②
就職してからの慌ただしい日々は、記憶にとどめておくほどの価値もなく、瞬く間に過ぎ去っていった。
朝起きて、出勤して、仕事を終えて帰宅して、寝て、また朝起きて──という時間の浪費を繰り返していると、それでもときどき、ふと正気に返り、人間性をとりもどすことがある。そういったつかの間の正気の日に、わたしはカードゲームを興じることにしていた。
その日、わたしはカードゲームの大会に参加するために街へと出てきていた。大会の開始までのまだ時間があるからと、どこかで飯を食べようと街中を歩いていて、その赤信号。
チダだ、とわたしは反射的に思った。よく晴れた六月の空の下、立ち並ぶ高層ビルの狭間、横断歩行の向こう側、驚いたように顔を上げ、こちらを見やる一人の男。
年月が経過した分だけ、全体としての印象もそれなりに変化していたが──すなわち、若かりし頃の姿から多少は緩んだり、崩れたり、ほつれたりしているが──それは紛れもない、チダの姿だった。
青信号になったとたん、わたしは弾かれたように彼の下へと駆け寄り、両手を肩にかけてがっしりつかんでやった。
「久しぶりじゃないか」とわたし。
「やあ、きみか。元気そうだな」とチダ。
きみの方こそ元気でやっているか──と口にしかけたが、それはすんでのところで抑えられた。なんとなく、はばかられたのだ。彼は目に見えて疲れているようだった。
「なあ、信号が変わりそうだぜ」とチダ。
そこでわたしは、いま横断歩行の真ん中にいることに気がついた。(正確にはわたしが駆け寄った分だけ向こう側に寄っていたが)
苦笑いで横断歩道を渡り終えると、わたしは彼に問いかけた。
「飯は?」当時、よく口にした文言だ。
「まだだ」と、彼はこの懐かしいやりとりにやりと笑ってみせた。
われわれは近くの中華料理屋に入って、窓際の席に座り、プラスチックのコップでセルフサービスの冷たい水を飲んだ。
「きみはずっと、同じところで働いているのかい?」とチダ。
「そう、ずっと同じ現場さ」とわたし「この歳になると責任を負わされることも増えてきてね。安月給のくせにな、いやんなるよ。働いてみて思ったのが、責任を負わされるというのがいちばん嫌だということだな。……きみのほうはどうだ?」
「おれも一度は就職したんだがね。親の介護があるから、ってのを名目にして、仕事は辞めたんだ。まあ、残業ばっかりのろくでもない職場だったから、遅かれ早かれ辞めていたと思うけど。……最近、親の介護も終わったから、いまは求職中ってところだな。きょうこの街に出てきたのも、それが理由だな」
「そうか、苦労してるんだな」
「生きてりゃ、苦労もするよ。おれたち労働者階級はな」チダは水を一口飲んだ。「遊んで暮らしていたあの頃のままではいられないんだ」
「あの頃が懐かしいな」
「まったくだ」
「あのカードショップの常連だったほかの連中は元気でやってるかな」
「どうだろう? あのカードショップが郊外に移転してしまったのは、きみが引っ越してすぐだったからな。みんなそれっきり散り散りだよ。いまはどこで何をやっているのやら……」
彼は中華そば、こちらは油淋鶏定食を食べ終わる。そろそろ店を出るかというところで、わたしはきかずにはいられなかった。
「なあ、チダ」
「なんだ」
「きみは最近──」
気になっていたのは、ほんとうにささやかな疑問だった。イエスかノーかで答えられるような簡単な質問。それに、わたしとチダの間柄では交わされない方が不自然な質問。けれど、それを改めて問いかけるのが、なんだか恐ろしかった。
「──きみは最近、カードをやれているのか?」
チダはじっとこちらの目を見る。
「そういうきみの方は? 働いていても、カードをやるくらいの時間はあるのか?」
「たまにはね。ちょうど、きょうも大会に出ようと街まで出てきたところなんだ。……それで、きみは?」
彼は目を伏せた。
「おれは、もうやめたよ。全部売っぱらって、生活費のたしにはなったかな」
「信じれないな」虚脱感のようなものがわたしの背筋を走った。身体から力が抜け、へたり込んでしまいそうだ。「きみが、ほかでもないチダが、カードをやっていないなんて……」
「なにごとにも終わりがあるということだな。さあ、きみもこのあと用事があるのなら、そろそろ勘定をしよう。きょうは久しぶりに楽しかったよ」
彼は立ち上がろうとする──
いかないでくれ! わたしは心の中で声を上げた。このまま店を出たら、それっきり、二度と彼と会うことがないような予感がした。
チダ彼ほどの人間がカードをやらない人生を生きていくなんて、恐ろしいことだ。なによりも恐ろしい損失、欠落、そして悲劇だ。
この数年で、たったの数年で、この世界は厳しく、あさましい現実に塗り潰されてしまったのだろうか?
彼を引き留めなくてはいけないと心の底から思った。このまま帰してはいけない。そんなことはあってはならない。
頭の中で、思考が激しく駆け巡る──
「──なあ、カードをもうやめたというんなら、最後に教えてくれよ」
「なんだい?」
「当時のきみは、勝ちまくっていたな。店舗大会でもそうだし、『霞ヶ城杯』でもそうだったが……あれはきみの実力だったのかい?」
「どういう意味だ」
「つまり、『霞ヶ城杯』でぼこぼこに負かされた連中が捨て台詞を吐いていただろう。きみが何かしらの……イカサマをしているんじゃないかって」
「おいおい!」とチダは声を上げた。「なんてことをいいだすんだ。そんな根も葉もないうわさ、ほかでもないきみならばわかっていることだろう」
「そうだな、うん。もちろん、きみの実力を疑ったことはなかったさ。疑った目で見たことはなかったんだ。とはいえ、今、改めて考えてみると、当時のきみはずいぶんと勝っていたよな。カードゲームは運が絡むゲームだ。どんなに実力が卓越していたとしても、回数を重ねていればどこかでは負けるところが出てくる。それなのに、きみは肝心のところでは常に勝っていた──これは、確率論でいえば、興味深い事象ではある」
「……」
チダの顔が険しくなる。
「どうして、急にそんなことをいいだすんだ」
「ふと気になっただけだよ。ここでこのまま別れたら、もう永遠に真相を知ることはできないかもしれないだろ」
「おれがイカサマなんてするわけないだろう」
「そうか。じゃあ、証明してほしいな」
「証明?」
「これからきみもいっしょにカードショップにいって、大会に参加するんだ。そこで今一度、きみの実力をみせてくれよ」
「馬鹿なことをいうなよ。カードはもう売っぱらったっていっただろ」
「問題はないさ。きょうの大会はプレリリースだからな。種目はリミテッドだ」
リミテッドとは、カードがランダム封入されたパックをその場で開封し、その中からデッキを組み上げて対戦する種目のことである。つまりあらかじめデッキを用意しておく必要はない。
チダは苦々しい顔をする。
「おれはもう、何年もカードなんて触っていないし、情報も追っていない」
「昔から言われているじゃないか、『リミテッドの強さこそが、真の実力である』って。きみのかつての輝かしい戦績が本当に実力だというのなら、勝てるはずだ」
「……」
チダは憤然と、こちらを睨みつける。
少しあって、彼は息を鋭く吐き出した。
「いいさ、出てやるよ。きみがもう馬鹿なことをいいだせないように、証明してやる」
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