに集中度も毎回少しずつ違っているので、時間の感覚は、どんどん短くなってくるのだった。

――時間が止まって感じられたような気がするな――

 と後から思うと感じる時があった。

 それは定期的でも、後半に固まっているわけでもない。唐突にいきなり訪れた感覚だったのだが、それもその日が終わって気付くという後追いの感覚だったことで、その頃にはあまり意識していないことだった。

 後から考えて感覚が深く感じられるようになることって、それほど少なくはなかったと思ったが、そのほとんどが中学時代の図書館での一時間に集中しているということにずっと気付かないでいた。

 大学に入学して、知り合った早苗、彼女のおおらかな性格を見ていると、

――そろそろロボット工学への興味を解禁してもいいんじゃないか――

 と思うようになっていた。

 その頃までの三年間、あっという間に過ぎてしまっていたが、その間の暗かった時代は、大学生になってから、思い出したくない暗い過去として封印しようと思った。この思いは真田に限ったことではなく、ほとんどの新入生がそう思っていることだろう。まわりを皆ライバルだと思い、自分が人の見たくない部分をなるべく見ないようにしていきたいと思っているくせに、まわりからは、

――自分の考えていることを悟られたくない――

 と思うのは、完全に矛盾を含んでいるものだった。

 それを、別に矛盾と感じることなく、それだけ人と関わりたくないという思いが究極に発展した姿だと思うようになっていた。

 心理学的には、きっとそんな時の心境も研究されているのだろう。しかし、受験生に身を置き、実際に渦中の人となってしまうと、そんな心理学の研究を目の当たりにすることは怖い気がしたのだ。

――それが分かったところでどうなるものでもない――

 と感じる。

 心理学というのが、矛盾を紐解くことで発展してきたのではないかと思うのは、真田だけであろうか。

 真田は心理学の勉強の派生形として、哲学も研究するようにしていた。歴史的に哲学は人間の奥にある部分を抉るように思えたからである。哲学が集団となると宗教になり、その信教が、心理を操作する。それが真田の勉強の足あとになっていた。

 心理学の勉強は歴史を勉強することでもあると思っている真田が、早苗と友達になったのは、彼女が歴史を好きだと言っていたことも大きかった。

「歴史って、本当に面白いですよね。昔の人だからと言って、自分たちよりも劣るというわけではなく、中には歴史の流れは時代を逆行しているのではないかと思える時期だって存在するわけですからね」

 と、早苗は言った。

「ええ、そうですよね、僕は子供の頃からどうしても、時系列で人間は成長するものなので、時代が進むにしたがって、過去よりも現在、そして未来の方が希望に満ち溢れていると思うようになっていたんです。無意識だったんですが、あらためて考えてみると、実に滑稽なんですが、この考え方をするのは、僕だけではないと思うんですよね」

 と、真田が言った。

「だって、人間は成長を続けていくものなんでしょうけど、いずれはその人は死んでしまう。そして新たに生まれた人たちに時代は引き継がれていくわけですよね。人それぞれなんだから、あとから生まれた人が絶対に進んだ人とは限りませんからね」

「そうなんですよ。だから、歴史の勉強というのは必要なんじゃないかって僕は思っています」

 と真田がいうと、

「どうしてですか?」

 と早苗は聞き直したが、

「過去の人がせっかく時代を作ってきているわけですよ。その人たちは、自分たちが作ってきた世界がどのようになるか、知ることなく死んでいくわけですよね。でも、その人たちには歴史を作ってきた実績がある。それを歴史というのは事実として継承していこうという学問なんですよね。受験科目として歴史というのは暗記物としての認識が大きいようですが、実際には現在や未来に対しての教訓となるはずなんですよ。それをしっかり勉強していくのはある意味、この時代を生きている自分たちの使命のような気がするのは僕だけなのかな?」

 と、真田は持論を展開させた。

「まさにその通りだと思いますよ。歴史の勉強は昔は女性にはあまり好まれなかったようですが、ある時期には、興味を持つようなプロパガンダ番組ができたりして、一時期、ブームになっていましたけど、結局、ブームで過ぎてしまったのは実に残念なことですね」

 早苗はここ数年の、

「歴女」

 と呼ばれるような人のことを話しているようだ。

――あれ? ブームってもうすたれてているんだろうか?

 と真田は感じたが、実際にはすたれたわけではなかった。

 なぜその時早苗がブームという表現をしたのか真田には分からなかったが。早苗には早苗の考えがあったようだ。早苗には歴女なる表現はあまり好きではなかった。歴史というのをブームという形で作り上げてしまうと、去ってしまってから再度盛り上げることが、今度はかなり難しさを増すものだと思っていたからだ。

「一度去ってしまったブームって、この間のことでもかなり前のように思えてしまうのがネックなんですよね」

 と言った早苗の言葉がすべてを語っているようだった。

 現在の三人の関係について考えてみると、早苗は真田に好かれていて、付き合うことになったが、千尋はそんな二人に嫉妬している。どちらかというと早苗に対して嫉妬しているのだが、そのことを千尋は自覚していない。

 こんな関係を一番よくわかっているのは早苗ではないだろうか。早苗は感が鋭いところもあり、そんな早苗は千尋の気持ちを知らないような素振りをしていることを、真田も千尋も分かっていなかった。

 千尋になら分かりそうな気がするのだが、実際に嫉妬してしまったことで感情が高ぶってしまったために、本当なら察するはずのことに気付くことはなかった。まさか自分が真田ではなく早苗に嫉妬しているなど信じられるわけもなく、ウスウス気付いているのかも知れないが、認めたくない自分を否定しようとして、何事にも否定から入ってしまう自分の性格に気付いていないのだ。

 早苗は千尋には強いが、真田には従順だった。自分が男性相手に従順なのは分かっていた。千尋と違って子供時代から親に対して余計な気を遣う必要などなかったことでおおらかに育ったことで、自分のまわりの人間に対して従順だということに気付いていた。

 従順であることが一番無難であることを分かっている。いわゆる、

――ネコをかぶっている――

 と言ってもいいだろう。

 自分でもネコをかぶっているのは分かっていた。テレビドラマなどでよく見るお嬢様に自分を当て嵌めて見ることが多いので、ドラマなどでは大げさにも見えてしまうネコをかぶった状態に、早苗は共感を阿多のだった。

 中学時代までは男性というのはまったく違った人種であり、自分に近づいてくることはないと思っていた。男子生徒が早苗を見る目は、高嶺の花であり、好きになっても成就するはずはないと最初からあきらめている人が多かった。

 中には無謀な男の子もいた。早苗を好きになってしまったことで、自分のことが分からなくなり、早苗を苛めてしまう人もいたが、まわりから浴びせられる白い眼が痛々しく感じられたが、そんな少年は、自分を悲劇の主人公のように感じていたようだ。一人孤立した状態は、彼の中の本当の気持ちに気付かせることになり、苛めてしまった自分への自戒の念を感じさせることになった。

 早苗はそんな時、彼が我に返っているかのように見えた。自分を苛めていた相手なのに、なぜか気になってしまうのは、

――私には異常性癖の気があるんじゃないか――

 と感じさせた。

 しかし、それが自分の中にある従順な気持ちから来ているものだということに悟ることができれば、悩むこともなかったはずである。

 苛められたいと感じたわけではなく、相手に対して従順でありたいという気持ちから、彼の望みを叶えてあげることが自分の喜びであるということを別の発想で感じてしまったのだろう。

 彼は、早苗が悩んでいる間に立ち直っていた。

 性格的にサバサバしたところがあり、どちらかというと熱しやすく冷めやすい性格なのではないかと思えた。

 早苗にも熱しやすく冷めやすいところがあるのは自分でも分かっていた。ただ世間知らずなところがあることで、人と関わることが怖いという思いがあったのだが、それをまわりの人に悟られたくないという思いが強くあった。そのことが人というものに依存してしまう体質であることに気付かなかったのだ。

 熱しやすく冷めやすい性格であるが、男性を好きになることはなかった。

 早苗は自分が男性を好きになる前に、相手に好かれるタイプであり、努力などしなくともまわりがチヤホヤしてくれることを、お嬢様としての資質のようなものだと思っていたのだ。

 自分がお嬢様であるということが嫌いではなかった。チヤホヤされるのは嫌ではなかったし、そのせいで他の人から嫉妬の目で見られることもそれほど気にすることではなかった。

――私って大雑把なところが魅力なんだわ――

 と感じていた。

 大雑把な性格は、細かいことでいちいち悩まないということだと思っていて、決して否定的な性格ではなかった。

 そんな早苗だから男性から好かれたのだろう。まわりの女性の嫉妬の目を浴びている早苗を見ながら、男性は彼女を悲劇のヒロインとして見ていた。さらに彼女のことを気になっている男性には、他の男性も同じような目で彼女を見ていることに気付いてくる。

 そうなると、普通であれば、

――他の連中に負けるものか――

 という気概を感じるものなのだろうが、早苗を好きになった連中にはそんな気概は感じられない。

――早苗さんが僕のことを好きになってくれればいいんだがな――

 と考える程度だった。

 早苗が熱しやすく冷めやすい性格であることで、まわりから見ると、八方美人にも見える。だから、彼女に対して必要以上に思い入れを感じてしまうと、辛いのは自分だけであった。

 早苗に振り回されることになることが分かっているので、彼女を好きになる男性は、彼女だけを見つめているというよりも、気になる女性の一人としてだけ見ているようだった。そんなまわりとの関係が形成されていく中で、早苗に特定の男性ができるはずもなかったのだ。

 だが、それは中学時代だけのことだった。

 成長期の男女の感覚が、うまく歯車が絡み合った感じで、それぞれに嫉妬のような苦虫を噛み潰すような感情が生まれることはなかった。それが早苗の中で、

――私は異常性癖がある――

 と思わせることにはなったが、男女間でのトラブルになることはなかった。

 そういう意味ではおおらかな性格を保ったまま、暗かった高校時代を駆け抜けて、大学時代に突入したと言える。

 いや、それは異性に関してのことであった。高校時代の早苗は、千尋のことが気になってしまった時期があった。千尋の方も早苗を意識していたことで、お互いに相思相愛のような関係だったのだろうが、恋愛感情が強かったのは千尋の方だった。

 早苗は、親友というイメージが強かったが、千尋に対して従順でしかなかった自分が、まるで男性を相手にしているように感じていることを不思議に感じていた。

「早苗は、自分の気持ちを表に出すことが苦手なんだね」

 と言われたことがあったが、

「えっ、そうなの? そんな風に感じたことなんかなかったわ」

 と、千尋の言葉をやり過ごした。

 しかし千尋はそんな早苗を見て、

「そんな誰もが答えるような返事をするところが、気持ちを出していないっていうの。あなたには、自分で気付いていない可能性を秘めているのよ」

 と切々と千尋は語った。

 その言葉を聞いた時、

――私は千尋のことが好きになったのかしら?

 と感じた。

 中学時代に感じた異常性癖をその時に一緒に感じたのだが、それは女性に対して、男性に感じるはずのドキドキを感じてしまったことが原因だと思っていた。

「千尋は、自分を正直に表に出せるというの?」

 と聞くと、

「いいえ、私にはできないわ」

 と言っていた。

「じゃあ、どうして私にはハッキリとそのことを言い切るの?」

「あなたは、自分の気持ちを押し殺すタイプに見えないからよ。おおっぴらな性格から、思ったことを口にすることで、まわりにスカッとした気持ちにさせるそんな力があるように思うのよ」

 という千尋の言葉に、

――褒められているのかしら?

 と早苗は感じた。

 すると、千尋は早苗の気持ちが分かっているのか、

「別に褒めてるんじゃないからね」

 と言われて、思わず、

「あっ」

 と言ってしまった。

 そんな早苗を見て千尋は苦笑いをしながら、

「ほら、すぐにあなたは気持ちが顔に出る。顔には出るのに、顔以外のところで表現するのが苦手なのよ。だからあなたは自分の気持ちを表に出したいという願望がありながら、どうしていいのか分からないために、いつも肝心なところで躊躇する。それがあなたが苦手だという言葉になるのよね」

 と千尋から言われた。

 そんな千尋と話をしていて、

「まるで心理学の先生みたいね」

 というと、

「別に私は心理学に造詣が深いわけではないのよ。ただ思っていることを口にしているだけで、あなたにはそれができるって思っていたの。でも、もしそれができないのであれば、心理学の勉強をするというのも悪くないと思うわ。いや、あなたのような人ほど心理学を勉強した方がいいのかも知れないわね」

 と千尋は真顔でそう言った。

 早苗が心理学を勉強するようになったのは、その頃からだった。最初は千尋の言葉を半信半疑で感じていたが、時間が経つにつれて、千尋の言葉が早苗の中で大きくなっていった。

――私って、いつも否定から入るくせができてしまったのかも知れないわね――

 と感じていた。

 否定から入るということは、最初は百パーセントに近いものから、少しずつ否定していくことで、まわりに覆いかぶさっているものを取り除くことで本来の姿を見ることができると思っている。

 つまり、世の中のものは、

――すべてが余計な鎧のようなものに包まれていて、それを取り除かないと、本来の姿が見えてこない――

 と思っていた。

 おおらかな性格なのに、今までやってこれたのは、天真爛漫に見える性格の中で、まわりを最初から信用していないという感覚が、彼女に辻褄を合わせる力になっているのではないだろうか。

 早苗は自分の性格を千尋によってある程度形にされた気がしていた。

――千尋がいなかったら、自分の本来の姿を見ることなどできなかっただろうし、真田さんと知り合うこともなかったんだろうな――

 と早苗は考えた。

 もちろん、今でも自分の本来の姿など見えるわけはないと思っている。そう思うことはおこがましいことだと感じているからで、ただ、普段から否定からしか入ることのない自分を少しでも解消するには、少々おこがましいくらいの方がちょうどいいと思っているのだった。

 大学に入って真田と知り合った早苗は、真田に対して、

――彼には自分にはない何かがある――

 と感じていた。

 それは新鮮に見えることで最初はそれが何だか分からなかった、

――ひょっとして、正反対の性格なんじゃないかしら?

 と感じるようになったのだが、その感覚には、

――正解とは言い難いが、間違ってもいないような気がする――

 と感じた。

「僕は、何もないところから新しくものを作ることが好きなんだ。たとえば工作だったり、作文だったりと、子供の頃はそういうものに熱中していたよ」

 と言っていた。

 それを聞いた時、

――なんて、新鮮な考えを持った人なのだろう?

 と感じたが、同時に、

――私にはマネのできないことだわ――

 と感じた。

 それは、否定から入る自分を、さらに否定してしまっている自分を感じたからで、まるで昔ギャグであった、

「反対の反対は賛成」

 という言葉を思い出させた。

 その時に感じたのが、自分の考え方が、減算法だということだった。

――否定から入るのが減算法。彼のように新しく生み出そうという発想は、何もないところから始まっているので、最初は必ず肯定から入るものなのだろう――

 と感じた。

 ということは彼は加算法ということになり、自分と正反対の性格であるとすれば、そこに至るのではないかと思った。

――私がネガティブ思考なら、彼はポジティブ思考なんだわ――

 だから自分が憧れるのは分かるのだが、一緒にいると、

――彼が私に憧れを感じているようにも思えるのよね――

 と感じるのだった。

 早苗はそんな真田に惹かれていった。彼が自分をどのように思っているかは分からなかったが、そんなことはどうでもよかった、自分が誰かを好きになったということが大切なのであり、今までの自分からは考えられないようなことだった。

 早苗は、自分で納得できないことは信じない性格で、信じられないことをそのまま放っておくのは嫌だった。そんな自分をやっと納得させてくれる相手が現れたことに、早苗は安心していた。

 あれはいつのことだっただろうか?

 まだお互いに付き合うという意識ではなく、友達という意識の方が強かった頃だったと思う、

 早苗は知らなかったが、その頃は早苗よりも真田の方が相手を強く意識している時期だった。真田も早苗のことを新鮮に考えていたし、一緒にいて楽しいと感じることのできる初めての相手だったのだ。

 相手が女性であるということで、一応の緊張はある。しかしその緊張が適度なカンフル剤になるのか、それまでの真田には考えられないような饒舌ぶりだった。

 早苗は真田の前ではあまり口を開かない。何を話していいのか分からないのだが、それは真田の方としても同じだった。

 だが、そんな時ほど相手のことを考えて自分から話題を何とか捻出して話をしようとするのが真田だった。それは真田のいいところであり、真田のことを知っている人は口を揃えてそこだけは褒めることだろう。

 何を話していいのか分からないと言っても、話題がないわけではないので、会話を始めれば、相手が乗ってくるような話ができるのは、きっと真田が普段から本や雑誌を読んでいるからだろう。本当はこんな時のために本を読んでいるわけではなく、ただの暇つぶしに近かったのだが、何が幸いするか分からないという意味で、真田にはいい方に影響したのだろう。

 喫茶店でいつものように真田が話題を振ることで、会話が盛り上がってきたところで、ふと真田が口走った言葉、

「僕は自分が納得できないことは、あまりしたくないんだよ」

 という一言を聞いて、一瞬早苗は考えてしまった。

「あっ、それ、私も一緒」

 と、すぐに答えようかと思ったのを、何とか喉の手前くらいで抑えることができたのだが、どうして、言葉を飲み込んだのか、すぐにはその理由が分からなかった。

 彼の一言は、それまでいろいろな面において、自分とは違うところの多い真田を発見しては、新鮮な気分になっていたが、それはあくまでも自分と違う部分に感動しているだけだった。本当であれば、自分と合うところを発見することで、相手に近づいたようになれるのが本当ではないかと思ったからだ。それが相手を感じることであり、先に進むためには必要不可欠なものだと思っていた。

 もちろん、すべてにおいて自分とは違う性格だとは最初から思っていない。もし、そんな相手であるなら、付き合おうなどと思ったりしないはずだ。それは真田も同じことであり、たぶん、他のカップルにしても同じなのではないだろうか。

 それなのに、すぐに共感できなかったのは、彼の言葉があまりにもさりげなかったからだ。

 早苗は今では自分の中で当たり前のことだと思っている自分を納得させなければ気が済まない性格なのだが、最初はそれを自分で納得するまでに時間が掛かった。それこそ、

――中の中を見るのは難しい――

 という感覚に違いものがあったのだ。

 それでも、考えたのは一瞬であって、自分が思っていたよりも沈黙は長くはなかった。その証拠に彼もその間に沈黙があったという意識もなかったようだし、ただ、それも彼が口走った内容で、早苗が固まってしまったことに対して自分の中でいろいろな葛藤を見ていたのかも知れない。そう思うと真田という男も、

――他の人と変わらない普通の男性なんだ――

 と感じた。

 早苗が他の普通の男性を知っているわけでもないのにそう感じたのは、真田という男性を、

――この人は他の男性とは違うんだ――

 と感じていたからだった。

 真田の口から出てくる話の中で興味深いのはロボットの話だった。

 元々は、彼も心理学に造詣が深いということだけが共通点のように思っていた。興味深いものが同じだというだけで性格的なものの一致は考えられなかったが、彼が何を考えているのかを想像しているだけで、どこかウキウキした気持ちになることがあった。そんな時に彼が時々自分を見つめるその表情に、ドキッとしてしまった早苗は、

――これを恋っていうのかしら?

 と感じていたのだった。

 早苗と真田と千尋、この三人はそれぞれ性格も違っていて、それぞれの利害関係もハッキリしている。しかし、大学時代の三人は、それでも問題なくやっていた。きっと、それぞれの性格が相手の性格を牽制し、お互いに抑えてきたことで、均衡が守られていたのだ。

 それが三人の大学時代であり、ここに今特筆すべきものはない。後で振り返ることもあるかも知れないが、その時が来るまで、三人の関係は均衡のとれたものであることを知っているのは、第三者では誰もいなかったに違いない。

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