10
グレイソンは強かった。一瞬で距離を詰められ振り下ろされたナイフをどうにか避けたところで如実に感じた。オリビアへの攻撃を危惧したが、ナイフはオリバーだけを狙った。
ロベルトが来るまで本当に遊ぶつもりなのだ。
「はっは! すばしっこいなあ、オリバー!」
グレイソンは異様に楽しそうだ。オリバーはオリビアに攻撃しないのならと、身を翻して木の幹に足をかけた。そのまま駆け上り太い枝へと着地したオリバーを、グレイソンは難なく追い掛けてきた。
黒いコートがはためいた。遠くで次のバンドが演奏を始め、歓声は遠雷のように雑木林の中に木霊した。雷はナイフだ。真横に振られた一閃を首の動きだけで避けてから、オリバーは枝を蹴って隣の樹木が伸ばす別の枝へと飛び移る。
追い掛けてくるのは予想済みだ。腕を伸ばして更に別の枝を掴み、もう片方の腕は動きと共に前後に振って、遠心力で距離を伸ばした。その力は殺さず、オリバーは両手で枝を掴み直すと逆上がりをするように肉体を振り、遠くへ向かって飛び降りた。踏まれた腐葉土が肉片のように散る。
犬じゃなくて猿だな。グレイソンは枝の上に佇んだまま、オリバーの背中に投げかけた。その表情はこの上なく楽しそうだった。
銃弾のように飛んでくる投げナイフをオリバーはバックステップで避ける。即座にグレイソンが降りてきて、またナイフかとオリバーは警戒するが、繰り出されたのは握った拳だ。咄嗟に腕で受ける。受けてから後悔する。骨が軋むほど重かった。
「いっ……て、」
オリバーは飛び退き、次に飛んできた左フックは振り上げた右足で弾いた。重さで相殺したがそれでも痛く、オリバーは眉を寄せながらもそのまま身を捻り左で回し蹴りを打った。グレイソンは笑い声を上げ、同じ回し蹴りでそれを受けた。お互いの体が衝撃でよろめいた。
埒が開かない。オリバーは思い、木が密集する方向へと素早く逃げた。再び木へと登り、グレイソンが別の木に駆け上がる様子を横目に入れて、ロベルト、と小声で話し掛けた。返事がない。それで、片方のイヤホンはグレイソンに渡したのだと思い出す。
つい舌打ちが出た。放たれたナイフを数本避けて、木の更に上まで駆け上がった。枝を伝い、幹を蹴り、羽ばたいた鳥に謝って、会場が見渡せるほどの位置まできた。
それから、まだ下にいるグレイソンの位置を的確に探し出した。幹を蹴って飛び降りると、葉っぱが数枚落ちていった。
オリバーは重力に従い落下しながら、宙返りして勢いを足した。目を見開いたグレイソンの頭部を狙った踵落としは、咄嗟に上げられた左腕に食い込んだ。骨は砕けなかったが、枝は砕けた。二人は同時に地面へと落下していく。
オリバーは受け身を取って枯葉の上を転がり、素早く体勢を整えた。顔を上げると、コートについた土を払う姿があった。
「いってえなあ、おい!」
グレイソンは声を荒げるが、やはり楽しそうな響きが残っていた。蹴られた側の腕を振る様子はどこかおどけていて、余裕が感じられた。オリバーは少し、ぞっとした。
こいつ、もしかしてロベルトよりやばくないか?
グレイソンが走り出す瞬間はなんとか見えた。飛び上がって枝を掴み、逆上がりで乗ることでギリギリ避けた。オリバーが立っていた位置に振り下ろされたナイフは、振り向きざまに投げられた。反射で避けたが頬が少しだけ切り裂かれ、痺れたような痛みが走った。
ここが雑木林じゃなかったらもう死んでるかもしれない。オリバーは思いながら、枝を掴んでの移動を繰り返した。グレイソンは木の上での不利を覚え、下からの投擲を続けている。オリバーの服が裂け、ジーンズの端も破けた。自分が行こうとした方向へ先にナイフが飛んできて、動きを覚えられたのだと瞬時に悟った。
犬の鳴き声が聞こえたのはその時だ。
『オリバー、飛び降りて』
グレイソンにも聞こえている指示だったが、オリバーは従って飛び降りた。その位置に向かって投げられたナイフは、飛び出てきた黒い塊が止めた。
アレスだった。口で咥えたナイフを落とし、グレイソンに向かって一声鳴いた。グレイソンは肩を竦め、投げない、という意思表示で手に持つナイフをプラプラ揺らした。そのナイフを銃弾が撃ち抜いた。
「ロベルト?」
オリバーは思わず口にしたが、グレイソンは違った。驚いたように身を翻し、銃弾の方向へと瞬時に体を向け直した。
「ご主人じゃなくて、悪いね」
年季の入った、クラシカルな猟銃を構えているのは、ジークだった。オリバーは作戦の成功を目で見て安堵し、グレイソンはあからさまに狼狽えた。
「……親父、あんたなんでいるんだ?」
『僕が呼んだからだよ』
ロベルトは息をつき、
『そもそも、僕たちに依頼を出したのは彼だよ、グレイソン。でも何故出したのかわからないだろうし、何故オリビアを探していたのかもわからないだろう? 巻き込まれて、僕らも迷惑しているんだ。さっさと話し合ってもらえるかな?』
一気に説明した。グレイソンは何かを言いかけ、やめて、オリバーを見てから、ふっと息で笑った。いつの間にかオリバーが、眠っているオリビアを担ぎ上げ、自分とジークのところへ戻って来たからだ。
「グレイソン、ええと、話が済むまではおれがこの人見てるから……頑張って話し合ってくれ」
オリバーの様子にグレイソンは今度こそ声を上げて笑った。そして何年も話していない父親に向き直った。ジークは無言で頷き、猟銃を下ろした。
オリバーはやっと肩の荷が降りる感覚を覚え、オリビアを抱えたままその場に腰を下ろし、深く息を吐き出した。
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